『水滸伝』の杭州方言

王　勇

一、杭州官話

　広大な中国には、大小さまざまな方言区があたかも碁盤目のごとく点在する。中国の方言といったら、大阪弁とか名古屋弁とかずうずう弁とかいった程度のものではない。そう、鹿児島弁や津軽弁あたりを思い出せばよい。

大阪弁が東京の人に通じても、上海弁は決して北京の人には通じない。日本で初めてずうずう弁を耳にしたときは異様に聞こえただけだが、隣県の福建省へ入ったら、つんぼになったかのように、一言もわからないのである。

杭州は地理的には「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」の故事で知られる江南地域にあるけれど、その方言は呉方言に属するといわれる。ところで、呉方言は北京方言と対照的にその柔らかさで有名であるが、杭州弁にはそれとやや異なり、「硬くて強い」とのイメージがある。

一一二九年、金に攻められて宋の高宗は、都を金陵（南京）から臨安（杭州）に逃げた。一一三八年から約一三〇年間、杭州は中原王朝の都城として、北方系の文武百官が続々と押し寄せてきた。彼らは北地の風俗だけでなく、言葉も当然もたらしてきたのだ。ここで、南北の言葉が交わり、ついに杭州官話という混血の方言を生み出した。

二、講談の用語

　�m\開の『三十六人画讃』によれば、南宋のころ「宋江のことは街談巷語に見ゆ」とあり、羅�奮の『酔翁談録』は杭州の巷間で流行っていた講談リストとして、「花和尚」「武行者」「青面獣」「石頭孫立」などを挙げている。

　杭州の講談師はおそらく地元の方言で、梁山好漢の武勇譚を物語っていたと想像される。北京語が共通語となった現代でも、杭州弁による『水滸伝』の講談が大きく受ける。ましてや、宋元の昔は地元の庶民にとって、北京語の講談は「牛に琴」にひとしいものであったろう。

　南宋以降の講談師のシナリオをもとに編まれた『水滸伝』は、言葉の上にも杭州方言の影を色濃く落としている。たとえば、天�奘星の二八番につけられた張横は「船火児」のあだ名をもつ。ちょっと見慣れぬ言葉だが、実は杭州の方言である。

　「火」は「�移」の略字、身分の低い人または群衆をさす。杭州では今も使われている。「児」は単なる語尾。今の北京語は、語尾に「児」をつけるという「児化」現象を特徴とするが、呉方言区のなかで、杭州弁だけがその特徴をもつ。たとえば、帽子を「帽児」、メガネを「眼鏡児」、老人を「老頭児」、小娘を「姑娘児」といった具合である。

　杭州方言では船頭のことを「船火児」と呼ぶが、それは宋代にさかのぼれる。『宋会要輯稿』に「船ごとに梢を招くもの四名、櫓を揺くもの四名、火児四名を用う」とみえるのは、その証拠となろう。

　もう一例、地�幅星の六八番にあたる王定六は「活閃婆」とあだ名される。これは阮小七のあだ名「活閻羅」こと「閻魔大王の再来」とは違い、「稲妻のような婆」という意味である。「活閃」は北京語ではhuoshanと発音し、意味が取れない。しかし、杭州あたりでは、南宋から今に至るまで、稲妻のことをhuaxieと称し、それに「活閃」あるいは「霍閃」の漢字をあてる。「活閃婆」は杭州弁で読むと、はじめて生きてくる。

三、病まぬ病関索

　杭州の方言を知らないと、『水滸伝』を誤読する恐れもある。たとえば、天�奘星三二番の楊雄は「病関索」と呼ばれる。関索は劉備を補佐する関羽の三男で、『三国演義』では影が薄いが、宋元時代の江南では武術抜群の英雄として崇められていた。高島俊男氏は『水滸伝の世界』（ちくま文庫）において、この人物に言及し、あだ名の「病」を次のように説明している。

歴史上の人物になぞらえたアダ名は、上に「小」「賽」「病」などがつく。「小」はジュニア、「賽」は「……もどき」の意、「病」は「顔色のわるい」の意だが、つまりはこれもジュニアなのであろう。

一見もっともらしい説明だが、字面にまんまと乗せられた。杭州の方言では、「病」を「賽」と同じ義、「勝る」という意味で用いられる。杭州の風俗を詳細に伝えている『武林旧事』を調べると、その巻十に「官本雑劇」の曲目として「病爺老剣譜」「病和採蓮」「病孤三郷題」などを列挙している。接頭語としての「病」は、杭州庶民の流行語だったことがうかがわれる。

『水滸伝』の先蹤をなす講談の話本『大宋宣和遺事』には梁山好漢三六人のあだ名がすでに現われているが、そのうち、二九人のあだ名がそのまま『水滸伝』に受けつがれ、七人はすこし変化を加えて用いられている。そこに、楊雄の原型は「王雄」とあって、あだ名は果たして「賽関索」だったのである。

このように、病関索は「顔色のわるい関索」という意味より、「関索まさり」と理解すべきであろう。それと同様、「病尉遅」の孫立（地�幅星の三番目）は唐の勇将尉遅恭よりも優れた武者、「病大虫」の薛永（地�幅星の四八番）はトラ（大虫）よりも獰猛な男である、といった意味であろう。ちなみに、孫立は『酔翁談録』によれば、最初のあだ名は「石頭」とあり、錚々たる気骨をうかがわせる。

杭州は『水滸伝』との縁が深い。むかし、西湖のほとりに武松のお墓があり、今は六和塔の下に魯智深の塑像が立っている。昨年か一昨年に、城攻めで西湖の水中で最期をとげた「浪裏白跳」の張順を顕彰して記念碑を作ろうという案が出て、地元の新聞を賑わしたことさえあった。

このような杭州に住みつきながら、日本の読者に『水滸伝』のよもやまばなしを語るのは、まことに愉快なことである。