HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第一節 開国前後

  一八五四年、ペリーのひきいる艦隊が江戸幕府を開国させた歴史的な事件は、あらゆる面で、東西文明の激突の一環として理解しなければならない。この意味で、ペリーの艦隊に通訳として乗りあわせ、開国の瞬間を目撃した羅森の日本見聞記は、じつに貴重な記録である。

 ただし羅森の日本見聞記はあくまでも例外的なものであり、日本の開国は当初それほど中国から注目されなかったのが事実である。ところが、それ以後、日本が一足さきに開国した中国と異なった道のりを歩みはじめ、西洋列強の植民地に転落することなく、近代化への脱皮をみごとに成功させた明治維新は、中国にとってショッキング的な出来事として、にわかに脚光を浴びるようになった。

 明治維新による日本文明の著しい変貌は、東洋文明の宗主国としての中国を戸惑わせ、不安と焦燥のどん底に追いこませた。こうした心情はときとして非難や詰問の形で表わされ、東洋文化の裏切り者という日本像を浮かびあがらせることさえあった。

 千余年来、日本から先生として崇められてきたプライドを捨てて、かつての弟子を「西学の師」と仰ぐためには、自信の喪失と未曾有の陣痛を中国はこれから経験しなければならなかったのである。 

1,開国を目撃した羅森

 一八五三年六月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー将軍は、黒塗りの軍艦四隻をひきいて来航し、高飛車な姿勢で幕府に開国をせまり、大統領の親書を受理させ、再航を約束して引きあげた。

 翌年(一八五四)一月、ふたたび来日したペリーは、ついに幕府に日米和親条約(神奈川条約)を結ばせ、日本を開国させるのに成功した。「黒船」のもたらした衝撃の大きかった様子は、次の落首にありありと詠みこまれている。

        泰平の ねむりをさます 正喜撰 たった四はいで 夜もねられず。

 美酒の正喜撰とは「蒸気船」のかけことばで、ペリーの黒船艦隊を意味する。

 当時、アメリカと日本の交渉がオランダ語と中国語とによって執り行なわれていたため、中国人の羅森は漢文の通訳としてペリーの艦隊に随行を誘われたのである。羅森が日本での見聞をつぶさに書きとめた日記(『日本日記』とも『羅森日記』とも書く)は、香港の英華書院から発行された月刊誌『遐邇貫珍』に連載された。

 羅森は「我が族類にあらざる」の「夷人」のなかで唯一の「同文対語の人」として、日本人から親近感を持たれていた。したがって、日記には条約交渉の過程や沿途の民風土俗のほか、日本人との個人的な交流のこともわりと詳しく書きしるされている。

 幕府の官吏だった平山謙二郎との交遊もそのひとつで、羅森の著わした『南京紀事』と『治安策』を読んだ感想文が日記に引載されている。それによると、平山謙二郎は儒教思想を根拠として、利益ばかりを逐う西洋の「奇術」をしりぞけ、「義」こそ「万国交際の道」と主張し、アメリカ船に乗って世界周遊の便を利用して、孔孟の奥義をもって各国の君主を説得するよう羅森に注文をつけている。

 ここから、開国を目前にひかえ、西洋化へのつよい不信感を持っている知識人らの焦燥の心情がうかがわれる。その反面、日本の知識人はもちろん一般庶民にも中国文化への憧憬が根強くあり、羅森の共感を呼んだ。お墓は「中国の明塚と異ならない」とか、人々は「中国の文字詩詞を酷愛する」とか、「女人が布を織るのは中国と異ならない」とか、「食物は多く中国と同じである」とかいった記録は、日記の随所にみられる。

 羅森の日記は、実際の見聞に基づいて書かれており、明治維新をきっかけに変貌する前の中国人の日本像を知るうえで、多くの示唆を与えてくれる。ここで、羅森の目に映った日本像の断片を拾って紹介してみよう。

 (1)上古の美風。那覇の人々は金銀を求めず、質素な生活をいとなみ、落とし物を拾ったら本人に返し、訴訟はほとんど行なわれない。下田では紙糊の門戸なのに盗賊の弊害がない。函館では「風俗は正を尚び、人民はあまり淫辞を説らず」。羅森は「淳朴の風紀は、ほとんど上古の世に同じである」と感嘆している。ここの「上古の世」とは、『後漢書』(倭伝)に「婦女淫?しない。また俗は盗窃しない。争訟も少ない」と描かれた君子国のイメージを重ねあわせていると思われる。

 (2)文武の道。官吏は文・武・芸・身・言の優れたものから選抜されるが、中国のように「詩」を重んじない。孔孟の書籍を愛読する「士」は、みな両刀を携帯しており、文武両道を尊ぶ。中国では、文人と武士は異質なものとみなされ、両者を混同することはほとんどない。したがって、両刀を脇に差して孔孟の道を論じ、詩文の唱和を交わす日本の「士」は羅森の目に異様に映っていたにちがいない。

 (3)土産の交換。ペリーが日本の「大君」に火輪車(汽車)・浮浪艇(汽船)・電理機(電話)・日影像(カメラ)・耕農具などを贈り、日本は漆器・磁器・綢?などを返礼として贈った。アメリカから贈られた西洋の「奇器」は日本人を驚かせ、汽車の試運転を見学した人々はみな「その奇を称う」という。西洋文物への濃厚な好奇心が現われている。

 (4)男女の風俗。横浜や函館の女性は外人との接触を避けていたが、下田の女性は「羞を避けず」、平気で春画に見入ったり、半裸のまま人前に出たりする女性も多くあり、男性は男性で下半身を露出しても恥ずかしく感じない。羅森はこのような性風俗を驚愕の目で眺め、男女同浴の「洗身屋」を目の当たりにするときは絶句したらしい。

 (5)官尊民卑。那覇の百姓は「甚だ官長を畏れる」。下田では男女は人だかりして外人を見物するが、「双刀人が至ると、則ち両旁に走り離れる」。函館の百姓も「卑躬にして、官長を敬畏する」。役人をみると、「人民は粛穆にして、路傍に膝跪く」。

 (6)肥人の力自慢。羅森の日記のなかで、もっとも面白いのは、「肥人」についての記録であろう。横浜で、ペリーは林大学頭(鵜殿)の屋敷をおとずれ、「粟米数百包」を贈られた。九十余名の「裸の肥人」はひとつ「二百余斤」の俵を二三個を軽々と持ちあげて海辺にまで運んでくれた。その後、肥人らは屋敷で「角力」してみせ、羅森をして「日本に勇力の人が多い」と感嘆を吐かせた。ここの「肥人」とは、間違いなく相撲選手のことである。アメリカの圧力を前に、幕府は相撲選手の力自慢をもって辛うじて示威しようとしたものとみられる。

 羅森の日記を読むかぎり、日本人との交流は友好ムードに覆われていたが、ときに不協和音も生じていたことがわかる。たとえば、明篤という日本の文人は羅森との筆談で「子は乃ち中国の士なれど、なんぞ鴃舌の門に帰せんや」と詰り、孟子の言葉をひいて「喬木」(高尚なところ)から「幽谷」(卑俗なところ)への堕落を嘆いていた。これに対して、羅森は「乗風破浪は平生の願なり、万里遙々は比隣の如し」と抱負を語って応酬した。

 このように、香港に居住していた羅森は、親しく欧米人と交わり、開明的な思想に染まっており、保守的な日本の文人官吏とは好対照だったのである。

 2,衣冠の論争

 中国における明治維新への認識は、曲折の道のりをたどったのである。最初に明治維新に反応をしめしたのは、浙江省海寧県の陳其元という人物だったらしい。彼は一八七四年に著わした『日本近事記』(1)で、維新の結果を消極的に受けとめ、むしろ伝統の破壊に遺憾の念を禁じえなかった。

 「むかし、日本の国王は姓を改めないこと二千年、国中の七二島は島ごとにそれぞれ主あり、列して諸侯と為す。(中略)美加多の?国より、その前王を廃し、また各島主の権を削る。島主は柄を失って懐疑し、遺民は旧を念じて蓄憤し、常にいったん有事に乗間して?起せんを望む。」

 陳其元の日本知識は、道聴塗説のものばかりで、誤解に満ちている。徳川将軍と「美加多(みかど)」を混同し、明治天皇の親政を「?国」と誤解している。また、その保守的な立場から、「島主は柄を失って懐疑し、遺民は旧を念じて蓄憤し」、蜂起の危機が迫っていると空想し、東洋文化の牙城を守るために、日本への派兵まで提案した。

 つまり、「勁旅万人」を選んで、まずは長崎をおとしいれ、次に「倭都」に攻めいり、「前王の旧将と故臣遺民」を助けて、「その国の旧制」をことごとく復活させようというものである。

 日本の維新による文化の変貌に戸惑いを感じるのは、民間人のみならず、朝廷の重臣もしかりである。『日本近事記』が世に問われた翌年(一八七五)、清朝の直隷総督に北洋大臣を兼ねていた李鴻章は、日本公使の森有礼の訪問をうけて、国際情勢をめぐって意見を交換した。

 その席上で、たまたま明治維新が話題となり、とくに衣冠制度をめぐって激しい議論が交わされた。李鴻章は維新そのものについて賛同の意を表明しながら、「ただ旧有の服装を変えて、欧風を模倣することは理解しがたい」と質したところ、森有礼は「伝統の和服はふっくらとしていて、動き回る労働には相応しくない。したがって時代遅れの服装を新式に変えることは、わが国の利益にかなっている」と主張した。

 李鴻章はそれでも納得せず、「衣服は先祖の遺志をしのぶものであり、子孫としては永遠にその伝統を受けつぐべきではないか」、「旧服を捨てて欧俗を倣うのは、独立精神を捨てて欧州の支配を受けることだ。日本人として恥ずかしく感じないのか」と詰問を連発する。(2)こうした流動的で消極的な維新観は、かなり長期的に中国人の日本観を左右していた。

 右は服装をめぐっての議論ではあるが、李鴻章をその代表とする清朝官吏および文人らの維新観--懐疑・不満・遺憾・同情といった複雑な心情がはっきり表わされているといえよう。

 これらの消極ムードとはちがって、明治維新を肯定的に評価する動きもわずかながらある。たとえば、『東倭考』(3)を著わした金安清は「今の倭王は将軍を駆って自らその権を主る」と王政復古の情報を正しく把握し、明治天皇の改革を戦国時代の趙武霊王の「胡服に易え、騎射を習う」故事にたとえて賛美しているのが、その一例である。

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