白い世界へ

水無月 初香

2


「こんにちは。」
 その日の昼過ぎ、来るはずのなかったアキトが店に顔を出した。
「あら、アキト君。どうしたの?」
「うん、今日は予定が空いちゃったから。」
 アキトは週末の三日間だけと言う約束で、この店のステージに立っていた。
「ねぇ、春菜さん。ちょっと気になってるんだけどさ、春菜さんのフルネームってなんて言うの?」
 カウンターにいる春菜に向き合うかたちで腰掛ける。
「私の名前は春菜よ。ただの、春菜。他は内緒。 はい、寒がりなヴォーカリストさん、特製ホットレモネードよ。」
「ありがと。…なんで内緒なの?」
 海風にさらされて、唇まで蒼ざめているアキトへ、湯気を立てるマグカップを渡す。
「必要ないからよ。」
「必要ない?」
 開店準備の為に忙しなく動いていた手を止めて、アキトの方へ向き直る。
「そう、必要ないから。 案外そんなものだと思わない? ホントの名前がわからなくても、その人の本質が分かるなら親しくなれるものよ。あなた達もそうでしょう?」
「そっか、そうかもね。笙ちゃんのこと何も知らないし、僕のことも何も言ってないけど、僕、笙ちゃんといるの好きだもんな。」
「だからさぁ、最初っから言ってるだろ。素性とか関係なくて、アキと一緒にいたいって。」
 突然、頭上から声が降ってくると同時に、アキトの肩に重みがかかる。
「笙ちゃん・・・」
 振りかえると、アキトの目の前に笙哉の顔があった。
「でもいいや、好きって言ってくれたし。」
 くすくすと笑いながら、アキトに凭れていた体を起こし、並んで座る。
「あ・・・それは、一緒にいるのがって意味で・・・」
「じゃ、俺の事嫌い?」
 真顔で問われ、少し戸惑ってしまう。嫌いかと問われればそうではないし、だからと言って、正面きって好きだとは恥ずかしくて言えない。
「・・・嫌いじゃない。」
「なら、問題ないじゃん。良かった。両想いで。・・・っと、ところで、今日はどうした? 平日来るなんて珍しい事して。」
「別にどうもしないよ。ただ、予定が空いちゃって暇してたから。」
 少し紅くなった顔を見せたくなくて、影になるように背けてみる。
「ふーん。じゃぁ今日はお客さんだ。あ、でも、今日アキがいるなら、アキに歌ってもらおうかなぁ。」
 隠したつもりでも、笙哉にはバレバレで、紅くなった頬を楽しそうにつついている。
「やめろって。」
「いいだろ、触らせろよ。・・・お前ホントにかわいいなぁ。」
「あんた達、何やってんのよ・・・」
春菜が呆れた顔で二人を見つめていた。


「葉月さん。音合わせ、もう終わりにするんですか?」
 部屋の奥から笙哉を呼ぶ声がする。
「あー、やべ。」
「やだ、笙哉ったら、とーるくんほったらかして来たの?」
 頭をかきながら笙哉が席を立つのを、春菜が咎めるような声で呼びとめる。
「あいつのこと忘れてたんだよ。アキ、また後でな。」
 春菜を軽くあしらってから、アキトへ声をかける。
 自体を飲みこめないできょとんとした顔を見せるアキトの頭を軽く叩いてから、部屋の奥へ戻って行った。
「ねぇ、春菜さん。今の人ダレ?」
 笙哉の姿が部屋の奥へ消えてから、アキトが春菜に尋ねた。
「そうか、アキトくんは知らないのよね。あの子はね、氷室 透流っていってね、あなたがいない時に笙哉と組んでやってるのよ。」
「そうだよね・・・僕がいない時に笙ちゃんのピアノで歌ってる人がいるんだよね。」
 カウンターに乗せた腕に顔を埋めるようにして、アキトは小さく溜息を洩らした。
「もしかして僕、その人の仕事横取りしちゃったんじゃない?」
 その事実にやっと気がついて、がばりと顔を上げる。
「そんなヘコンだ顔しないの。アキト君が悪いわけじゃないでしょう。あなたと組みたいって我侭言ったのは笙哉なんだから。あの子がアキト君を必要としてるのよ。」
「でも・・・」
 捨てられた仔犬のように頼りなく瞳が揺れている。そんな顔をさせたくなくてかけた言葉は、どうやら逆効果だったらしい。かえってしゅんと耳を垂れる。
 ふらっと店にやってきたあの時から、臆することのないなつっこい態度ですぐに打ち解けた少年は、思ったより弱かった。彼のなつっこさは、弱さを隠す壁であり、自分を守るための武器なのだ。
「もし、そうだとしたら、もうやめる?」
 春菜の問いに答えが詰まる。もし、自分が彼の仕事を奪っているのなら、成り行きで始めた自分より、音楽をやる気の彼に譲るべきなのだろう。それはわかってる。頭では理解しているのだ。でも、だからと言って『それじゃぁ』と言ってやめられるほど簡単ではない。
 負の思考に取り込まれそうなアキトの耳に、笙哉のピアノが聞こえてくる。
 奥から流れてくる笙哉の音を、全身を耳にして拾う。
 初めて聞いた時と同じ、甘いくせに殺伐とした旋律。自分との時にはない、寒々しい音。例えるなら冬。
 一緒に歌う時の春みたいな暖かい音も好きだが、笙哉のこの音も嫌いじゃない。笙哉の持つ厳しさや、寒さ。アキトには見せないもう一つの笙哉の顔をこの音から窺い知れる。
 この音を手放すなんて出来る筈がない。
 笙哉が必要だというのと、きっと同じくらいアキトにも笙哉が必要なのだと改めて思い知る。
 ピアノの音にかぶさるように聞こえてくる透流の声に、胸のどこかが痛くなる。自分の居場所を盗られたみたいな喪失感。本来なら自分が彼の居場所を奪ったのに。盗られたと思うのは傲慢なのか。


 がしゃぁぁんっ!
 不意に音楽が止み、不快な破壊音が奥から響いた。
 音に驚いて、カウンターにいる二人の視線が奥へ向く。
「どうしたのかしら。」
「僕、様子見てくる。」
 アキトが慌てて席を立つと同時に、奥から透流の声がする。
「一体どう言う事ですか? 話が違うじゃないですかっ。あの曲は俺にくれる約束だったはずでしょう。」
 その言葉に、ドアの前まで来たアキトの足が止まる。
「今更できないなんて言われても、俺には納得できません。」
「別に出来なかったわけじゃないんだ。ただ、それがお前の色と合わないんだ。」
 続いて聞こえる笙哉の声。いつのも自身満々な声とは違う、暗い声。
「どーせ、あいつなんでしょう。最近の葉月さんいつもそうだ。あいつが来てから、俺との約束を守ってくれた事ないじゃないですか。これで3曲目だ。」
 透流の声だけが静かな部屋から聞こえてくる。
「俺は、あなたがいろんなコンクールを荒らしまくってる時からあなたの音にあこがれて、ピアノコンクールから姿を消したあなたを探して、やっと見つけて、専属にしてもらえるまで何ヶ月も通い詰めたんだ。あなただって、俺の声を認めてくれたから俺を専属にしたんでしょう。やっとあなたの音に辿り着いたのに。それを・・・」
「とーるの声は、昔の俺の音なんだ。だから・・・」
 重い沈黙。張り詰めた空気が、ドア越しにアキトの肌に伝わってくる。
「俺の声ではあなたの影響に、葉月さんの作曲意欲の影響になれないんですか?」
「やっと、見つけたんだ。・・・俺の求めてる音を。」
「それが、あいつなんですか?」
「悪い・・・」
 透流の硬い声が虚ろに響く。それに答える笙哉の声も、今までに聞いた事のない声で、アキトは、ドアを開ける事も、その場から立ち去る事も出来ずに立ち尽くした。
 あたりを静寂が支配する。
「俺は、もう、用なしなんですね・・・」
 それを破ったのは、透流の声とドアへ近づく気配だった。
 その気配に気付いたアキトが一歩退くのと同時にドアが開かれる。
「あ・・・あの・・・」
 かけたアキトの声を、憎悪の篭った視線で黙らせると、そのまま店の外へ姿を消した。
「ねぇ、笙ちゃん。・・・今の人・・・」
 ピアノの椅子に浅く腰掛けた笙哉の方を振り向くと、笙哉は暗い陰の残る顔をアキトに向けた。
「良いんだ、アキ。・・・それより、アキに頼みがあるんだ。」
「何? 笙ちゃん。」
 力なく呟く笙哉の元へ歩み寄り、視線を下に移した頭を軽く抱きしめる。
「今日のステージ、歌ってくれないか? アキが来た日に作った曲なんだ。あいつにやる約束で作ってたんだ・・・だけど、あの日アキに逢ってから、何かが違う気がして・・・」
 初めて逢ったあの日の曲。二人を引き寄せたあの曲は、笙哉に、新しい世界を見せた。そして、それは、アキトにとっても。
「僕でいいの?」
「アキに歌って欲しいんだ。」
 背に回された腕に力が篭るのを感じて、アキトは小さくうなずいた。


 ブラックライトに照らされた、薄暗い店内。人のざわめく低い音。その音を掻き分けるように響くピアノの音色。店の奥には造り付けのステージ。そして、その中央を抜くピンスポット。
 その光の中に、白い衣装を身につけた華奢な体が浮かび上がる。
 流れる旋律に、アキトの声が乗る。彼はその本能で互いの力を引き出す術を心得ているのか、歌が始まると、二人の音が格段に良くなる。
 店内は静まり、その二人の音を聞き入った。
 それがアキトの持つ魅力なのかも知れない。アキトの音が笙哉の音を変えた。この音を知ってしまった今、笙哉にはもう、昔の音に戻る事など出来なかった。
 自分を変えたアキトの声は、他人に聴かせるのが少し勿体無くて、このままどこかへ隠して、誰にも聴かせず、自分のためだけに歌って欲しいと、何度願ったか分からない。
 だけど、アキトの声を、二人の音を、万人に見せ付けてもやりたかった。
 それに、アキトの声のない音を奏でる気もなかった。
 喉を振るわせ、心の中にある何かを絞り出すように歌うアキトの華奢な背中を視界に収める。
 何よりも大切な自分の居場所を確認する。いつもの風景が何も変わらぬ事に安心して、顔を鍵盤に戻す。
 その時、何かが視界に引っかかった。
 慌てて視線を引き戻すと、入口の近くに、先刻袂を分かったはずの透流の姿がある。
 一瞬、笙哉と目が合うと、そのまま体を反転させ、振りかえらずに店を後にした。
 最後に見たその顔は、なぜか楽しそうで、でも、どこか歪んで見えた。
 ただならぬ予感が笙哉を襲う。頭のどこかで警鐘が鳴り止まない。
 危険を察知した笙哉のカンが、アキトの頭上へ彼の視線を向けさせた。
 アキトを照らす唯一の光源であるスポットライトが、ぐらりと傾くのが見える。
「アキ・・・っ」
 笙哉が声を出したのと、アキトが上を向いたのは、ほぼ同時だった。
 自分を目掛けて落ちてくるライトを大きく瞳を見開いたまま、アキトの体は動けなかった。
 店内の悲鳴を聞きながら、アキトが最後に見たものは、視界を埋める白い光と、笙哉の腕。そして、紅い、何か・・・


 硝子の砕ける大きな音が店内を揺るがす。
「アキト君っ! 笙哉っ!」
 悲鳴に近い声をあげて、春菜がカウンターから飛び出してくる。
「・・・笙・・・ちゃん・・・?」
 こぼしたアキトの声は、騒然とした店内の音にかき消される。
「アキト君っ! 大丈夫なの?」
 人に阻まれて二人に近づけない春菜の叫び声も、アキトには聞こえていない。
 砕けたライトからたいして離れていない距離に、アキトは座りこんでいた。アキトを突き倒したままの体勢で横たわる笙哉の体を、その膝に抱いたまま。
「笙ちゃん・・・?」
 真っ白だったアキトの衣装を、笙哉の血が紅く染める。
「笙ちゃんっ!」
 ぐったりとした笙哉の体を抱えなおし、血の流れる傷口に、止血しようと脱いだジャケットを押しつける。
 その痛みに、笙哉の体がびくりと反応した。
「笙ちゃん」
「・・・アキ・・・けがは?・・・」
 痛みに歪む顔に無理をして笑顔を浮かべる。
「アキ・・・アキ、けがは・・・?」
「大丈夫だよ。笙ちゃんがかばってくれたから。」
「良かった、アキ・・・アキは、俺が・・・守るから・・・」
 強く握り締めた笙哉の手が急速に力をなくしていく。
「っ! ねぇ! 笙ちゃんっ!」
 涙声で呼ばれる自分の名前を聞きながら、笙哉はその意識を手放した。




 消毒液の匂いがする白い部屋に、ベッドが一つ。聞こえてくるのは、シャリシャリとリンゴの皮をむく音だけ。
「おーい、アキちゃーん。いつまでむくれてんだよ。」
 一つしかないベッドの主が、その傍らでリンゴをむくアキトに声をかける。
「知らない。」
 むすっとした顔で、黙々とリンゴをむき続けるアキトは、笙哉の問いをばっさりと切り捨てる。
「アキトくーん。ねぇ、機嫌直してよ。」
「あのね、笙ちゃん。僕がなんで怒ってるか分かってるの?」
 むいたリンゴを笙哉の前に乱暴に置くと、真っ直ぐに笙哉の顔を覗き込む。
「さあっぱり。」
 笙哉の飄々とした答えに、アキトの頬が更にむうっと膨れる。
「なんで、あんな事したんだよ。」
「アキ・・・?」
 拗ねていたアキトの顔がとたんに暗く沈む。
「気がついたら目の前に笙ちゃんが倒れてて、血がいっぱいでて・・・僕、どうしたらいいのかわかなくて・・・」
 目尻にたまった涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ出す。
「守りたかったんだ。アキの事、大切だから。アキだけは俺の手で守りたいと思ったんだ。」
「・・・それは、すごく嬉しいと思う。けど、もうこんな思いはしたくないよぉ。」
 流れる涙を拭う事を忘れて、言葉を紡ぐ。
 アキトの頬を流れる涙を指で拭うと、その体を自分の胸に閉じこめた。
「ごめん、アキ。心配させて。」
「笙ちゃんの傷、残るかもしれないね。」
 笙哉の胸に顔を埋めながら、傷口のある脇腹へアキトの手がのびる。
「やだな。そんなの・・・」
「アキ・・・。 お前、ほんとに可愛いよなぁ。アキのそういうとこ好きだ。」
 腕の中の愛しいその存在を力いっぱい抱きしめる。
「アキは? 俺の事好き?」
「うん。僕も、笙ちゃんの事好きだよ。」
 傷に障らないように背中に回した腕に力をこめる。
「アキ・・・」
 アキトの頬に添えた手で自分の方へ向かせると、その上を向いた口唇に、静かに顔を近づけた。

End

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:あとがき:

 なんとか終わらせる事が出来ました。結局バカっプルな二人・・・まぁモデルがモデルだから(爆)
 結局謎だらけで終わってしまったんですが、この辺は機会があったらって事で(笑)
 楽しんでいただけなのなら良いのですが。いかがなもんでしょう。

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