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| 第二節 多重映しの日本像 |
このように、もし石原道博教授の「中国における日本観の展開」連作に、武安隆・熊達雲二氏の『中国人の日本研究史』、さらにアレン・S・ホワイティング博士の『中国人の日本観』をつなぎ合わせれば、秦漢時代から現代に至るまでの日本像は、ほぼ首尾よく収まっている。
ところが、これまでの日本像研究は、時代区分にこだわりすぎ、あたかも中国の王朝が変わると、必ずや日本像もがらりと塗り替えられるといったような印象をわれわれに与えるのである。しかし実状はそうとは限らない。
中国文献に描かれた日本像は、時代ごとの特色を保ってはいるものの、前代の映像がつぎつぎと重なりあうように後世のそれに影を落とし、その結果は多重写しの複雑な構造をなしているのである。つまり、日本像の形成変遷の軌道は、必ずしも王朝交替のリズムと同調せず、独自な成長曲線を描いているのである。
さまざまな日本像が交錯しているなかで、各時代の日本像の基幹となって変わりにくい像があれば、一時的に出現してすぐに消えさってしまう像もある。また姿を変えながら、何度も生まれ変わって現われる像さえある。
たとえば、「神仙の郷」というイメージは、もっとも初期の日本像につきまといながら、前近代まで持続していた。古典的な名著とされる『日本国志』を著わした黄遵憲は、その序言において一衣帯水の隣邦日本をあたかも「海外の三神山」のごとく眺める知識人の無知をなげき、執筆の動機を述べている。ただし、「神仙の郷」は日本から直接に受けとったイメージではなく、古来より東方にまつわる神話伝説をそのまま「東の国」日本に移入したものにすぎない。このイメージが近代になって破滅するとともに、中国人は何千年もの間に東方へ馳せていたユートピア幻想を棄てなければならなかったのである。
中日関係の「蜜月」ともいわれる唐宋時代には、複数の日本像、たとえば「宝物の島」「器用な民」「礼儀の邦」「好学の士」などが混在していた。そのなかに、『旧唐書』(倭国伝)の記述するとおり、「その人、入朝する者は多く自ら矜大にして、実をもって対えない」という嘘つきのイメージ、また『癸辛雑識』に述べられた日本人の淫乱なイメージなどがあったもの、それらはいずれも個別的な例であり、唐宋時代には日本像として普遍性がなくパターン化しなかった。
それに対して、いったんパターン化した日本像は、それ自体が長く持続するのみならず、新しい日本像を生みだす再生機能のある生き物となる。たとえば、「神仙の郷」から「君子」と「仙薬」が派生し、「君子像」はまた「好学の士」に生まれ変わり、「仙薬」は「宝物の島」につながるのである。また一方、「倭寇像」は甲午戦争(日清戦争)、八カ国連合軍(北清事変)、抗日戦争(日中戦争)など、中日関係が悪化するたびによみがえるのである。
このように、どの時代の日本像も、われわれが想像しがちな一色塗りの図像ではなく、さまざまなイメージが交錯する多重映しの立体画像なのである。しかも、それぞれの単色画像が記憶メモリとなって蓄積し、王朝の交替と関係なく持続しつつ、いつでも新しい日本像にその姿を映しだすことが可能である。
右のような認識に基づいて、本書は上古から近代までの日本像の形成史をたどるものであるにもかかわらず、あえて王朝交替による時代区分にこだわらず、王朝をまたがって絶えず変幻する日本像を、新しい日本像の合成にみずからを再生できるいくつかの基本パターンにわけて、それぞれの生成軌道をなるべく追跡してみた。
本書にスポットをあてられた日本像は、歴史的にはある程度の自己完結を達成したものばかりでなく、多少なりとも現代の日本像にも影を落としたものである。それには、礼儀正しく振舞う君子像があれば、日本刀を振りかざす倭寇像も見え隠れする。また「好学の士」として映れば、「残虐な敵」としてもクローズアップされている。
これらの日本像のパターンを叙述するにあたって、なるべく個人的な感情を入れずに、各時代の文献から日本関係の記述を忠実に引用し、それらを客観的に分析するようにつとめたつもりだが、人間の行なう作業だけに、史料の選択や文献の解釈などに、筆者の日本観がまったく投影されていないという保証はない。いずれ読者の判断に委ねよう。