王勇著『中国から見た日本像』(東京:農文協2000年9月)    >>>>>>>>  目録

第三節 維新変法の手本

 明治維新をきっかけとして、近代化をいそぐ日本は西洋の文物制度を積極的に導入するとともに、西洋列強の「負の遺産」もまるごと継承してしまった。台湾出兵(一八七四年)をはじめ、しだいに欧米諸国のアジア侵略の共謀者となり、貪欲の魔手を隣国にのばすようになった。

 一八七四年、日本は念願の大陸侵略を実現するため、朝鮮の権益をめぐって清王朝に戦争をしむけ、それが甲午戦争(日清戦争)の勃発となった。その結果、「天朝大国」は「?爾島夷」に大敗を喫し、清王朝は苦心して経営した自慢の北洋艦隊をあっけなく殲滅され、日本に銀二億両という巨額な賠償金の支払いを約束して、一八九五年四月に屈辱の「馬関条約(下関条約)」をむすんだ。

 この予期せぬ結果をもたらした一戦で、「?爾島夷」と軽視されてきた日本は、一躍して巨人のごとく中国人の眼前に立ちはだかるようになった。知識人たちは未曾有の「国恥」に目を覚まし、支配者らも亡国の危機に直面せざるをえなくなった。そこで、朝野の有志は突如として巨人化した日本に目をむけ、改革維新の道を模索しはじめた。

 明治維新がふたたび脚光を浴び、本格的に研究されるのは、まさにこの時期だったのである。一八九八年に、光緒帝をかついだ百三日しか続かなかった戊戌変法(百日維新とも)は、もっぱら明治維新を手本にしていた。こうして、約二千年にわたる中日関係史上、両国の師弟関係ははじめて逆転したのである。

1,明治維新への再認識

 一八九五年四月十七日、李鴻章は清王朝を代表して、下関の春帆楼で売国の「馬関条約」にサインした。調印のニュースが中国に伝わると、全国に大きな波乱を巻きおこし、康有為を中心とする愛国の知識人たちは、連名して条約拒否と変法実施の主張をまとめて、光緒帝に直訴した。史上に有名な「公車上書」の事件である。

 康有為らは「馬関条約」を清朝二百余年の歴史上において未曾有の「大辱」であり、「この創巨痛深の大禍を経て、必ずや臥薪嘗胆の謀を為すべし」と変法の緊迫性をつよく訴えた。(13)

 亡国の危機に瀕した中国の有識者らは、維新変法を清王朝に呼びかけ、その手本を敵国の日本にしたのである。康有為は光緒帝への直訴書のなかで、「土地と国民が中国の十分の一しかない」日本が明治維新によってわずか三十年も経たないうちに強国となり、琉球と台湾を強奪し大清帝国を侵略したのだと分析し、弱肉強食の世の中で生きていくために「強敵を師資に」しようと力説した。(14)

 これまではごく一部の知識人にしか注目されなかった明治維新は、今や日本の奇跡的な変身をなしとげた「秘訣」として、民族の存続を真剣に考えざるをえなくなった人々から熱い視線を向けられるようになった。

 中国の近代化をめさした維新派の志士らが、西洋諸国ではなく、日本に目をむけ、明治維新を手本にしようとするには、さまざまな原因が絡んでいるが、王暁秋は次のように分析している。(15)

 (1)西洋化の東洋移植に成功した日本を手本にすれば、「事半ばにして功倍あり」という安易な考え方がかなり流行っている。康有為はそれを「建築に譬えれば、欧米が設計図を書き、日本が模型を造ってくれたから、われわれはそこに住めばよい。耕作に譬えれば、欧米が田植えし、日本が雑草を取り除いてくれたから、われわれがそれを食べればよい」とわかりやすく説明している。さらに「泰西は三百年を経て治まり、日本は施行して三十年後に強くなり、わが中国は国土も広く人民も多いから、変法して三年もあれば、十分に自立でき、その後さらに成長し、富強は万国を凌駕するだろう」と楽観視している。日本のような小国も成功したのだから、もし中国が本気でやれば、もっとうまく出来るぞという自信過剰ぶりがうかがわれる。

 (2)中国の維新派はあくまでも光緒帝を中心とした政治改良を目的に想定し、皇室打倒の西洋革命よりも、むしろ明治天皇をかつぐ明治維新のモデルに魅力を感じる。康有為はフランス大革命の様子を「流血は野に盈ち、死人は麻の如し」と語り、民衆革命に否定的な考えをはっきり示している。中国の維新派らは明治維新をもっぱら明治天皇の「聖明新政」の結果と早合点し、倒幕に大きな役割を果たした民衆の力と戊辰戦争をまったく考慮しなかった。

 (3)日本を師とするには、歴史的にも文化的にも地縁的にもさまざまな便利さがあると考えられていた。康有為によれば、日本の「守旧的な政俗はわが国と同じく、ゆえに更新の法は日本をおいてほかにない」とし、対して「米仏の民政と英独の憲法は、地遠く俗異なる」から模倣しにくいという。また同じ漢字を使うのも日本を介して西洋文物を導入する近道とされる。もう一人維新派の中核人物なる梁啓超は「泰西諸学の書は、その精たるものを日人がすでに略訳しているので、われはその成功によってこれを用いるべき」ことを、「泰西を牛とし、日人を農夫として、われは座ってこれを食べる」と比喩している。

 (4)西洋列強の脅威に直面して、同じアジア国としての共同利益と連帯意識があり、相互に助けあうべきだとの主張がある。当時、ロシア帝国の東進政策に対し、中国も日本も警戒しており、康有為らにはイギリスと日本とを抱きこんでロシアに対抗しようとの思惑があった。また一八九八年四月に、中国の朝野人士と上海在住の日本官民とが共同発起人となって発足した上海アジア協会は、「中日の歓を聯んで、同文の雅を叙べる。まことにアジア第一の盛事にして、興起の転機なり」とマスコミなどに喧伝された。副会長をつとめた鄭観応は「同じくアジアにあり、相互に攻撃すれば、唇亡びて歯寒しとなり、徒に漁人の利を(西洋人)得られる」と日本との提携の必要性を訴えている。

 このように、甲午戦争をきっかけに、明治維新がふたたび注目の的となったが、しかしそれはあくまでも西洋を学ぶための便宜策にすぎない。言いかえれば、日本の積んできた近代化の経験、あるいは西洋を学ぶテクニックだけに目をひかれ、日本そのものを学ぼうとするものではない。さらにいえば、日本の西洋化された側面だけは中国人の眼前にくっきりと浮かびあがってきたものの、日本の全体像は依然として見向きされなかった。

2,百日維新の破局

 康有為ら知識人の八方奔走で、維新変法の気運がしだいに高まり、光緒帝も政治刷新の必要性を痛感するようになり、一八九八年一月二四日に康有為を宮内に招きいれて変法の構想を聞き、ようやく改革に本腰を入れようとした。

 そのとき、康有為は中国の変法を「日本の明治の政を治譜と為すべし」と力説し、具体的に真似るべき三項目を皇帝に提示した。つまり、「一に群臣と革旧維新を約束して天下の輿論を採択し万国の良法を取り入れること、二に宮内に制度局を開いて天下の通才二十人を参与に徴用し一切の政事制度を見直すこと、三に待詔所を設けて天下の人々の上書を許すこと」である。

 以上の三項目はいずれも明治政府の行なった重大な政治改革の措置であって、康有為はそれを変法の綱領として推奨し、維新派の政権入りをつよく期待していた。その後、康有為は明治維新を詳しく紹介した『日本変政記』を呈上した。それを読んだ光緒帝はついに変法の決意を固め、六月十一日に「国是を明定する」維新の詔をくだした。

 梁啓超はこの詔書を「四千年の旧を抜って新を開く大挙」と激賛して、「一切の維新はこの詔に基づき、新政の行はこの日に開く」と期待に胸を弾ませる。この日から慈太后によるクーデターの勃発した九月二一日までの百三日間は、中国版の「明治維新」が試みられた。

 康有為をはじめ維新派らは、変法の参考テキストとして、明治維新を参照にした書物などをつぎつぎと光緒帝に呈上し、そのなかでもっとも重要な役割を果たしたのは、康有為著の『日本変政考』にほかならない。

 この書は明治元年から同二四年までの歴史を十二巻にわけて詳述した編年体の史書である。それに『日本変政表』一巻を付録としてつけ加えている。著者がその跋語に「日本の変政は、これに備わっている。その変法の次第と条理の詳明は、みなこの書にある。弱より強となるのも、ここにある」と自負しているとおり、光緒帝はこの書を日ごろ座右に置いて、変法の指南としたという。

 事実上、光緒帝が百三日の間にくだした二百以上の変法詔書のうち、『日本変政考』から採択し、明治維新の受け売りと思われるものが相当ふくまれている。(16)

 ところが、一連の変法措置は、既得利益の喪失を危惧していた保守派の顰蹙を買い、慈禧太后を中心とする反対派からことごとく阻害された。九月になると、維新派の敗色はひとしお濃厚となってきた。

 こうした前途暗澹たる情勢のなかで、明治維新の主役だった伊藤博文がちょうど中国をおとずれた。中国の維新派は「溺れるものに藁でもつかむ」ような心境で、伊藤博文を政府顧問に起用しようと光緒帝に建言した。九月二十日、光緒帝は伊藤博文を引見し、難局の打開策を伊藤博文の経験に期待したが、時期すでに遅しとその翌日に慈禧太后主導のクーデターが演じられ、光緒帝はたちまち階下の囚人となり、百日維新もあっけなくピリオドを打たれたのである。

 事件後、伊藤博文は妻への手紙で、維新失敗の原因を分析して「皇帝は万事ことごとく日本に倣い、服装まで洋服に変えようとし、こうした過激な改革が失敗を招いた」という旨を述べていた。

 明治維新の形式だけを真似て、中日国情の相違をまったく考慮しなかった維新派らの安易なインスタント式の改革としては、当然の破局だったのかもしれない。

3,辛亥革命の手本

 清王朝を倒して国民政府を建てた孫文(一八六六~一九二五)は、大陸の共産党からも台湾の国民党からも「中国近代革命の父」として尊敬されている。

 孫文の指導した辛亥革命(一九一一年)が、日本と深いかかわりのあることは、周知のとおりである。革命の幹部には多くの日本留学の経験者がくわわっており、孫文自身もしばしば日本へわたり、その数は一五回に達し、あわせて九年間も日本に滞在したのである。 したがって、辛亥革命の成功には、多くの日本人が貢献していたことを決して忘れてはならない。しかし、その支援者は、次章で述べるように集団としての日本政府ではなく、ほとんどが良識の個人だったのである。

 一八九四年、孫文はかつて李鴻章に「救国救民」の方策を建言し、明治維新の経験を「人がよくその才を尽くし、地がよくその利を尽くし、物がよくその用を尽くし、商品がよくその流れを暢ばす」と総括し、それらを中国の参照にすべきだとした。

 右の建言は、当然のことながら李鴻章に受けいれられなかった。そこで、孫文は革命運動を行なう以外に中国を救う道がないと判断し、一九一一年に武昌蜂起を引きおこし、民国政府の樹立に成功したのである。

 明治維新と辛亥革命との関連について、孫文は「日本の明治維新は中国革命の原因であり、中国革命は明治維新の結果である」と明言している。(17)辛亥革命の成功後、孫文は新生中国の建設にあたっても、維新後の日本を手本にしていた。孫文が重視した日本の経験について、熊達雲氏は次の三点を指摘している。(18)

 (1)時勢への順応。孫文は日本が「攘夷に失敗すれば、ただちに師夷に転向し、維新運動はまったく師夷の結果である」と指摘し、中国は欧米との差を縮めるためには、「日本に範を取って」西洋文明を謙虚に受けいれるべきだと主張した。

 (2)科学技術の重視。明治以来、日本の文明発展が何十年の間にそれまでの数千年の成果を超え、そのスピードにしてはヨーロッパをも凌駕できた主要な原因は、「欧風米雨のなかで、科学的な方法を用いて国家を発展させた」ところにあり、「科学の力による」奇蹟だと評価した。

 (3)進取の精神。孫文は日本の冒険と進取に富む民族精神を評価し、建国以来、外敵に屈従したことのない原因は「勇ましく奮闘する」精神を守りぬいたからだとし、その精神が日本を後進国から先進国へ、貧弱から富強へ、最後には「東洋のイギリス」にまで成長させたのだと指摘した。

 以上のように、百日維新にしても、辛亥革命にしても、近代化をめざす中国はつねに日本の明治維新を意識し、そこから啓発をうけ経験を学びとってきたのである。ただし、中国のめざしていた近代化の最終目標は、あくまでも「西洋化」であり「日本化」ではないことは、ことさら多言を要すまい。

【注釈】

(1)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五二巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。

(2)対談の全容は実藤惠秀著『中国人日本留学史稿』、(日華学会一九三九年版)六三~六四頁を参照。

(3)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙七五巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。

(4)二書とも『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五二巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。

(5)鐘叔河編『走向世界叢書』所収、岳麓書社出版一九八五年版。

(6)『日本国志』は活字本なく、『日本雑事詩』は鐘叔河編『走向世界叢書』所収、岳麓書社出版一九八五年版。

(7)武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』、「東アジアのなかの日本歴史」12、六興出版一九八九年八月版、一三〇頁。

(8)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙)所収、杭州古旧書店一九八五年版。

(9)「四明」は寧波のこと、「浮槎」は船のことで、作者は浙江省沿岸の貿易商人と思われる。

(10)易順鼎著『盾墨拾余』巻三所収『討日本檄文』。

(11)二書とも『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五三巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。

(12)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五三巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。

(13)康有為:『上清帝第三書』、『戊戌変法(二)』所収。

(14)康有為:『日本変政考序』。

(15)王暁秋著『近代中日啓示録』、北京出版社一九八七年一〇月版、八八~九〇頁。

(16)詳細は王暁秋著『近代中日啓示録』(北京出版社一九八七年一〇月版)九六~九七頁を参照。

(17)孫文『致犬養毅書』、『孫中山選集』所収、人民出版社一九八一年版、五三四頁。

(18)武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』、「東アジアのなかの日本歴史」12、六興出版一九八九年八月版、一八一~一八二頁。

>>>>>>>> 終 章

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