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| 第一節 不征の国 |
元明交替という歴史的な事件は、またもや東アジア世界に大きな波紋を投げかけることになった。とくに、中国の支配権がモンゴル族の手から漢民族の手に渡され、政権の継承というより断絶の面が強いため、これまで元王朝とさまざまな関係にあった周辺諸国は、あらためて中国との関係を調整せざるをえなくなった。
モンゴル軍の日本侵略に加担した高麗は、切り替えがはやく、すみやかに明王朝との関係樹立に乗りだした。それとは対照的に、元王朝の正当性を頑固として認めず、徹底抗戦を最後まで貫いた日本は、国内の南北紛争に余念なく、こうした国際情勢の激変にうまく対応できなかった。
つまり、対元関係のギクシャクをそのまま対明関係に持ちこんで、明王朝の関係修復の熱望に応えなかったのである。一方の明王朝も、日本の国内情勢をほとんど把握しておらず、征西将軍の懐良(中国史料では「良懐」と書く)親王を「日本国王」と誤認して無駄な交渉をつづけていた。
このような行きちがいによって、初代皇帝の太祖はずっと期待していた日本の朝貢と倭寇の取り締まりをついにあきらめ、日本との断交を言い残してこの世を去ったのである。
1,日本招諭
『明史』(日本伝)に「明が興り、高皇帝が即位する。方国珍・張士誠、相継いで誅服される。諸豪は亡命し、往々にして島人を糾めて、山東浜海の州県を入寇する」とある。ここの「島人」とは、おそらく倭寇のことをさしているであろう。
というのは、洪武二年(一三六九)に明使の楊載が日本にもたらした『日本国王に賜わるの璽書』をみると、山東をあらした倭寇の取締りをつよく要求しているからである。
「上帝は生を好み、不仁の者を悪む。この前、わが中国は趙宋の失馭してより、北夷が入って国家を占める。胡俗を播げて中土を汚し、華風は振るわない。(中略)辛卯より以来、中原は擾々として、倭がやって来て山東を寇する。これは胡元の衰えに乗じたに過ぎない。朕はもと中国の旧家にして、前王の辱を恥じ、師を興し旅を振るって胡番を掃蕩し、宵衣?食して二十年垂る。去歳より以来、北夷を殄絶し、中国を主る。ただ四夷には未だ知らせていない。この間、山東が来奏し、倭兵いくども海辺を寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷するという。ゆえに書を修してとくに正統の事を報じ、兼ねて倭兵越海のよしを諭す。詔書の至る日に、もし臣服すれば表を奉じて来庭し、臣服しなければ兵を修して自ら固め、永らく境土を安じ、天休に応じるべし。もし必ず寇賊を為せば、朕はまさに舟師を命じて諸島に帆を揚げ、その徒を捕絶し、ただちにその国に抵ってその王を縛る。それは天のかわりに不仁の者を伐るものである。王はこのことを考えてくれ。」(1)
右の詔書で、太祖はまず「北夷」と目される元をほろぼし、漢民族の正統王朝を創立したことを宣告する。次に「海辺を寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷する」倭寇の暴行をあげ、「奉表来庭」か「修兵自固」かの二者択一をせまる。最後には海賊を放縦すれば、武力をもって日本に攻めこんで倭王を拿捕するぞと威喝した。
時あたかも日本の南北朝時代にあたり、南朝の懐良親王は征西将軍と称して九州一帯を配下におさめていた。『修史為徴』によれば、懐良親王は明帝の威喝をいきどおり、使者五人を殺し、正使の楊載ら二人を抑留したという。
楊載の使日がこうして完敗に終わったにもかかわらず、太祖はその翌年(一三七0)ふたたび莱州府同知の趙秩を正使として日本招諭に遣わした。
そのときの国書は『籌海図編』などにみえるが、対日態度をいっそう強硬させ、倭寇の跳梁に対して「外夷小邦、ゆえに天道に逆らい、自ら安分せず、時に来たって寇擾する。これは必ず神人ともに怒り、天理容れ難い。征討の師は、弦を控えてもって待つ」といっている。
懐良親王はついにこの外圧に屈して、翌洪武四年(一三七一)に僧使祖来を遣わし、明帝に朝貢した。『太祖実録』は同年十月条にかけて「日本国の良懐は、その臣の僧祖来を遣わし、来たって表箋を進り、馬および方物を貢ぐ。ならびに僧九人が来朝する。(中略)これに至って、表箋を奉じて臣を称する」と記録している。
日本がようやく臣服し入貢したこと、または倭寇に掠われた明州・台州の男女七十人を送還してきたことは、中国側の望んだ展開となり、明太祖にとっては望外の喜びにちがいない。
しかし、その後の事態は、明王朝の期待を裏切った形で、まったく予想外の展開となり、一瞬にして明日関係を悪化させたのである。
2,期待はずれ
洪武五年(一三七二)、日本使の帰国にともなって、太祖は「その俗は仏を侫るを念ずれば、西方の教をもってこれを誘うべし」(『明史』日本伝)という対日懐柔策として、嘉興天寧寺の祖闡仲猷・金陵瓦官寺の無逸克勤の二僧を使者として随行させた。禅僧の宗?は送詩をつくり、太祖も宗?の詩韻に和して「彼に詣って仏光を放ち、倭民大いに欣喜す」とうたって、明日国交の回復に多大な期待をよせている。(2)
中日関係の暗黒期にいよいよ一筋の光を見いだしてきたかと思ったら、これまでにも増していっそう大きな危機が待ちうけていたのである。
明使らは洪武五年五月二十日に四明(寧波)を出帆し、五月の末ごろ博多に上陸すると、ただちに抑留されてしまった。「王臣詔の徠るを聞き、郊迎して欣喜を挙ぐ」(宗?の送詩)「彼に詣って仏光を放ち、倭民大いに欣喜す」(太祖の送詩)といった明側の期待はみごとに裏切られ、ただの夢想に終わったのである。
この突発事件の背後には、南朝と北朝の勢力消長がふかくかかわっている。すなわち、懐良親王は南朝方の征西将軍として、一時は九州全土を掌中にしたものの、この年の三月から北朝方の九州探題今川了俊より攻撃をかけられ、八月には太宰府以下を失って、高良山に敗退した。
明使の上陸した五月に、九州の政治地図はすでに塗りかえられ、博多はもはや北朝の領地になっていた。そのため、懐良親王の派遣した祖来とともに来朝した明使一行は、自然に南朝の味方と疑われてしまったのである。
このいきさつは、宋濂の『無逸勤公の出使還郷省親を送るの序』(3)に次のごとく述べられている。
「先に、日本王、州を統べるものは六十六ある。良懐はその近属をもって、ひそかにその九を據め、太宰府に都する。ここに至って、その王に逐われて、大いに兵争を興す。無逸らが至るに及んで、良懐すでに出奔し、新たに守土の官を設けている。祖来が中国に師を乞うとの疑いをかけられ、これを拘えて辱めんと欲する。無逸は力争して免れることを得た。しかし、ついに疑惑を釈明することができなかった。」
日本に到着してから百日ほど経った九月一日に、克勤らは日本天台宗の延暦寺座主に書状をおくり、不当の抑留をうったえて、国王との斡旋を要望した。その書状には両国の使者に対する処置があまりにも違うことをあげ、日本の不義をなじった。(4)
「親王がひとり祖来を遣わして中国に入る。尚郎官は醤食を給え、陸には輿馬を備え、水には船楫を具える。京師に至るや、会同に館する。三日に一たびこれを宴し、南北進賀の使はみなその下に列坐する。皇帝は、親ら朝に臨んで引見し、ここまで徠るのを労い、毫髪の疑問もなかった。」
明帝は日本使を「待するに心腹をもってする」のに、明使らは聖福寺に幽閉され、「衣をもって食を貿う」といった囚人同然の虐待をもって報いられたのである。まさに「中国の礼をもって、日本の慢を取る」結末であった。
3,朱元璋の日本像
洪武七年(一三七四)五月、祖闡・克勤らは持明天皇の使節とおぼしき宣聞渓・浄業・嘉春などをともなって帰朝した。使者の報告を聞いて、太祖の失望と憤怒は相当なものであったらしい。『太祖実録』(巻九0)洪武七年の条に
「さきに国王良懐は、表を奉じて来貢する。朕は、日本の正君であると信じ、ゆえんに遣使して往ってその意に答える。ところが、使者が彼国に至って、拘留されること二載、今年五月に去船はようやく還る。彼国の事体を備さに報告してくれた。人事から言えば、彼国の君臣は禍いを逃れない。何故かと言うと、幼君が在位しているのに、臣下は国権を擅にする。傲慢無礼にして、骨肉は呑併し、島民は盗を為し、内には良善を損し、外には無辜を掠する。これが禍いを招くよし、天災は免れ難い。」
とある。明の対日政策の主眼は日本政府に働きかけて倭寇を取り締まらせることにあったが、「内には良善を損し、外には無辜を掠する」張本人は「傲慢無礼」な執権者そのものだったことを知らされ、もはや日本との和解の余地はなくなった。
その後、懐良親王や征夷将軍から遣わされた数回の使節団は、「正朔を奉ぜず」「表文なし」「辞意倨慢なり」などの口実で、ことごとく却下された。
洪武十三年(一三八〇)十二月、太祖は日本国王に勅書をくだし、日本のことを「蠢かな東夷」と蔑称し、君臣の非道と四隣への騒擾を非難した。また翌年(一三八一)礼部は勅を奉じて日本の征夷将軍に書状を送りつけ、「自ら強盛なるを誇り、民を縦して盗賊を為させる」と叱咤し、武力をもって「勝負を較べ、是非を見、強弱を弁えよう」と言葉を荒げて威喝する。(5)
右の諸例によって明らかなように、明王朝が最大課題のひとつと位置づけていた倭寇の取り締まりがなかなか進展をみせなかったため、太祖は日本への偏見をますますエスカレートし、「君臣が道義を守らないから国民は盗賊を働くんだ」とその怒りを国王や将軍にぶっちまけて、日本に「海賊国家」のレッテルを貼ったのである。
このように、明の太祖は建国当初、日本との通交に積極的な姿勢をかまえていたが、倭寇の跳梁と対日交渉の失敗によって、態度を一変し、その詩『倭扇行』に日本人を「髪を束ねず、斑模様の衣服を身にまとい、君臣ともども裸足のまま、言葉はまるで蛙の騒音のようだ」という卑俗で滑稽な姿に描き、「国王無道にして民は賊を為し、生霊を擾害して神鬼とも怨む」と嫌悪感をあらわにしている。
太祖はその治世の後期に、宰相の胡惟庸が日本と結託してクーデターを起こそうとするという「林賢事件」が発覚したのにショックをうけ、日本への嫌悪はすでに堪えられない程度に達していたと推察される。
『明史』(日本伝)によると、胡惟庸は皇位を簒奪するため、ひそかに寧波衛の指揮林賢を日本に遣わして傭兵を募らせ、そこで僧侶の如瑶が国王の意をうけて四百人あまりをひきいて、朝貢使と装って入明し、献上用の巨大なロウソクに火薬や刀剣などを忍ばせて太祖を暗殺しようとしたという。
事件発覚後、太祖は胡惟庸を謀反罪に問わせて死刑、林賢には一族の連帯責任を負わせて「族誅」に処させたが、それでも鬱憤を晴らせなかったのか、如瑶らの日本人を僻地の雲南に流させ、日本との往来をも絶つことにした。(6)
『明史』(日本伝)をみると、洪武年間の記事の末尾に「後に祖訓を著わし、不征の国十五を列する。日本与する。これより朝貢至らず、而して海上の警また漸く息む」とある。この太祖の訓章こと「祖訓」は明の対外政策の一般を示すもので、とくに日本に対してのものではないが、『籌海図編』(巻二、倭奴朝貢事略、国朝)に「洪武十六年、詔して日本の貢を絶する」とみえるのは、日本との絶交をはっきり明示している。その割注には「祖訓」を引用して、「その往来を絶する」理由を以下のようにあげている。
「日本は海を隔てて一隅に僻在する。よってその地を得ても供給に足らず、その民を得ても使令に足らない。ゆえに兵を興して伐を致さない。」
明では次代の恵帝になると、日本も足利氏によって南北朝が統一され、室町時代に入る。ここで両国の関係は一時的に回復され、勘合貿易も断続的に行なわれた。しかし、明朝は鎖国体制をいっそう徹底させ、日本もまもなく戦国時代の乱世に突入してしまったので、両国関係を悪化させた倭寇問題はますます深刻化し、唐宋以来の友好関係をついに回復できなかった。