王勇著『中国から見た日本像』(東京:農文協2000年9月)    >>>>>>>>  目録

第一節 義和団の鎮圧

 百日維新が保守派の画策したクーデターによって夭折してから、中国は貪欲の狼群にびっしりと囲まれた無援な羊のごとく、全身に傷だらけで今にも死にそうな状態に置かれていた。

 そこで、中国各地をわがもの顔でかっ歩する西洋人と、領土割譲だけで余命をのばそうとした清王朝とに、農民を中心とする民衆はついに堪忍袋の緒が切れてしまい、「扶清滅洋(清王朝を助けて西洋人を駆逐する)」をスローガンに奮起した。日本で「北清事変」と呼ばれる義和団運動の始まりだった。

 一九〇〇年八月に北京城を攻めおとした八か国連合軍(オーストリア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、アメリカ)の残虐きわまりない行為は、多くの書物に述べられており、ここでは詳述しないが、焼き払われた頤和園の残骸は今なお「国辱のシンボル」として中国人の心に痛ましく刻まれている。

 明治政府は義和団の鎮圧を東洋制覇の第一歩として位置づけ、八国か連合軍の急先鋒をつとめた。天津から北京へ侵攻する一九〇〇〇人あまりの聯軍に日本軍はその半分近くの八〇〇〇人を占めており、また北京城を攻略した一五〇〇〇人のうちにも日本軍は約半数を占めている。派兵人数の優位で、日本は西洋列強と聯軍の総司令官の座をめぐって激しく争ったことさえあった。

 北京陥落後、城内はまるで強盗の横行する「火の海」と化し、侵略軍は民宅に闖入しては男女老弱を問わず虐殺し、皇宮や豪邸に押し入っては財宝を奪いあい、そして運べない文物や建築などを気が済むまで破壊して放火する。

 日本軍は唯一の東洋人軍隊だから、当初は「もっとも軍紀がよい」と思われたが、その暴行は西洋人をも意外と驚かせた。たとえば、一足さきに戸部(大蔵省)に進入した日本軍は、銀三〇〇万両を略奪したあと、証拠のもみ消しに火をつけて戸部の国庫を焼き払ったという。(2)

 日本にとって義和団の鎮圧はただの口実にすぎず、財宝の略奪もゆきがけの駄賃のようなもので、真の目的は中国領土の占有にほかならなかった。事変後、首相の山県有朋は『北清事変の善後について』の意見書をまとめ、日本の勢力圏を福建省以外の南方にひろげて、中国領土を分割するさいに西洋列強より有利な立場を確保するべしと真意を吐露している。(3)

 八カ国連合軍にくわわった日本軍の暴虐さとその野心は、中国の知識人に大きな衝撃を与えたのである。たとえば、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、中国と日本が運命の共同体を結成するべくつよく遊説してきた章太炎は、義和団事変と日ロ戦争(一九〇四年)をきっかけに、その日本観を悪いほうへと変えていった。

 章太炎は日ロ戦争の二年後(一九〇六)、日本にわたり、当時の日本観をその『東夷詩』に説きあかしている。それをおおざっぱに意訳すると、次のとおりである。

 「少年のころ仁者は日本にあり、風紀はとてもよいと聞いていたが、今は来てみると、伝聞は実状とまったく異なったことがわかった。つまり、全国は日ロ戦争のために軍事国家と化し、財政が危機に瀕したため、孤児まで税金を取られ、盗賊が横行し、男女の風紀が乱れている。」

 章太炎はまたインド人の口を借りて、恩を忘れ義に背き、川をわたれば橋を壊し、白人の手先となってアジア人を侮辱する「アジアの裏切り者」として、日本を容赦なく非難している。そして、こうした痛烈な批判によって、「幻想の破滅」の鬱憤を晴らしているのは、決して章太炎ひとりではなかったのである。

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