はじめての戦国時代 【完成版】
1 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:09
*** こんな私ですがご存じですか・はじめての戦国時代 ***
【薄田兼相】(すすきだ かねすけ)???〜1615

豊臣家家臣。大阪夏の陣で戦死。狒狒(ヒヒ)退治・大蛇退治や天橋立での仇討ちなど、
講談や歌舞伎で有名な岩見重太郎のこと(有名なんですか?)。大阪城一の怪力だったといわれる。

・兼相は大阪冬の陣では、木津川口に築かれた砦の守将だった。
 徳川軍がこの砦を攻撃した日、緊張感のない兼相は、前夜から女郎屋に泊まり込んで
 おり砦を留守にしていた。兼相が慌てて大阪城についたときにはすでに砦は陥落していた。
 以降、兼相は「橙武者」とよばれる。橙(だいだい)は見てくれはつやがあり立派だが、
 中身はまずくて食べられないので鏡餅の飾りなどにしか使えない。つまり兼相も見て
 くれだけで使い物にならないダメダメ武者と言う意味である。
・三戦選対スレでは自板票の少なさを嘆く時に使われることもある。「俺らしょせん橙武者だし」

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020529012942.gif
我ら橙武者であろうとも、負 け る 気 は な い

2 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:13
*** こんな私ですがごぞんじですか・はじめての戦国時代 ***
【毛利元就】(もうり もとなり)

安芸(広島県西部)から中国地方一帯まで拡大した戦国大名。
筆まめで、しかもいつも長文だったらしい。
「三本の教え」で三人の息子を諭したのは有名だが、実は息子は9人いた。

 http://gohan-uma.hp.infoseek.co.jp/image/sangoku/08mouri.jpg

3 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:15
*** こんな私ですがご存じですか・はじめての戦国時代 ***
【立花道雪】(たちばな どうせつ)1515〜1585

豊後(大分県南部)大友家臣。武勇の誉れ高く、その威名は遠くまで響き渡り
武田信玄も彼との対面を望んだという。大友家に最後まで支えた忠義の人。

・ある日、雨宿りをしていた道雪は落雷に見舞われた。
 道雪は稲妻を浴びると、とっさに身につけていた愛刀で雷神とおぼしきもの(本
 人には見えたそうです)を斬りつけた。そのため下半身不随となったが一命は取り留めた
 と決めつけた。それ以降、その刀を雷切(らいきり)と名付けて生涯身につけていた。
・下半身不随となった道雪は、戦の時には長刀と鉄砲を持って、駕籠(かご)に乗って出陣した。
 戦闘開始となると道雪は手にした棒で駕籠をガンガンたたき、敵陣に担ぎ込ませた。
 「命がほしくばワシを敵中に担ぎ入れてから逃げよ」と叫んだので兵も長刀をふるって敵
 陣に突きいった。冷静に読むとかなりアレな気もするが気にしない。
 道雪も必死だが、担ぐ兵はもっと必死だったに違いない。

●渋い道雪
 http://gohan-uma.hp.infoseek.co.jp/image/sangoku02/28dousetsu.jpg
●和む道雪
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020616183424.gif

4 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:18
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【山中鹿介】(やまなか しかのすけ)生没年:1545〜1578

出雲(島根県東部)の出身。鹿之介、鹿之助とも書く。山陰地方を中心に中国地方一大勢力
を築いた尼子氏配下の勇士。「尼子十勇士」というのがあって、その筆頭。
のちに尼子氏は没落したが、その後何度も挙兵し、そのたび敗れ捕らわれ、脱出してまた
挙兵と、尼子氏復興のため尽力した。最後は毛利氏に捕らえられ、殺害された。
尼子氏再興を願い、三日月に向かって「我に七難八苦を与え給え」と願ったという話が有
名だが、ユダヤ教とは多分関係なく、ホントはそんなこと言ってもないらしい。

・毛利にとらわれのみになってたときに、股をさして赤痢になったと偽り、便所に通い詰め、
 見張りが油断した隙に便所の穴から肥溜め経由で見事脱出、あきらめず挙兵した。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020527010124.gif
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/shika.html

5 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:20
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【今川義元】(いまがわ よしもと)

駿河・遠江・三河(静岡、愛知の一部)を支配した今川家当主。桶狭間で戦死。それまでは
「海道一の弓取り」といわれていた。戦国史上もっとともみじめな武将の一人(実際はそれ
ほどDQNじゃない)。

≪ふぐりとは金○のことれす≫
・今川家では新年の祝儀を行った時、当時人質だった竹千代(徳川家康)は大勢の前で
 小便を披露した。
 義元は綺麗好き。皆、竹千代の首が飛ぶと思った瞬間
 「見事なふぐりである、ワッハッハ」と声をかけた人がいた。武田信虎である。 義元は
 竹千代そなたそう事をしても良いと誰かに教わったのか? と聞くと
 「そうじゃぁーお館様、尾張にいる時信長どのが、出るものこばまず所かまわずと言っ
 ておったのです。いつも二人で飛ばしっこしていたのです」と答えた。
 信虎は、「婿殿面白いではないか?尾張の大うつけ信長尾張も終わりでわぁー」
 義元も大笑いして祝儀は終わった。
 この10年後に今川家は滅亡をむかえる。その信長によって。

 http://gohan-uma.hp.infoseek.co.jp/image/sangoku02/27yoshimoto.jpg

6 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:22
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【三好三人衆】(みよしさんにんしゅう)

三好長逸、岩成友通、三好政康の三人を言う。応仁の乱からのながれで大阪近辺から四国
の東部を領し、将軍足利義輝を殺すなどやりたいほうだいやってたが、織田信長が上洛し
たとたん急速に衰退したヘタレ。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020603014452.gif
●三好三人衆の興亡
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/miyoshi3.html

7 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:41
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【前田利常】(まえだ としつね)生没年:1593〜1658

加賀前田家三代目当主。朝鮮出兵の時、利家は九州名護屋にでむいており、そのとき侍女
の千世に中出しして生まれたらしい。千世は側室となる(寿福院)。子供のいない利長の養
子となり、前田家を相続した。徳川家康が外様の大大名を難癖つけてあちこち改易しだし
たとき、所領確保のため奔走した。

≪鼻毛の殿様≫
・ 利常はいつも鼻毛をのばしていて、江戸城内を鼻の穴から3センチほどのばした鼻毛を
 そよがせながら歩いたという。その鼻毛を家臣が見かねて、そっと手鏡を出して利常に
 みせたところ、利常は「この鼻毛が加賀・能登・越中の三国を守っているのじゃ。お前
 らが安楽に暮らせるのも、このお陰じゃぞ」といった。
 利常は自分がうつけであるかのように見せかけ、「前田家おそるるにたらず」と徳川方
 に思わせることに尽力したという。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/IMG_000135.jpg

8 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:44
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【大谷吉継】(おおたに よしつぐ)生没年:1559〜1600

「大谷刑部(ぎょうぶ)」と書くとわかる人もいるかも。
豊臣秀吉家臣。奉行(文官)として石田三成ともにかなり活躍している。
っていうか、「関ヶ原の戦い」でもっともオイシイとこどりだった人。
病(ハンセン病)に冒され、常に頭巾をかぶり、全身を衣服で隠していた。病気が悪化してか
らは立ち上がることもままならず、輿にのって移動していた。また目もほとんど見えなく
なっていたと言われる。
義理人情に厚く、関ヶ原では石田三成に加勢し、病躯をおして出陣した。

・関ヶ原では東軍に寝返った小早川秀秋を二度も撃退するが、多勢に無勢(1万6千vs3,4千)、
 大谷隊も壊滅した。重病のため退却する意味なし、と。
・病に冒された首を敵にさらすのを嫌った吉継は部下に自分の首を切り、見つからないとこ
 ろに埋めるよう指示した。その首は見つかっていない。
・後の大阪の陣で、もっともオイシイとこどりだった真田幸村。その奥さんは吉継の娘である。

 http://gohan-uma.hp.infoseek.co.jp/image/sangoku02/36ohtani.jpg

9 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:46
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【岡左内定俊】(おか さない さだとし) 生没年:???〜???

蒲生氏郷、上杉景勝そして蒲生秀行に仕えた。雨月物語に「富貴をねがふ心常の武扁にひ
としからず。」とあり、武士のくせに金儲けが趣味だったらしい。茶道香道も愉しまず、
金をならべて心和んだという。蓄財を家臣にも推奨し、身分の低いものが金がたまったと
定俊にみせると、そのものを士に取り立てたという。一見、守銭奴を絵に描いたような人。

≪ご利用は計画的に≫
・上杉家に仕えているとき、他の家臣たちが、定俊が普通でない量の金を持っているのは
 「人に金を貸してもうけているに違いない」と噂しあった。
 が、だれもその証拠をだせなかった。なぜなら全員定俊から金を借りていたからである。
・いざ関ヶ原と言うとき、上杉家は越後から会津に移ってきたばかりでお金がない。その
 時定俊は「お金とは、こういうときに使うものだよもん」と貯めてた金を上杉家に献
 上し、景勝をよろこばせた。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/oka.jpg

10 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:48
*** こんな私ですがご存じですか・はじめての戦国時代 ***
【小島貞興】(こじま さだおき) 生没年: ????〜1582

越後上杉家臣。弥太郎。「鬼小島弥太郎」というとわかるひともいるかも。上杉謙信に幼
少からの付き従った猛将といわれるが、実像は未詳である。

≪猿でも犬でもかかってらっしゃい≫
・1553年に謙信が上洛した時のこと、将軍足利義輝のもとに凶暴な大猿が飼われていた。
 義輝はこれを使い、謙信の行列にこの猿を飛びかからせ度胸試しをしようと企んだ。謙信
 は事前にこれを知り、弥太郎を京に先行させた。
 弥太郎はその大猿の飼われている番所の役人に取り入り、その檻に近づいて餌を二つ与え、
 三つめの餌を取ろうとした猿の腕を捕らえ、力任せに鉄格子にグリグリ押さえつけて睨み
 つけた。びびった大猿はその後弥太郎に怯えるようになったという。
 上洛当日、大猿は謙信一行の通る道の脇で牙を剥いていたが、脇に控える弥太郎をみると
 おびえ平伏したという。平伏する芸を知ってる猿も侮れない。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020601002023.gif

11 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 13:49
*** こんな私ですがご存じですか・はじめての戦国時代 ***
【本庄繁長】(ほんじょう しげなが) 生没年: 1539〜1613

上杉ファンには言わずと知れた阿賀北の風雲児。上杉謙信、景勝の二代に仕え、数々の戦
功をあげたが、上杉に対し反抗したりもした。

≪鑑定額はあわせてナンボ≫
・ 天正16年(1588)夏、本庄繁長と出羽の最上義光(もがみよしあき)が激突した。 最上は
 3万の軍兵を率いながらも、本庄勢3千にまさかの敗退。
 そんなとき、最上家家臣・東禅寺勝正は、繁長と刺し違えるつもりで本庄陣へ潜伏した。
 このとき勝正の刀は名刀正宗だった。
 本阿弥光悦が「正宗の中でも上作にて、天下第一」と呼んだという。
 勝正は味方を装い、繁長に近づき斬りかかった。 繁長もなんとか初めの太刀は振り払
 い討ち取ったが、切っ先を兜に受けた。このときの繁長の甲冑は明珍作(有名甲冑師
 一派)だったのである。この明珍VS正宗の高価なる戦いはなんとか明珍の勝利に終わった。
 戦後、この名刀正宗は繁長に下賜され、「本庄正宗」と呼ばれるようになった。

12 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:14
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【北条氏綱】(ほうじょううじつな)生没年:1486〜1541

小田原北条家第二代当主、北条早雲の子。本拠を韮山城(静岡県田方郡韮山町)から、
小田原城に移し、北条姓を称した。内政面の基礎体制を確立した。

・氏綱は越後の長尾為景に好を得る為に達磨の絵を送った。氏綱は、まだ全く面識もない
 相手がすぐに受け取るかどうかもわからないのに、お返しに鷹をくれるようチャッカリお
 願いしている。
 その絵は案の定気に入られなかったが、なぜか鷹を二羽貰い受けることに成功。途中武田
 信虎に一羽ぶんどられたりするが、氏綱は鷹を手に入れた。
・為景への書簡は、宛名が最初は“殿”当てだったものが最後の方では「為 へ 岡 より」とい
 うような宛名になっている(為は為景(ため)、岡は氏綱(糸岡)の右側)。
 お互いを「タメ」、「ツナ」と呼び合う仲良しになったらしい。氏綱がそう思ってただけかも。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/tsuna_tame.html

13 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:16
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【佐々 成政】(さっさ なりまさ)1536〜1588

尾張の生まれ。織田信長に仕え、その親衛隊「黒母衣衆」に選ばれている。
後、越中国主となる。のち肥後(熊本)国主となったが一揆が発生し収集つかな
くなった。その為に切腹を命じられた。

≪残酷・クロユリ伝説≫
・1584年冬、成政は立山のざらざら越えを決行したが、このとき近習の一人が病気として
 残った。
・この間、愛妾・早百合がその近習と密通したとの噂が立ち、激怒した成政は早百合の黒髪
 をつかんで引きずり走り、川縁の榎に逆さ吊りにして、めった斬りの惨刑に処した。
 早百合は断末魔に「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」
 と呪って息絶えた。
 やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室おねに献上したが、それがもと
 でおねと側室淀様との間がこじれ、成政は切腹させられたという。
※↑この伝説は後世のデッチアゲの大ウソです。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020530003301.gif

14 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:17
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【伊達政宗】(だて まさむね)生没年:1593〜1658

羽前(山形)米沢城にうまれる。幼少の時に右目を失明、「独眼竜」の異名は有名。陸奥仙
台藩62万石藩祖。知勇兼備の将で、野望も大きかったが、いかんせん生まれも遅く、その
地の利も悪かった。一般名詞、形容動詞の「伊達」もこの政宗の伊達っぷりが由来。
逸話にことかかない人だから興味ある人は伝記物でも読んでみて。

≪キレたらコワイですよ≫
・大阪夏の陣で後藤又兵衛隊と戦っていたが、そこに横から味方の神保相茂隊がでてきて
 後藤隊を破る。「てめえ、こっちの手柄横取りしよってんのかコンチクショー!!」とキレ
 た政宗は神保隊も後藤隊も見境無しに鉄砲を撃ちまくらせた。

●図解:政宗殿ご乱心
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/date01.html
 伊達男政宗
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020601131624.gif

15 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:18
*** こんな私ですがご存じですか・はじめての戦国時代 ***
【色部長真】(いろべ ながざね) 生没年: 1555〜1592

川中島合戦で血染めの感状を賜った軍奉行・色部勝長の次男。
主に景勝の下で活躍し、豊臣姓も賜った。

≪兼続様々≫
・朝鮮出兵のとき上杉家も出陣した。長真も従軍したが、朝鮮についてまもなく発病し
 てしまい帰京した。 大病だったらしく、死を覚悟した彼は次のような遺書を書いた。
 (意訳)「この度のご厚意、ひとえに直江兼続様のおかげであり、感謝は筆舌に尽くせな
 いものです。二度と復帰はできないとおもいますので、最後のお願いがあります。
 兼続様の次女を、息子(光長)に娶わせていただきたいのです。 また、娘も養女として
 さしあげます。 拙者の死後も、謀反をおこさぬようにと、家中のものにも固
 くいいつけました。」 この遺書は、兼続に渡された。
 さらに、彼は自分の居城、平林城の山城部分をも自ら破脚してしまう。
 長真は、近隣の国人衆が次々取りつぶされるのとみて、不安におびえたに違いない。
 色部家のような名門も、直江兼続の庇護なしには覚束なかったのである。

16 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:19
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【上杉景勝】(うえすぎ かげかつ)生没年:1555〜1623

長尾為景の子で、上杉謙信の養子。謙信死後、後継者争い(御館の乱)を制し、越後上杉家
の当主となる。のち会津120万石。関ヶ原では西軍についたため、戦後出羽米沢30万石に
減封された。
寡黙で苛烈なひとだったらしい。
大阪の陣でも、鴫野(しぎの)の戦いの後、家康に一旦軍を退いて交代せよといわれても頑
としてひかず、「今朝よりはげしく軍をおして取ったところを人に譲って退くなどとい
うこと、聞き入れられるものか」と拒否した。その本陣は整然と槍を横に置き跪いた兵が
静かに待機しており、そこで景勝は凛として床几に座り城中を睨み据え、使者を一顧だに
しなかったという。

≪泳げなくても気にしません、殿のためなら≫
・家臣に、敵より畏れられた景勝。あるとき富士川を船にのって渡っていたとき、人が乗
 り過ぎていて船が沈みそうになった。景勝が無言で杖を振り上げると、それを見た家臣
 達は一斉に川に飛び込んだという。

17 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:22
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【山本勘助】(やまもと かんすけ)生没年:1500?〜1561?

甲斐(山梨県)武田家家臣。武田信玄の軍師として奇才炸裂大活躍したように『甲陽軍艦』
(武田家の軍記)にかかれているが、実在したのかどうかも疑われるほど謎の多い人物。
山本勘助(管助)という人は存在はしたようだが、軍師といったような立場のものではない
とされている。
だから伝わっている逸話などもすべて史実じゃないと思っていい(↓も含めて)。

・ 山本勘助が信玄と始めて面会したとき、信玄が勘助の余りの不細工な 顔・体を見て
 100貫で召抱えるつもりが300貫に加増。
 家臣が理由を聞くと「あんな不細工なのに諸国に知れ渡る武辺者だから 本当の実力は
 もっとあるに違いない。300貫でもまだ安い。」といったという。

 http://gohan-uma.hp.infoseek.co.jp/image/sangoku/54kansuke.gif

18 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:23
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【福島正則】 (ふくしま まさのり) 生没年:1561〜1624

豊臣秀吉子飼いの武将。賤ヶ岳七本槍の筆頭とされた。
伊予(愛媛)11万石、尾張24万石をへて、安芸・備後(広島)約50万石(広島城主)に至る。
勇猛・無骨で酒豪。石田三成とは犬猿の仲で、関ヶ原では東軍に属し先鋒をかってでた。
後、広島城の無断修復をとがめられ改易、正則は信濃に蟄居した。

≪すべて往時の戦での傷でゴザル≫
・関ヶ原の戦いの後、正則の家老格の武将三人が家康に拝謁した。
 これを見ていた家康の近習たちは彼らをみてコソコソ笑っていた。なぜなら、彼ら、
 福島治重は跛(びっこ)、尾関石見守は隻眼(片目)、長尾隼人正は聾(耳が聞こえない)
 だったからである。
 福島正則は身体の障害などは全く意に介さず、その功績をもって家臣をとりたてていた。
 家康は謁見のあとに近習に諭している。
 「女は容姿を尊ぶものだが、形はどうあれ戦にて功名をあげてこそ男である。
 かの三人は世に優れたる剛の者。お前ら十のうち二、三でも彼らみたいになれれば
 よいの。」

19 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:23
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【安田能元】(やすだ よしもと) 生没年:1543〜1622

越後長尾(上杉)家家臣。兄は安田顕元で御館の乱では景勝を支持するも、新発田氏の論功
行賞に責任を感じ、自害した。そのあと、安田家を継ぐ。大阪の陣では上杉景勝に従い参戦、
戦功があった。

≪気にしないもん≫
・水原親憲と同じく大坂の陣で戦功が大きかったが、直江兼続(なおえかげつぐ・上杉家きっ
 ての謀臣)と不仲であったため、功が上に届かず、感状をもらえなかったいう。
 能元は感状をもらった人にこう言ったという。
 「感状を頂けてよかったのう。俺は手柄を申し立てる者がおらず、武功は虚しくなって
 しまった。だが、俺は殿(景勝)の為に命を捨てて戦っているのだ。この程度の武功
 など、申し上げるまでもない。公方(徳川秀忠)のためになど、これっぽっちも働くこ
 とはない。お主も今後も殿を第一に考えて働け。公方の感状など、面目でも何でもな
 い」と強がっている。

20 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:24
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【水原親憲】(すいばら ちかのり) 生没年:1546〜1616

はじめ大関姓。越後長尾(上杉)家家臣。1561年川中島合戦軍功により、揚北の水原氏を
継ぐ。 石田三成が徳川家康に対し挙兵した際(関ヶ原の戦い)、三成の負けと上杉の孤立を
予測したという。

≪武辺者でもやさしいところもあるんですよ(多分)≫
・大坂冬の陣で軍功があり、徳川家康より感状を下賜された。しかし親憲は
 「このたびの戦は子供の石合戦のごときもの。別に恐ろしくもないし骨が折れたとも思って
 はいない。謙信公に従って今日死ぬか明日死ぬかという激しい戦に明け暮れても感状
 ひとつもらったことがないのに、このような花見同然の戦で感状を賜るとは」と、大いに
 笑ったという。 どっちへの皮肉なのか。それとも感状のもらえなかった安田能元への
 気遣いか。

21 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:26
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【加藤清正】(かとう きよまさ)生没年:1562〜1611

尾張(愛知県西部)の生まれ。豊臣秀吉子飼いの武将。「賤ヶ岳七本槍」の一人。
福島正則と並んで秀吉子飼いの中では武勇の誉れ高く、朝鮮出兵では数々の戦功を立てた。
肥後(熊本県北部)25万石を与えられ、熊本城を築城した。虎退治とかいろいろ有名。
武勇に秀でていたが、築城、治水などの土木関係の名手としてもしられる。
かなりな潔癖性だったらしい。あと、痔を患っていたのもなぜか執拗に後世に伝えられる。

≪潔癖性なんです、がまんできないんです≫
・痔を患っていたせいで、清正は便所が長かったらしい。1時間ともいわれる長い時間
 便所にこもってたらしい(痔になるとそうなるんですか?)
・なのに潔癖性なんで、清正は便所用に(便の跳ね返りがつかないように)専用の高ーい
 下駄を使用していたらしい。その下駄の高さなんと一尺(約30cm強)。

 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/IMG_000134.jpg

22 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:26
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【矢部虎之助】 (やべ とらのすけ) 生没年:????-1615

徳川頼宣配下の若武者。

≪ご利用は計画的にその2≫
・大阪の陣にて長さ二間(約4m)の指物、三尺余(約1.2m余り)の太刀といった出で立ちで
 従軍した。
・ところが戦が始まるや否や大位牌は強い風にあおられ、虎之助は馬から吹き飛ばされてしまう。
 落馬すると周囲は大爆笑、駿河勢は一時隘路に滞る事態となった。
 虎之助は辛うじて馬によじ登るが、今度は武具の余りの重さに馬が進まず、功を立てられぬ
 まま合戦が終ってしまった。
・戦の後、大いに恥じ入った虎之助は「生きてゆけぬ」と食を断ってリアルに逝ってしまった
 という。

23 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:28
*** いまいち花がないけど気にしないw・はじめての戦国時代 ***
【塙直之】(ばん なおゆき)生没年:1567〜1615

塙団右衛門のほうが有名。尾張(愛知県西部)か遠江(静岡県中部)の生まれ?織田信長、豊臣
秀吉のあと、加藤嘉明に仕えた。酒癖悪く、喧嘩っ早い。大阪の陣で戦死。

≪大将の器にあらず≫
・関ヶ原で加藤嘉明軍の鉄砲足軽頭として出陣したが、戦が始まると刀を抜いて一人敵陣に
 突撃、鉄砲隊をだまらせてしまい、自軍を唖然とさせた。そして加藤家を出奔。
・大阪冬の陣で夜襲を行い、見事成功。帰り際にあらかじめ用意しておいた自分の名前を
 書いた札をばらまいていった。
・大阪夏の陣で自分が先鋒と信じて出撃したが、岡部則綱の部隊が先行していると知り、
 またも一人突っ走って岡部則綱と二人で先駆け争いをしてしまい、気がつけば一人で突撃、
 そして戦死。

24 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:28
*** 今日中に全部投下してしまいたい・はじめての戦国時代 ***
【可児才蔵】(かに さいぞう) 生没年:不詳〜1613

美濃の出身。生涯に7度主君を変え、最後は福島正則に仕える。
「笹の才蔵」の異名が有名。

≪その首級、東軍随一≫
・才蔵が、最後に仕官したのは福島正則である。
 一人で髷(まげ)が結べるという一発ネタで採用試験を突破したらしい。
・関ヶ原の戦いでは福島隊の先鋒を率いて戦った。戦後の首実検で、才蔵は 17とも20とも
 いわれる数の首を取ったというが、持参した首の数はそれにとうてい足りてない。
 「いちいち首を持ち帰るのも面倒ゆえ、討ち取った首の口や耳に笹の葉をつっこんで
 おいたわい。」
 戦場に落ちていた首や他の武将が持参した首に、たしかに笹がつけられ たものがあり、
 それは17個あった。その首級は東軍随一であり、 以後、「笹の才蔵」とよばれる。
・才蔵は愛宕権現を信仰し、権現様の縁日である24日に死ぬと常々公言していたらしい。
 そしてホントに6月24日に死んでしまった。完全武装で床机に腰掛けた格好だったという。
 どう考えても自殺だろ、それ。

25 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:30
*** 信じるかどうかはあなた次第・はじめての戦国時代 ***
【吉継と三成の友情】

ある時、大谷吉継と石田三成が茶会に出席しました。
その茶会は回しのみがお約束の会だったそうです。だれが主催したか知りませんが、
そんなのに招待された時点で吉継にイヤな悪寒が走っても不思議ではないでしょう。
吉継はハンセン病を患っておりました(皮膚が膿みただれているため、頭巾をかぶり全身肌が
露出しないようびっちり完全装備でいたそうです)。
で、茶会になり、吉継は自分が茶をのむときに、不覚にも茶の中に1滴の膿汁を落として
しまいました(鼻汁だったという話もありますが)。ビビったのはそのあとの順番の方々。
しかたなく茶碗をまわした吉継ですが、みなさん飲むフリして次々にまわしていきます。
が、三成の番に来たとき知っててやったのか知らなかったのか、ズズーッと茶を飲み干して
しまいます。
吉継は心の中で誓いました「一生君のそばにいるYO!!」
吉継は死ぬまで三成を支え続けました。

●後日談(想像図)
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/yushi_mitsu.html

26 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:32
*** ホントかどうかはわからない・はじめての戦国時代 ***
【三方が原の戦い】(みかたがはらのたたかい)

甲斐の武田信玄が織田信長を征討する目的で三河に侵入してきたときに徳川家康と戦った
合戦。ここで徳川家康は武田信玄の巧みな戦術に手も足も出ず、けちょんけちょんにされた。
家康はあまりにビビったため、敗走中に馬上でウンチ漏らしちゃったと言われる。
以後、家康は負けて帰ってきたときの自分の肖像画を描かせ、忘れないようにした。

●遁走するいへやす
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/img/img20020603014252.gif
●肖像画を描かせるの想像図
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/mikatagahara.html

27 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:33
*** みなさんの声援に涙ちょちょぎれてます・はじめての戦国時代 ***
【車懸りの陣】(くるまがかりのじん)

●上杉謙信お得意の戦法とされるが定かではない。第四次川中島の戦いで使ったといわれ
 ている。本陣を中心に円形に各部隊を配置し、全体が回転しながら逐次新戦力を敵陣に
 当たらせる戦法。「わざわざ回転しなくても・・・」と思うのは私だけか。

●車懸りの陣想像図
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/kurumagakari.html

28 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:34
*** わたしたち必死です・はじめての戦国時代 ***
【釣り野伏せ】(つりのぶせ)

●薩摩(鹿児島)島津氏が得意とした戦法。まず囮部隊を敵に当たらせ、退却したと見せか
 せて敵を誘い込み、そこを伏兵が側面攻撃して大打撃を与えるというもの。
 実際、おもしろくらいに効果を上げている。

●釣り野伏せの陣想像図
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/tsurinobuse.html

29 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:36
*** 信じるかどうかはあなた次第・はじめての戦国時代 ***
【啄木鳥戦法】(きつつきせんぽう)

●甲斐(山梨)武田信玄が、第四次川中島の戦いで使用した戦法。軍を本隊と別働隊とにわ
 け、別働隊をひそかに敵陣の後方にまわらせ、別働隊と本隊で挟み撃ちにして攻撃する
 戦法。が、第四次川中島の戦いでは上杉謙信に察知され、作戦自体は成功したとはいえ
 ない。

●啄木鳥戦法想像図
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/kitsutsuki.html

30 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:38
*** みんなありがとうです(;Д;)ノ・はじめての戦国時代 ***
【政宗はパフォーマンスがお好き】(まさむねはぱふぉーまんすがおすき)

●登場人物
1. 伊達政宗(だてまさむね)
  (\正_л ・東北の名将。右目が見えないので「独眼竜」とよばれた。
  /\宗ノゝ ・秀吉や家康に恭順しながら、裏ではいろいろ謀略をめぐらしたりして
 /三√メД゚)  かなりのやり手。その顔は渡辺謙を想像するとよい(なわけない)
2. 片倉景綱(かたくらかげつな)
    片倉≦  ・政宗の重臣。幼少の頃から政宗に従い、家中で重きをなした。
  (゚д ゚ β) ・その顔はあおい輝彦をイメージするとよい(なわけない)

●政宗は、秀吉の小田原攻めに遅参したり一揆を裏で操ったりといろいろ策を巡らしたが、
 そのたびに秀吉に詰問され、所領没収の危機に陥ったが、切腹承知と死装束で秀吉の
 前に出たり、磔柱を背負って登城したりと、機転の効いたパフォーマンスで見事乗り
 切った。

●想像図
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/masamune91.html

31 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:39
*** 負けはせん、負けはせんぞー!!・はじめての戦国時代 ***
【沖田畷の戦い】(おきたなわてのたたかい)

九州では、豊後(大分県)の大友氏、肥前(佐賀、長崎)の龍造寺氏、薩摩(鹿児島)の島津氏の
三強がいた。龍造寺隆信が島原にいる麾下の有馬晴信が龍造寺に対して反旗を翻したとき、
有馬は島津に救援を求めた。なんだかんだで島津が救援に向かうこととし、龍造寺隆信と
島津義久が沖田畷(島原半島東部)で向かい合った。ここで両者が戦い、無謀な用兵を無理
矢理行った龍造寺勢はまったく敗戦、主君の龍造寺隆信もここで戦死した。あまりにデブ
で輿にのっていた隆信は、味方が潰走すると自分はどうしようもなく、島津勢に斬り殺さ
れたという。
その後、島津勢は隆信の首を返そうと言ったが、龍造寺方の謀臣、鍋島直茂は、「そんな
もんいらんわ」と拒絶した。

●図解、沖田畷の戦い
 http://sansenen.hp.infoseek.co.jp/shien/okitanawate.html

32 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:40
はじめての戦国時代 【完成版】 目次

>>1..【薄田兼相】(すすきだ かねすけ)
>>2..【毛利元就】(もうり もとなり)
>>3..【立花道雪】(たちばな どうせつ)
>>4..【山中鹿介】(やまなか しかのすけ)
>>5..【今川義元】(いまがわ よしもと)
>>6..【三好三人衆】(みよしさんにんしゅう)
>>7..【前田利常】(まえだ としつね)
>>8..【大谷吉継】(おおたに よしつぐ)
>>9..【岡左内定俊】(おか さない さだとし)
>>10.【小島貞興】(こじま さだおき)
>>11.【本庄繁長】(ほんじょう しげなが)
>>12.【北条氏綱】(ほうじょううじつな)
>>13.【佐々 成政】(さっさ なりまさ)
>>14.【伊達政宗】(だて まさむね)
>>15.【色部長真】(いろべ ながざね)
>>16.【上杉景勝】(うえすぎ かげかつ)
>>17.【山本勘助】(やまもと かんすけ)
>>18.【福島正則】 (ふくしま まさのり)
>>19.【安田能元】(やすだ よしもと)
>>20.【水原親憲】(すいばら ちかのり)
>>21.【加藤清正】(かとう きよまさ)
>>22.【矢部虎之助】 (やべ とらのすけ)
>>23.【塙直之】(ばん なおゆき)
>>24.【可児才蔵】(かに さいぞう)
>>25.【吉継と三成の友情】
>>26.【三方が原の戦い】(みかたがはらのたたかい)
>>27.【車懸りの陣】(くるまがかりのじん)
>>28.【釣り野伏せ】(つりのぶせ)
>>29.【啄木鳥戦法】(きつつきせんぽう)
>>30.【政宗はパフォーマンスがお好き】(まさむねはぱふぉーまんすがおすき)
>>31.【沖田畷の戦い】(おきたなわてのたたかい)

33 名前: はじめての戦国時代 投稿日: 2002/10/12(土) 21:42

以上、*** はじめての戦国時代 ***

   執筆・構成……人物紹介編集奉行◆pc1N389Q氏
   イラスト ……「みんなで絵を描こうYO!」スレの皆さん

2ch全板人気トーナメント一回戦、三戦板の試合の支援物資とし
て作成されたものを、細部を調整した上で収録しました。

e[NECir Yahoo yV LINEf[^[z500~`I
z[y[W NWbgJ[h COiq@COsI COze