王　勇

一、人物を覚える近道

　北方謙三氏の近著『水滸伝』について、『東京新聞』に書評を発表してまもなく、「こんなに面白い小説に、日本の読者はどうして『三国志』ほど熱中しないのか」と愚痴をこぼしたら、ある出版界の知人はこう答えてくれた。

　「理由は簡単よ。『三国志』の主要人物は蜀の劉備、魏の曹操、呉の孫権をボスとする十数人しかいないのに、『水滸伝』の好漢は一〇八名にのぼり、名前を覚えきれず、だれを主要キャラクターにするかも難しいから」と。

　ところが、登場人物の数だけを比較すれば、『三国志』は姓名の明らかな人物だけでも一一九一名を登場させ、うち武将四三六名、文官四五一名、その他三〇四名とある。『水滸伝』の登場人物を数えたことはないが、おそらく『三国志』をいくらか下回るだろう。

　さて、『水滸伝』の好漢一〇八人の名前を覚えていなければ、錯綜とした人間関係を織り成した物語の進展に、とうてい追いつかないのも確かに事実である。中国の『水滸伝』愛好者でも、一〇八人もの名前を漏れなく諳んじることはできない。にもかかわらず、中国の読者がこれらの登場人物を混同させることは、あまりない。

　なぜなら、一〇八名の好漢につけられたあだ名によって、それぞれの相性、身分、特技、手柄のみならず、生き生きとした容貌までが脳裏にしっかり焼きついているからである。つまり、あだ名は作中の人物を覚える近道なのだ。

二、字と号その他

　繁華街の片隅でロウソクを灯した人相見らが端座して、静かに客を待ちうける神妙な風景を、ちらほらと眺めたことが何度かあった。話によれば、姓名判断も彼ら（彼女ら）の商売のひとつだそうである。

　そういえば、姓名から運勢を見ることは、中国でもちょっと流行っていた。この社会現象を、大学同僚の哲学研究者は「ことわざに、『仏は金箔により、人は衣装による』とあるさ。姓名は衣装のように着替えられず、人間の一生につきまとう心身の一部だから、人生を左右することはありうるよ」と分析する。

　なるほど、赤ちゃんが生まれると、世の親はわが子によき運命あれと願って、名づけに四苦八苦しているではないか。中国や韓国では、姓は血統のしるしで、女性が結婚しても改姓を世間から許されまい。したがって、同姓結婚も原則として避けなければならない。この点、日本の女性は同姓結婚の自由とひきかえに、夫姓にしたがわざるをえない無念さがいくらか残るだろう。

ところが、子供が成人していくうちに、親から期待された針路をはずしてしまうことがある。親孝行を重んじる中国では、あえて改名はしないが、みずからの個性を打ちだし、あるいは新たな針路を定めようとして、巧みな妥協案を考えだしたのである。それは、ほかならぬ字（あざな）と号なのだ。

　たとえば、『水滸伝』の著者に擬せられる施耐庵は、名は子安、字は彦瑞、耐庵と号する。儒教の礼儀として、人様の名を軽々しく呼ばわりするのは不敬とされる。目上の人が後輩を名で呼ぶことはあっても、目下の人は上司のことを字か号で呼ばなければ叱られる。したがって、著名人はほとんど字号で親しまれ、本名は案外と疎まれることが多い。

　名から字が生まれ、字から号が生まれる。三者はまったく無関係ではないが、順次に敬意の度合いが高まるから、人と場と時とによって、それらをうまく呼びわけることを心得る必要があろう。

三、あだ名と綽名

　姓が先祖との血筋を示すものだとすれば、名は父母との契り、字は本人の志向、号は社会とのかかわりを、それぞれ表わすものと言えようか。あだ名は「綽名」とも表記されるように（「綽」とは「余」「他」の意）、他人からつけられた号である。

　世間に映るその人の容貌と風格、長所と短所など、それらが綽名を取られる根拠となる。綽名には好意的なものがあれば、悪意的なものも当然ある。中国ではユーモアの一種として昔から流行し、さほど問題視されなかったようだが、度を過ぎると、イザコザを引き起こすことも、しばしばある。

　昔の話だが、『遊仙窟』の著者として、日本にもよく知られる唐の文人張�貘（字は文成）は『朝野僉載』というエッセー集を著わし、その巻四に綽名つけの名人こと魏乗光の逸話を紹介している。

　　唐の兵部尚書姚元崇は、長身にして歩き方がせっかちであった。魏乗光は、「蛇を追いかけ　　る鸛鵲（カササギ）」と呼んだ。黄門侍郎の盧懐慎は、よく地面を見つめるから、「ネズミ　　を狙う猫」と称した。殿中監の姜皎は、肥って色が黒いから、「桑の実を飽食した牝豚」と　　名づけた。紫微舎人の倪若水は、色が黒くて鬚がないので、「酔部落精」といった。舎人の　　斉処冲は、目を眇めて見る癖があるから、「暗い蝋燭の下で虱をさがす老婆」とした。（後　　略）

　魏乗光は、要路の朝官を揶揄したため、長安の左拾遺から地方の県尉に左遷されたが、腕前はさすがの名人。これらの綽名によって、千年も前の人物が生き生きと蘇えってきた気がする。

しかし、中央官吏の魏乗光はあくまでも遠慮がちで、水滸好漢につけられた奇想天外の豪快なあだ名とは、次元が違う。あだ名の面白さを次回に味わってもらおう。