『新唐書』宰相世系表に見る三国時代の武将達の子孫

『新唐書』の宰相世系表には三国時代の武将の子孫が色々出てくるので、それを紹介してみたい。

目次:


『新唐書』巻七十一上 宰相世系一上・河南劉氏(劉去卑の系譜)
『新唐書』巻七十二上 宰相世系表二上・杜氏源流 (杜預の系譜)
『新唐書』宰相世系表三下・姜氏源流(姜維の系譜)
『新唐書』宰相世系表三下・閻氏源流(閻圃の系譜)
『新唐書』宰相世系表五下・関氏(関羽の系譜)
『新唐書』宰相世系表五下・賈氏(賈詡の系譜)
『新唐書』宰相世系表四下・顧氏(顧雍の系譜)
『新唐書』宰相世系表五下・曹氏(曹操以外の曹氏系譜)
『新唐書』宰相世系表五下・田氏源流(田疇の系譜)

『新唐書』巻七十一上 宰相世系一上・河南劉氏

劉備よりも有名?な劉一族の武将・劉去卑!

河南の劉氏は本は匈奴の族より出でたり。漢の高祖は宗女をもって冒頓に妻(めあ)わせ、其の俗、貴き者は皆母姓に従う,因って改めて劉氏と為る。左賢王の去卑の裔孫の庫仁、字は沒根、後魏の南部大人、凌江將軍なり.弟の眷は羅辰を生む、定州刺史、永安敬公なり.其の後は又、遼東襄平に居り,河南にうつる.羅辰の五世の孫、環雋,字は仲賢,北齊の中書侍郎、秀容懿公なり.弟は仕雋という。


『新唐書』の宰相世系表は漢の高祖・劉邦の子孫たちの系図から幕を開ける。しかし、なんとそこには劉備など出てこないのだ! というよりのっけから話の腰を折るようで申し訳ないのだが、『新唐書』の宰相世系表には、三国時代の記述がスパコーンと抜けて、『史記』の時代、前漢から南北朝へかっとんでいる系図がやたらに多く、三国志に出てくる人物を探すのは中々骨なのである。劉氏系図でも、劉備はおろか劉表も劉焉も出てこないのである。

その中で、なんと『新唐書』の宰相世系表に唯一出てくる三国時代の劉氏の武将は劉去卑なのだ。劉去卑といっても、マニアックな三国志ファンでも「誰それ?」と首をひねるのではないかと思うが、匈奴の左賢王になった人である。 ううむ。微妙だ。一応正史三国志の記述を総合するとこういう人である。

董卓が呂布に殺され、大混乱に陥った長安から逃れた後漢最後の皇帝・献帝。洛陽へ帰ろうとするが護衛の兵士もほとんどいない。護衛部隊の長、楊奉・董承たちは黄巾賊の一派、白波賊の胡才・李楽・韓暹、南匈奴の右賢王・劉去卑を援軍として呼び寄せた。この盗賊と騎馬民族の連合軍は董卓の残党李カク・郭・張済らを撃退して、数千人を討ち取った。しかし、李カクらに再度追撃され、敗北。その後献帝を守った劉去卑たちは洛陽へ行き、更に曹操の元まで護衛をした後、故郷へ帰った。

まあ、李カク・郭・張済なんて、董卓の残党ですからあんまり強くない武将なんですが、まあそれに負けてるんですね。でも、弱い献帝を常に護衛していた人だし、もっと知名度があってもいいんでしょうが、皇帝の縁戚(代々漢王朝の姫君と結婚している)とはいえ、騎馬民族が皇帝を助けたという話は中華思想的にやばいということか、羅貫中にこの下りを消されてしまった為に『三国志演義』に登場できず、知名度が低いのだった。ああ。


杜預の子孫は杜甫

『新唐書』巻七十二上 宰相世系表二上・杜氏源流

杜預(字は元凱(げんがい)、222〜284、「どよ」とも「とよ」とも読む)といっても、三国志ファンでも知っている人は少ないかもしれない。

正史三国志に列伝が立っていないうえ、吉川英治や横山光輝の三国志では杜預のあたりの話はおもいっきり省略されているからである。
彼の伝記は『晋書』巻32に杜預伝として載っているが、杜預伝の日本語訳は無い。従って殆ど知られて居ないのである。
でも、なかなかこの人は名将なのですよ。「晋の武将として呉に攻め込み、呉を滅亡に追い込んで三国志を終わらせた男」といえばどれほどの人物か分かるであろう。
魏で内務官僚として鳴らした杜家というのがあり、杜預はそこの出。元々武将の家ではないので、呉を滅亡させた後も「私は武家じゃあないので、ちょっと加増は遠慮したいのですが」と申し出ているほどだが、戦略眼は確かである。同僚が呉の副都・武昌城を落とした後、「呉は百年に渡って戦ってきた強敵、まだ一筋縄ではいかんでしょう、しかも今は夏に向かって、長江の水かさも増え、疫病も起こるかもしれませんし、攻めにくうございますゆえ、まあ、また来年攻めましょう」と、随分弱気なことを言った。
ところが杜預は「昔、楽毅は済西の一戦で斉を強くしたのじゃ!今我が方の軍勢は意気大いにあがっておる、たとえていうなら竹を裂くような勢い(破竹の勢い)じゃ!こっちから刀を入れればひとりでに裂けてゆくわ!」と一喝!軍を呉の都へ進めた呉はあっけなく降伏してしまったという。

これが「破竹の勢い」の語源である。

出自
杜氏は祁姓から出ていて、帝堯の子孫、劉累の末裔である。[1]周に唐杜氏と為ったが、成王が唐を滅ぼして弟の叔虞をそこに封じ、改めて唐氏の子孫を杜城に封じた。京兆(長安:現在の西安)の杜陵県がこれである。杜伯は朝廷に入り西周の宣王の大夫となったが、罪なくして殺され、子孫は分れて諸侯の国に行き、杜城に居る者は杜氏となった。

(春秋)魯の国には杜洩という者がおり、季平子の難を逃れて,楚に亡命し,大夫の綽を生んだ。綽は段を生み、段は赫を生んだ。赫は秦の大将軍となり、南陽の衍邑を領地とした。世間ではこのことから「杜衍」といった。赫の少子は秉といい、上党太守となって、南陽太守の札を生んだ。札は周を生み、(周は)御史大夫となった。(周は)豪族だったので茂陵へ転居させられた。[2]延壽、延考、延年の三人の子供がいた.延年は字を幼公といい、御史大夫・建平敬侯となった。(延年の)六子は緩、繼、他、紹、緒、熊という。熊の字は少卿で、荊州刺史となった。後漢の諫議大夫となった穣を生んだ。穣は字を子饒といい、二子敦、篤があった。敦の字は仲信といい、西河太守となって、邦を生んだ。邦は字を召伯といい、中散大夫となった。賓、宏、繁の三人の子供があった。賓の字は叔達といい、有道に推薦されたが官に就かなかった。翕、崇の二子があった。崇の字は伯括といい、司空掾となって、畿を生んだ。畿の字は伯侯といい、魏の河東太守・豊楽戴侯となった.恕・理・の三人の子供が居た。恕の字は伯務といい、弘農太守・幽州刺史となった。(恕は)杜預を生んだ。杜預は字を元凱といい、晉の荊州刺史・征南大將軍・當陽侯となった。(杜預には)錫、躋、耽、尹の四人の子供が居た。



1、劉累は龍を飼育していた御龍氏の祖で、劉氏の先祖とされる人物。
2,漢の武帝の時代に、長安郊外に茂陵という新しい街が作られ、豪族はそこへ強制的に転居させられた。このことから杜氏は前漢時代でも豪族として認められていたことが分かる。

『新唐書』宰相世系表三下・姜氏源流

出自
姜姓は、炎帝から出ている。姜水で生まれたので、そこに因んで姓としたのである。
(今日の藤堂明保氏などの研究では、姜を名乗ったのは西方の遊牧民族であり、ひつじにちなんだ姓を選んだのであろうとされている。炎帝云々は伝説)
其の後、子孫は皆姓を変えた。堯が洪水にあったとき、共工の從孫が禹を助けて治水し、四嶽の官となった。それから四嶽を祭るときに、この一族を主としてこれを尊んだので「大嶽」 というようになり、侯・伯に命じられた。(このとき)、また先祖の姓を賜って姜姓を称し、炎帝の末裔だというようになった。
(世界各地に有る太古の大洪水の伝説である。この時姜氏の子孫が活躍したことを述べている。尚、姜氏が山岳信仰をしていたことは事実らしい)

太公望〜天水姜氏〜姜維〜姜明
子孫の太公望は斉に封ぜられたが、(この家は、陳国の末裔だった)田和に滅ぼされてしまった。子孫は分散して、漢の初めに姜氏は関東(函谷関の東、すなわち中国東部)の大族であったが関中へ移り、遂に天水に居住するようになった。蜀の大将軍・平襄侯に姜維(がおり)、その子孫の姜明は、代々上[圭β]に居住した。

この系図の記録はやや疑問である。何故なら、姜氏は太公望以前から天水方面に居住していたらしいからである。なお、天水の姜氏は三国志王朗伝裴注によれば「天水四姓」といわれ、地方ではトップクラスの名門であった。姜維の蜀に残していた妻子は殺された(三国志蜀書)というから、天水に残留していた一族が生き残ったのであろう。生き残り姜明から始まる系譜が続く。なお、姜明は後魏のエン州刺史・天水郡公であったという。

(2006年5月追記)
姜明なる人物について、『魏書』『北史』などを調べたが、驚くべきことに姜明という人物は両書に登場していないのである。エン州刺史・天水郡公という要職に有る人物が史書に登場していないはずはないのであるが。しかし、姜明と似た名前と官職の人物は『魏書』卷四十五韋ロウ伝附伝姜儉伝に登場している。天水出身で後魏(北魏)のエン州安東長史兼高平太守だった姜昭という人である。昭の字義は明と通じており、官職も「エン州刺史」「エン州安東長史」と類似している。新唐書に関しては既にかなりの部分で疑問箇所の指摘が有るので、おそらくこの姜明は姜昭の誤記ではないだろうかと思われる。

なお、姜昭には姜倹(あざな文簡)と、姜素の二人の子供がいた。姜倹は若くして幹部として任用され、雍州刺史の蕭寶エンに仕えた。しかし、蕭寶エンは北魏に反旗を翻し独立して君主となった後、滅亡。姜倹は落城時に味方に殺される無残な最期を遂げている。恐らく、この犯人は姜倹をねたんでいた元同僚ではないかと思うがどうであろうか。時に、三十九才であったという。姜素は逆に何の事跡もない。ただ官位のみが記されている。


『新唐書』宰相世系表三下・閻氏

張魯の軍師・閻圃(えんほ)の子孫は唐の宰相にして有名画家だった!

(原文書き下し)
閻氏は姫姓より出ず。周の武王は太伯の曾孫仲を閻鄉に封じ,因て以て氏と為す。又た云う,昭王の少子生れるや手の文に曰く「閻」と,康王閻城に封ずと。又た云う,唐叔虞の後は晉の成公子懿なり,食采は閻邑においてす,晉滅ぶや,子孫散ってて河洛に処り,前漢の末,ケイ陽に居す.尚書の閻章は暢を生む,侍中、北宜春侯なり.三子あり:顯、景、晏.顯、車騎將軍、長社侯なり.顯は穆を生む,避難して巴西の安漢にうつる.顯の孫は甫(閻圃)なり。魏の武帝(曹操)、封じて平樂鄉侯と為し,復た河南新安に居る.柯太 守璞を生む,璞は晉の殿中將軍、漢中太守讚を生む.讚は遼西太守亨を生む.亨は北平太守・安成亭侯鼎を生む,字玉鉉,劉聰の難に死す.子の昌,奔って于代王猗盧,遂に馬邑に居る.孫の滿,後魏の諸曹大夫なり,馬邑より又た河南にうつる.孫の善,龍驤將軍、雲中鎮將なり,因て雲州盛樂に居る.車騎將軍、燉煌鎮都大將提を生む,提は盛樂郡守進を生む.進の少子、慶,字仁度,後周の小司空、上柱國、石保成公なり,大野氏の姓を賜る,隋に至って旧に復す.毗を生む.毗は隋の將作少監、石保公なり。(三男の)閻立本は高宗の(宰)相なり。

閻圃は五斗米道の張魯の軍師だった人。コーエーの歴史シミュレーションゲームの三国志で良く出てくるのでお馴染みかもしれない。長い系図だが、記述が途切れることなくしっかり書かれており、『新唐書』宰相世系表の中でもまともな記述のような気がする。唐の閻立本は『歴代帝王図』などで有名な画家である。

『新唐書』宰相世系表五下・関氏

(原文の訳)関氏は商の大夫だった関龍逢[1]から出ている。蜀の前將軍・漢壽亭侯に関羽(がいて)、(蜀の)侍中になった関興を生んだ。[2]その子孫は代々信都に居住した。[3]子孫の関播は(唐の)徳宗の宰相である。

関氏の宰相は一人、関播である。



[1]関龍逢は商(=殷)の人ではなく、夏の人。夏の桀王の家臣で、宴会にふける桀王を諫めて殺された人物。
[2]『三国志』蜀書関羽伝には、関興の子供として関統・関彝を挙げているが、この記述に関統・関彝は出てこない。なぜ出てこないのかを考察すると、恐らくこの記述を朝廷に提出した関播が『三国志』を読んでいなかった為、関統・関彝を知らなかったのではないか?と思われる。関播は恐らく親から「関羽の子孫だ」という話は聞いていた(若しくは自分で勝手に関羽の子孫を称した)が、講談で有名な関興はともかく、正史『三国志』が読まれていなかった唐代では他の人物は知らなかったのであろうか?

正史『三国志』のみならず、吉川幸次郎先生の推定によれば『史記』以外の正史は唐代では余り読まれなかったらしい。唐の漢詩で歴史を扱う場合、三国志に通じていた杜甫以外の詩人は『史記』に出てこない歴史は殆ど謡われないという。また、吉川先生が挙げられた例では、朝廷で礼の論議をしていたときに、殆どの学者達がまったく『漢書』を読んで居らず、中で一人『漢書』を読んでいた学者が怒って「この話は『漢書』に出ている」と指摘し、『漢書』の当該箇所を本を開いて床にたたきつけた所、他の学者が集まってきて本を読み、大騒ぎになったというのである。学者ですらこのようなのだから、関播も正史を読んでいなかった可能性はある。(もっとも、吉川先生も全文検索がなかった時分に考証されたので、漏れがあることは当然考えられる。)

[3]関興、字は安国。関羽の跡継ぎ。一般的に次男だといわれているが、陳寿三国志ではただ、「子」とあり、もう一人の関羽の子関平との兄弟順は不明。三国志演義では関羽の後継者として大活躍する猛将だが、これは創作。 史実では20数歳で没したという。ただし有能な人物だったらしく、諸葛亮は「深く器として之を異と」したという。器というのは論語公冶長篇を踏まえた表現。すなわち孔子が弟子第一の才人子貢を「なんじは器なり」と評したのである。器とは「専門家」「役に立つ人材」の意味だと貝塚茂樹氏は考えて居るようだ(同氏著「論語」講談社より)。関興は諸葛亮から役に立つ人材だと思われたので幹部候補生として侍中となったが、残念ながら若死にした。しかし、蜀にいた関興の子孫が北方の代々信都に居住したというのは、どうなんでしょうね。なお、陳寿は記して居ないが、『蜀記』には蜀滅亡時に関氏は一族皆殺しにされたとある。しかしこの記述も変である。陳寿は蜀の人であり、蜀滅亡に遭遇した人である。関氏滅亡の話がもし本当だとすれば書き漏らすことはありえないだろう。要するに関羽の子孫の話はなんだかよくわからないのである。なお、宋代に宋江に従って梁山泊に入った人のうちに「大刀」と称された関勝という人が有り、正史『宋史』など当時の複数の史料に登場する。この人は水滸伝では関羽の子孫だといっているが、フィクションであろう。宋江配下の人物の伝記『宋江三十六人賛』には「大刀関勝はどうして関羽の子孫だといえるだろうか(いや子孫ではない)。しかし関羽の忠義と勇気は関勝に受け継がれているのだ」とあるからである。忠義というのは、関勝は宋の家臣として金の傀儡政権に殺されたからであろう。

『新唐書』宰相世系表五下・賈氏

出自
賈氏は姫姓から出ている。唐叔虞の少子・姫公明を、康王が賈に封じたので、賈伯となったのである。 河東(郡)臨汾に賈郷が有るのが、即ちその地である。(賈伯は、)晉に滅ぼされたので、 国の名を氏としたのである。晉の公族・狐偃の子射姑は晉の太師となり、賈を領地とし、字を季他といったので、また「賈季」ともいった。

系譜
(前)漢に、長沙王の太傅の賈誼がいて、播(正確にはヘンは王)を生んだ。播は 尚書中兵郎となった。播は二子を生んだ。賈嘉と賈である。賈嘉は宜春太守となり、生ケイを生んだ。 ケイは游撃将軍となり、五子・賈洪、賈潤、賈[シ内]、賈湘、賈注を生んだ。賈[シ内]は軽騎将軍となって、賈曄を生んだ。賈曄は下ヒ太守となって、二子・賈冰、賈淵を生んだ。淵は遼東太守となって、三子 ・賈納・賈[分β]、賈丕を生んだ。賈丕は賈沂を生んだ。賈沂は祕書監となり、二子廷玉、秀玉を生んだ。秀玉は武威太守となり、衍を生んだ。衍はエン州刺史となり、[龍共]を生んだ。[龍共]は輕騎將軍となって、武威に移住した。二子、綵・詡([言羽])を生んだ。

賈詡は魏の太尉となり、肅侯(と諡された) 賈詡は機(正しくは王ヘン)を生んだ,[馬付]馬都尉・關内侯となった。又た長樂へ移住し、二子通、 延を生んだ。通は侍中・車騎大將車となった。(通は)三子があって、仲安・仲謀・仲達といった。仲達は潁川太守となって、疋を生んだ。疋は字を彦度といい、輕車將軍・雍州刺史・酒泉郡公となった。(以下続く)


(『三国志』でおなじみの賈詡(賈ク)の系譜である。法家思想家として知られる賈誼(かぎ、前漢の長沙王大傅。『史記』屈原賈生列伝に伝記有り。『史記』にも引用されている『過秦論』は名文と称せられる)からずっと、非常に長く続く系譜である。代々太守や将軍を務めた家柄であることが分かり興味深い。なお、『三国志』賈詡伝の記述とは食い違いがある(賈詡伝によれば子供の名前は穆で、機(正しくは王ヘン)ではない)。

『新唐書』宰相世系表四下・顧氏

顧氏は己姓から出ている。顧伯が、夏王朝・商(殷)王朝の侯国であったので、子孫が国名によって氏としたものである。はじめは会稽にすんでいた。呉(『三国志』の呉)の丞相・顧雍の孫、榮が晉の司空となり、雍の弟、徽は侍中となって塩官に居住した。徽の十世の孫・越は、陳の黄門侍郎となった。(その)孫が胤である。

顧家は呉の四姓に数えられる呉屈指の名門であり、顧雍も孫権配下の丞相として優れた実務能力を発揮した人物であるが、この程度の記述しかない。 なお、顧胤の子顧jは則天武后の時の宰相であった。

『新唐書』宰相世系表四下・袁氏

袁氏はギ姓から出ている。陳の胡公・滿は申公と犀侯を生んだ。(犀侯が袁氏の祖である。以下、非常に有名な系図であるから中略する)袁紹の次男袁熙の子孫は樂陵東光に代々居住した。袁熙の子孫が(唐の同州持中)袁令喜である。(以下、系図は袁令喜ー異弘ー恕己[中宗の時の宰相]と続く。)

袁氏はすなわち河北の群雄・袁紹の末裔である。驚くべきことに、袁氏は傍系の袁渙系なども含め、唐代になってもかなりの人物が正史に登場している。これは立派である。なぜなら、中世中国は「事実上、漢民族は絶滅したのではないか」という説が有るほど漢族の人口減少がひどく、三国志の群雄の内、唐まで生き残っている家は非常に少ないのである。曹操の曹家はかろうじて残ったが、蜀の劉家は300年代に相次いで断絶。呉の孫家も東晋以降記録に残っていない。公孫氏・馬氏、みな記録が存在しない。司馬家はさすがに貴族として残り、子孫に北宋の司馬光を出しているが、これは例外中の例外であろう。しかし、その曹・司馬両氏ともに唐代は衰亡していたようで、新唐書宰相世系表には記載がない。

ところが、袁氏は新唐書宰相世系表にもかなりの人物を載せており、宰相に登りつめている人物だけで3名をあげることができる。袁紹が非常に善政を敷いていたことがかなり中世中国では伝説化していたようで、隋に至っても袁紹を讃える声があったというから、おそらく河北での袁氏人気が非常に高かったために、例外的に生き残りに成功したものではないかと考えられる。

『新唐書』宰相世系表五下・曹氏

曹姓はセンギョクから出ている。センギョク五代の孫・陸終の五男・安の時に曹姓を称した。曹挾に至って、[朱β]に封ぜられた。楚国に([朱β]が)滅ぼされたので、曹姓に復したのである。唐には河南曹氏がいた。(以下、宰相になった曹確の父、曹周からの系譜が続く)


注:『三国志』ファンの方には曹姓の箇所でなぜ曹操が出ていないのか不思議に思われるであろうが、これはあくまで曹確の家の系譜であり、曹確は曹操の家系(沛の曹氏)とは別だったためであろう。もっとも、そもそも曹操に人気がなかったのかも知れない。既に唐代には現在の三国志演義に近い物語があり、曹操の悪者化は進行していたために河南曹氏でも曹操の名前を出さなかったということも、考えられる。

『新唐書』宰相世系表五下・田氏源流

田氏は[女為]姓から出ている。(春秋)陳の公子完、字敬仲は、齊につかえてはじめて,領地をもらったので、それにちなんで田氏といった。また一説に、陳という字と田という字は読みが似ているから(氏にしたのだ)ともいう。田和の時に斉国を乗っ取って諸侯になったが(いわゆる田斉)、九代目の斉王建の時に秦に滅ぼされた。漢王朝が建国されたときに、いろいろな田氏(諸田)は陽陵に移住し、後には北平へ移住した。魏の議郎に田疇,字は子泰がいる。(田疇の)二十二代後の子孫が田である。

このページの来歴と、『新唐書』について


以前お世話になっていたぐっこさんのページ「三国迷ぐっこのHP」で、黒竜さんという方が掲示板に宋の歐陽脩・撰の『新唐書』の宰相世系表には三国時代の武将の子孫が一杯出てくるよ、という趣旨の書き込みをなさったのが、このページを作るきっかけである。僕は「へえ、そうか」と思い、以前読んだ正史『三国志』の清代の注釈書(名前失念)に『新唐書』の系譜が引用されていたことを思い出し、懐かしくなって早速覗いてみた。なるほど、確かに武将の子孫が出ている。なかなか興味深い。

そこで、一部を訳出することにした。この話は『三国志』関連の書籍でも触れられたことはほとんど無い。探し出された黒竜さんには敬意を表させて頂きます。

『新唐書』は北宋の欧陽脩・宋祁の著書で、唐王朝の歴史を書いたものであり、北宋の皇帝の命令で書かれた。正史・二十四史の一つである。本紀・志・表は欧陽脩の著、列伝は宋祁の著であるという。北宋嘉祐6年(1060年)の成立。つまり、宰相世系表は欧陽脩の著である。

この本は評判があまりよくない本である。諸橋轍次博士も『資料に小説を採り過ぎているとの批判もある』と述べておられるが、それ以前に単純な史実の誤りなどが結構見られるようである。

誤りも、唐の人々の『三国志』感を知る上でも興味深いので敢えて訂正しなかった。適宜注を付し、考察を加えた。なお、注と訳文とは罫線で区切った。罫線の上が訳文、罫線の下が注である。なお、三国志に登場する人物は太字にし、わかりやすいように姓名を表記した(原文ではすべて名のみ)。



尚、NHKが2002年6月22日にこのサイトとかなり近い趣旨の番組を放映しているが、その番組に登場していた子孫と称する人々は、ウチで扱っている『新唐書』のような曲がりなりにも国家公認の記録に基づく者ではなく、(別に『新唐書』が良いとも思えない、この系図の価値はアテにならないものも多い、ただこの番組で提示された記録類はこれより酷い)単に民国時代(日本で言うと明治時代)の家譜、根拠不明の柱書きなどを根拠にしている。これらはことごとく史的根拠に乏しく、また鑑定も不十分なように思われた。本サイトは同番組とは一切無関係である。念のため書いておく。
<改版履歴>
2009.7.3
全面改訂
2002.5.2 改訂

7.12目次など付け体裁を整える、断り書き追加
2006.5.6 改訂

姜氏源流について『魏書』『新唐書』などから情報を追加
2006.6.4 改訂

関氏について『三国志』『宋史』などから情報を追加
2006.7.8 改訂

武将たちに付いて説明を付す

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