リレー小説☆ぴあぴあ
不意をついて投げ込まれた一撃が胸の真ん中を突いて息を詰まらせた。
浮かれていて忘れていた。自分の気持ちが満たされていく喜びが全てになって周囲に対しての気遣いを失念していた。
(アタシは……なにを……?)
彼は彼女の好きな人。
葵はそれを知っていた。ずっとずっと前からそれを知っていた。
以前には彼女の気持ちを大切にしてあげたい、応援して何とかして上げたい、そんな風にも思ったさえもあったというのに。
(わかっていたのに)
顔中の血の気がさぁっと退いていくのがわかる。
奇妙なぐらいに身体が冷めていくような感覚。部屋の気温のせいではなく、心が影響して肉体の感覚に何らかの変調をきたしていく。
ドクン……ドクン……ドクン……ドクン……
心臓の音が聞こえる。
いつもは聞こえないのに、異常なまでに大きな響きを伴って鼓膜に振動を送ってくる。
それ以外、なにも聞こえない。
音は色々あるはずなのになにも聞こえない。
(わかっていたのに……長いつきあいで、色々……わかっていたはずなのに)
彼女は葵の親友。
短大の頃に知り合って、その頃からお互いのことを大切に思っていて、互いに互いを良く知っていて、互いにない部分を羨ましく思っていて、それから、それから……
(それから……なに?)
きゅっと下唇を噛みしめる。
瞼を閉じる。固く固く、微かな光すらも通さぬように自分の視界を完全に闇で覆ってしまうように。
(それからなんだっていうのっ? それからなんだって言うのよぅっ)
肩が震え、自然と顔が下がる。
声に出来ない言葉が静かに大気を揺らす。
(……らしくない。こんなのってない! 違う違う違うッ)
それは纏まらない思考の表れ。葵の頭の中で展開された混乱の具現。
葵は左手で顔を覆った。
堪えきれなくなった感情がじんわりと吹き出してきて睫毛をほんのちょっと湿らせていった。
Project「リレー小説☆ぴあぴあ」Presents
皆瀬葵「心に秘めた固い決意」
Written by 新場カザン
「納入の品物はこれで全部でしょうか?」
トラックから荷物を下ろし終えた業者の人が確認の為に聞き返してくるのに耕治は下ろしてもらったばかりのダンボールの数を数えながら応じる。
「ひのふのみの……はい。全部あります。お疲れ様でした」
確認が取れると納品書からから視線を上げて笑顔でぺこっとお辞儀をする。
なには出来なくとも、仕事をしてくれた人には礼儀をもって応じる、これぐらいのことはして当たり前だと耕治は思っているから自然にそういう対応が出る。
「はい。それじゃあ……ここにサインをお願いします」
業者の方もそうやって気持ちよく対応してもらえれば気持ちよく仕事が出来る。
耕治に向けて笑顔を返しながら続けて作業をこなしていく。
「あ、はい」
確認と共に伝票が差し出され、サインが求められる。
ここには店長代理の耕治ではなく、マネージャーの涼子がサインをしなくてはならない。
だから耕治は傍らの涼子に声をかけるのだが……
「涼子さん……?」
「え? な、なに? どうしたの?」
「あ、サインなんですけど」
「ここにお願いします」
「あ! ご、ごめんなさいっ」
一瞬、涼子のレスポンスが明らかに遅かった。
ここにいるのは荷物の確認と受領のためのサインを入れる、それ以外の目的はないというのに、今の涼子は心ここにあらずという感じでどこか遠くを見ているような感じだった。
(……なんか変な間が空いたな)
あたふたしながら業者との対応に戻ってサインをする涼子の姿を傍らで見ながら、耕治は微妙に空いた涼子の反応までの数秒がなぜだか妙に気になっていた。
「さて、と」
呟きを敢えて声にして、気持ちに気合いを入れ直しながら耕治は腕まくりをする。
搬入された荷物を今度は倉庫の方に移していかなくてはならないのだ。
(仕事に男女の違いはないとかなんとか言っても、やっぱり肉体構造上鍛えてでもいない限りは男の方が力があるもんだし、こういうのは俺の仕事だもんな)
店長のいない今、力仕事が出来るのは耕治ひとりだけ。
一応登録上は男だとされているメンバーがひとりいることはいるのだが、事実を知っている耕治からしてみたら潤に力仕事をさせるつもりには到底なれない。
(よし!)
今日、搬入されたのはダンボール箱が五つ。
何度か往復すればそれで片が付くだろう。見た感じ、さほど重たいもののようにも思われない。業者の人が箱を下ろしていたときも楽々運んでいたように耕治の記憶にはインプットされている。
「それじゃ俺はこれをとっとと運んじゃいますんで、涼子さんは先に戻ってて下さい」
自分の後ろの位置を振り返っていつものように声をかける。
「……」
だが、まるっきり反応がない。
「涼子さん?」
「……」
涼子は確かにそこにいる。とぼとぼとこちらに向かって少しずつ歩いてもいる。
(さっきといい、今の涼子さんといい、なんかちょっとおかしいぞ。搬入の前まではいつも通りだったのに……)
眉を顰める。
おかしくなるにしても体調を崩すとかそういうのであるのならば涼子の激務の状況からしてわかることなのだが、こういう鬱に近いような、それこそ夢遊状態にしかもいきなり陥る要素というのは耕治からしてみたら全然思いつかない。
(兎に角、こんな寒い中でふらふらしてたら良くないよな……)
朝方から雪が降っていた空間である。
今は小康状態で厚い暗い雲が空を深く覆っている。
雪は降ってこそいないが、地面には朝方そこに雪が降っていたという証明する痕がしっかりとそこかしこに残っている。
「涼子さんっ!」
耕治は少し大きな声を上げると共に涼子の肩を掴んだ。
声だけでは涼子は気付かない。
なんとなくそんな気がして少し手荒かも知れなかったが彼女の身体に触れて気をこちらに向けることをしてみた。
「あっ」
瞬間の涼子の反応。
強くもなく弱くもなく、肯定でも拒絶でもなく、ごく普通に驚いたという表情。
なにが起きたのか一瞬わからなくて、耕治の事すら認識したかどうか。
「前田君……?」
「どうしたんですか? 涼子さん……なんか調子悪そうですよ」
「え」
「……何はともあれ、ここは寒いですから中に入って下さい。無駄に此処にいたら風邪をひきますよ」
言って、耕治は唇を笑みの形にした。
色々聞いてみたい気はしたが、聞いたところで自分が力になれるのかどうかそれがわからなかったし、出過ぎるのは良くないと身をもって経験していたからこの場は堪えておく。
(今は仕事中だし、俺の天性だろうがなんだろうが、余計なことに首を突っ込み過ぎると自爆するだけだから……)
心配じゃないわけではないが、この場で話を聞いたところで今の耕治に出来る事がほとんどないのはまず間違いない。寒いところで話を聞くぐらいならば、中で葵や他のキャロットのメンバーについていてもらった方がマシというものだろう。
「……前田君」
「ホントに風邪をひきますよ。なんか調子悪そうだし……」
「えっ? そ、そんなこと……」
言われて気がついたというようにあたふたと言葉を続けようとする涼子だったが、そんな風に自分の状況を取り繕うとしている時点で耕治の言葉が紛れもない事実だと肯定してしまっているようなものだった。
「だ、大丈夫よ」
「涼子さん」
呼びかけながら、耕治は静かに涼子の眼鏡の奥をすっと見据える。
瞬間、涼子がはっと息を飲む。
奇妙な緊張感が二人の間を流れる。
一方は関連したひとの存在に負い目があるから。
一方はそれに気付かず、ただただそこにある人のみを心配しているから。
互いの思いのすれ違い。
気付かぬが故の落ち着かぬ雰囲気。
「……」
「……」
冷たい空気の中を沈黙だけが流れていく。
長い時間ではない。
長い時間だったかも知れない。
そして、冷たい静寂は耕治の明るい声によって極々自然に破られた。
「ここは俺ひとりでどうにか出来ます。少しは俺を信用して仕事、任せてくれませんか?」
笑顔。
涼子に向けられたのは笑顔。
普段から耕治が皆に見せる、屈託のない笑顔。
「あ……」
涼子は言葉を失った。
気付かされる。自分がなにをしていたのかに。
気付かされる。私情で自分が心を乱していたことに。
(さっきまでの事は、ここで考えるべき事じゃないわ)
だから頭を切り換える。
ここで自分がどうしようもない気持ちを抱えてひとりで意地を張っていたところで耕治を困らせるだけでなんの解決にもなりはしないのだ。
だから耕治に言葉を返す。
溜息と一緒に、これまでのお詫びと自分が今どうしたいのか、ちょっとした希望を乗せて、現在の店長にその旨を伝える。
「ご、ごめんなさい。別に前田君を信用してなかったわけじゃ……」
「あ、いえ。イヤな言い方でした。すいません」
「……ええと、それじゃお願いして良いかしら?」
「もちろんです。任せて下さいよ! これでも一応は店長なんですから」
言いながら耕治は右腕を曲げてポーズを取ってみせる。
そんな風に気を遣ってくれる耕治の配慮を涼子は有り難いと思う。
「ふふ。それじゃお願いするわね。あ、それと……」
「はい?」
考えついたお願い。
今、どうしても考えなければいけない事。
自分一人で答えを出さなければいけない事。
その為に必要なもの。
それを涼子は耕治からもらわなければならなかった。
「少し……少し長めに休憩時間をもらっても良いかしら? 休憩の時間の途中で搬入が来たから中途半端で申し訳ないのだけれども」
「いいですよ。涼子さんいつも大変そうですし」
耕治は極めて鷹揚に応じる。厳密に休憩時間を仕切っているわけではないし、確信的にサボりを励行、敢行しているようなメンバーもいないのだからこれといって問題もない。
(涼子さん、今日はなんか調子悪そうですし……)
これは胸中で付け足す。
何かにつけて生真面目な涼子のことだから、余計な事で気を遣わせているとわかったら自分から出した条件でも取り下げかねない。
「……ありがとう。それと図々しいのだけど、もうひとつ」
「はい。なんですか」
今度は涼子の方がすっと視線を真っ直ぐにして耕治の瞳を真っ直ぐに捉えた。
少し気持ちが落ち着いてきた。
どのぐらいの時間、ここでこうしていただろう?
それほど長い時間のようには思われないけれど、自分自身の思考の中に身を落ち着けている時の感覚などとても曖昧で当てになったものじゃない。
「……」
ここには今、誰もいない。
ひとり。自分だけがここにいて、孤独が心を満たしていく感覚になんとなく酔っている。
小休止の時間にちょっと顔を出しただけだから、仕事に戻らないといけない。
ゴォォォォォォォォォォ……
普段は全然気にならない暖房のたてる音がやけにけたたましいそれに聞こえた。
手元にあるコーヒーのカップは暖かい部屋の中にあったにも関わらず、もはや微塵も温もりを感じない。
(仕事、戻らなくちゃ)
いつまでもこうしてはいられない。
これでも自分は責任のある立場なのだ。
ちゃらんぽらんだろうが、楽しくやろうとして色々な事を仕掛けているお姉さんでも、この職場においてはフロアリーダーという重要な役職にあるひとりの責任者でもあるのだから。
「今はくよくよなんかしてられない」
目元を軽く擦って立ち上がる。
もしかしたら化粧が剥げてしまっているかも知れないから、出る前に鏡を見ておく必要があるかも知れない。
(化粧なんてしてるのかしてないのかわからないぐらいにしかしてないけどね〜)
本来ならこの歳になればみんなしっかりとしているのかも知れないが、自分ー葵ーは化粧はあまりしていない。
まあ、必要を感じていないからしないというのもあるが、飲食店関係で働いているのに化粧を派手にしているというのはどうにもおかしいと当人が感じるのもその一因だ。
「……」
化粧、自分ぐらいの年齢というところから涼子の言葉を思い出す。
今日、自分に突き付けられた一言。
なにもかもわかった上で自分に向けて発せられた、あの言葉。
『宴会、私は呼んでもらえないのね・・・』
聞いた時、はっとなった。
自分の事ばかりで親友の事を忘れていた自分がいて、自分勝手さに情けなくなった。
彼女の気持ちを知っていて、その上で前田耕治、彼のことを好きになった自分がもの凄く悪いことをしたのだと、そんな気持ちになった。
だから、泣いた。
気持ちが押し殺せなくて、張り裂けそうになる気持ちを自分の中にしまっておけなくてそれを表に出してしまった。
けれど……!
(負けてなんかいられない)
意識してしまったのだから。
彼女と同じように彼のことを大切だと思うようになってしまったのだから。
ひとりの女性、皆瀬葵として、ひとりの男性、前田耕治を意識してしまったのだから。
(気持ちも伝えてないのに、涼子が好きだからって理由だけで諦めてたまるもんですか)
友情と恋愛と。
天秤に掛けてどちらが下がるか。
文章やゲームなんかだと良くある話だ。
(耕治クンが涼子の方を好きだって言うなら、アタシは身を退くけど……)
奪い合い。
そんな修羅場は御免だと思う。
友情と恋愛と。
拗れた場合の両立。
甘ったれたこと、綺麗事を言っているのかも知れないけれど、自分はそれで良いと思う。
『どうしてではなくて、ダメだじゃなくて、自分がそれを踏み出さなかったことを自覚する』
『自分が何を望むのか、そのために何をするのか、くだらない拘りにいつまでも囲われていてそれで良いのか、自分を見つめ直す』
『出来ない出来ないって喚いているなら誰にだってできるわけで、そういうのを自覚するのとしないのとじゃ大分違う』
『不満を託つぐらいなら自分で動き出そう、くだらないことに囚われずに思うままに』
出来る事をする。
先の為の努力をする。
自分の望みの為、自分が目指す先の為。
「……」
けれど、限界もまたある。
全てが全て、自分が望むままにいくとは限らない。
自分の出来る事は動いていく現実の中で精一杯生きていく事だけだから。
その中で自分がどれだけ望む方向に自分を動かしていくことが出来るか、それだけの事だから。
(出来る事は出来る限りする。限度を弁えて、だけどね)
葵はひとつ息を吐いた。
それからぶるぶるっと頭を振るうと颯爽とした足取りでバックルームを後にした。
動く背中に余計な影はもう差していなかった。
葵に対しての自分の仕打ち。
自分がそれだけのことをした事に涼子は胸の軋むような思いをしていた。
そんな事をしてなんの意味がある。
葵と自分の関係の歯車に微妙なズレを生じさせるだけではないのか。
これまでだってこんな事はあったじゃないか。
葵に近づく為に自分に声をかけてきた男達がいたではないか。
自分と葵を比較した場合、どうしたって葵の方が男性から見て魅力的に見えるのだから。
自分がどう足掻いたところで葵には敵わない。
わかりきったことではないか。
ずっとずっと昔から、葵とのつき合いが始まってからわかりきっていたことではないか。
(でも、だからこそ割り切れないのかも……)
自分がホントに葵の事を羨ましく思っていて、敵わないと感じているから。
大好きなひとを葵が好きになってしまった事。
それが悔しいのかも知れない。
だから、あんな事を口走ってしまったのかも知れない。
『宴会、私は呼んでもらえないのね・・・』
葵だって知っていたはずなのに。
自分が彼のことを好きだという事を。
口に出して言ったことはない。
けれど、悟られているなと自分では思っていた。
長いつきあいだし、幾度となくからかわれもした。
(どうして……どうして前田君なの……)
他にも男の人はいるのに。
どうしてふたり、同じ人を好きにならなければいけない道理があるのだろう?
「……」
答えなんて出ない。
それが現実。
男の人を好きになってしまった女がふたりいて、その好意を向ける対象が偶々共通だったというだけ。
ただ、それだけ。
「涼子さん、います?」
「あ、はい」
バックルームに響く控えめなノック音。
時間は午後二時五十三分。
昼の休憩というには遅い時間だが、店長代理という立場に貼り付いてからというものの、耕治の昼休みは大抵このぐらいになってからだった。
がちゃり
「お邪魔します」
涼子が扉を開けると耕治が昼食を乗せたトレイと共に入ってくる。
今日はごく普通にランチセットを昼食としたようで、おなじみのランチが乗っていた。
「涼子さん、お昼は?」
「あ、先に済ませたから。前田君は気にせず食べちゃって」
「そうですか」
言いながら耕治は涼子の向かい側に座る。
「忙しいのにわざわざ呼び立てちゃってごめんなさい」
「気にしないで下さいよ。休憩時間なんだし。あ、少しは気分良くなりましたか?」
「え……あ、はい。お陰様で」
そう答えて笑う涼子に耕治はうんうんと首肯した。
先程、搬入時の様子といったらとてもとても見ていられないものだったから。
「それで、話って?」
ランチを片付けながら耕治は続ける。
ここに来たのは食事を摂る為でもあるが、搬入が終わったときに涼子に改まった感じで頼まれたからでもあるのだ。
「……」
耕治の言葉に涼子は一度瞼を閉ざす。
少し俯いて、なにかを考えているようにも、酷く思い詰めているようにも見える姿勢でしばし動きを止めてしまう。
「涼子さん?」
そんな時間が二十秒ぐらい続いてしまうと耕治もちょっと不安になる。
(な、なんかとんでもないこと言い出すんじゃないだろうな……)
一体何を言おうとしているのか、自分に向けてどんな言葉をくれようとしているのか。 耕治は自分の心臓が徐々に大きな音を立てていくような気がした。
少し改まった感じで話を聞いて欲しいとは言われたものの、これといって複雑なものもないだろうとなんの考えもなくここまで来たのだが、こういう状況を前にしてみると何らかの覚悟が必要だったのかと変なことも考えてしまう。
(覚悟って言っても、なんの覚悟なんだぁぁぁぁぁっ)
「前田君」
心に汗が噴き出し始めた頃、涼子が顔を上げてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「は、はいっ」
思わずぴしっと姿勢を正してしまう。
涼子の声が厳しかったわけでも、自分になにか疚しいところがあるわけでもなかったけれども、意識が先行して自然と背筋が張ってしまった。
「どうしたの? 急に姿勢を正したりして」
「い、いえっ。なんでもないですぅっ」
「……そう?」
言いながら涼子はくすくすと笑う。
耕治の反応を楽しんでいるのか、それとも他の理由があるのか、この時の自身に余裕のない耕治には俄に判断が付かなかったが。
「で、本題だけど」
「……」
テーブルに頬杖をついて、ちょっとらしくない恰好をして涼子。
耕治はその仕種におやっと思いながら、逆にその不自然さが故に自身がリラックスしていくのを自覚した。
「前田君、葵のこと、好き?」
だが、耕治はそのくつろいだ瞬間が刹那の幻であったことにすぐに気付かさせられる。
「えっ」
涼子の言葉が脳裏に突き刺さる。
少なくとも、普段の涼子からあっさり聞いてしまうような一言ではない。
まして、休憩中とは言え、キャロットという空間の中で。
(今、俺に葵さんが好きかどうかって聞いたんだよな?)
涼子の口から出たとは信じ難い言葉が頭の中で複雑に反響してぐわんぐわんと鳴っているような気がした。
困惑。
そう表現するのが一番的確で、それ以外に今の状況を表す言葉はないようにさえ思えた。
「涼子さん……?」
急に気温が下がって、尋常でないほどに凍てついた雰囲気がここにある空間を包み込んだ。先の一言が発せられる以前に存在した和やかで落ち着いた空気はもはやここにはなく、微妙な緊張感が互いの肌を灼いてすらいた。
「こんな事言うのはおかしいし、今言うべき事じゃないのもわかってるわ……」
互いに身動ぎすら出来ない空気の中で涼子が先に口火を切る。
表情に余裕らしきものはまるで窺えない。真剣そのものの瞳と口調。それが意味するものが一体なんであるのか、色恋沙汰に鈍い耕治であってもなんとなく気付いてしまうような勢い。
(こ、これって……? う、嘘……)
徐々に、けれども信じられないぐらいのスピードで上がっていくその場の熱気。
気温ではなく、概念的なもの。
膨れあがって今にも爆発してしまいそうな、そんな圧迫感。
(涼子さんが俺のことを意識してた? いつでも冷静にしていて、いい加減な態度でみんなに見咎められた時にも平然としていたのに?)
現在の状況を耕治は驚きと共に受け止める。
相手の事をこれまでにそんな風に意識していなかったから。
双葉涼子という存在が魅力的であるとかないとかというのとは別で、自分の中で彼女の事を恋愛対象として見なしたことがなかったから。
(俺を……気にかけてくれていた?)
衝撃の後に徐々に気持ちの暖かくなるような、じーんと感じ入るようななにかが胸の奥に広がっていく。心地よい痛みを伴った暖かさ。そんなものがあるとすればきっとこんな感じなのだろう。
(だけど……俺は……)
気持ちは嬉しい。それは間違いない。
誰かに特別な感情を持ってもらうとはどういう事か、それが今の耕治にはわかるから。
(俺は……その気持ちを受け入れる事は出来ません)
自分にも好きな人がいるから。
気持ちを伝えたい人がいるから。
「でもっ!」
耕治の思考が終わるのを待っていたかのように涼子が勢い良く立ち上がる。向かい側から感情を吹き上がらせるかのように机を押して身を乗り出してくる。
潤んだ瞳、必死にも見える形相。ここまで来れば耕治といえども涼子がなにを言わんとしているのか、それを理解することは容易だった。
「……」
だから……真っ直ぐに両腕を突き出した。
涼子の正面に掌を開いて。
「あ……」
頭を下げて、視線を逸らして、耕治は涼子の気持ちを拒絶する。
ずるいとは思う。
けれど、聞いた後で自分がそれを拒絶できると言い切れる程の自信は耕治にはなかった。
「……涼子さん、最初の言葉の答え、言わせて貰っても良いですか?」
だから、こんな言葉を紡ぎだした。
卑怯だとわかってる。こんな言い方、男らしくない。
卑怯だとわかってる。気持ちをぶつけようとしてくれた人に対して失礼だってそう思う。
(ごめんなさい)
気持ちが痛い。こんな事しかできない自分の気持ちが情けない。
小さな声しか出せない自分。心の弱さがとても悔しい。
「……」
「……」
沈黙。
ふたりの間に流れる、長い長い沈黙。
そして……
「……ええ。聞かせて」
無限にも思える静寂が過ぎ去った後、涼子は言った。
瞳を伏せて、どこか寂しげに表情を俯かせて。
「はい」
心が酷く軋むのを感じながら、それでも真っ直ぐに涼子の姿を視界に収めて、耕治は言を継いだ。
続く
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