『水滸伝』と太平天国

王　勇

一、「水滸」の語源

　「滸」という漢字は地名以外にほとんど使われなくなった。手元の『新華字典』を開いてみると、「滸浦」や「滸墅関」など地名に用いられる場合は「Xu（きょ）」と発音するが、「Hu（こ）」と読めば「水辺」の意味になる。

　『水滸伝』の「滸」は「こ」と読むから、「水辺」の意味であろうが、書名としてもっと深い意味が込められてはいまいか。明の袁無涯は『忠義水滸伝全書』の前書きにおいて、「梁山泊は明の王土であり、水滸は無所属である。宋江が東海の辺にとどまって周文王を輔佐する時機をうかがう姜太公の故事にならっている」といった旨を述べている。

明末の金聖嘆は『水滸伝』の随所に辛らつな批評を加えたことで有名だが、「水滸」の二字についても「王土の辺には水があり、水の外は滸という。辺ぴで見捨てられた場所」と言い切る。つまり、著者は宋江ら盗賊を痛恨し、王土から追放したいので、「水滸」を書名にしたという。

右の二説は文献上の裏づけがなく、深読みしすぎる嫌いがある。「水滸」の出典を『詩経』（大雅·緜）につきとめたのは、羅爾綱氏である。周の太王は狄人の略奪に晒される�arの地を去り、漆水と沮水の辺を過ぎ、梁山を越えて岐下に至り、周王朝を開いた。『詩経』は漆水と沮水のほとりを「水滸」と表現している。

もし右の出典が正しければ、「水滸伝」という書名には、旧い世界に見切りをつけて、新天地に活路を求めるという意味が込められていることになる。

二、羅貫中の志

　『水滸伝』の真意を「国開きにあり」と主張する羅爾綱氏は、著者に擬せられる羅貫中の経歴を考察し、驚くべき事実を発見した。

羅貫中は名を本といい、銭塘（今の杭州）の人である。賈仲明の『続録鬼簿』に出ているから、同じ元末明初の人であろう。明の王圻は『稗史彙編』（巻一〇三）で、「羅貫中と葛可久らはみな国盗りの志を有しているが、真命天子（朱元璋）が現われたため、葛氏は医工に心を寄せ、羅氏は稗史に志を託す」と書き記している。

『水滸伝』の本意を見すかした明人は王圻だけでない。柳文は著者を「草莽の雄」と称し、「不軌を起こす」危険性を予見している。胡応麟は「（著者は）猾胥の魁でなければ、すなわち劇盗の靡であろう」と断言する。

羅貫中は国盗りの野望を持っているのみならず、元末に一揆を起こして国号を「周」と称した張士誠を助けたことがあるといわれ、実戦の方法と経験とを小説に生々しく盛り込んでいる。

柳文らの予見はみごとに的中した。明末に各地で起こった農民蜂起は、『水滸伝』の影響を濃厚に帯びている。『明史』（巻三〇九）によれば、崇禎八年（一六三五）正月、李自成は各地の蜂起軍の首領を�H9陽に招き、政府軍と対抗する方策を練った。首領らのあだ名を見ると、まるで梁山好漢の再来と見間違う。

老回回、曹操、革裏眼、左金王、改世王、射�軒天、橫天王、混十萬、過天星、九條龍、順天王、高迎祥、張獻忠。

それだけでなく、同じころ五條龍、混世王、横天王、草上飛、革里眼、克天虎、抓山虎、雙翼虎、関索、一隻虎、満天飛などを名乗る農民軍も活躍していた。蜂起軍は「奉天昌義」の旗を高らかに掲げ、梁山好漢風のあだ名を喜んで名乗り、『水滸伝』の謀略を実戦に生かしていたらしい。

清の劉鑾の著わした『五石瓠』は『水滸伝』の禍いを論じて、「張献忠の狡さは、日々『三国志』と『水滸伝』の諸書を側近に説かせた結果であり、その待ち伏せと攻撃の方法はみな小説から学んだものだ」と指摘する。こうした戦法にさんざんな痛手を受けた朝廷は、崇禎十五年（一六四二）『水滸伝』を禁書と指定、原板の焼き捨てをきびしく命じた。

三、太平天国

　李自成らの農民蜂起によって、明王朝は音を立てて崩壊した。しかし、明に取って代わった清王朝もアヘン戦争（一八四〇年）後、同じ運命に直面するようになった。一八五一年に洪秀全ひきいる農民軍は広西の金田村で決起し、太平天国を建て、一八五三年に南京を攻め落として首都（天京）とした。

太平軍が短期間に民衆の熱狂的な支持を得て、しかも戦場では政府軍を次々と撃破できたのは、『水滸伝』と無関係ではあるまい。劉貴曾の『餘生紀略』は、「その兵権を司る者は、つねに『三国演義』と『水滸伝』を読んでいた」という当事者の実話を紹介している。このことは、敵側の資料からも裏づけされる。

清朝の欽差大臣として太平軍と実際に戦った姚瑩は貴州黎平府の胡林翼にあてた手紙で、

敵軍を「『三国演義』と『水滸伝』に精しく、兵を用いるのに頗る紀律あり、詭計百出す」と評価している。

もう一人、精悍な湘軍を率いて、農民蜂起の鎮圧に手柄を立てた曾国藩は、『賊情彙纂』（卷五）で、太平天国の軍事戦略と戦術を論じて「その『三国演義』と『水滸伝』を取裁すること尤も多い」と総括している。

『水滸伝』が太平天国へ与えた影響は、軍事面ばかりでなく、政治や制度などにも及んでいる。たとえば、太平天国において、天王の洪秀全は国家の元首、軍師の楊秀清は政府の首脳、前者は名誉職、後者は実権を握る。羅爾綱氏はこのような独特な制度を「軍師責任制」と名づけている。

太平天国における軍師の呼称、そして「国務を総理する」権限は、どうやら『水滸伝』（第二十回）の「小聚義」を想起させる。晁蓋は首領として第一位の席に座り、呉用は軍師として第二位の席についた。軍師の権限は「兵権を執掌し、将校を采配する」として、実権を握っている。

羅貫中が国盗りの志と夢を託して『水滸伝』を書いたとすれば、その遺志は明末と清末の農民蜂起に受けつがれて、また李自成や洪秀全らによって、その夢が部分的に実現されたといえよう。