謎宮会 1998/6

ダイヤモンド・サンダーボルト特別編
「さむけ」を読む。

あなたが今手にしている本、そう、その本を、あなたはなぜ読もうと思ったのでしょう?

本を読む時、私たちはいつでも「どの本を読むか」という選択をします。意識的にであれ、無意識的にであれ。
幸いなことに、今は本ならいくらでもある時代。新刊にこだわらなければ、簡単に入手できる本は数えきれません。おそらく自分が死ぬまで本を読むことに費したとしても読み切れないほどの本が、この世界のなかにあふれています。

逆に本の側から見れば、それほどの苛酷な競争を強いられていることになるのでしょう。その競争に破れた者たちは、いつのまにか書店から消えていきます。やがて、人の記憶からも。
それとは反対に、いつまでも読まれる本もあります。そういった本のごく一部が、やがて「古典」と呼ばれるようになっていくわけです。

□

とある夜のこと。とある方(かりにエヌ氏としておきましょう)から電話がありました。

エヌ氏：「……突然なんですけどね、読書会みたいなのをやることになったんですよ」
わたし：「をを、そうなんですか。で、課題本は？」
エヌ氏：「いやー、それがですね、『さむけ』なんですよ」
わたし：「げ。……どうしてまた？」
エヌ氏：「……どうもハードボイルドでみんなが読んでるのは『さむけ』くらいなものみたいなんで……」

というわけで、ロス・マクドナルドの代表作、ハードボイルドの歴史に一際明るく輝く古典的傑作、『さむけ』なのであります。はい。

reviewers

名無しの一条「さむけの中のアーチャーの立場」
新田康「なぜ忘れちゃう？」
大倉崇裕「やっぱり私はアホでした」
卯月連樹「「さむけ」を読んでの感想」
棚野　遥「誇りと香り ―或いは、「さむけ」雑感―」
ヘレン・ケラ一「『さむけ』について考える」
葉山響「『さむけ』感想」
霧山　沙緒利「嘘つきは殺人の始まり」

「さむけの中のアーチャーの立場」

名無しの一条

　私は、普段素直に物事を信じてしまうタイプの人間である。そういう意味では単純な人間といえるだろう。

　「さむけ」の場合もそうである。ミステリガイドには面白いと出ているし、その当時私は中学だったがハードボイルドに興味を持ち始めた頃だったから、とりあえず読んでみたのだ。

　面白かった。ラストで「さむけ」を感じ、その構成に唸った。そして今回内容を忘れたも同然だったので読み返した。

　すると、違った感想が浮かんできたのである。

　今までロス＝マクを何冊か読んだのだが、大概の作品では、少年少女が失踪して、アーチャーがこれを追うのだが、自分の子供の気持ちがわからずに困惑している両親（特に父親）に替わって自らが父親の様な存在になって失踪した者に応対するのだ。

　ある意味では、アーチャーはロス＝マクの理想像と言えるだろう。あるいは理想の父親像と言い換えてもいい。力強く捜査し、失踪した子供たちに温かく、厳しく接する姿は理想の父親像以外の何者でもない。

　ところが、「さむけ」では違っているのである。何が違うのかと言えば、この話には”理想の父親”は必要ないのだ。失踪するのはドリーという新婚女性で当然必要なのは「夫」である。勿論おなじみの親子関係も後になってからんでくるけれど、やはりアーチャーはお呼びでない。ドリーの夫アレックスはその立場を徐々に強くする。離婚して「夫」の資格がないアーチャーには当然とも言えるが、結局「父親」でも「夫」でもないアーチャーは第三者、傍観者としての私立探偵に戻るしかない。

　かくして物語は進んでゆくのだが、巧妙でしかも複雑なプロットが待ち受けており、これが世評も高い。最後まで読み終えた読者は戦慄を覚えるだろう。特にラスト一行は何かと話題に出される。

　だが、それだけなのか。その戦慄を覚えさせる要素がまだあると私は思う。この作品が傑作と言われ、他の作品と区別されるのにはアーチャーの”立場”に理由がある。

　アーチャーが第三者の立場になったことは先に述べた。物語が展開しても、アーチャーはこの立場を崩すことはない。ところが、最期でアーチャーの立場はひっくりかえるのだ。

　ロス＝マクの作品では失踪した人間以外に現実から逃避したがっている者が出てくる。他の作品ではただ出てくるだけだが、「さむけ」ではある人物の役割を最期の方で受け継いでしまうのだ。だからといって探偵役を放棄するわけではないが。アーチャーは犯人に「彼は逃げ出したがっていました。これでやっと逃げられました」と告げる。「どういうこと？」と犯人が聞き返す。ここで役の受け渡しが行われている。そしてそれはどんな立場かといえば、父親でもなく、夫でもない家庭内の男とは一つしかない。

　そう、息子である。最期一行、「あげるものはもう……」と言うアーチャーの言葉は探偵役の犯人への言葉であるが、息子から親への言葉でもあったのだ。先述の部分でアーチャーは息子となった……。

　それこそが、巧みに配置された構成と相まってこの作品を輝かせる理由だろう。

　ということで書くことはもうなにもないのです。

　とか何とかえらそーに書いてきたが、わたし自身ロス＝マク全部読んでいるわけじゃーない。この文章も徹夜で書いているので、頭の中が「八時だヨ！全員集合」状態になっている。あまり文章に責任は持てない。でも「さむけ」って面白いぞ。あと星評価は★★★★。★★★★☆（4,5）でもいいけど（寝）

「なぜ忘れちゃう？」

新田康

　ロス・マクドナルドの作品は、Ｅ・Ｓ・ガードナーのペリー・メイスン・シリーズによく似ている。どちらもとても面白く読めるミステリでありながら、読んだ後、内容をきれいさっぱりと忘れてしまうからである。

　これは単に僕が人一倍忘れっぽい男だからということでもないようだ。現に僕の周囲で『さむけ』を読んでいる人達に訊いてみたところ、５人中５人が内容をすっかり忘れていると答えていた。ちなみにその５人全員が、昔読んだとき面白かったという印象は、はっきり残っているという。僕もそうである。

　ガードナーの作品は「軽く読めて楽しめる」という雰囲気があるので、読んだ後で内容を忘れてしまうのも分かる気がするが、ロス・マクドナルドの作品は読みやすいのだが、決して明るく、軽快な作風ではない。特に後期の作品は『ウィチャリー家の女』にせよ『縞模様の霊柩車』にせよ、本稿のテーマである『さむけ』にせよ、ある一家の悲劇がストーリー全体を覆って、重厚というよりは少々重苦しいものさえ感じられる。中でも『さむけ』は一種のサイコ・スリラーとでもいえようか。精神的に不安定な登場人物がこれでもかというほど登場して（なんとなくディクスン・カーの作品に登場するエキセントリックなキャラクターたちを思わせるものがある）、重苦しい雰囲気に拍車をかけている。ハードボイルド特有のセリフまわしや、簡潔な描写がそれを大分和らげてはいるが、本作においてはその衝撃の真相が……おっと、これ以上言ってはいけないのだった。ロス・マクドナルドの他の作品同様、『さむけ』も実にトリッキーな本格ミステリの秀作でもあるのだから。

　これほどのものなのに、どうして内容をすっかり忘れてしまうのか？読んだ後内容をすっかり忘れてしまうミステリといえば、コリン・デクスターの初期長編（『ウッドストック行最終バス』『キドリントンから消えた娘』など）が有名？だが、これはその内容の複雑さによるものだろう。そういえば鮎川哲也の『黒いトランク』や、松本清張の『時間の習俗』など（僕にとっては）複雑極まりないアリバイ崩しテーマのミステリ作品も、内容は全くといっていいほど憶えていない。

　しかし『さむけ』は構成が複雑すぎて理解できないということもない。だとすれば、どうしてこれほど綺麗に内容を忘れてしまうのか。

　今回僕は十年ぶりくらいに『さむけ』を読み返してみたのだが、いやあ、新鮮な気持ちで楽しめましたね。なんたって読んでいても、先の展開が全く頭の中に蘇ってこないんだから（笑）。しかし犯人は途中で思い出してしまった。悔しい。

　それはともかく、改めて『さむけ』を読み返して気が付いたのは、意外なほどストーリーの起伏に乏しいということだった。……というと誤解を招きそうだな。決して話がつまらないのではない。つまり『さむけ』というのは、探偵がただひたすら人に会って話を聞き続けるという物語なのだ。物語にヤマがない訳ではないのだが、それらは登場人物の口を通して伝えられることが多い上に、物語に大きな動きがあっても描写が淡々としているので、そこがヤマ場だと一瞬気が付かないほどなのだ。同じストーリーを島田荘司が書いたら、ハッタリがこってりと効いた表現で、読者を煽って煽って煽りまくることだろう。そうか、ストーリーをすっからかんに忘れていたのは、このせいだったのだな。

　ケレン味のない表現が物足りないというミステリ・ファンもいるかもしれないが、そんな読者も結末で暴かれる真相には驚きの声をあげて、同時に慄然とするに違いない。『さむけ』は事件のトリックが暴かれたとき浮かび上がる人間ドラマが読者を圧倒する、巧緻なミステリ作品なのだ。

「やっぱり私はアホでした」

大倉崇裕

　「さむけ」の初読は、3年前の10月。読み切るまでに、一週間もかけてしまった。しかも評価は2。どうしてこうなってしまったのだろう。

　東野圭吾のエッセイ「あの頃ぼくらはアホでした」の中に、その答えを見つけた。文庫版巻末、金子修介との対談の中で、東野圭吾は自分の文章読法について語っている。

「活字離れしている世代です。小説なんかでも、文章が頭に入ってこない。ストーリーを映像に直して記憶している……」

　そこで、さむけである。ややこしい話だ。古傷を負った老若男女が、あれこれと入り乱れていく。その中にあって、「質問機械」たる「リュウ・アーチャー」はまさに「枯れた」魅力全開で走り回る。目標はただ一つ。

「三つの殺人事件を解決すること」

　自分の色を出さず、感情を吐露することもほとんどない。そんな「さむけ」の世界を、私は映像にできなかった。頭に入ってくる風景はぼんやりとしていて、擦り切れたビデオテープのようであった。パシフィックポイントは霧に包まれていたが、実際霧にまかれていたのは、この私だったのだ。

　三年ぶりの再読とあって、かなり真剣に読んだ。驚いたことにストーリなど全く忘れていた。初読とかわらない。さらに、同じ過ちを繰り返さぬため、かなり慎重に読んだ。面白い。ただ、ひたすらに面白い。これのどこが2なんだ。5じゃないか。

　古本屋にて100円で買ったぽろぽろの「さむけ」は、読了後に糸が切れ、ばらばらになってしまった。ここに至るまで「さむけ」の魅力が理解できなかった私は、やっぱりアホだったのだ。

評点　★★★★★

「さむけ」を読んでの感想

卯月連樹

何年も前に読んだ時は、「つまらない小説だ」という感想しか残らなかったが、今回読み返してみて、考えを変えた。

特に前半、失踪したドリー・マギーが一体どこへ行ったのか？なぜ消えてしまったのか？わからぬままにリュウ・アーチャーが彼女を探すくだりはいい。

アーチャーに妻の行方を探すように依頼するアレックスの不安や怒りや困惑も、丁寧に描写されており、中盤まではぐいぐいと引き込まれていった。

（これ以降、ネタばらしになるかもしれませんので、未読の方は御注意！）

志の高い精神科医のジェイムズや、元警官で飲んだくれのアール・ホフマンなど、魅力的な人物の描き方には好感が持てる。

ただ、後半の謎解き部分が、ちょっとわかりづらかった。ぼくの頭が悪いだけかもしれないが、複雑な人間関係を、もうちょっと整理してほしかった。

最初の方で、アレックスとドリーの写真をまちがってちぎってしまうくだりや、ラストの方で、アーチャーが、車でブラッドショーの車を追いかける場面などは、そのまま映画のワンシーンに使えそうな程、印象的に感じた。

権田萬治氏は解説で、ロス・マクドナルドの世界の根底には暗い諦観が潜んでいると断言しているが、僕はそうは思わない。

この作品でも、一度はアレックス・キンケイドの父親に仕事の依頼を取り消されたアーチャーが、ドリー・マギーを救うために、金持ちのブラッドショー家に依頼人になってくれるよう働きかけるところなんぞは極めてポジティヴ。

暗い諦観だけでは書けない描写だろう。

あと、気がついたのは、アーチャーがやたらと女性にもてるところか。それを言ったら、スペンサーだって、そうだが。うらやましい限りである。

今回、これを書くために、ぼくはいくつかの書店をまわってみたが、置いてない書店の方が多かった。

ものすごく売れる本ではないのだろう。佳作だし、読み応えはあると思うが、万人に勧められる小説とは言い難い。

それを言ったら、誰にでも勧められる作品なんて無いと思うが…。

星は★★★。

誇りと香り
―或いは、「さむけ」雑感―

棚野　遥

―私はこれでも新しい型（タイプ）の探偵なんです。―
（「動く標的」より）

Ｄ・ハメットのサム・スペード、Ｒ・チャンドラーのフィリップ・マーロウ、そしてＲ・マクドナルドのリュウ・アーチャー。この三人を、ハードボイルド派の探偵の御三家と云うらしいのだが、アーチャーに関しては、素直に頷けない。

桜井一氏の云うところの、ローリング・トゥエンティ（流動の一九二〇年代）の残り香が感じられないという事なのか。ハンフリー・ボガードがアーチャーだけ演じていないという事なのか。理由は幾つかあるけれど決定的なのは、多分、作品が書かれていた期間の長さという事だろう。前期と後期とでは、多少、作品の趣が異なるのだ。当然、シリーズキャラクターのリュウ・アーチャーも変わらざるを得なかったという事だろう。

そこで「さむけ」である。

この後期の傑作と云われる小説は、確かに面白い。本格ミステリー好きにも楽しめる作品に違いない。特に、万感の思いが込められたラストの一行の見事さは、鳥肌が立つほどだ。

しかし、なのである。私は「動く標的」の頃のリュウ・アーチャーが好きなのだ。そこに、「さむけ」を手放しで褒められない理由がある。ごめんね。

ハードボイルドとは、私にとっては、夢のかたまりなのだよ。

映画「マルタの鷹」のラストで、ボギー・スペード＆警官に向かって云うセリフ。

「そいつは夢で出来てるんだ」

星は★★★。

『さむけ』について考える

ヘレン・ケラ一

　この前二本立ての映画を見に行ったんだな。俺は美味しいものは後に残す方だから、目的の映画は後にして、別に見たくもない映画から見始めた訳よ。そしたらその映画がゲロが出そうなほどつまんねえの。ほとんど正視に耐えないような代物なの。おまけにその映画館は冷房が効きすぎててやたら寒いの。俺はその日二日酔い気味だったもんで元々気分が悪いところへ持ってきて、映画はひどいわ映画館は寒いわで、ほんとにこのままいたら命にかかわると思ったもんだから、見たい映画は結局見ずに出てきてしまいましたとさ。

　そういった訳でロス・マクの『さむけ』でありますが、俺は大分前に読んだきりで内容をほとんど覚えてなかった訳ね。だもんだからもう１回読み返してみたら、これがほとんど覚えてなかったどころか全然覚えてなかったんだな。完全に初読と同様に新鮮な気持ちで読みました。しかし昔読んで「これはひどく不自然な小説だなあ」と思ったことは覚えていたのよ。で今回読み返してどうしてそう思ったかが分かりました。

　この小説、登場人物が多いでしょ。その上、その多い登場人物がみんな何らかのつながりがある訳よ。これにひどく作り物めいた感じを抱いたんだな。それとそれぞれの登場人物がどこの土地に住んでいるかが読んでいく内にだんだん分からなくなってくるのよ。よその国の話だし。昔俺が読んだ時はどうした訳か、これらの登場人物が皆ひとかたまりに同じ土地に住んでるものだと勘違いしてて、そんな変な人間関係ってあるもんかいって思ったりもした。

　今回読んだらもっとひどくて、読んでいる間にも登場人物の名前を端から忘れていって、誰が誰だかわからなくなった。これは俺が馬鹿なのかも知れないけど。

　ロス・マクの小説はどれも皆こんなに人間関係が複雑怪奇でゴチャゴチャしてるんだろか。何を隠そう俺は『さむけ』しか読んでなかったので（益々馬鹿みたいに思われそうだ）、ご近所でも評判の『ウィチャリー家の女』をその後に読んでみました。そしたら、これまた『さむけ』ほどではないにしても、やはり人間関係がゴチャゴチャしてて、読んでいく内に誰が誰だか分からなくなるのは同じだった。どうもこのオッサン、こういう小説の書き方しか出来なかったみたいだ（二つだけでそう判断するのも乱暴だけど）。

　だから何故『さむけ』の内容を覚えてなかったかも分かるよな。あんまり複雑すぎて、読んだ後どころか読んでる途中で内容を忘れちゃうんだもん。まあ好き好きだけどさ、あんまり人間関係をこんぐらかすのもどうかと思うよ俺は。せっかく書いた小説の内容が忘れられちゃったら作者としても悲しいんじゃございませんこと？

結論：複雑すぎる小説は忘れる。もうひとつの結論：俺はこのところ急激に記憶力が減退してる。

『さむけ』感想

葉山響

――「アーチャーは老婦人たちに決して追いつけないだろう」（本文 306頁）

　諦観という言葉がありまして、ロス・マクドナルドというとまずこの言葉が浮かんできます。私が持っている国語辞典では、諦観の意味は「(1)本質をはっきり見極めること。(2)あきらめ悟ること。」となっていますが、ロス・マクはこの二つの意味のどちらもが当て嵌まる作家ではないでしょうか。アメリカの家族の悲劇を（糾弾するのではなく）受け入れて書く姿勢が(1)に、そして彼のミステリ作家としての飽くなき謎解きへの執念が(2)に、まさにぴったり当て嵌まっていると思います。

　今回、読書会の連絡を受けて久々に『さむけ』を読み返してみましたが、ロス・マクの雰囲気はやはりいい。暗いだけの小説よりは、希望にあふれ、主人公が輝いている小説のほうが優れているのは当然ですが、ときにはこの内省に満ちた世界観になんともいえない安らぎを感じてしまうのも事実です。但し、中期・後期のロス・マクは悲劇性を強め、特にラストで暴かれる真実は時にグロテスクと言ってもいいほどで、決して快いものではありません。しかしその真実は、本格ミステリの醍醐味である“最後の一撃”と共に明かされるため、読者は謎解きの快感を味わうと同時に苦い真実を知らされる、つまり相対する感情を一気に突きつけられる。そこがロス・マクの作品の、なんとも曲者なところでしょう。そして、その曲者さがほぼ完璧な形で現れたのが『さむけ』であると思います。

　『さむけ』を最初に読んだときは随分ややこしい話だと感じましたが、今回読み返してみると、そんなに複雑な話ではなかったな、と思いました（複雑さを求めるのなら『一瞬の敵』。私にとって、机に向かって人物関係図を書きながら読み進めたミステリはあれだけです）。但し、過去と現在合わせて三件の殺人が登場し、その辺りの書き分けが多少ややこしくなっているのがちょっと減点の対象になるでしょうか。しかし犯人の隠し方（心理的トリック）や、ラストに向けて連続するどんでん返しが素晴らしく、本格として見てもトップクラスの仕上がりであると思います。伏線の張り方も見事で、この何気なさは並の本格ミステリ作家には真似することはできないでしょう。

　そしてこれは、圧倒的に女たちの物語です。男たちは巻き込まれてうろうろするだけ、時に滑稽ですらある。能動的にも受動的にも事件を動かすのは全て女たちであり、中でも特に老婦人たち――アリス・ジェンクス、ミセス・ブラッドショー、ミセス・デロニー、そしてミセス・ホフマン――の存在感は強烈です。作中、アーチャーはゼノンの言葉をもじってこの原稿の冒頭に掲げた言葉を口にするのですが、この言葉は『さむけ』の中で最も重要な文章の一つでしょう。後半、『さむけ』はアーチャーが老婦人たちを“追いかける”話になりますが、その果てに待っていたのは重く切実で、そして恐ろしいほど孤独な真相でした。それに対してアーチャーがもらす最後の一言（これがラストの一行になります）の余韻を、未読の方はぜひ味わって欲しいと思います。

　『さむけ』を読んだ後、もう少しロス・マクを読みたくなって、現在『地中の男』を読み返しています（それなら未読の『別れの顔』などを読めばいいじゃないかと自分でも思うのですが、そこはそれ、ということで）。ロス・マクは「描写の人」だなあ、と最初に思ったのはこの作品の山火事（おお、『シャム双生児』！）の描写を読んだとき。これも傑作なのでお薦めします。

嘘つきは殺人の始まり

霧山　沙緒利

　「さむけ」の読書感想文（なんだか、小学生の夏休みの宿題みたい）を、特集で組みましょう！！と勢い良く誘われて、ついふらふらと「いいよ」と返事をしたものの、困った。本を貸したまま、返ってきていないんだ・・・・。今さら落とす訳いかないし・・・と思っていたけれど、しょうがない、買い直して読み直すか。ということで、読み直した感想です。
　最初に読むきっかけは、私が法月綸太郎作品が好きだということで、この本を紹介してくれた人がいました。
　それで、読んで見たら、ハードボイルドと本格の融合はすばらしいですね。最後のぺーじでは、背筋がたしかに「ゾッー！！」とさせられました。
　いろんな視点で感想も書くといいと思うので、たぶん、他にはこんなことを書いていないだろう・・・という目論見で、「嘘つきは殺人の始まり」です。
　この作品って、嘘ついてる奴が多いよね。最初は、失踪する妻のドロシー、そしてお次はチャック・ベグリー、アリス・ジェンクスにブラッドショー親子、ゴットウィン医師だってそうじゃない。
　ドロシーとチャック・ベグリーの嘘は、この作品の中では許せる嘘の部類かな。だって、ドロシーの場合は、自分の意思で嘘をついたというより、子供の時に洗脳された部分が多いのだから。そして、チャック・ベグリーの嘘も仕方無いのかもしれない。刑務所にいたことを知られると、生活が苦しくなるものね、仕事をさせてくれなかったり、苛められたり・・・だから、身分を偽らざる得ない。
　でもさ、ブラッドショー親子の嘘って、何度読んでも許せないんだな。特にロイ・ブラッドショーの嘘。マザコン気味で結婚したことが無いなんて振りして、ローラ・サザーランドと隠れて結婚するけれど、結婚前に付き合ってる相手はローラじゃなくて、ヘレンに見せかけてる。その為に、ヘレンは殺されちゃうんだよね。
　結婚したこと無いなんて嘘ついて、離婚手続きをこっそりして、ローラともこっそり結婚して、母親が子離れするまで待ってくれなんて、いいとししたおっさんが何言ってんだか。大体そんな嘘ばっかついてるから、あんたの所為で殺人が起きるんだ！
　嘘ってさ、一度つくと、その嘘のために、一生懸命つじつまを合わせていかなきゃいけなくて、そのために嘘を貸さね塗りするんだよね。
　そして、どっかにその嘘のほころびが見えてしまって、指摘されると、自分の今まで築き上げてきたものが崩壊するから、自分のアイデンティティまで崩壊しちゃって、相手を傷つけて自分が生き残ることしか考えられなくなる・・・のではないかな。
　私も、ある人間関係のために、会社で多少の嘘をついているけど（みんなゴメンネ。でも、嘘をつづけなきゃ駄目みたい。そのためによく喧嘩しているのだけど。）、自分が嘘をついていることを、認識しているときは、まだいいのかもしれない。この作品のミセス・ブラッドショーになると、自分のつき始めた嘘が、現実として認識しているから更に、たちが悪い。本当に、アイデンティティとの戦いになる。
　そして、現実が嘘だと気づくと他人を巻添えにして、崩壊していく。巻添えにされた奴はいい迷惑だよね。
　嘘つくと、何かいいことあるのかなぁ。強がりとしての嘘は、苛められなくなるっていう、メリットがあるかもしれない。でも、嘘をついていて、得をすることなんて、な～～んにもないじゃん。今現在、私がついている嘘も、全然メリットが無い。すっごい小さい嘘をいっぱいついているけど、自分を嫌いになるばっかり。それに、嘘をつくメリットなんにもないんだもの。不倫している訳じゃないのに、何で嘘ついてんだろう。ん？自分のはなしになっちゃった。ごめんなさい。
　つまり、嘘をついて得する事なんて、ないよって事。嘘をついたばっかりに、殺人を犯すのなら、やめたほうがいいよね。正直にいきなきゃ、と今読んで思わされた作品。
　でも、ごめんなさい。まだ当分嘘をつかなきゃいけないみたいです。

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