HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第二節 維新の国へ

 明治三年(一八七〇)、発足まもない新政府はさっそく柳原前光を中国に遣わし、国交樹立の遊説を始めた。その結果、一八七一年に、『中日修好条規』と『中日通商章程』とが結ばれた。その六年後に、中国の初代駐日公使がようやく「維新の国」に足を踏みいれ、遅ればせながら近代化をめざした中国は日本とのあらたな国際関係の締結にむけて、本格的に動きだしたのである。

 国交樹立をきっかけとして、中日間の人員往来はこれまでにない活況を呈し、官吏・商人・学者などの日本訪問がにわかに増え、維新後の日本の本当な姿を自分の目で確かめて、それを日記などに書きとめることが多くなった。

 大清公使館の設置にともなって官吏の日本視察がにわかに頻繁となったのは、もっぱら明治維新へ関心によるものではなく、明治七年(一八七四)の台湾出兵と同十二年(一八七九)の琉球併合の衝撃で、日本が清王朝を脅かす存在となったことに主要な原因があったと考えられる。

 このようないきさつもあって、見る目によっては日本像はさまざまな姿に描かれているが、批判にしても賛美にしても、従来にみられなかった和洋折衷の新しい日本像が、しっかりと中国人の脳裏にふかく刻みこまれたことは確かである。

1,初代公使の日本像

 広東出身の何如璋は、一八七六年に駐日副使に任ぜられ、一八七七年に正使に昇格し、同年の十月に副使の張斯桂および参事官の黄遵憲らをともなって日本へ赴任した。在任中に、日ごろの出来事を日記体で書きしるしたのは『使東述略』であり、折にふれて詠んだ詩六七首を一冊にまとめたのは『使東雑詠』(4)である。

 『使東述略』の記す範囲は、一八六七年一一月から一八七七年十二月におよんでいる。着任前から書きはじめているため、日本に関する記載は、わずか二ヶ月しかないが、初代公使の記録としては貴重な史料である。

  何如璋は維新後の日本をじっさいに考察した最初の清朝官吏であり、彼の目に映った日本は、どんなものだったのだろうか。『使東述略』にはこう書かれている。

 「近ごろ欧俗に趨き、上は官府より、下は学校に及んで、あらゆる制度・器物・語言・文字は、ことごとく泰西を式と為す。」

 また『使東雑詠』にも「半ば欧西半ば土風なり」と歌われている。このような「欧俗」一辺倒の日本を、何如璋は意外と客観的に観察し、かつ善意にみちた態度で評論していたのである。それを要約すると、おおよそ次のようになる。

 ここ二十年来、列強が国境にせまり、開国を余儀なくされる。時勢を憂慮する志士たちは、今の政令はとても国家を固め、外敵を防ぐに足らんと不満に思い、尊皇攘夷を決行した。群衆はそれに呼応して立ちあがり、将軍は狼狽して権威を失墜する。ここで、少数の有能者は時機を得て旧制を変えさせ、封建を廃しては郡県を設置し、数百年の積弊を改めては新制をひろげる。

 何如璋はこうした日本の改革を「時事の転移するは、固より自らその会する所あり」「風会の趨く所、固より自主できぬものあらんや」と、主観的に旧制と新制とに優劣をつけずに、ただ時勢の自然な成り行きとして受けとめている。

 こうした客観的な立場をとって、何如璋は維新後の「政俗」つまり官制・兵制・学制・財政などを簡略ながら紹介し、西洋的な文物、たとえば汽車・鉄橋・電気報・洋紙・郵便をそれぞれ詩題にして賛美している。

 何如璋の目に映ったのは、西洋の文物ばかりではなく、「半ば土風」のなかにふくまれる中国の伝統文化もまた少なくない。『使東雑詠』には、天后宮・徐福墓・聖賢図・唐雅楽などを歌う詩作が収められている。こういう伝統文化が消えつつある現状に、何如璋はしばしば遺憾の念を表わしている。

 ところで、副使として赴任した張斯桂は、何如璋のような冷静さを欠き、その詩集『使東詩録』(5)には維新を謳歌する作品は一首すらなく、ほとんどが趣味本位の猟奇的な作品に埋め尽くされている。維新にかかわる作品は数首しかなく、それも嘲笑の口吻で歌われている。

 『正朔を改む』では、五五三年から施行してきた「夏暦」を捨てて西暦を用いることで、季節がずれてしまうと風刺し、『服色を易う』では「狗尾を貂に継ぐ」や「沐猿冠を戴く」などの故事をもじって揶揄している。

2,黄遵憲の維新観

 日本に大清公使館が設けられてから、その随員を主体として、日本研究のグループが徐々に形成された。彼らは大使や副使に比べて、より自由な立場にあり、日本への観察も客観的で、多様多彩なものである。

 初代公使の何如璋にしたがって渡日した黄遵憲は、この時期の代表的な日本研究者である。その大著『日本国志』および詩集『日本雑事詩』(6)は、多くの中国人にとって明治初期の日本像を知るうえで、もっとも重要な情報源となった。

 日本滞在中から筆を起こし、一八八七年にようやく完成をみた『日本国志』四〇巻は、中国史書の体裁にならって、「中東年表」(中日歴史年表)と一二の「志」(国統志・隣交志・天文志・地理志・職官志・食貨志・兵志・刑法志・学術志・礼俗志・物産志・工芸志)からなり、明治維新を中心に据えながら、日本歴史の全貌を明らかにしようとする野心作である。

 『日本国志』の執筆動機には、日本の経験を中国の参照にしようとする意図があったように思われる。作者はその『凡例』で、「今撰録する所は、みな今を詳らかにして古を略し、近を詳らかにして遠を略する。あらゆる西法に牽渉るものは、尤も詳備を加えて、適用するを期する」と執筆の意図をほのめかしている。

 光緒八年(一八八二)春、黄遵憲は在日公使館の参事官からアメリカのサンフランシスコ駐在の総領事に抜擢される際、「明治維新の史を草し完れば、吟じて中華以外の天に至る」と海外生活をふりかえって抱負を語っている。

 ここの「明治維新の史」とはまぎれなく『日本国志』のことで、「吟じて中華以外の天に至る」とは世間にひろく流布している『日本雑事詩』を指していると思われる。

 一五四首の詩作をおさめた『日本雑事詩』は一八七九年に同文館より上梓してから版を重ね、その間に増補削減があり、一八九八年の決定版には二〇〇首の作品を収録している。これらの作品はただ風花雪月を詠むような余興的なものではなく、文明論的な洞察をのぞかせる傑作を多くふくんでいる。

 明治維新についての作品は、四〇首ほどあり、全体としては西洋化の趨向を賞賛している。たとえば、自序では維新への批判を押しのけて、その「進歩の速さは、古今万国の未だに有らざるものである」と断言している。また『明治維新』と題する詩に注して、「明治元年に徳川氏を廃して王政始めて復古する。この中興の功は偉大かな」と謳歌している。

 詩集の全体的意図は、武安隆氏の指摘したとおり「日本歴史の変遷と、進歩の紹介と、謳歌に置かれ、それを通じて中国の改革と自強へと導きたいという点にあった」と認められる。(7)

 右の二書を通じてみられる黄遵憲の維新観を要約すると、積極的に外国の進んだ文明を取りいれること、天皇から庶民まで一致して改革を行なったこと、少人数のリーダシップ(志士)が主役を演じたこと、近代教育が改革の普及に大きな役割を果たしたことなどが挙げられよう。

 これまでの日本像は、程度の差こそあれ、「天朝大国」から「?爾島夷」を見下ろしたものにすぎない。しかし、黄遵憲はこれらの偏見をうち捨て、ありのままの日本像を描こうとした。『日本国志』(凡例)では「紀事は実を務め、偏袒しない。せず、皇といい帝といい、また貶損しない」とことわり、固有名称は「みな日本を主とし、別称を用いない」態度を全書に貫いている。ここで、はじめて等身大の日本像が中国人の視野に浮かびあがり、画期的な日本像の転換といえる。

3,維新への批判

 アジアに突如として現われた「西洋国」日本への評価は、かならずしも賛辞ばかりではなかった。黄遵憲にしても、日本に着任した当初は、ちょうど明治維新初期の混迷期にあたり、維新に不満だった文人と交わり、「微言刺譏、咨嗟嘆息、吾が耳に充溢する」影響で、『日本雑事詩』に維新を懐疑視しそれを風刺する作品さえ交じっている。明治維新への理解を深めていくにつれて、これらの作品をほとんど改訂版から取り外し、あるいは改作している。

 ところで、黄遵憲のような維新肯定派もいれば、維新を軽視しまたは非難する人々も少なくはない。たとえば、作者不詳の『日本雑記』(8)は洋服の着用を「東頭西脚、西頭東脚」という滑稽な姿となり、なんと醜いだろうと風刺している。

 もう一人「四明浮槎客」と名乗る文人は神戸での見聞を『東洋神戸日本竹枝詞』に詠み、維新を「昨日は米法に変えたばかりなのに、今日はまた急いで大英を奉じ」、まさに「暮れに令して朝に改め、まるで児嬉(子供のいたずら)の如し」と批判し、また「移風移俗は太だ荒唐なり、正朔衣冠の祖制滅びたり」と嘆いていた。(9)

 易順鼎という文人は、維新による東洋伝統の破壊に失望のあまり憤りをあらわにし、「冠服を他人に效い、驢は驢にあらず、馬は馬にあらず。紀年は明治と僭称し、実は愈々その淫昏を縦にす」と辛らつな批判をくわえている。(10)

 維新否定派の代表者のひとりとして、琉球併合の翌年(一八八〇)に日本をおとずれ、『日本紀遊』と『日本雑記』(11)を著わした官吏出身の李筱圃を紹介してみよう。

 李筱圃は同年三月二十六日に三菱商社の汽船「禿格薩約麦羅(高沙丸)」に乗って上海を発ち、同五月十一日に帰国したが、約四〇日間の見聞所感を『日本紀遊』に詳しく書きとめている。作者は教養の高い文人官吏として、各地の博物館や名勝史跡を中心に観覧した。徳川一族の墓地がある増上寺を遊覧したあと、次のように述懐している。

   徳川氏は日本の諸侯であり、大将軍と号する。国政を掌ること三百年を歴て、国王  はただ虚位を擁するのみ。早年にアメリカが通商を求め、徳川氏は拒否する力なく、  ついにこれを受け入れようとしたが、民情は不服し、徳川氏はよって失脚した。国  王はこれに乗じて政権を奪い、ならびに藤・橘・源・平の諸侯を廃し、その領地を取  りあげて公に帰し、ただ歳俸のみを与え、大権をすべて国に奉還させた。これを「維  新の政」という。

 「今は遠人(西洋人)を拒絶できないばかりか、極力して西方を模倣する。国は日に日に貧しくなり、徴税はますます苛酷になり、民はまた徳川氏の深仁厚沢を謳い偲ぶようになった。」

 このように、李筱圃は幕府を同情し、明治政府には批判的であった。これは単なる西洋化の弊害に対する非難だけではなく、西洋傾倒のあまりアジア隣国を軽視する風習への不満も込めている。東京の教育院を見学し、そこに陳列してある「中国物」を目にしたとき、作者はひどく憤慨した。

 「我が中国は連年してアメリカ、フランスの賽奇会(博覧会)に出品し、その品物は西洋人から称賛され」、したがって「他国に冠する工芸珍貴」があるのに、日本はわざと「朽ちたアヘン槍」、「欠けた灰皿」、「破れた提灯」、「錆びた鉄砲」、「ボロボロの九竜袋」だけを選んで、それに「中国物」と標記して展示している。中国をイメージダウンさせようとする「居心」が見えみえで、このような卑劣な「鬼?」とは「邦交」なんか論じる余地があるものかと激怒している。

 『日本雑記』は李筱圃の日本知識を網羅した随筆集で、前著とほぼ同じ態度で明治政府を批判している。たとえば、経済の危機と生活の貧困はもっぱら維新のせいにし、断髪に下駄または革靴に髷といったちぐはぐの世相を風刺している。

 李筱圃は官吏出身ではあるが、日本視察に出かけるとき、すでに官職をはなれて上海に隠居中だったので、官吏よりも在野文人の日本観像としてみたほうがより妥当であるかもしれない。この意味で、刑部主事の任にあって訪日した顧厚焜の『日本新政考』は、現役官吏の日本観として注目されるべきである。

 光緒十三年(一八八七)、顧厚焜は清政府から維新後の「新政」を考察する使命を与えられて訪日し、翌年(一八八八)帰国報告書として『日本新政考』をまとめた。この書は洋務・財用・陸軍・海軍・考工・治法・紀年・爵禄・輿地の九部にわけて新政の現状を記録している。

 調査報告書の性格上、記録の部分はかなり客観的で詳細にわたっているのに、議論の部分となると、作者の主観的な考えに基づいて、維新への批判に容赦はない。かれは維新によって「国債積んで国庫は匱しく、漢文を軽んじて洋文を重んじ、旧都を廃して新都を興こす」といった現状に驚きを隠せず、「西法が国俗を転移するのは何故かくのごとく速いのか」、「日本が成憲を軽棄するのは何故かくのごとく易いのか」と疑問を連発する。さらに、西洋一辺倒はとうてい「国を豊かにするに足らず、兵を強くするに足らん」と結論づける。

 このように、明治初期後の日本は西洋と東洋という二重のイメージを現わし、この複雑な様相を眺めた中国人のなかでは、西洋文物の流行に注目して賞賛する人がいれば、東洋伝統の衰弱を憐れんで非難する人もいる。こうした相違はすべて視察者の主観的な問題に帰するのは公正さを欠き、維新後の世相自体も新旧・善悪・東西が入り交じり混沌とした模様だからである。

 ここで注目に値するのは、新旧両方によく目を配った陳家麟の見解で、肯定論または否定論よりは客観的であるかもしれない。

 陳家麟は一八八四年に公使館の随員として渡日し、三年後に『東槎聞見録』四巻(12)を上梓した。作者は維新の諸政策を「利政」(良い政策)と「弊政」(悪い政策)とに二分し、前者の例として「学校の設立、鉱山の開発、鉄道の建造、銀行の開設および機械、電線、橋梁、水道、農政、商務」など、後者の例として「洋服の着用、漢学の廃止、刑律の改正、紙幣の発行および増税、雇用、洋館、洋食、舞踏」などをそれぞれ挙げている。

 このように、明治維新への賛否両論の存在は、第三者の立場から傍観によるもので、中国では維新変法の動きが活発になってくると、称賛論者がにわかに増え、維新後の日本像もより具体的に伝えられるようになる。

>>>>>>>> 8-3

僥儗儚乕僋側傜EC僫價 Yahoo 妝揤 LINE偑僨乕僞徚旓僛儘偱寧妟500墌乣両
柍椏儂乕儉儁乕僕 柍椏偺僋儗僕僢僩僇乕僪 奀奜奿埨峲嬻寯奀奜椃峴曐尟偑柍椏両 奀奜儂僥儖