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海をわたった道教の神々(要旨)
−−鍾馗を例として−−

2004年3月13日
 神道国際学会セミナー

中国の道教 「道教とは何か」と聞かれても、私にはうまく答えられない。魯迅が「人はしばしば坊主を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎むが、道士は憎まない。この理屈がわかれば中国のことは大半わかる」(『而已集・小雑感』)と言うほど、道教は中国文化の根幹をなしている。

道教の神も、上は天上を支配する元始天尊から、下は厠(かわや)を守る紫姑にいたるまで、膨大な数にのぼる。

神々の東渡 弥生時代から、中国文化はたえまなく日本に押し寄せてきたが、日本に伝わらなかったものは、科挙・宦官・纏足といった「三大奇習」だけだったといわれる。中日交流において、神々が人間以上に活躍しているかもしれない。

『延喜式』(巻第八)に載せる「東文忌寸部献横刀時呪」という一篇の祝詞:

謹んで皇天上帝。三極の大君、日月と星辰、八方の諸神、司命と司籍、左は東王父、右は西王母、五方の五帝、四時と四気に請う。

捧ぐるに銀人を以ってし、禍災を除かんことを請う。

捧ぐるに金刀を以ってし、帝祚を延べんことを請う。

呪して曰く、東は扶桑に至り、西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千の城、百の国、精く治まること万歳なれ、万歳万歳なれ。

道教の神々は、古墳時代の東王父と西王母を先頭に、持続的かつ多数に海をわたって日本にすみついた。神々の系譜を中国にさかのぼり、日本での変貌をたどることは、面白い作業になりそうである。(図1)

京都の鍾馗 道教の神さまといえば、その姿が日本人にもよく知られるのは、鍾馗そのものであろう。服部正実という方が一九八八年から八年間を費やして、京都市内十一区を回って撮影し、百三十種類以上の鍾馗像を収録した『洛中洛外の鍾馗』。(図2−4)

瓦鍾馗 これらの鍾馗像はたいてい屋根に置かれている。(図5)それについては、面白い伝承がある。石塚豊芥子の『街談文文集要』に「鬼瓦看発病」という話が載せられている

文化二年(一八〇五)の夏、京都三条の薬屋が家の棟に大きな鬼瓦を取り付けたのを、向かいの家の女房が看て気分が悪くなり病み伏してしまった。いろいろ薬を飲ませたが効き目がなく、原因が向かいの家の鬼瓦だというので、深草の焼き物やに注文して鍾馗の像を作らせてこちらの屋根にのせたところ、女房の病気はたちまち全快したという。

悲劇の英雄 図2と図3に見られるように、鍾馗はこわい顔をしている。そのためか、日本では閻魔大将と誤解されることもあるが、その原型は悲劇の英雄。『夢渓筆談』や『天中記』などから物語のあらすじを紹介しよう。

唐の開元年間、玄宗皇帝が熱病に伏し、夢の中に「虚耗」と名乗る小鬼が出で来て、楊貴妃の繍香袋と皇帝の玉笛を盗み去らんとする。すると、破帽に藍袍のひげ面の大男があらわれ、小鬼の目をくじり、体をやぶって食べた。玄宗は驚いて名を問えば、「臣は終南山の鍾馗なり。武徳年間(六一八−六二六)、武挙の殿試に失敗、恥じて自ら生命を断ったが、かたじけなくも帝より緑袍を賜わって手厚く葬られた。御恩を報ぜんがため、天下の虚耗妖怪を除こうと誓ったのだ」と答えた。玄宗は夢より醒めると、病気も癒え、さっそく呉道子なる画家を召して、この鍾馗の姿を描かせたという。

魔よけ 呉道子の「鍾馗図」。『天中記』によれば、「藍の衫を身にまとい、一足に革靴を履き、片目を細くし、腰に笏を挿し、首に巾を被っているが頭髪はボサボサ、左手で鬼を捉え、右手で鬼の目を抉る」とある。

江戸時代には、紙に鍾馗の絵姿を摺った鍾馗札が近畿を中心に流行っていた。滝沢馬琴『羈旅漫録』に「遠州より三州のあひだ人家の戸守りはことごとく鍾馗なり、かたはらに山伏某としるしたるもあり」とあり、また喜多村信節『嬉遊笑覧』にも「今も尾張熱田の民家にみなこの画像を戸に押す」とある。

茨城県那珂郡東海村の村松山には虚空堂があり、そこに鍾馗像を祭っている「鍾馗堂」がある。伝承では、延宝三年(一六七五)大流行した悪疫と画伯藤原高信との関連がある。(図6)山伏が鍾馗札を売り歩いていたことは、山伏と道教との関連を思わせ、注目に値する。

日本的意匠 日本の鍾馗は素手ではなく、大概は右手に破魔の剣を持ち、左手で八苦を抑えて、周囲をにらむような格好をしている。また小鬼のかわりにネズミが登場することも見られる。(図7−9)

『夢渓筆談』(巻七)に、宋代に李という道士が左手でネズミを抑え、右手に鉄簡を振りかざす「舞鍾馗」を彫って荆王に献上したとある。

鍾馗が日本に土着した証拠の一つは、五月人形に作られることである。赤鍾馗と黒鍾馗に分けることもユニークな発想だが、女鍾馗まであるのには驚かされる。(図10−11)また鍾馗の武勇をかって端午節句の幟にその姿を描くのも中国にはない。

鍾馗祭り もう一つ中国で見られないのは、各地の鍾馗祭りである。新潟県鹿瀬(かのせ)町では、江戸時代から鍾馗祭が行なわれてきたそうだ。平瀬(びょうぜ)集落では二月十一日、夏渡戸(なつわど)集落では三月十三日に、今でも毎年「鍾馗祭」が催されている。(図12)

遠州の福田では、端午の節句に鯉のぼりとともに鍾馗のぼりを作り、また山車・屋台彫刻の題材としても鍾馗を取り入れている。(図13)

 新潟県東蒲郡津川町の大牧地区では、三月二日に伝統的な神事として「鍾馗様祭」が行なわれる。(図14)

神楽と謡曲 鹿瀬の奉納鍾馗さま(図12)をよく見ると、腰に藁の輪をつけていることに気がつく。その由来は神楽と謡曲の「鍾馗」にある。登場人物は須佐之男命と大疫神。(図15)須佐之男命は茅の輪と十束の剣の威徳でこれを退治する。

蘇民将来 武塔の神が妻を求めて南の海へ出かけた時、安芸国の江熊の里に至って将来という兄弟に宿を求めた。裕福な弟は拒否、貧乏な兄(蘇民将来)は受け入れる。その後、武塔の神はふたたび蘇民の家を訪ね、「家族に茅の輪を腰につけさせよ」と命じた。まもなく村中に疫病が流行り、茅の輪をつけた蘇民将来の家族のみ免れる。武塔の神は蘇民将来に「吾は須佐之男命なり。後の世にて疫病広まる時があれば、蘇民将来の一族だといい、茅の輪を腰に着けるべし。そうすれば万病を免れることであろう」と告げる。

神々の変身 ここに至って、鍾馗は須佐之男命に変身し、蘇民将来の説話と融合して、徹底的に日本化をとげた。ところが、中国でも鍾馗が戯曲に登場している。京劇の名曲目の一つ「鍾馗嫁妹」である。その姿をご覧にいれよう。中国の鍾馗が海をわたると、どれほど変貌したか、おわかりになると思う。(図15)

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