フェアプレーについて
大相撲夏場所,
けがを負いながら出場した貴乃花は武蔵丸を破り優勝した.
翌々日の全国紙の投書らんにある意見を見つけた.
70歳代の男性のものだったが,
彼は,武蔵丸の「思い切りいけないじゃん」という談話を引用しながら,
けがをした相手に全力を出さなかった武蔵丸のフェアプレー精神をたたえていた.
ロス五輪柔道で,山下選手の痛めた右足をねらわなかったとされる
ラシュワン選手のエピソードに通じるものがあるとぼくは感じた.
同日,作家の村上龍はメールマガジンでこう述べた.
貴乃花は出場するべきではなかったと.
選手生命を失う危険があったからだ.
村上龍は,貴乃花のプロ選手としての自己管理能力に疑問符をつけた.
さらに,けがを押しての出場は,
対戦相手に不当なプレッシャーを与え,フェアではなかったと断じた.
戦う前から,けがに耐えている日本人のヒーロー対アメリカ出身者という図式ができあがっていたからだ.
これでは武蔵丸も全力を出すわけにはいかない.
もし貴乃花がどうしても出場したかったなら,
足を引きずったりしてけがの影響を表に出すべきではなかったと村上龍はまとめた.
さて,ところかわってアメリカ大リーグ.
24日,新庄は8点リードの8回に打席に立ち,
カウント0ストライク3ボールで,直球を空振り.
これが敵チームの逆鱗に触れて,翌日の試合で故意と思われる死球をうけた.
大リーグには,大差がついた試合で,
3ボールから打って出るべきでないという暗黙のルールがあるらしい.
同じような場面で,盗塁,バントもしてはいけないそうだ.
「すでに倒れた相手はむち打たない」というわけだ.
ルールを破ったものは報復の死球をうけてもしかたないともいう.
いつだったかルールを知らない新人選手が,
大差の場面で盗塁をしたためチームメイトに怒られ泣いた話もあった.
たしかこの時,盗塁は記録されなかった.
上記の新庄のような場面が日本でもあった.
22日の巨人ヤクルト戦,7点リードの9回,
投手の藤井が打って一塁へ全力疾走したのだ.
これについて大リーグと同じ理由で,巨人ベンチから非難の声が上がった.
ドシロウトのぼくはちょっと不思議な感じがする.
歴史上,7,8点差を1イニングでひっくりかえした試合だってざらにあるはず.
試合は終わってみるまで全くわからないのだ.
それに野球の目的は勝利のために全力を尽くすこと.
いくら大勝していても手を抜くのはどうなのか.
いくら負けていても盗塁を全く警戒しないのは問題ではないのか.
もうすこしややこしい例をあげる.
26日,ダイアモンドバックスのシリング投手が8回1死まで完全試合を続けていた.
ここでパドレスの選手が意表をつく二塁手前へのバント.
これが安打となり,メジャー100勝右腕シリング初の快挙はならなかった.
このバントをダイアモンドバックス側は暗黙のルール違反だと非難.
その言い分は,回も押し迫ってからのバントは臆病者のすることだとのこと.
いっぽうパドレス側は,このときのスコアが2-0と僅差だったため,
勝つために最善の努力をしただけだと主張した.
ここで連想するのが江夏の9者連続三振.
だれだって9人目にはなりたくない.
非力な打者ならバントや当てにいく打撃をしたい誘惑にかられるだろう.
それを責めることができるだろうか.
エピソードをばらばらと並べたが,
すべてに共通するのは,勝利以上に優先されるものがあるのか,
つまり,大差で負けているチームへ配慮し,
希少な個人記録に挑んでいる選手へ敬意を表すという美学が,
勝利への執念以上に優先されるのかどうかということだと思う.
異論はあるだろうが,ぼくはやはり勝利を優先したい.
勝利とは非常にかよわい観念だ.
野球選手が,ばくだいな富と名誉を得ている昨今,
チームの勝利というたかが観念のために,
けがのリスクを負って,全力を尽くす必要はないのだ.
そのうち全力プレーをしないような目端の利く選手が出てくるかもしれない.
チームが勝たなくても,
自分がそこそこやってそこそこ稼げれば十分だと思ってしまうような選手が.
ぼくはそんな選手は見たくない.
たかが観念のために必死になる姿こそぼくたちを感動させるのだ.
しかし時々かなしい試合を見かけることもある.
シーズン終盤,首位打者争いの醜い敬遠合戦や,
盗塁王をあらそう選手を擁するチーム同士の泥仕合.
そこにはすでに勝利という観念を軽視した姿勢があらわれているのではないだろうか.