HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録
| 第三節 抗日戦争 |
一九三一年九月一八日、「九.一八事変」つまり日本でいう「満州事変」が勃発して以後、日本の軍部はブレーキがかからずに独走しはじめ、それから一九四五年の日本降伏に至るまでの一五年間は、中日関係史上もっとも「不幸な時代」と表現される。それを中国では「抗日戦争」といい、日本では今「日中戦争」あるいは「一五年戦争」と呼びならわしている。
この時期、日本軍の言語道断な「三光政策」の暴虐な様子は、中国では教科書・マスコミ・戦争記念館などを通して語りつがれ、一方の日本では教科書の改竄・「南京大虐殺事件」の否定・慰安婦問題の回避などによって戦争を正当化しようとする動きが、時として活発になるため、戦争時代につくられた日本像は、今なお見え隠れしているのが現状のようである。
これまでに、中国人が本格的に日本研究に取りこんだのは、倭寇跳梁の時期と百日維新の前後だったと思われるが、抗日戦争中のそれは民族存亡にかかっていることもあって、量質とも前代をしのぐ盛況を呈したものである。(7)
この時期の日本研究の特色は、明治維新研究のように中国の近代化に必要な側面にのみ注目するものでなく、また倭寇研究のように感情論に走りがちなものでもなく、日本人の民族性や精神世界にまで立ち入って鋭い洞察をくわえ、よい面を率直に評価し、悪い面を忌憚なく批判する公平な論調が多く、したがってそれには今日の日本研究に勝るとも劣らない成果も少なからず含まれているのである。
たとえば、一九三七年七月七日に中日両国を全面戦争に導いた「廬溝橋事件」が勃発した翌年、戦火が華北から華中へとひろがる最中、国民党の要職にあった蒋百里は、『日本人--ある外国人の研究』を世に送り、日本の敗戦を予言し、侵略の行為をつよく非難しながらも、「尊敬に値する」日本の指導者として、中国文明を取りいれた聖徳太子と西洋文明を受けいれた明治天皇をたかく評価していた。
このような冷徹な態度で書かれた日本論であるゆえに、そこに描かれた日本像は、六〇年あまり経った今日になっても、われわれの日本像と重なりあう部分は少なくはない。
著者は一九〇一年に日本へ留学し、士官学校の歩兵科で軍事を学んだ。一九〇六年に帰国してまもなく、さらにドイツへ留学し、軍事理論を学んだ。一九三五年に国民党主席の蒋介石から軍事委員会の高等顧問に迎えられ、『日本人--ある外国人の研究』を世に問わせたころは陸軍大学の学長代理をつとめていた。
この短冊は文学的な表現を用いながら、日本人の国民性をふかく掘りさげて分析し、侵略戦争は必ずや日本の悲劇に終わるだろうと予言し、その根拠を日本人の民族性と自然環境とに求めている。
蒋百里は「花は桜木、人は武士」という言いまわしを借りて、日本人の矛盾する内面世界の二重構造を指摘し、そして人種と風土とに由来する無常・宿命・短気・凶暴といった性格はつねに悲劇の運命を招きかねないと結論づける。
つまり、日本人は国難を口にしながら戦争を引きおこし、中国を侵略しながら東アジアの共栄を呼びかけ、外国人を崇拝しながら欧米に嫉妬し、東洋文化を自賛しながら西洋から何もかも取りいれてしまう。
著者の分析はさらにつづく。王権と民権、暗殺と守法、文治と武功、国粋主義とアジア共栄、東洋文化と西洋文化、これらの矛盾に挟まれた日本の政治家らは「毎日のように火山のうえを踊っているものだ」という。
抗日戦争中の日本観として、共産党の指導者である毛沢東の論述も見逃せない。毛沢東の日本観は『日本帝国主義の策略に反対するを論ずる』や『持久戦を論ずる』などの論文に述べられているが、熊達雲はその要点を以下のようにまとめている。(8)
(1)日本が侵略戦争を引きおこした原因は、資本主義国家の経済恐慌と国内政治支配の脆弱といった危機を対外戦争によって転嫁させるものだとぶんせきしたこと。
(2)中国革命の直面する最大な敵は、当面かつての西洋列強ではなく、中国を植民地にしようとする日本の帝国主義なのだと指摘したこと。
(3)日本人民と軍国主義とをはっきり区別し、抗日戦争の勝利は、偉大な日本人民の覚醒と闘争にもかかわっていると述べたこと。
(4)侵略戦争の後進性および日本の人力・兵力・財力の欠乏を見きわめ、持久戦を行なえば、中国は必ず最終的な勝利を勝ちとるだろうと予言したこと。
抗日戦争の時代、中国の民衆は一般的に日本人のことを「倭寇」とか「倭奴」とか「鬼子」と呼ぶようになり、日本人のイメージを倭寇跳梁の中世あるいは未開の弥生時代にまで後退させた感がある。ただし、「倭寇」と「倭奴」以上に、「鬼子」の呼び方には軽蔑と憎悪の心情が重くのしかかっている。恐怖感よりも必勝心のほうが大きいと思われる。それが今日の日本像にもつながっている部分があるといわざるをえない。