HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第二節 孫文の日本観

 隋唐より以来、多くの日本人留学生を受けいれて育ててきた中国は、十九世紀の末期から日本に留学生を送りこむようになった。日ロ戦争をきっかけに、日本留学が大きなブームを迎え、一九〇六年にはその数はおよそ二〇〇〇〇人に達したともいわれている。

 留学生の多くは、西洋列強の魔手から亡国の危機を脱するためには、すでに腐敗しきった封建王朝を覆さなければならぬと悟り、ふたたび明治維新をモデルにして、救亡興国の理想に燃えつつ日本へわたったのである。彼らのなかから、のちに多くの革命家が輩出した。

 一九一一年、孫文を中心とする革命派は武昌蜂起を決行して清王朝の打倒に成功し、アジア初のブルジョア政権こと中華民国を立てた。これはすなわち中国史上に有名な辛亥革命だったのである。

 孫文の明治維新への称賛は、すでに前章で述べた。革命後の孫文も日本への期待がことのほか大きく、一九一三年に全国の平和統一を願って臨時大統領を辞任して日本へわたり、日本東亜同文会の催した歓迎パーティーの席上で、次のような主旨の演説を行なった。

 「今日、アジアの独立国は、日本と中国しななく、東アジアの平和を維持するには、多く日本に期待せざるをえない。日本と中国はじつに兄弟のようなものである。(中略)辛亥革命のさい、列強が中立を厳守したのは、もとより日本の後援があったからで、その助力は甚だ大きい。」(4)

 日本を根拠地にして中国革命を指導していた孫文は、アジア復興のために日本のリーダーシップを嘱望し、革命に成功したを支援して西洋列強に立ち向かってくれるだろうことをかたく信じて疑わなかった。

 「中日親善のもっとも熱心な推進者」と自任する孫文は、至るところの講演会で、中国と日本との「古来の友好関係」ばかりを強調するあまり、日本の中国侵略について「その本心によるものでなく、余儀なくさせられたものだ」と理解を示し、また反日感情をつよく抱いていた留学生らに「日本への憤恨を親愛に変えよう」と口すっぱく説得もする。(5)

 ところが、孫文の期待とはうらはらに、日本政府は中国革命の動きを複雑な心情で傍観し、それに支援するどころか、中国の近代化を日本の大陸進出政策を妨げるものとしてひそかに警戒し、したがって袁世凱の北洋軍閥の政権に力を貸し、中国の南北分裂を促したのである。

 こうして中日平等提携の熱望をみごとに裏切られた孫文は、幻想の破滅にすっかり失望し、そのあまりにも大きかったショックに、日本に対する態度を信頼と賛美から懐疑と非難へと一変した。一九一五年、『陳英士の黄克強に致す書』に按語を書いた孫文は、日本への憤慨の気持ちをこうぶちまけている。

 中国の革命党員は、日本の志士を手本とし、彼らと親善をはかり、日本との提携連合を真摯に提唱していたのに、日本政府は目先の利益しか考えず、中国の成長をふかく忌諱し、とくに国民党が政権を掌握して、彼らの中国蚕食の陰謀を阻止することをつよく警戒し、そこで軍閥を助けて国民党を抑え、中国がいつまでも未開な弱国であることを期待し、自分の汚い野望を実現させようとしている。(6)

 これより以後、孫文の脳裏に、近代化のよき手本、アジア復興のパートナーとしての日本像がすっかり消えさり、かわって西洋列強に媚びる裏切り者、アジア隣国をいじめる侵略者としての日本像が固まりつつあった。

 そして、これは決して孫文個人の思想転換ではなく、祖国を救う真理を求めて日本へわたった革命志士や留学生らの多くも、日本にはせていた幻想をこなごなに砕かされ、その国をふかく恨んで帰国し、中国の新生のために日本との戦いに躊躇なく身を投じるようになったのである。

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