HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第二節 仮面と本性

 唐宋以来の「至弱」「知礼」の日本人像は、元では「凶悪」や「好戦」にかわり、明では「狡詐」や「残忍」に変質しつつあった。

 倭寇の略奪や密貿易を厳しく取り締まり、正常の朝貢貿易を復活させようとする明王朝にとって、もっとも頭を悩ますのは、使節を装った倭寇と海賊行為を繰りかえす使節とを見わけにくいことであった。そのため、日本側に朝貢船の年期・船数・人員などの制限を厳守させ、明人と日本人の接触に目を光らせて監視し、沿海地帯に兵備を充実するようになった。

 十六世紀に入ると、明の海禁政策によって商道をうしなった一部の中国人が密貿易に活路を開こうと海賊に化した。嘉靖年間の倭寇は「真倭は十の三、倭に従う者は十の七」(『明史』日本伝)といわれているが、次節にあげられた実例のように、倭寇に誘拐されて無理やりに加わらされた民間人も多かったのであろう。

 このように、地理に詳しい中国人の内応をえた倭寇はしばしば内陸部にふかく侵入し、略奪・殺傷・放火などをほしいままにした。たとえば、嘉靖三十三年(一五五四)「紅衣黄蓋」の倭寇はわずか六、七十人に過ぎないのに、「数千里を経行し、殺戳し戦傷する者は四千人」に近いという有様で、その「縦横に往来し、無人の境に入るが如」き跳梁ぶりは中国の朝野を落胆させた。(『明史』日本伝)

 日本人といえば凶悪な海賊だというイメージが急速にひろがった時代である。 

1,二幅の日本人像

 明代の中国人によって絵かれた日本人の肖像画のうち、以下の二幅はあまりにも異なっているので、われわれの目をひく。

 『三才図会』に載せられたのは、慈愛の表情が顔にあふれ、両手をあわせてお辞儀している恰好の僧侶図である。『学府全編』に収められたのは、半裸に裸足、肩に凶器を担ぐという倭寇図である。

 この二幅の、同じ日本人とは思われぬほど風格のまったく異なった肖像画を目の当たりにしながら、われわれは、明代中国人の脳裏に植えつけられた日本人像は前者なのか後者なのかと困惑するばかりである。

 それもそのはず、『三才図会』の日本人像は、外交使節に起用された禅僧をモデルに描いており、『学府全編』の日本人像は略奪を生計とする倭寇の姿である。ただし、この二幅の肖像画はまったく無関係ではなく、同一人物にみられるふたつの側面をありありと映しだしているかもしれない。

 つまり、二幅の肖像画をつなぎあわせると、「半ば商人半ば海賊」または「ときに朝貢し、ときに略奪する」という日本人の実像がみえてくるのではないか。こうした日本人の二面性について、『明史』(日本伝、正統元年条)は次のように活写している。

 「倭の性は黠い。時に方物と戎器を載せて海浜に出没する。隙を得れば、則ちその戎器を張げて、而して侵掠を肆にする。もし隙がなければ、則ちその方物を陳べて、而して朝貢と称する。東南の海浜は、これを患う。」

 日本の海賊はときたま朝貢を名目にして平和的な貿易活動を行なっていたことはよく知られることだが、日本の公式使節団にもしばしば海賊的な行為があった事実は案外と明らかにされていない。海賊と朝貢の関係については、王樵の指摘するとおり、「貢はその名、市はその実」で海防の隙間をみては寇を働くというものらしい。(7)事実上、遣明使らが海賊を思わせるような悪行は多く報告されている。ここで、三例だけを年代順に紹介しておく。

 (1)景泰四年(一四五三)の遣明使が、臨清という町を通りかかったとき、住民の物品を掠めたとして、治安官(指揮)は現場に駆けつけて加害者をなじったら、かえって暴力をくわえられ、あやうく死ぬところだった。この事件は『明史』(日本伝)に記されており、信憑性がなかり高いと思われる。

 (2)成化四年(一四六八)、遣明使の天與清啓ら一行は市民との貿易トラブルで、暴力をふるって相手を殴り死なせた。事件の処理に当たっていた浙江定海衛副使の王鎧は朝廷への報告書のなかで、「倭夷は奸譎である。時に海辺を掠し、官軍巡捕を見ては乃ち入貢と為し、虚を伺っては辺境を掩襲する」と述べ、使節と倭寇をほぼ同一視している。(8)

 (3)永楽二年(一四0四)にはじまった中日間の勘合貿易は十五世紀の後半から、しだいに細川氏と大内氏の二大豪族に独占されるようになった。そして、両氏の対抗は日増しに激化し、ついに嘉靖二年(一五二三)の寧波争貢事件にまで発展した。

 その年の四月、正徳の新勘合符を所持していた大内氏の遣明船三隻と、弘治の旧勘合符を携帯してきた細川氏の遣明船一隻は、前後して寧波に到着した。翌月、大内氏の使者宗設と細川氏の使者端佐は互いに自分の正統性を主張して争い、そのあげく武力にうったえてしまった。大内船の者は細川船を焼き、十二人を殺し、また残党を紹興まで追いかけながら、中国の官民をもかってに殺し、最後は明の指揮官を人質に捕えて海上に去ったという。

 この争貢事件で、民家を焼き無辜を惨殺する張本人は倭寇ではなく、日本の使者であるだけに、中国官民へ与えたショックはことのほか大きかった。つまり、倭寇への憎悪は日本人全体におよんでいった感がある。事件後、御史熊蘭らが「関を閉じて貢を絶する。中国の威を振って、狡寇の計を寝める」(『明史』日本伝)と進言したのは、ほんの一例にすぎない。

 冒頭に紹介した二幅の肖像画にもどるが、中国人の視野には善悪両様の日本人像が浮かびあがってはいるが、どうも慈愛の僧侶はまたたく間に消えうせる虚像のようで、凶悪な海賊こそ定着した実像であるといわざるをえない。

 その有力な証拠となるのは、肖像画に書きそえられた解説文である。すなわち、『三才図会』に描かれた僧侶(使者)図と『学府全編』に描かれた海賊(倭寇)図とはそれぞれ異なってはいるが、それらに用いられた解説文は、まったく同じものである。

 「日本国はすなわち倭国である。新羅国の東南の大海にあり、山島に依って居み、九百余里ある。専ら沿海に寇盗して生を為し、中国はこれを倭寇と呼ぶ。」 

2,残虐な暴徒

 日本を「不征の国」と定める「祖訓」とは、ある種の消極的な鎖国政策である。しかし、日本の海賊はこれで行動をつつしむことはなく、正常な貿易ルートを遮断されたため、「商人」や「使節」の仮面をかぶる必要がなくなり、かえって海賊の凶相を赤裸々にして横行するようになった。

 明代文献の実録によれば、倭寇の凶暴ぶりと残忍さは目を覆うものがあり、かれらは上陸するや、官舎と民家を焼きはらい、墓地を掘って財宝を盗みとり、成年の男性に逢えば問答無用に殺し、若い女性を見つければ強姦してしまうという。

 これは正統四年(一四三九)春に起こった惨事である。浙江省沿岸部から上陸した倭寇らは近くの村に潜入し、放火・殺人・掠奪のあと、生き残った妊婦と嬰児を空き地に集めて、残酷きわまりないゲームを始めた。

 かれらは嬰児を竹竿に縛りつけ、熱湯を引っかけてその悲鳴を聞いては楽しんだ。または妊婦を引っぱりだし、その胎児の性別を当ててから、妊婦の腹を割いて確認し、はずれたら酒を飲まされるという有り様である。(9)

 このような残虐な暴行は、本国の同胞にくわえられることもある。永楽三年(一四〇五)、足利義持将軍は、遣明使を遣わし、壱岐と対馬の海賊頭目二十人を中国におくらせた。明の成祖朱棣は両国の懸案だった倭寇の取り締まりに転機がみえてきたのを喜び、豪華なプレゼントを賜わり、海賊の処罰を日本側にまかせた。『明史』によれば、遣明使らは海賊の処置に困っていたらしく、寧波まで連れもどしたが、帰国の船に乗る前に「ことごとくその人を甑に置いて、蒸してこれを殺す」とある。

 外交をつかさどる行人司の行人だった厳従簡は、萬歴二年(一五七四)に朝廷秘蔵の文書などを生かして『殊域周諮録』を著わし、右の事件についてもっと詳細に書きしるしている。これによれば、遣明使らは寧波につくと、大きな竈を造り、そのうえに銅製の甑を据えつけ、海賊の一人に火を起こさせ、他の一人を甑に入らせるといった方法で、二十人全員を殺したという。

 命知らずで残虐な倭寇は、明代の文献では怪しい装束と恐ろしい容貌をしているように描かれている。『靖海紀略』を著わした鄭茂は、嘉慶三三年(一五五四)夏ごろ乍浦を急襲した倭寇を次のように活写している。

 周りが静まりかえった夜明けごろ、沖合に泊まっていた倭寇の船から海に飛びこんで泳ぐ人影がかすかにみえる。それらがつぎつぎと海岸に近づいて登ってくると、いきなり法螺を吹き鳴らし、数百人がたちまち集まった。みな禿頭にして青白の交じった斑衣を着ており、手に「弓矢利器」を執って鳥のような言葉を喋っている。倭寇らはみずから乗ってきた船に火をつけて燃やし、背水の陣を敷いて人里めがけて突進していく。

 東京大学史料編纂所に現存する『倭寇図巻』は、一六世紀の倭寇を描いた絵画として、もっとも信頼度の高いものとされる。高さ三二センチ、長さ五二二センチの絹本著色の絵巻に、倭寇船の出現・倭寇の上陸・倭寇の集合と攻撃目標の確認・倭寇の略奪と放火・明人の逃亡と避難・明軍と倭寇の水上遭遇戦・明軍大部隊の出動・明軍の勝利という各場面がリアルに描かれている。

 画中に描かれた倭寇は、頭を月代に剃りあげ、刀を肩にかつぎ、赤や青の「斑衣」を身にまとい、半裸にして裸足となっており、文献資料の描写とほぼ一致する。

 このように描かれた倭寇像は、固定化し類型化してしまうと、そのまま日本人像となり、倭寇は野蛮な日本人であり、残虐な暴徒であるという概念を中国に定着させた。さらに倭寇の暴行から、日本人は生まれつき強盗を好み殺人を嗜むと類推される。

 たとえば、葉向高の『四夷考』(日本考)に「俗は盗を喜び、生を軽んじ殺を好む」とあり、薛俊の『日本考略』には「狼子の野心、剽?はその本性である」とみえ、また卜大同も『備倭図記』のなかで「島をもって居と為し、舟をもって馬と為し、刀?を習って抄略するのは、その天性である」と断言して嘆いている。 

3,狡獪な戦術

 倭寇はその凶暴さによって世間を驚かしたのみならず、悪知恵たっぷりの狡さでも有名である。明の謝肇?はその著『五雑俎』のなかで、周辺各国の民族性について、以下のごとく評価をくだしている。

 朝鮮人はもっとも礼儀を重んじ、交阯(ベトナム)は肥沃な土地に恵まれる。韃靼人は生まれつき凶悍で、倭奴は人となり狡詰である。琉球の民風は淳朴で、真?はもっとも富饒である。著者はさらに「太祖が日本の朝貢を廃絶させたのは、その狡さを知ったからだ」とつけ加えている。

 「倭性狡」というイメージは、明代の日本人像につきまとう重要な側面であり、それを論じる文献は多く、枚挙にいとまがない。たとえば、『劉氏鴻書』(巻六、地理部)に「倭奴は狡詐にして測りがたい」とあり、『日本考略』を著わした薛俊は「叛服は常ならず、詭を用いることは巧みである」とか「その性は多く狙詐狼貪である」とか「倭はもっとも反覆不常で、服したり叛したりして、その詭譎を測れない」と連発する。

 『籌海図編』の著者として知られる鄭若曾は、倭寇のイメージを「狡詐残暴の奴だ」という一語で簡単明瞭に表出している。民間人は倭寇の暴行を目の当たりにしてそれを「残暴」と表現し、朝廷は倭寇の取り締まりに妙計なく、それを「狡詐」と感じたのである。

 李言恭と?傑の共著による『日本考』に「寇術」の一節があり、倭寇の常用するさまざまな戦術が紹介されている。いくつか挙げてみよう。

 (1)胡蝶の陣。明軍と対陣するとき、首領が扇をふるうと、倭寇らは一斉に刀を振りまわし、光の反射で満天を舞う胡蝶のようにみえ、明軍の集中力を攪乱した一瞬に、敵陣に切りこむ。

 (2)長蛇の陣。倭寇が集団で移動するとき、百脚旗(蜈蚣を印とした旗か)を先導にして長蛇のような細長い隊列をなして進む。命知らずの武者を前後に配して、攻撃するときに鋭い矛となり、退却するときに堅い盾となる。

 (3)小心翼々。倭寇は飲酒や食事をする前には、かならず明人に試食させ、毒を盛られているかどうかを確かめる。行軍中は、待ち伏せを恐れて小街深巷に入らず、投石に備えて城壁に近づかない。

 (4)仮をもって真を乱す。捕虜の舌を切って斑衣を着させ、偽物の倭寇をつくりだす。いざ戦況不利となると、本物の倭寇が農夫に扮して田間を耕耘し、あるいは書生を装って都会を遊蕩する。明軍をして、真偽を混同させ、ときに海賊を見のがし、ときに平民誤殺させる。

 「狡詐残暴」と悪評される倭寇は、明代の文学作品にもしばしば登場してくる。これらの作品はあたかも鏡のように、一般庶民の持っていた日本人像を映しだしてくれる。

 明代のもっとも著名な白話小説家の馮夢龍は、その短編小説『楊八老越国奇逢』に倭寇の題材を取りいれ、ある中国商人が倭寇の捕虜となって日本に連行され、のちに「斑衣禿頭」の「仮倭」にさせられて故郷に侵入し、肉親と対面しても認められず、自宅を通りかかっても入れなかった苦境を乗りこえて、ようやく倭寇から脱出して冤罪を晴らしたという紆余曲折の経歴を描きだしている。 この小説は、官軍を悩ました倭寇の戦術を次のように述べている。

 倭寇は奇襲を得意とし、布陣には変化が多く、法螺が鳴ると、胡蝶の陣となって突撃するかと思ったら、たちまち長蛇の陣に変えて去っていく。頭目が扇をふるうと、兵卒が息を潜めて姿を消したかと思ったら、忽然と刀を振りまわして切りこんでくる。それに、「真倭」と「仮倭」が入り交じっているため、官軍は手も足も出なかったありさまである。

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