司会（原田常務）　王勇先生をご紹介します。王勇先生は私どもがすっかりお世話になっている先生で、中国の浙江大学日本文化研究所の所長をなさっておいでです。農文協の中国との文化交流活動にたいへんなご協力をいただいており、またこの方面の文化財では編集部の先頭に立ってご支援いただいているわけです。

　ここに展示してある本は、浙江大学日本文化研究所と農文協の提携作品です。簡単に紹介しますと、まず、これは王勇先生が日本語で書き下ろしされた人間選書『中国史のなかの日本像』です。古代から現代までの中国における日本像の変遷を、貴重な図版とわかりやすい文章で解説された、たいへん勉強になる本です。それからあとの三冊ですが、『東洋的環境思想の現代的意義』は、浙江大学日本文化研究所の前身である杭州大学日本文化研究所が主催した国際シンポジウムの記録です。『江戸・明治期の日中文化交流』は、浙江大学日本文化研究所が創立十周年を記念して行なった国際シンポジウムの記録。『奈良・平安期の日中文化交流』は、王勇先生が一年間客員教授をなさっておられらた国立国文学研究資料館で主宰された研究プロジェクトの成果をまとめていただいたものです。この本はたいへん難しいのですが、王勇先生がお書きくださった解説によって、書物を介した文化交流のすべてがわかるというすばらしい本になっています。皆さんもたまにはこういう本を読んで勉強していただきたいと思います。今日はこの本のサブタイトルにもなっている「ブックロード」についてお話しいただけることになりました。

　皆さんシルクロードはご存じでしょう。シルク、絹を介した中国とヨーロッパの交流です。ところが中国と東側、韓国とか日本とか、そういう東アジアにはもう一つの別のロード、交流があった。それはいったいなにか。西側へのロードが担ったのは物質の交流ですが、東側のロードを介して行なわれたのは精神の交流であるという。その精神を乗せたものはブック、本ですね。だからブックロードというわけです。これは王勇先生の創見になるユニークな学説です。それでは王勇先生、よろしくお願いします。 

.▼ブックロードの仕掛け人と名付け親

王勇　ただいまご紹介に預かりました王勇と申します。本日は農文協の皆さんにお話しさせていただく機会を与えられ、たいへん光栄に思っております。

　そちらに並べてあります本は、著者は私どもとなっていますが、編集を担当された泉さんが、だいぶ手入れをされたもので、私の日本語のレベルは、決してこんなハイレベルではありません。そして、わたしの話す力が書くことよりさらに劣っていることを、まず皆様にお断りしておきたいと思います。

　私の書いたものには、文法などに少なからず間違いがあると思います。日本語で文章を書くことにだいぶ慣れているとはいえ、「は」とか「が」または「に」とか「を」とかに迷うことがほんとうに多いです。そういうところはおそらく泉さんがいろいろと直して下さったと思います。

　口頭で発表するときに、わたしが一番怖がるのは、今そこで不気味に動いている録音機ですね。まちがいも全部そのまま入ってしまうから、ちょっと心配です。

　私と農文協との縁は本によって結ばれている、と、この一言につきると思います。ここに本がずらりと四冊ならんでおりますけれども、うちの研究所のスタッフがかかわっている本は、このほかにもまだ何冊かあると思います。また、これからも増やしていきたいと思います。これらの本によってもなにかひとつ目に見えるようなルートですか、このブックによる道、中国と日本とのあいだを本によって結んだ道、つまり文化交流の道が開かれているなあと感激しております。

　このように私どもと農文協は本の縁によって結ばれているわけで、私の感想では、農文協はまさに現代のブックロードの仕掛け人という印象をもっています。一方、私はこのブックロードの名付け親といいますか、最初にいい出した者というわけです。

　今回も本来は、農文協にいろいろお世話になっているから、帰国のあいさつに参りたいと連絡を入れましたら、何か話さないかというお申し出がありました。ブックロードの仕掛け人と、ブックロードの名付け親とのあいだでどんな話をしようかとなれば、自然にブックロードということに落ち着くわけで、今日はこれから皆さんの貴重な時間をいただきまして、ブックロードについてお話しをさせていただきたいと思います。

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.▼シルクロードとブックロード

　このブックロードという言葉は、字面からもおわかりになると思いますが、シルクロードと関係が深いものです。正直のところ、私はシルクロードを意識して、この言葉、用語をつくりました。

　シルクロードといえば、これは皆さんご存知のとおり、十九世紀末ごろにつくられたものです。最初の提唱者は東洋人ではなくて西洋人、ドイツ人ですね。リヒトホーフェンさん、このリヒトホーフェン博士は地理学者ですが、今の、まだ戦争の煙が消えていないアフガニスタンあたり、要するに中東あたりの砂漠の道を、中東の砂漠を通るラクダによる貿易の道を「シルク街路」と称したのがシルクロードという言葉の始まりです。

　だから最初は、第一にシルクロードは中東に限られる非常に短い道であること、第二にシルクロードによって運ばれる物は商品に限定されること、この二つが要件です。つまり文化とは全然関係のない貿易の道です。だからシルクロードを行き交う主役はどちらかといえば商人です。文化人ではありません。

　その後、この概念が次々と広げられ、結局、東は中国の長安（現在の陜西省西安市）にまで伸びていき、西はシリア、さらにはローマ、ヨーロッパ全体に広められていくわけですね。今はシルクロードといえばこれだけではありません。海のシルクロードといって、さらに長安を中心に、また中国を中心に南、東、北までカバーし、言い換えればシルクロードは世界全体、人間と物資の交流があるところはすべてシルクロードでひっくるめて表現されるという傾向さえあります。特に中国と日本とのあいだは海のシルクロードといわれています。これを取り扱う研究書は中国にも日本にもあります。

　去年の十二月、奈良市のシルクロード財団が隔年に開く国際シンポジウムに参加しました。私はこの国際シンポジウムに二年前に一度出席し、その後は組織委員に任命されました。同じ委員会のメンバーに大庭脩教授、池田温教授、東野治之教授など遣隋使や遣唐使を研究している顔ぶれが並び、そういうご縁で今回は「シルクロードをかける遣隋使、遣唐使」というテーマで、奈良と福岡で行ないました。その奈良と福岡の二つのシンポジウムのあいだに中国のニンポー（寧波）でも海のシルクロードの学会がありました。

　私は二つの学会とも司会を任され、発表はしませんでした。奈良の学会が終わると中国に飛び、また福岡に飛んでという感じで、まさに私が海のシルクロードを行き来しているような、タイムカプセルに乗っているような経験をしました。

　といいますのは、中国では海のシルクロードの出発地をめぐって激しい論争といいますか、ケンカといえば品がありませんが、こっちだ、いやこっちだ、いや違うというふうに、各地が本家争いをしているありさまです。浙江省のニンポーはニンポーこそが本家だという。山東省は、間違いなくチンタオ（青島）だと出張する。さらに南ですと福建省にチュエンヂョウ（泉州）というのがあります。いや違う、チュエンヂョウは出発港なんだと、まさに諸説紛々です。このように海のシルクロードの出発地を自称するところは、中国に五、六箇所以上あります。

一方、日本では割と安定しています。最初、一応の終点は福岡といわれていましたが、今は奈良です。このように中国と日本との間にもシルクロードが存在しているという常識があります。

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.▼宝物としての正倉院文書

　しかし、実際シルクロードの終点といわれる奈良、とくに「シルクロードの博物館」と称される正倉院などに行きましてもシルクを探し出すのはたいへんです。あまり残っておりません。正倉院のメイン宝物といえばシルクではありません。それはもう常識です。たとえシルクは残っていてもすでに風化した破片にすぎません。大した価値はありません。それよりはむしろ陶磁器とか金属器とか、さらに一番価値があるのは書物です。正倉院文書ですね。その一部である『聖語蔵』＜しょうごぞう＞は『隋経』や『唐経』および奈良・平安・鎌倉の古写経その他をふくむ約五千巻の経巻を有するのです。

　ちょうど去年の十一月頃、私たちの学会（「シルクロードを翔ける遣隋使·遣唐使」）が行なわれる直前に、奈良の国立博物館で「正倉院展」がありまして、驚くべきものが出品されていました。これはある仏教経典、『聖語蔵』に入っている経典なんです。『聖語蔵』は今、日本の丸善がＣＤ-ＲＯＭ化しております。全部ＣＤ-ＲＯＭ化するには十年間もかかるそうです。ものすごい量なのです。その『聖語蔵』のなかからその一部が展示されていました。

　この展示品は新聞でも大きく取りあげられ、たいへんな話題になりました。これは「唐経」に分類される古写経です。要するに印刷物ではなく人間が筆写したものです。中国で写経したものを遣唐使たちがそのままもち帰ったものなのです。

　その書写年代に「顕慶四年」（西暦六五八年）と記されています。顕慶四年というのは、玄奘三蔵がインドへ行って経典をもち帰り、中国で翻訳して、ちょうどこの経典の翻訳作業が進められた年なのです。そうすると、従来疑問に思われていたのは、インドの仏教が中国で翻訳されると、もとの本、インドの梵語で書かれた現物がほとんど残らない。翻訳の草本というのですか、最初のオリジナルはほとんど残っていません。この同じ年に、翻訳の途中なのですが、清書される前の草本が日本にあるとは、驚くべき事実です。これは当時、玄奘三蔵のところに日本の遣唐使に加わった留学僧の道昭が学びに行っていたのです。道昭が玄奘三蔵と同じ部屋に住んでいると『続日本紀』には書かれています。しかし、これまでは研究者の多くは嘘だ、嘘だといって信じていませんでした。けれども、このお経が出てくると、どうも歴史の本を馬鹿にしてはいけないことを教えてくれたような気がします。いつ証拠が出てくるかわからないからです。現に道昭が玄奘三蔵が訳したものの草稿をもち帰ったという証拠が、今このように奈良で見つかったわけです。

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.▼シルクと東西のシルクロード

　中国との交流で残った最大な遺産とはいったい何でしょうか。これは前にもいいましたようにシルクではありませんね。これからこの仮説を裏付けていきたいと思います。

　たしかに、中日文化交流史において、シルクロードの存在は無視できません。シルクロードによって運ばれるシルクつまり絹は、中国が発明した代物、大発明なわけですが、これは西だけではなくて東にも南にも北にも伝わった、広まったわけです。このシルクが世界文明に与えた影響は、はかり知れないものがあると思います。

　一つの発明が世界的に広まったというのは、日本に即していえば、扇子でしょうか。扇子、あるいは俳句もそうかも知れませんね。案外知られていませんが、俳句という日本的なものですが、これが世界に広まっています。一九九〇年に日航財団が「世界こどもハイクコンテスト」を主催したところ、上海と北京から九五〇〇句の応募がありました。これには驚きましたね。全部で二六ヶ国（地域）から六万句も集まったのです。そのなかから選ばれた秀作は『地球歳時記’９０』（学生社、一九九一年）に収録されています。このように世界的な普及というか、一つの国が世界的に貢献できるものはそんなに多くはありません。

　シルクは中国が自慢できる、誇りに思うものの一つに違いません。しかし、それを運んだシルクロードですが、中国と西側のあいだのシルクロードと、中国と日本とのあいだのシルクロードとは、まったく同じものであるとは限りません。

　では、その違いはどこにあるかといいますと、中国と西側を結ぶシルクロードは砂漠を横断する砂漠のシルクロード、砂漠の道といわれています。一方、中国と日本は海を隔てておりますので、海のシルクロードになります。このような差があるというふうにいわれますが、私はこれはあくまでも現象面でのちがいであり、もっと本質的なちがいが東西のあいだにはあるはずだとかねてより思っていました。

　東の方はどうかといいますと、ラクダは海を飛んでいけませんから船ですね。ラクダというのは個人技みたいな感じです。船というのは一隻何人くらい乗れるかね、百六十人くらいですか、四隻ですと六百人くらいの集団になります。ですから集団の規模もちがいます。

　それと海を渡って行くわけですから到達時間が非常に短いですね。船で行きますと十日間くらいが勝負です。もし一ヶ月かかっても目的地に届かなければ、これはもう届く見込みがないということ同然です。

　ここですこし歴史研究者の学説について脱線させていただきます。歴史研究、とくに古代史の研究では、新しい史料の発見はなかなかありませんから、私は他の人が使った用語や概念になんらかの疑問をいだいて新たな解釈を与えるように日々精進しております。

　たとえば日本の本ですと遣唐使は洛陽をめざし、長安をめざして出かけるとよくいうのです。しかし日本の中世末期あるいは近世になっても、日本から中国に行くのはどういうことかといいますと、ある先生の言葉を借りますと、日本から中国に行くときには要するに小さな島から、象、あのからだの大きな象に向かって行くようなものだと。象のどこにたどり着くか、象の足に触ったか、鼻に触ったかわからないけれども、とにかく象の巨体のどこかにたどり着けばいい。それは一種の運命にまかせた漂流なわけです。実際そうなんですね。

　一番怖いのは中国から日本に帰るときです。行くときには相手は象ですから目標が大きい。帰るときは、これは日本の方の用語で申し訳ないですが、ネズミといっていましたね。小さなネズミのような目標をうっかりはずしたら、あとは大海原のみで、たどり着くところがない。はずしたら大変です。

　このような海路による交流は二週間くらい、早いときは一週間でたどりつく。しかし砂漠ですと確実ではないけれども、だいたい数ヶ月もかかってしまう。これは長いですね。数ヶ月もかかって出発点から終点にたどり着く。文化の面からいいますとだいぶ情報が古くなる。しかし、確実にたどり着く、こういう差があります。

　両者のちがいはそれだけにとどまりません。実際ヨーロッパ人は、シルクを日本とだいたい同じ時期、紀元前から中国から輸入していました。しかし、ヨーロッパ人はシルクがどのようにつくられるのか知らなかったのです。おそらく五百年間知らずにいました。

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.▼神秘の糸・シルク製法のなぞ

　ヨーロッパの本で、古代ギリシア、古代ローマのシルクに関する記載を調べてみましたが、面白い事実を発見しました。たとえば、シルクはどこから出てきたかについて、これは非常に奇妙なもので、どこからきたかというと、羊の木から生まれてきたというのです。明らかに遊牧民的な発想ですね。要するに遊牧民は布類は羊毛から作る。したがって、シルクと羊毛とは違うものではあるけれども、シルクも羊みたいな木から生まれたものだと勘違いしてしまうのです。ヨーロッパの本には具体的な製造法までくわしく書かれています。

　さすが木の形が羊に似ているかどうかは書かれていませんが、葉っぱ一面に白い毛がいっぱい生えています。それを水で流して集めるのですね。羊毛を集めてその羊毛を布に紡ぐ。そこまで書かれています。このような羊毛樹伝説は、ヨーロッパでは多くの文献に語られています。シルクは東洋的な不思議な産物として、彼らの熟知する羊と関連づけて書かれているのです。

　ヨーロッパでシルクの製法がようやく知られたのはそれより五、六百年後、正確にいいますと五五一年のことです。この年、二人のインド商人、一説には二人のペルシャ商人が、商売で東ローマのビザンチン、今のトルコにあった東ローマ帝国、古代ローマ帝国が西アジアにつくった中世まで続いたローマ帝国をビザンチン帝国ともいうのですが、そのビザンチン帝国にやってきました。

　当時の東西貿易で一番利益をあげられるのはシルクです。有名な話ではローマの貴族たちが大きな劇場に行く、そのとき婦人、貴婦人たちは色鮮やかなシルクを体に纏って行きます。シルクを着た貴婦人が劇場に入ると観客の目はいっせいに舞台から貴婦人へと注がれる。現代的な感覚では薄いとか透かしがいいとかいう説があるようですが、古代ローマ人の美意識はもっと上品なものだったのではないでしょうか。

　このようにもてはやされたシルクですが、このシルクは取引されるとき天秤ではかり、黄金と同じ目方で交易されるという記録があります。今のように何メートルでいくらという次元のものではなかったのです。シルクの生地を天秤の片方に乗せて、反対側にそれと同じ目方の黄金を乗せ、それで公平に交換するのです。わたしはシルクの産地江南の出身ですが、この時代に生まれたらよかったですね。今はだいぶ安くなりましたけれども。

　こんなわけで、当時ヨーロッパの人々はなんとかこの魅力的なシルクを入手したい、早く入手できる方法を把握したいと必死に考えていました。そこで、このインド人ともペルシャ人ともいわれる商人たちは、うまい話をビザンチンの皇帝にもちかけたのです。

　じつは、これは少し話し漏らしましたが、紀元前後には先ほどの羊毛樹ですか、羊毛から生まれてきたという伝説が、だいたい三、四世紀ごろにはちょっと変わりまして、中国でのシルク生産の事情がなんとなく察知されたようです。

　このクモのような昆虫というのはセルというのです。その時代の中国人はセリスと呼ばれていました。このセルという昆虫は中国にしか存在しない桑の木の葉を食べてそこから絹の原料となる糸を吐き出します。しかしこの事実は三、四世紀になってもヨーロッパ人には知られていなかったのです。

　ところで五五一年、六世紀半ばごろのビザンチン帝国に話を戻します。二人の商人は、ビザンチン帝国の皇帝ユスティアヌス一世に向かっていうのです。「このセルという昆虫の卵を入手できれば、あなたはいくらでもシルクを生産することができます」と。すると王は高い懸賞金をかけ、「もしその卵をもってくるなら膨大な懸賞金を与える」と約束しました。そこで二人は中国に潜入し、杖の頭を細工して、その中にこの蚕の卵を隠してビザンチン帝国にもち帰りました。これが蚕の秘密がヨーロッパ人に明かされたはじまりです。それより以後は西洋でも養蚕が行なわれ、シルクの生産ができたという話です。しかし、できるのはもっとあと、七世紀頃でしょうかな。このように西洋ではシルクを受容してから生産できるようになるまで、おおざっぱにいうと千年近くかかったわけです。それはそれは長い時間がかかりました。

　ところで先ほどの羊毛樹の話ですが、私が中国でそのことを話したら聴衆者らがどっと笑い出しました。いや本当は笑っちゃだめです。じつは古代の中国文献にも、西洋の羊についての伝説が書かれています。羊といったら、肉は食べられるし、皮は服装にできるし、毛も服装にできるし、皮は紙としても使えるし、たいへん用途の広いものだ。さて、羊はどこから生まれてくるのか。中国の農耕民の発想で、羊というのは種をまいて土から生まれてくると考えました。「地生羊」というか、地から羊が生まれるという伝説がはっきり書かれているのです。まるで植物の根のように、生まれてからも臍の緒が大地につながっていると信じられていました。だから中国もヨーロッパも相互理解においては五十歩百歩というところです。

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.▼シルクの日本伝来と生産

　砂漠のシルクロードの事情はおおむね以上のとおりです。とにかく誤解だらけですね。一方、日本と中国の事情はどうかといいますと、おそらく日本にもヨーロッパと同じ頃にシルクが伝わったと考えられます。

　しかし、日本は早くからシルクを生産できました。弥生時代の遺跡からも疑問のないシルクの遺品が出土しています。それも一、二点のレベルではありません。九州の複数の遺跡から出土しています。

　さらに文献資料では『後漢書』とか『三国志』を見ますと、当時は日本人を倭人といっていますが、そこにはっきりと「蚕を飼い、桑を植え、織物を紡ぐ」と書いてあります。「魏志倭人伝」は私より日本の方のほうがよくご存じだと思いますけれども、はっきりとそう書かれています。

　要するに当時の日本人は、すでに桑を植え、蚕を飼い、それでシルクを生産することができました。ヨーロッパよりは、ざっといって何年ですか、ヨーロッパには製法が五五一年に伝わり、実際にできるのは七世紀ですね。そうすると、六百何年ですね。日本ではだいたい紀元二百年前後にはすでに生産できていました。いつ始まったのかまだわかりませんけれども、少なくともヨーロッパより五百年も先にできたというわけです。

　さらに驚くのは、この弥生時代後期、卑弥呼が数回にわたって中国に使節を派遣しました。中国からいろんな物をもち帰ったけれども日本からも持っていったものもありました。どんな物をもって行ったかといいますとシルクですね。「魏志倭人伝」の記録を見ますと「倭錦」という、倭の錦と書きますが、日本産のシルクを携えていったのです。日本の産物にわざわざ「倭」をつけるのはこれが最初かもしれません。おそらく「日本的な物」ということを強調したく「倭」をつけたのでしょう。「やまとのにしき」と読むのか「わきん」と読むのか迷いますけれども、「ジャパンニーズシルク」という意味です。

　その意味の一つは従来見なれないもの、もう一つはいろいろな種類が入っているもの、見知らぬ種類、いろんな種類が入っているものといった感じです。つまり異文雑錦という場合は単一の種類ではなく、倭国の使者が複数の種類のものを中国にもって行った、輸出したという結論にたどり着けると思います。  

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.▼東と西・文化と文明

　以上のような簡単な比較でも、同じシルクロードといっても、西はあくまでも絹の道、絹物の道、東は養蚕の道、蚕と桑の道とわかれるわけですね。で、この二つにはどのような違いがあるかというと、これは大きな違いです。

　絹は絹を生まず、自らを再生しません。しかし蚕は蚕を産みます。この違いなのです。すなわち絹織物に代表される物質文明は文明を再生できません。ヨーロッパでは中国の絹物をファッションとして着ていてもそれを生産することはできないのです。つまり、そのシルクを支えている文化は、西洋には伝わりません。ヨーロッパには伝わりませんでした。

　一方、養蚕の技術に代表されるような無形文化財というのですか、形はないですけれども、いや、形がないからこそ形をつくれるというわけですね。そこから精神的なもの、精神文明は文明を何度も何度も再生できます。再生できるか再生できないかという点について、わたしが「再生」という言葉に特別なニュアンスをしみこませているから、友人との議論で両者の相違をもっとわかりやすく説明してくれと迫られたことがあります。

　簡単にいいますと米と稲の違いです。米がヨーロッパに毎年何百、何万トンと輸出されても、食べ尽くされたらそれで終わりです。しかし、稲の粒ただ一粒でも日本の土に落としたら、どういうことが起こるでしょうか。一粒の稲の種が日本の土に根を下ろしたら、それが稲として生産され自分をコピーしていきます。そしてやがて稲の田圃ができる。さらに稲を食べる習慣ができる。稲を生産する技術が生まれる。こうして稲作文化というのが定着するわけですね。だから米を絹物にたとえるならば、この稲は蚕ですね。蚕にたとえてもいいと思います。 

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.▼決死の留学生

　いつも思うことですけれども、ほんとうに不思議なのは、中国と日本との交流において一番の黄金時代は唐の時代、遣唐使の時代です。しかし実際に調べると、唐代に中国と交流している国で、日本ほど交流のとぼしい国は少ないのです。

　端的にいいますと、今のアフガニスタンやイランあたり、ペルシャとアラブですね。このあたりは、多いときには使節が年に数回以上も遣わされるわけです。一年にですよ。一方、日本とは二十年に一回です。二十年に一回だから、つぎの派遣はだいたい次世代になりますね、生きいてるあいだに二回行くのはちょっと無理ですね、当時の寿命をだいたい六十歳と考えると。だから遣唐使と一緒に行った留学生が一度帰国のチャンスを逃したら、あわせて四十年も待たされることになります。

　つまり中国に送り込んだ青年は、たいてい老人になって帰ってくる。杖をついて帰ってくるというと文学的な想像に陥ってしまうのですが、たとえ帰国できてもそんなに長く活躍できないのも事実であるかもしれません。それから、留学生を十人送っても帰ることができるのは、せいぜい数人です。全員帰国はほとんど望めません。だから留学生が少ない少ないといわれていますが、帰る人数が少ないから、そう思わせたにすぎないとそう憶測します。

.▼最小の交流・最大の継承

　私がいつも思うのは、日本との交流はこんなに少ない、平均して二十年に一回しかないのに、なぜ密接な文化関係を有するのかということです。朝鮮半島との使節往来はほぼ毎年です。歳貢〈さいこう〉といって、朝鮮半島から毎年使節を派遣しないと、逆に中国から送りこまれます。ただし中国が送りこむのは使節ではなく軍隊です。臣下の礼をつくさないとこちらから軍隊を送りますよという、こんな恥ずかしい時代がありましたね、今はもちろんないですけれども。

　これくらい緊密な交流がありました、毎年ですよ。だから朝鮮半島の留学生が中国に留まったまま帰らない。困った中国が帰らせる方法を考えて、不法滞在者や時間超過者などを調べるといっぺんに二百人くらいを帰国させたという時期がありました。日本人はこのように取り調べられたことはないですね。

　中国の大学（太学）に留学していた新羅の学生は、多いときには百人以上、日本人は遣唐使時代を通しても一人しかいません。これくらいの差があるのです。量でいえばね。しかし、それにしても日本より数倍、あるいは数十倍以上、中国と密接な交流をしていた国、たとえばアフガニスタンに行ってみてください。イランに行ってみてください。中国的な文明がありますか。ほとんど跡形もないでしょう。そこらに中国と異質な文明が続いています。一方、日本は中国と直接な交流はあまりなかったのに、どうして中国と似たような文明が生まれ、それが続いてきたのか。東アジア的な文明ですね。私はこの疑問をつねにもっています。本当に不思議ですね。

　おそらく一般の人の常識では、中国と日本の交流が多いからこういうことになったと思われるでしょう。当時中国と交流していた国は五十くらいありました。これは名前だけの国もあり、実体をともなう国といえば、だいたい二十くらいです。二十くらいのなかで交流がもっとも少ない国に日本が入るんじゃないですか。当時は琉球もアイヌも一つの独立国、国の単位として数えている。しかし、アイヌ人は独自で中国へたどりつく道を知りませんから、日本使にしたがって一回行っただけです。こういうところを消していくと、今でも国のかたち、文化的伝統があるところは二十くらいになります。そのなかで中国との交流が一番少ないのは日本だと思います。こういう条件のところにどうして中国ともっとも密接な文化関係が生まれてきたのでしょうか。その関係の緊密さは、極端ないい方をすると中国国内の辺境地域よりも緊密なのです。

　一例をあげますと、今の雲南省。当時は南詔という半独立国でした。チベットと同じです。チベットは吐蕃といっていましたが、雲南省も独立した国。日本と中国の文化関係、これは当時の中国とチベット、中国と雲南省よりはるかに緊密で時差が少ないです。たとえば、チベットの人はほとんど漢字が読めません。チベット人で当時ほんとに漢字が読める人は極少数にすぎません。

.▼中日交流を代表するのは書物

　代表するものというのはなにか。陶磁器でしょうか？　陶磁器でもなさそうですね。中国と西側の場合は確かにシルクです。シルク以外には陶磁器。今のチャイナという言葉はヨーロッパでは陶磁器という意味です。それからジャパンというのは漆物ですね。電子ブックで調べたら、「ジャパン」と入力しても日本がでてこない。でてくるのは「漆器」と「漆を塗る」の二項目だけです。「チャイナ」を入力して翻訳ボタンを押してでてくるのは、「陶磁器」と「瀬戸物」しかないですよ。陶磁器が世界に広まったのはシルクのあとなんですね。

　中国と日本とのあいだはなにか。すなわち日本の文化、文明に大きな影響を与えたものはなにか。私は絶対シルクではなく、陶磁器でもなく、なんなのか、結論を言わせれば、書物だと思います。で、その理由をちょっとあげてみます。

　まず中国と日本との交流、貿易でシルクがメイン商品になったことは前近代にありませんでした。当時、中国の西側ではシルク商人という特別な集団がありました。シルク商人、もっぱらシルクの商売をする集団ですが、そういう集団は日本には存在しませんでした。

　また、中国から日本に運ばれたものを調べると、重さからいうと陶磁器でしょうね。種類の多さからいいますと漢方薬かもしれません。漢方薬、食材を含めて漢方薬の種類が多いようです。江戸時代になると中国船の積み荷商品が全部記録されているケースがありますから、それを調べたことがあります。シルクの種類も少しはありますが、やはり重さでいいますと陶磁器が多い。種類は漢方薬が多いですね。また値段の高いものといえば書物なんですね。コストからいえば、本が一番高いといえるかもしれません。

.▼シルクは日本の輸出品

　話が変わりますけれども、遣唐使たちが中国に行くにはもちろん費用がかかるわけですが、当時は貨幣としてなにを中国にもって行ったのか、皆さんご存じでしょうか。

　銅銭でしょうか。中国では貨幣の起源が古く、唐の時代、実際に銅銭は流通していますけれども、唐に限っていえば、貨幣よりもまだ物々交換がさかんに行なわれた時代ですね。つまりシルクの貨幣としての機能がまだ十分に生きていました。

　その観点から遣唐使の史料に注目しますと、日本の遣唐使は六百人くらいでしょう？　一人ひとりに政府がお金を支給します。日本の政府が遣唐使全員に支給するお金はただ一つ、シルクをふくむ織物類です。これだけです。全員シルクなどの織物類です。また大使とか身分の高い人には黄金も少し与えられます。黄金は貴重ですからね。水銀の例もある。これは少数。要するに六百人全員に配るお金はシルクなどの織物類です。これは日本の記録、『延喜式』という書物にはっきりと書かれています。

　実際に中国に行った円仁〈えんにん〉が、中国に十年間滞在して、『入唐求法巡礼行記』〈にっとうぐほうじゅんれいこうき〉を書きましたが、その日記を見てもわかります。たとえば写経をお願いします。本を写してもらう。謝礼はシルク。お寺で仏画を模写してもらう。この謝礼もシルクです。黄金は、砂金といってごく少数の場合に用いられる砂状の金ですが、この黄金以外の一番メインな貨幣はシルクでした。だから日本のシルクは貨幣として中国にもって行かれたわけです。

.▼本を買いあさった遣唐使

　三番目の理由は、遣唐使たちが中国に行ってなにを求めたかということから説明できます。それについて面白い記録があります。中国の『新唐書』と『旧唐書』〈くとうじょ〉、つまり唐王朝の歴史を書きしるした「正史」、日本でいいますと勅撰史書ですか、『日本書紀』とか『続日本紀』〈しょくにほんぎ〉とか、日本では六国史〈りっこくし〉というのですが、この六国史にあたるような唐の歴史を書いた本を調べますと、遣唐使についてこう書かれています。

　遣唐使はほかの外国の使節と一緒に、中国の皇帝に一月一日、元日に朝賀の儀がありまして、それぞれが持参してきたみやげものを貢ぐわけです。それに対して中国の皇帝は褒美として貢ぎ物の数倍から数十倍の値段のものをお返しとして下賜するわけです。年に数回も中国にやってくる西域の商人使節はこれがねらいなわけですよ。

　中国の皇帝は昔から面子〈めんつ〉を重んじる。中国人は実よりも面子を重んじる民族だといわれますけれども、弁解のしようもないですね。外国使節が「あなたさまが世界で一番偉いです」と持ち上げると、中国の帝王はいい気になってたくさんのものをふるまう。だいぶ思い切って下賜したらしい。問題は、その下賜したものですが、中国では主として三種類だったと思います。陶磁器とシルク、それに調度品、金銀の器みたいなものですね。おもなものはこの三種類だと思います。

　こうして西から来た遣唐使、アラブやペルシャの遣唐使たち、遣唐使といっても商人ですが、彼らはこういうものをシルクを中心にもち帰るのです。

　問題は日本人です。おそらく当時はアラブやペルシャの使節から馬鹿にされたと思います。中国からもらったものをいらない、いらないとはいわなかったのですが、それらの下賜品を全部売りさばいて換金してしまった。全部売り払って本を買った。唐の正史に「書籍を買って海に浮かんで還る」と書いてあります。

　これはショックですね。世界に類例が少ないですね。これは遣唐使が勝手にやったことではないと思います。天皇の命令でしょう。国家予算で中国に行かせたけど、帰るときには本を買って帰る。そのとき勝手に本が読みたいからとか、個人的な趣味でもち帰ったとは考えられません。そんなことは許されないでしょう。つまり最初から国家のねらいは本だということだと思います。これはたまたま中国の史書に書かれているからわかったんです。 

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.▼中日史料の比較とその視点

　じつはこのことは日本の本にも書かれているのです。不思議に思うのですが、日本研究に携わる学者をのぞいて、中国の研究者はだいたい日本の本を信用しない、というよりもだいたい日本の漢文史料を読まないのです。中国の歴史を研究する人はだいたい周辺の国の資料を使わないという、非常に狭い視野に甘んじるのです。もっともこういう人たちが日本の本を全部見てしまうと、私どものやる仕事が目減りしてしまうのですが。

　日本の方も、これも不思議ですね。日本の史料よりも中国の史料を信用しすぎるのです。だから両者の行き違いで私どものやるべき仕事が生まれてきたのです。それで面白いのは日本では早くからはっきりと遣隋使派遣の目的は本を買うことだと書かれているのに、それを信用する人は多くありません。しかし中国の本に書かれていると、すんなりと信じてしまうのです。もっとも慎重な人は中日双方の文献記載が一致しないと、史料として採用しないのです。

　しかし、私はこれらの研究者に質問したいのです。日本では遣唐使は、『日本書紀』などの史料には十九回とありますね。正倉院文書から一回加えて、任命は二十回になります。ところが唐代の中国史料（日本文献、たとえば『王年代紀』の引用をのぞく）を見ると、遣唐使の活動が明記されていたのはおよそ十回足らずです。もし両方にないものがだめだとすれば、あとの十数回は嘘だということになる。同じように遣隋使もたまたま一方にあり、他方にないから来ていないというのであれば、遣唐使の大半が否定されなければなりません。たまたま双方にあるのは本当に十分の一の確率なんです。たまたまあったのはそれこそ一方にあっただけで十分です。そういうふうに思います。 

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.▼国家政策で書籍を輸入

　それで実際に見てみますと、遣唐使の集書は決して個人的趣味で行なわれたものではありません。つまり本を買うというのは朝廷の命令、国家の方針、国家行為だと推定されます。というのは、証拠が二つあります。一つは小野妹子が遣隋使として派遣されたときに、日本の文献である『経籍後伝記』とか、書名はいろいろありますけれども、本はもう現存していない、平安時代の本だと思いますが、この本にはこう書かれています。推古天皇の頃ですね、「この時、国家に未だ書籍多からず。ここに小野臣因高を隋に遣わし、書籍を買い求めさせ、兼ねて隋の天子を聘〈と〉う」とはっきり書いてあります。

　私はいちおう聖徳太子の研究を専門にしておりますので、聖徳太子の伝記を丁寧に読みます。小野妹子の伝記など、おもな伝記はみな「本を求めるために中国に行った」と書いています。聖徳太子の伝記は古い伝記ですと、これは『日本書紀』と同じ八世紀ごろ、『日本書紀』は七二〇年ですね。そのころ、思託〈したく〉という中国のお坊さん、この人は鑑真と一緒に日本に来た人ですが、この思託という唐僧が書いた『延暦僧録』を読みますと、聖徳太子が小野妹子を派遣したのは『法華経』などを求めるのが目的だとはっきり書いています。

また中国の本を読みますと、『宋史』「日本伝」などに「遣隋使が中国に来て『法華経』を求める」とはっきり書かれています。だからこういう史料をあわせると、やはり遣隋使は本を求める使命を背負っているという結論に帰着するのです。おそらく聖徳太子は「三経義疏」など、仏経の注釈書をいろいろと書いていますから、参考資料として必要だったと思いますね。で、これは遣隋使。遣唐使の場合はさっきの例は有力な例ですけれども、もう一つの例があるんです。

　二回目の遣唐使、六五三年に出港したのですが、大使の吉士長丹〈きしのながに〉は使節団をひきいて中国に行きました。翌年に無事帰国しますと、天皇から大褒美を賜わりました。姓をいただきました。姓〈かばね〉とは子孫にも譲れる名誉職です。それに田地を与えられました。さらに官位が上がりました。三連発の大褒美はまことに異例、異例中の異例です。

　どうしてかというと、褒美の理由として『日本書紀』にこう書かれています。「中国の皇帝に会って、多く文書と宝物をもち帰った」と。宝物というのはおそらく中国のシルクとか、正倉院にある陶磁器とか金銀の器とかですね。

　注意すべきことは、文書すなわち書籍が宝物の上にあるのです。この順序をまちがえてはいけません。その書物も一冊か二冊なら褒められません。「多くもち帰った」というから、相当の冊数を持ち帰ったのでしょう。それで天皇は惜しまずに大褒美をしたのです。そうすると次の遣唐使は、「ほかの物はいいんだ、本だけもち帰れば誉められる」という、こういう雰囲気がだんだん出来上がってくる。だから中国から書籍を持ち帰ることが遣唐使の大きな使命のひとつとなっていくわけです。

　朝鮮の史料では、時代はやや降りますが、半島から中国に行く使節たちに、政府が「買書銀」といって本を買う特別経費を与えていることが記されています。日本ではそういう記録はないですけれども、おそらく同じだと思います。要するに本をたくさんもち帰りなさいというのは、東アジア諸国における遣唐使派遣の大きなねらいに違いありません。 

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.▼空海の身勝手と独創性

　それから日本から派遣された留学生、留学僧にたいする評価ですが、空海、最澄などの例を見ますと、彼らが評価される業績は、彼らが中国でなにを学んだかということではないらしいです。これは奈良時代から平安時代を通じていえることですが、中国に渡った人がなにを学んだかということは問題ではなく、どこどこの有名な先生に学んだかということが重視されます。学統、系譜ですね。中国のどういう系譜につながったかということ、これが日本にとって重要です。その人のもとで何年間も勉強する必要はないのです。空海の場合、見方を変えれば評価がいろいろできると思いますけれども、空海は自分の先生が亡くなるといきなり帰るという、今から考えますと身勝手な行動ですね。空海はやはりちょっと問題があると思いますね。二十年間の留学を二年間に縮めるために、だいぶ工作したようです。

　被害者の一人は橘逸勢〈たちばなのはやなり〉です。この人は留学生、日本の三筆の一人で、隷書の達人です。これは空海が書いた『爲橘学生與本国使啓』という書類ですけれども、橘逸勢に代わって書いた帰国予定を繰り上げたいという請願書です。そのなかで空海は、橘逸勢の口を借りて、遣唐使に予定の留学期間を短縮したいといっている。当時は簡単に短縮できませんよ。かなり努力したらしいですね。

　で、空海はどうして帰りたいかというと、もう先生が亡くなり、印可ももらい、系譜もつないで所期の目的を達成したし、本もだいぶもらったから、そのまま中国で勉強するより帰国して本をじっくり読んだほうが増しだと考えていたようですね。

　私はこれは日本文化の特徴の一つで、日本文化のいい面だとも思うのですが、中国の物をまるごとまねる必要はないというわけです。かたちが重要、本は要するに自分の理解で読むというわけです。日本文化は模倣文化、模倣文化といわれますけれども、結局、独創ができるのは、空海が中国の密教を鵜呑みしてないから独創できた、ということができるかもしれませんね。

　というのは空海が真言宗をつくったとき、中国にはまだ教団としての密教はなかったのです。日本は中国よりもはやく教団として成立している。中国の方が遅いのです。要するに教団設立の条件としては教判といいますが、いろいろな経典のなかで、どの経典を自宗の根本経典にするか、釈迦の説法中にどの経典が真諦を吐露しているかを決めておく必要があります。天台宗ならば『法華経』、密教は『大日経』です。中国ではこうした教判をしていませんので教団としては成立していません。日本の方が早いのです。

　これは空海の場合ですけれども、最澄の場合も同じです。最澄は日本天台宗の開山ですね。しかし日本の文献をよく見れば、驚くことに「天台宗」ではないのです。最澄がつくったのは「天台宗」ではなく、「法華宗」なんです。同時代の古い文献では法華宗、正しくいえば「天台法華宗」といっています。天台宗とはいっていません。最初の名づけにも、すでに日本的な匂いが漂っていますね。厳格にいえば「日本天台宗」の言い方は正しくありませんが、ここでは意地を張らずにお馴染みの俗称に従います。

.▼請来本が印鑑だらけの理由

　最澄がもち帰った書籍リストは国宝として残っています。最澄のもち帰ったものだけではなく、他の入唐僧がもち帰った書籍リストにも中国の印鑑が押されているケースがあります。遣唐使や入唐僧らは「中国で入手した本」との証拠に、通過する役所ごとに印鑑を押してもらい、または役所の長にサインしてもらう。中国にはこういう習慣はありません。

これらの印鑑は今となっては私たちにとって貴重なものになっています。こうした中国の地方政府、たとえば台州や越州そして明州などの印鑑は中国には残っていませんから、重宝されるのです。私は日本天台宗の野本覚成氏にこれらの印鑑の複製を提案したことがあり、その複製がようやくできました。

要するに役人を重んじるという習慣が日本側にあって、最澄は至るところで官印を押して押して押しまくってもらいました。それで最後には遣唐使の印鑑まで押してもらったのです。遣唐使の印鑑も私どもの研究に重要な物証であり、御社の泉博幸さんに編集の労を煩わした拙著『中国史のなかの日本像』に図版として使わせてもらいました。

　このように苦労して本をもち帰るのが留学の主目的です。しかし、そのなかに一冊でも偽物が混じっていたら、すぐさまイメージダウンになります。いくら努力しても一冊でも偽物が混じったらもうだめです。このような「偽書騒動」が実際にありました。ですから入唐僧らは偽物については非常に警戒するわけです。

『釈摩訶衍論』という書物は、奈良時代に入唐僧の戒明が中国からもち帰ったものですが、「文人の首」と崇められていた淡海三船〈おうみのみふね〉から偽書と指弾されました。実際これは偽物ではないと思いますけれど、この道の権威にそう論断されますと、もう生涯うだつがあがらないですね。戒明は懸命に弁解したようですが、世間から信用されませんでした。

こういう時、もっとも有力な証拠はなにより印鑑とサインです。つまり中国の役所が印鑑を押していれば、あるいは官吏や高僧が書籍の由来を書きつけていれば、かなり有力な証拠となるわけです。すなわち、請来本に捺してある印鑑、または著名人のサインなどは、いってみれば保証書みたいなものです。 

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.▼驚くべき請来本の量

　それでは、どのくらいの本を日本人がもち帰ったのか、次にこの問題を考えてみましょう。これも驚くべき分量です。日本では九世紀ごろ、歴代天皇の書庫だった冷然院（のちに冷泉院と改名）ですか、この冷然院が火災に遭って焼けてしまいました。それで残っている本の目録をつくろうということになり、まもなく出来あがったのが藤原佐世〈すけよ〉の編集した『日本国見在書目録』です。約一五八〇部一万七〇〇〇巻近くの書籍を、易家、尚書家、詩家など四十家に分けて記載した目録です。これは九世紀ごろ日本に現存していた中国伝来書籍（和書も少量ながら入っている）の総目録です。それも火災のあとですよ。

この火災の被害ですが、記録では全焼です。全部焼けてしまった。しかし、全焼ではないと主張する人もいます。というのは冷然院の印鑑を押してある本が今だに僅かながら残っているそうです。しかし、今の研究では、焼け残ったのは貸し出し中のもので、貸し出されていた本が火災を免れたものだということらしいです。冷然院が全焼したあと、ほかのところ例えば皇族や貴族または寺院の書庫にあった本を集めて目録にしたものが『日本国見在書目録』なのです。この目録を中国の同時代の書物とあわせて比較してみました。

　中国の書物は『隋書』や『唐書』、隋や唐の歴史を書いた本のなかには、その時代の書籍目録が載っています。中国の習慣では書物は単なる知識欲を満たす読み物だけでなく、国家にとって支配術の主なものですね。だから当時の図書館長というのは今のような身分とは同日に論じられません。強いていえば、日本の官房長官みたいな感じでしょうかなあ。だから阿倍仲麻呂が中国で図書館長になったというのは、これはせいぜい図書館長だねっていう日本人もいますけども、当時の図書館長というのはこれはすごい政治力をもっていたのです。

　で、歴代の王朝は国家の威信をかけてその時代の書籍目録を全部つくるのです。それが前時代の本にくらべて少なくなるとまずいから、現実にない本でも、ほかの目録から写しとる場合があるのです。だから中国の目録にある本でも全部が全部当時もっていた本とは思われません。それでも『日本国見在書目録』、火災のあとにつくられた残存書目録には、中国の水増し分のある目録の半分以上のものが著録されています。いったいどこの国にこういう現象がありますか。今でもできませんよ。日本で刊行された本の半分が外国にあるなんて。農文協ががんばって、農文協の本が半分くらい外国にあってほしいんですけど。

　それで個人将来書の例を見ますと、玄�遭が唐から帰るときに中国の仏教の本を五千巻くらいもち帰ったとあります。五千巻というのは中国仏教、唐代の仏教の一切経つまり「開元蔵」と称される大蔵経を全部あわせて五千四十八巻くらいですか、それはおそらく大蔵経すべてでしょう。大蔵経を丸ごともち帰ったんですね。これは日本の国家の力でないとできません。日本国家の力だけでもできません。中国国家の力を、援助を得ないと達成できない大事業ですね。

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.▼禁書も請来できた日本

　入唐僧らの将来書のなかで面白いのは、中国で禁書とされるものがしばしば混じっていることです。これもちょっと考えさせられる問題です。中国で禁書といっても日本に対しての禁書、日本に輸出してはいけないという禁令を発したことは一度もないと思います。しかし、西とか北の方にこの本はだめだ、あの本はだめだと、こういう禁令は出されています。日本には一回もないというのは、ブックロードのおかげでしょう。このあたり、深く掘り下げていけば、予期せぬ収穫があるかもしれません。

　要するに中国と西側とか北側との交流と、東側との交流は異質なものです。日本とは利害関係が絡んでないし、海を隔てて軍事的な緊張関係もありません。それに中国の文物制度が好きだし、中国文化に傾倒している国ですから、中国の朝廷も喜んで本をどうぞどうぞと提供するわけです。西側とはいつも緊張関係にあるから地理の本はほぼ禁書。地理書、それに地図もだめですね。中国の兵書も占いの本もだめ。まあ、いろいろな禁書がたくさんあります。ブックロードには禁書がそれほどないというのも、ブックロードが平和的な道であって、国家間の事業として営まれたからでしょう。

　この大庭先生は最近また読みやすい本を出しておられます。中国からの舶来漢籍の輸入を面白くまとめたもので『漂着船物語』という題名をつけている。私は東京新聞に書評を書きました。大庭先生は漂着船の関連資料を丹念に調べておられますが、それによれば一隻の船にだいたい本を何千部も積んでいるそうです。書籍というのは付加価値が非常に高く、つまりコストからすれば値段がきわめて高いです。商人は商売ですから利益がないと扱いませんね。ですから日本に運ばれた書籍は、本場の中国よりはるかに高価なわけです。 

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.▼一冊の舶来本を大量に複製

　このように値段が高いから日本では複数の本を中国に求めないのが原則だったらしいです。一冊の種本さえあれば、それで十分です。日本人は稲作でいえば米を求めないで、稲を求めます。稲なら一粒でいいのです。あとは自分でコピーしますから。そうですね。稲には著作権はないから、安心して大量コピーができます。コピーの方法は、コピー機がないですから書写、あるいは版刻、いわゆる和刻本ですね。

奈良時代は全部写本ですね。平安時代もほんとんど書写に頼ります。奈良時代、日本の大きな寺には大概、写経所という組織があります。中国の本を書きうつす専門的な機関を国家予算で置いている。それだけではなくて、皇族の屋敷にも写経所が設けられています。当時の本は全部写すんですね。

最近発見された木簡によれば、本を写す人はだいぶ惨めな生活をしているようです。報酬はそんなに低くないけれども、一字間違えたら報酬の何パーセント、三行も間違ったら一日の報酬がパァになるという計算です。私なんかしょっちゅう間違っているから、そういう職はつとまりませんね。

　再生産の方法として、書写のほかにもう一つは和刻本、もう一つは訓読文、もう一つは和訳という、つまり日本語に訳したものがあります。いろいろなかたちでコピーされるから、原本は一冊だけで物足りたわけです。原本は一冊だけでいいから、毎年に輸入される種類はかなり多いです。

だいたい制度が違う国家間では、書籍の流通はたいがい警戒されますね。政治制度や宗教思想および民族習慣などが書籍の流通を妨げますが、そのほかに言語も越え難い大きな壁となります。漢字文化圏以外で、本がスムーズに越境できないのは、やはり言語の壁に阻まれているからでしょう。

越境した書籍は現地の言葉に翻訳されないと読めない、読めないと文化として機能しません。解読不能な現物があってもそのままでは読めませんから。翻訳しなくてもわかるのは外国語を習得した少数の人に限られます。しかし、漢文の書籍は東アジア世界では言葉の障壁がないから、朝鮮半島に運ばれても、日本列島に伝えられても、そのまま読まれるし、種本として翻訳なしにコピーされていくのです。

　たとえば欧米ならフランスの本がイギリスにもたらされてもそのまま知識の伝授も文化の再生もできません。英語に翻訳されなければ、命のない化石みたいなものですね。東アジア諸国では、文化の伝授はそれぞれ異なる言語よりも、共用される漢字によって行なわれているから、書籍の流通をうながすブックロードの立地条件は世界のどこよりも優れているわけです。

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.▼国境を越えた文化交流

　長くなりましたね。このようにブックロードにはいろいろな特徴があります。それでは最後にブックロードの特徴について総括してみたいと思います。ここで自分のことを国際人と自画自賛すると白眼視されるかもしれませんが、ただし学問を研究するときには、やはり国の概念を越えると新たなものが見えてくるというメリットがあります。逆にいうとこれまでの私たちの先輩たちはなんでも国を単位に考えているという批判ができるかも知れません。

　実際、私が一九九八年に『唐から見た遣唐使』という本を講談社から出したとき、日本人の書評、褒めてくれる書評が多かったのですが、一番流布された時事通信社配信のもの、あの書評には批判的な意見が入ってます。しかし、後で触れるように、この批判は当たらないと思います。

私が思うには、混血児というのは国籍のわからない「人種」、半分は中国人、半分は日本人ですから、どっちつかずの存在ですね。したがって、これらの人物を従来より日本の研究者もあまり扱わない、中国の学者も無視しがちです。だからこういうテーマを扱うときには東アジア的、国際的な視点が必要だとつくづく感じるのです。これからの歴史研究は、文化圏という、国境を越えての文化圏という視点に立たなければなりません。

　鑑真が日本にやって来たときにビザの申請をした記録もないし、パスポートももって来ませんでした。しかし今は、何事も国家を単位として運ばれる。当時は国という単位に対する感覚は非常に希薄だったと想像されます。鑑真は数十年前には日本の人名辞典には出ていますが、中国の人名辞典には出ていなかったのです。今は中国の人名辞典にも出るようになりましたけど……。つまり鑑真は日本では日本人として、中国では中国人として扱われています。言葉を変えれば、それぞれ描いているのは鑑真の半分しかなく、鑑真の全体像あるいは立体像は国境を超越したところから見渡さないと見えてこないのです。

　当時の文化をつくり出してくれた人々は、今のわれわれよりももっと国際的な連携、緊密な連携をもって輝かしい文化伝統を築いてくれたと思います。こんな立派な文化的伝統をこれから私たちが継承できるか否かは、国境を越えた視野をもつかもたないかにかかわっています。国境にこだわった狭い視野では、こうした素晴らしい文化伝統を伝授できないし、次の世代にも伝えられないとのは明らかです。

しかしブックロードも視野を中国だけに止めていると、その生命体としての全体像が見えてきません。ブックロードは国境を越えているけれども、狭い視野だと中国国内のロードが見えても、その先に伸びているロードは見えてこないのです。

ブックロードは最初は中国の南方、さらに朝鮮半島それから日本というふうに漸次開かれていきますね。日本は最初は直接ではなく、朝鮮半島を介して書籍の恩恵を受けていました。そして遣唐使時代になって、中国と日本とのあいだに、直接のブックロードが開かれました。 

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.▼漢字文化圏と日本

　ブックロードでもう一つ注目すべき点は、日本が漢字を通して中国文化を受容し、漢字文化圏の構築にも、その文化伝統の形成にも貢献してきたということです。日本人が漢文で書いた本は古代から中国に伝わっていたのです。従来は日本人の書いた漢籍が中国に伝わったのはだいたい宋代からというのが定説みたいですね。じつは奈良時代にさかのぼることができます。

日本の編集者にも似たり寄ったりの人物がいます。『大法輪』という雑誌があります。一九九四年かな、私は『大法輪』に論文を二回にわたって連載したことがあります。論文名は「聖徳太子と中国文化」でしたが、目次では全部「聖徳太子と日本文化」になおされたのです。日本の編集者も「聖徳太子なら日本文化なのだ」という先入観をもっていたでしょうね。

この件について、私自身も悪いです。というのは私には校正時に目次を点検しないという癖があるからです。本文さえ正しければ目次は当然のこと問題ないという「常識」に騙されたのです。常識はときに落とし穴ですね。だから常識を越えるというのは並大抵の努力を必要としますね。

　泉博幸さんは私の難しい中国語の論文「東アジアにおける『三経義疏』の流伝」を日本語に翻訳してくれましたが、その論文がテーマにしている奈良時代、すでに日本人の書いた本が中国にもたらされたのです。本の伝播で重要なのは、空間的な移動ではなく、新たな文化を生み出す生殖力です。したがって、日本人が中国へもって行った本が中国で本を生み出したことは、大いに注目に値します。

　文化の交流というのは、異文化間の国際結婚みたいなもので、子どもを産まないものはだめなんです。子どもを産む、たくさん産む、多ければ多いほどいい、つまりどれほど子どもを産んだかということで、文化交流の成果が評価されるべきです。

　さて、聖徳太子の著わした本、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』ですが、それを日本の遣唐使が中国にもって行って中国人がそれを読んで、これはいい本だと賛辞を惜しまなかったのです。明空という中国天台宗の僧侶は『勝鬘経義疏』をもとにしてさらに注釈をつけて『勝鬘経義疏私鈔』という本を書きました。この本が中国でなくなってしまったのですが、その一番古い写本を私が京都のあるお寺（大津市にある西教寺）で見つけました。

　じつは昨日も出版社や図書館関係者ら数人が集まったある会合でこういう話が出ました。日本では本を見るのが簡単、中国では見づらいという人がいます。たしかに日本では普通の国立図書館なら見やすいですけど、お寺や私立文庫などに行くとなかなか見せてくれませんよ。たとえば、東京の御茶ノ水周辺にある某文庫に閲覧を申し入れたことがありますが、あそこは男性を入れてくれない規則があり、女性しか入れないところです。男女差別というか、これは人権問題にもかかわりかねませんね。そもそも性別を問うのがおかしい。まあ、日本にもこういうところがあり、一概にはいえません。

お寺で本を探すときには、辛労を覚悟しておく必要があります。ツテがなければ、待望の本と対面できません。『勝鬘経義疏私鈔』を探していたころも、苦労に苦労を重ねて、西教寺の写本にたどり着いたのです。それが結局、新発見につながった。私の博士論文のメインの部分になったのです。この本、さきほどお話ししたお寺の写本ですね、巻末に書かれていた跋語など、これまでにだれも紹介していない。このような新発見がなければ、博士号請求論文を提出する勇気はありません。

　文化交流はこういうものですね。私は日本の本がどれくらい中国にもって来られたかという研究を一応しました。しかし、もって行った本がどのように地元で読まれ、どのように子どもを産み出していったかという研究はこれからなんです。 

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.▼逸存書の宝庫・日本

　書物から書物が生まれてくることは、ブックロードの研究において大きな課題の一つです。もう一つは佚存書の研究です。これは林羅山の子孫、林述斎ですか、林述斎という儒学者が編集した「佚存叢書」に由来したもの。この「佚存」という言葉は奇妙なものですね。日本語は論理的な言葉ではないと欧米からよく揶揄されますが、この言葉は論理的ではない典型的な例です。「佚」というのはなくした、ないという意味、「存」というのは存在する、あるという意味。そして本、「佚して存する本」とはどういう本でしょう、ありなしの本という、そういう意味なんです。なくなったけどある本というのですね。これなら筋が通らない。しかし、これでいいのです。われわれには通ずるから、東洋人には通ずるからこれでいいんです。

　この本は要するに一国を単位に、一国を視野に見ればなくなったけれども、東アジア全体を視野に見ればまだ存在しているもの。だから一つの国を単位に見ればこの本はもうなくなった、死んでいた。しかし、視野を東アジアに広げて見ればまだ生きている。こういうものです。

　だから『佚存叢書』とは、中国ではなくなったものの日本に保存され、現存する本という意味ですね。これを江戸時代に林述斎が編集して、中国の知識人に大きなショックを与えました。ここ数年、私はこうした佚存書の源流をいろいろたどりました。

最初に中国でなくなって、日本にあると噂を聞いて日本に逸存書を求めたのは、五代の呉越国ですから日本では平安中期、十世紀ごろですね。つまり平安時代中期にまでさかのぼれます。こういう逸存書の存在は、まさしくブックロードの恩恵ですよね。

中国は一方的に本を輸出して、日本に「本をあげたよ」というと、なんか恩を売る行為と誤解されますが、中国が日本に一方的に恩恵を与えることではないと思います。交流というのは双方に利益がある、双方に利益がないとそれは交流とはいえない、相互関係がくずれてしまうという前提に成り立つものです。交流というのは古今東西を問わず、必ず双方に利益が及ぶはずです。

　中国では歴代、民間の蔵書家を非常に奨励・尊重しています。国立図書館などに一括保存していますと、いつかは焼かれてしまう。すると一瞬にして全部なくなってしまうことになります。中国では王朝交代のときに、本に恨みを晴らすというか、「おれの王朝は終わったから、本も一緒に黄泉の国へ連れて行こう」と火をつける帝王は後を絶たなかったのです。日本でもそういう手口がありましたね。たしか蘇我氏ですかね。蘇我氏一族、蘇我入鹿ですか、殺されて一族が滅亡するときに日本の国史などを全部火に投げ込んでしまう、そういうことがありました。

だから当時、本というのは王朝継承の要にもなっていました。日本では神功皇后が新羅征服をするときに、まず急いで新羅の図書館の本を運び出す。王朝を征服しますとまず図書館を押えてしまう。本を押えておかないと、敗れた方に焼かれてしまうからです。こういう最悪な事態になったら、民間に保存されていたものが重宝されます。

東アジア全体から見ると、中国は遣隋使時代から前近代まで日本に本を輸出しつづけました。そのときは恩恵を与えましたが、輸出した書籍が中国でなくなると、今度は日本から本が逆流するのですね。こういうかたちでブックロードがなければ、多くの本はすでに命脈を絶たれていたに違いありません。

　ところで、中国に失われて日本にのみ保存している本がどのくらいあるかと聞かれても、その数を正確に答えることはできません。今、私が進めている仕事は、唐代の詩ですね、詩歌の詩。唐代の詩、中国に残っているものはほぼ『全唐詩』、唐代の詩集ですが、それに収録されています。ところが、中国では失われて、日本だけに残っている詩集、それは数種類あるのです。

　去年、宮内庁書陵部でまた一巻新しく発見されました。伏見宮の旧蔵書のなかから。一巻には三十五くらいの作品が入っています。半分以上は『全唐詩』に見つからず、中国人が知らないものです。これは大変な文化遺産なんです。唐代の詩ですよ。中国では一巻発見したら爆弾、二巻発見したら原子爆弾というふうに譬えられています。日本では原子爆弾以上の威力をもつ佚存詩集が発見されているんですよ。これらの佚存書と対面するとき、中国人の覚える興奮は言葉では表現できない、手足どころか全身が震えるという感じです。 

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.▼乾嘉学派と佚存書

　さて、伏見宮旧蔵書の詩集は『雑抄』というんですが、私が東京品川区にある国文学研究資料館の松野館長と一緒に調べに行ったときに、ほんとに手が震えていたんですよ。最初は手でさわる勇気さえないんです。この日は修理中で休館日だったそうでね、館長が宮内庁につとめている教え子に特別閲覧の手続きを取らせて、連れてくださった。こっちは大丈夫かなと恐る恐るついていたら、若い女性が気軽にこの「天下の秘籍」を出して、「どうぞ閲覧してください」とすすめる。私なんかこれは儀式が必要なんですよ、読む前にね。それを儀式もなしで読めという感じで、いささか落胆しました。

　私たちは、今、これくらいの恩恵を日本のほうから受けているわけです。「日本の」というよりも「ブックロードの」恩恵を。こういうブックロードがなければ、多くの文明はすでに消え失せていたはずです。この意味では一つの文化圏によって、ブックロードによってつながった地域で書物の生命は、その生存空間が広まると同時に延ばされたということができると思います。

しかもこういう本は実際、中国文化になんらかの影響を及ぼしたのです。詳細はこれからの研究にまつけれども、たとえば清朝の考証学もそうなんです。これは中国自慢の学問の伝統です。今でも考証学といえば、その綿密さはもう世界的に有名です。

これは乾嘉学派（一七三六〜一八二〇年）といわれる清代の考証学です。実際、その考証学は日本との関係が計り知れないほど大きい。提唱者と実践者の多くは日本と関わりがある。つまり、日本における古いテキストの発見がないとだめですね。考証学というのは古いテキストが必要なのです。それがやはり江戸時代、中国の商人が日本で発見した本をもち帰ったことがきっかけなのです。たとえば『七経孟子考文補遺』とか『古文孝経』とか、日本に残った本あるいは日本人が整理した古籍が、じつは中国の清朝考証学を隆盛させる刺激源のひとつだったのです。

中国では、西洋文明の摂取を平気で認めるが、日本など東洋からの文化輸入をなかなか口に出そうとしません。清朝考証学と日本からの佚存書回流との関係についても、れっきとした事実があるにもかかわらず、中国人も日本人もほとんどそれに言及しないのです。

そもそも乾嘉学派というのは、宋明理学の空論への反動として、清朝に興った重要な儒教学派です。訓詁学の方法を用いて、儒学の典籍を解釈する実証的な学問です。その一派はとくに漢代の許慎や鄭玄ら経疏を指針とするため、「漢学派」あるいは「古文経学派」と呼ばれる。また「朴学」と称されることもあります。

乾嘉学派はさらに大きく、恵棟を代表とする呉派と戴震を開山とする皖派とに分けられますが、皖派の旗手である盧文�〈ろぶんしょう〉（一七一七〜一七九六年）を例にあげましょう。盧文�

さて、乾嘉学派のなかでも校勘学の大家と目される盧文�、日本の山井鼎〈やまのいてい〉が書いた『七経孟子考文』を読んで、大きなショックを受けました。彼は日本に保存された経書の古さ、日本人の学問の高さに驚きながらも、「日本人に負けてはならん」と発憤し、真剣勝負という気持ちで『周易』から経書を逐次に校勘していこうと発願したのです。そして、最初になった『周易注疏輯正』の前書きに、右のような述懐の言葉を素直に書きつづっているのです。このように、日本から輸出された中国の佚存書は、清朝考証学の素材および根拠となり、日本人の校勘学の著作も乾嘉学派に強烈な刺激を与えていたに違いません。

ブックロードというのは東アジア文明に対する一つの解釈ですが、なんでも西洋にしたがう必要はないということ、つまり西洋の色眼鏡をはずして東洋の歴史伝統を観察すべきだということを、ここで強調したいのです。

すなわち、西洋人が提唱したシルクロードが中国と西洋との交流にはぴったり当てはまっても、中国と日本との交流には必ずしも当てはまるとは限りません。われわれの交流はシルクでひっくるめて総括できるかというと、できないのでしょうね。それでなにがこの東アジアあるいは中国と日本との交流を表現するのに適当なのか、私が思い浮かんだのがブック。書物ですね。

　この概念は正しいかどうかは別として、一般の人に理解してもらうためには、やはり書物を通して、いろんな本を書いて広めなければなりません。それで私のこういう気持ちを理解してくださった御社の坂本尚専務、原田津常務が、ここに置いてある『奈良·平安期の日中文化交流−−ブックロードの視点から』というあまり売れない難しい本の出版を快諾してくれたのではないかなあとありがたく思っている次第です。

　ブックロードの応援をしてくださった農文協の方々に感謝する気持ちで、あまりまとまった話にはなりませんでしたが、ブックロードの概要を簡単に紹介させていただきました。ご静聴ありがとうございました。

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司会　おもしろい話といったら失礼なんですけど、じつにいろんな角度から日本と中国の間柄についてお話しいただいて大変勉強になったと思います。まだ多少時間の余裕がありますから、つたない質問でいっこう構いませんから、なにがつたないんだか、そんなことは問題じゃないんです。つたないところからおそろしい発見があるとか、そういうこともあるわけですから。 

.▼中国と日本の博物学

和田　最近、日本でも博物学がいろいろいわれていますが、江戸期の日本の博物学と中国の博物学の交流とかそのあたりの研究はされたのですか？

王勇　東洋の博物学は従来の本草学から発達したもので、西洋のものとは異質だと思います。国際日本文化研究センターにいる白幡洋三郎さんという方が、講談社の選書メチエに一冊の本を書いたと思います。『プラントハンター―ヨーロッパの植物熱と日本』ですか。この方は京都大学農学部の出身ですね、その方からいろいろ話を聞いたり、研究会もちょっと覗いたことがありまして、日本の博物学は、たとえば江戸中期から蘭学など通して、西洋的な異獣というのですか、変わった動物とか、あるいは写実的な動物の図像を受容しました。それは従来の中国の『山海経』〈せんがいきょう〉に描かれたような空想的な動物と違ったもので、大きな転換を来したのですね。しかし西洋博物学の受容、西洋学の受容全般についてもいえますけども、その基盤には従来の中国あるいは東洋的な土壌があるという事実を無視できませんね。土壌がないとおそらくそんなにすんなりとたくさんのものを受容できたとは限らない。また西洋の学問に対しては中国と日本、どっちが先かという問題がありますけれども、十六世紀からは、日本がリードしている分野もあるようですね。

　ザビエルなどはまず日本に来てから、中国に行こうとしてマカオあたりでなくなったし、だから近世頃になると、漢文化の伝統は依然として中国から受け入れているけれども、日本の漢学はすごく高いレベルに達しているのも事実です。全体として日本は中国から漢文化の影響を受けるが、日本から輸出もしている。西洋学に対してはもう相互ですね。相乗効果というのですか、お互いにそういう関係、対等的な関係になったのではないかな。ご質問は私の専門とする年代から千年くらい離れているので、ちょっと正確には答えられません。すみません。 

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.▼書き下しという日本の独創

本谷　日本人が漢文を理解する場合は、ずっと昔から読み下しとして理解してきたわけですね。特に漢詩などについては、それ自体が日本的な理解になっています。つまり、返り点を打って送りがなをほどこしてあるのですけれども、中国語を母語とする先生からご覧になって日本のそういう受け入れ方はどういう感じがしますでしょうか。

王　漢詩ですね？

本谷　漢詩のみならず、書き下し、読み下しで理解するという。いわゆる翻訳でない方法で。

王　そうですね。これは世界の大発明の一つといっても過言ではありません。日本の読み下しという方法ですね。視覚的に二種類の言語をいっぺんに読み取るというのは、世界に類例のないすごいテクニックだと思います。しかし、日本人の漢文は訓読という方法によって古来の伝統を忠実的に継承し、中国の漢文伝統とはそんなに違ってはいません。

　私の同僚に『日本漢詩発展史』という、日本の漢詩の歴史、通史を書いた蕭瑞峰という中国漢詩の専門家がおります。また程千帆という中国屈指の唐詩研究の大家も『日本漢詩』という書物を著わしたのです。これらの専門家が日本の漢詩を見て下した全体の評価は、平安時代、五山時代、江戸時代にそれぞれ漢詩繁栄のピークがあったとされ、代表的な詩人はほとんど中国人と区別できないほど非常に高いレベルに到達しているそうです。平安時代は全体としてやや中国と違う雰囲気、なんとなく日本貴族的な感じを醸し出している。五山時代は中日とも禅宗を共有しているから、漢詩の担い手の禅僧は学問の素地も作詩の技巧も中国のそれに急接近しており、平安時代の貴族らがつくった和臭交じりのものとは異なります。そして朱子学を尊ぶ江戸時代では、当時の文化人つまり儒学者は、中国の文人と類似した文化的環境に育ち、したがって漢詩のレベルも中国詩人に引けを取らないほど洗練されているという評価です。

日本の漢詩、漢文全体についても同じことですが、非常に規則に忠実で、むしろ中国人よりも規則をよく守るという特徴を持っていると思われます。漢詩ならば、平仄〈ひょうそく〉とか押韻とかのルールを几帳面に守る。ある意味では古くなって中国では破棄されたものまできちんと守ってくれます。

たとえば同じ行に同じ文字を使わないとかいう畳語の規則がある。しかし同じ言葉を使わないという規則を破ると、ときどき意表をつくような新意が出てくるのです。こうした型破りの作品は中国の個性的な詩人に例が多いですけど、日本の作品には李白のように飲酒後につくった躍動感に富む風狂な作品はきわめて稀ですね。だいたいお酒をさましてから、襟を正してつくるのが日本の詩人であるという感じです。酒を飲みながら書くのはおそらく漢詩ではなく和歌でしょうね。

　もう一つ私が感じているのは、古文と白話の相違です。去年の二月に台湾に行ったとき聞いた話ですが、台湾で韓国漢文小説、ベトナム漢文小説の全集につづいて日本人の手になった漢文小説も近く出版される予定だと聞いております。私はこれまでに日本の漢文小説をいくつか読んでおります。台湾で出版された韓国とベトナムの漢文小説集も購入しています。これらの小説は口語体で書かれたいわゆる白話小説ですが、日本と韓国とベトナムとで中国語の上手下手、うまいまずいの順番をつけるとどうなのか。想像できますでしょうか？

　結論をさきに言わせますと、わたしはベトナムが一番うまいと思います。日本は一番だめ。というのは、やはり自分の文化の層が厚いほど外国語はだめになるんですね。どうも自分のものを反映しようとして、ついつい外国語を変容させてしまうのです。ベトナムは近世のころフランス人に支配されていたが、それまではもっぱら中国文化の影響下にあるため、それ以外はないといっては失礼なんですけど、独自な文化伝統はそれほど蓄積されていません。したがって、それが純粋な中国文化、たとえば口語体の白話小説を受容する基盤となったのです。その白話はもう完璧なんですよ。白話で書かれた小説を読んでいても、作者の国籍がわかりっこないのです。韓国の漢文小説も日本にくらべて中国的です。文章のよしあしは別としても、韓国の小説では韓国の地名や人名はなく、それらをうまく中国の地名と人名にすりかえて、中国小説らしくしている。韓国のことなのに年号は全部中国のそれを使う。舞台もわざわざ中国に移している。こうした作為は中国かぶれの世相を反映したものか、それとも売れすじを見込んだ商業的な手法なのか明らかではないけど、おそらく両方の動機を兼ねたものでしょう。

　しかし、日本では決してそうではありません。『江戸繁盛記』とか、『忠臣蔵』を物語にしたのを見ると日本式ですよね。名前にしてもなんにしても。この意味では古文、文語文は規則にしたがって処理できるんですけど、白話ですと、口でしゃべるから個性が生かされて文法にあわないものがたくさんでてきます。それが日本人には苦手のようですね。

　白話は古代の漢詩に使われる、整然と規則のたどれる古文とは異なるものであるという認識をまず念頭におくべきです。訓読法によって伝承された古文の伝統は、おそらく東アジアの世界では中国をのぞいて、日本の漢文力をしのぐものは他にないと思います。一方、こうした日本独自な伝統は近世になって白話の習得を妨げたのも事実です。 

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.▼支配者による書物の利用

甲斐　お話のなかで書物が支配の手段だったというのはどういうお考えなのか伺いたいと思います。もう一つ、禁書は輸出を禁止しただけだったのか、国内的にはどうだったのかという点についても。

王　二つのご質問、ともにわたしの弱いところを突いたのですね。チャレンジーしてみましょう。書物と支配者との関係は一概にはいえません。しかし、全体としては昔の中国では支配者を育てていく過程に、どんな人が必要か、どんな書物を読むべきかという、理想像に合わせて書物を峻別し淘汰する制度がかなり整っていると思います。今でいうならば、皇太子に外国語が必要かどうか、あるいはスポーツが必要かどうか、留学の経験が必要かどうか、社交の能力が必要かどうか、こういった判断から英才教育に用いる書物が選ばれるのです。

　知識層をなす文化人は、官吏になる道は科挙試験以外にありません。彼らにとって科挙試験は唯一の登竜門、その関門を突破するためには定められた書物を読まなければなりません。この意味で、科挙制度から生まれた官吏はすべて読書家であるといっても過言ではありません。そして文人官吏として、一番理想的な駆け出しは、かつて阿倍仲麻呂が経験していた校書です。

　校書とは本を校正する、本を写す、写したものをチェックする職業です。阿倍仲麻呂のばあいは皇太子つきの校書です。中国では歴代の皇太子のところに書物を校正する役所が設けられています。阿倍仲麻呂は皇太子のところの書物のチェック役ですね。これはもっとも前途洋々たる登竜門といわれています。

　さらに中国では当時、本の出版や制作はだいたい国家事業として営まれるのです。たとえば歴史書の編纂、「勅撰史書」または「正史」といいますか、これは国家の意思を反映して、国家の力で編集します。つまり国家の許可が必要です。対して、個人で書いたものは原則として「野史」に分類されて、信用度が一段と落ちるのみならず、政府の保護もなく自生自滅するのです。正史にたいする野史、この構図はずっと前近代まで続きましたね。それはひとつ歴史書に限るものでなく、『全唐詩』や『四庫全書』といった大部の叢書も、国家の力なしでは実現できません。しかも『四庫全書』のばあい、当時は何部くらい写したのかな。七部かな。底本を入れても八部しか書写されていないのですね。さかのぼって宋代の『太平御覧』、唐代の『文館詞林』も似たり寄ったりの例です。『文館詞林』は新羅人が使者を送って請求したのですが、全部で一千巻あるから当時の則天武后も軽々しく承諾できません。結局は、そのなかで礼儀作法にかかわるものだけを五十巻ほど抄録して新羅に与えたと、『唐書』に書かれています。

　このように、書物の管理生産、あるいは書物が果たす役割、これはことごとく支配術に深く関わっています。だから当時、書物は支配者にとっては非常に重要なもので、考えてみればテレビやラジオ、電話やファックス、インターネットのない時代に書物が民衆教化、あるいは支配維持のもっとも有効な手段のひとつではないかと思いますね。 

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.▼暦と禁書

　つづきまして二つ目の禁書ですが、国内の禁書はもちろんあります。私がいったのは外国に輸出を禁止するものです。これもしきりに禁令が発せられました。

　九州大学の坂上康俊さん。この方と十二月頃、福岡の学会でお会いして論文をいただきました。この方はこういう禁書にかかわる文献を唐王朝を中心に集めています。

　この点についての中国の研究はもっと盛んで、禁書に関する本が何冊か出ています。宋代になりますと、契丹やベトナムなどに対して、こういう本を輸出してはいけないとか、あういう本は川を渡ってはいけないとかいう輸出禁止の実例は少なくはありません。

甲斐　当てずっぽうですけど、地理書とか兵書のほかに、暦に関するものでしょうか。

王　そもそも暦には二つの性格があるんです。ひとつは昔の占易書ですか、未来を予測するような占いの本という性格を持っています。こういう未来書、予言書の類は支配層にとって危険な存在であり、国内と国外を問わず禁止の対象となりますね。もうひとつは時間を区切り、季節を予測する天文学つまり科学の性格を持っています。しかし、古代では、このふたつの性格すなわち役割を明確には分別しないのが普通です。今のところ、日本のテレビや漫画誌でもてはやされている陰陽師をみればわかるように、陰陽師は暦の専門家という顔と占い師という顔とを合わせ持っているのです。

また天文学でいう暦にしても、さらに二種類に分けられます。よく誤解されますけれども、われわれがふだん使うのはカレンダー。これは「日暦」あるいは「暦本」と通称されますが、カレンダーというのは一年の寿命で使い捨てになります。たいがい前年の十一月に作っておいて翌年に使われる。しかし翌々年にはもう使えません。

使い捨てのカレンダーに対して、もう一つは『暦経』とか『暦源』とか呼ばれるものです。要するに暦をつくる原理を述べる本。これはすごく難しいものです。私どもが見ても全然わかりません。綿密な月日の観測データを数学の方法で複雑に計算するものですね。暦というばあい、まずこの二種類のものを区別しておく必要があります。

私は「日本における中国暦法の流布」という論文を書いたことがあります。その概要をかいつまんで紹介しましょう。むかし華夷秩序、あるいは朝貢体系といって、中国の支配圏に入った国々は基本的には正朔を奉じなければなりません。正朔という言葉ですが、正は一年の始まり、最初の日。朔は月の最初の日。一年最初の日、一月最初の日をあわせると暦という意味になります。したがって、中国に朝貢した国々は原則として中国の暦を使わなければならないわけですね。暦はまた年号とよくセットになっていますから、中国では王朝が交替しますと支配者が外国からやってくる使節に対して、称号、たとえば朝鮮半島なら何々将軍と新たに任命するとともに新暦一部を与えるのが定例のようです。この暦によって、周辺の諸国はカレンダーをつくり、宗主国と同じ時間の序列に組み込まれるということなんですね。

　元、明代になりますと、今度はあまり外国から来ないから、王朝が替わるとこちらから世界各国に使者を遣わしていきます。王朝ごとに朝貢秩序の再構築ですね。あなたは何々王、たとえばシャム、タイのことですね、タイ王の称号とともに暦一部をセットで送るといった具合です。これは私の論文で取りあげた明の開国皇帝朱元璋の例によって明らかにされています。朱元璋の使者はもちろん日本にもやって来ていました。明初の『大統暦』も当然持ってきました。しかし、暦というものはそれを読みとくために高度な知識を必要とし、すぐ使えといわれても簡単には使えない。だいたい東南アジアでは暦をもらってはいますが使えなかったのです。日本でも中国の暦をもらってから自分でカレンダーがつくられるようになるまで、平均して数十年かかるんですね。読解するためには、これだけの時間が要るのです。

　中国伝来の暦経にもとづいて原理を計算してカレンダーをつくれるのは、日本では博士一人、あとは助教二人だけでしょうか。博士と助授は十数名の暦生を教え、一生をかけても解読できない暦を次世代にまわすこともあります。

　だから暦は支配圏のなかでは禁書というよりも、むしろ積極的に使わせて中国王朝への服従の印とされるものですね。 

司会　どうもありがとうございました。それではこれで終わりですけれども、もう一度どうもありがとうございました（拍手）。

　先生はこの三月二日でしたか、仙台から直接いらっしゃったのですが、今月末に中国にお帰りになられる。日本に三年もの長いご滞在でしたが、いよいよお帰りになる。日本におられたあいだも所長だったんですよ。だから向こうがどうなっているか、心配ですね。いよいよ向こうに帰られて所長の椅子にまた座られてたいへんな仕事をしてくださるということになっておりますが、じつは農文協から今度「中国文化叢書」という、仮の題ですけど、シリーズものを出すという企画がありまして、一部手直し、構成を検討していますが、王勇先生は、その企画の全体を見ていただく監修という役割を快く引き受けてくださいました。それもお礼したいと思います。よろしくお願いします。それではどうもありがとうございました（拍手）。

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