漢籍おぼえがきー歴史書(編年体)篇


目次

資治通鑑
資治通鑑本末
通鑑続編
十八史略
読通鑑論
文史通義

編年体の歴史書とは?


紀伝体に対するものが編年体である。辞書『大辞泉』を引くとこうある。

歴史記述の形式の一。年月の順を追って事実の発生・発展を記述するもの。中国の「春秋」に始まる。

要するに、我々が普通に読む歴史書の体裁が編年体である。編年体は『大辞泉』にあるように『春秋』を嚆矢とするのだが、史記 以降の紀伝体の流行により、漢籍では古代・中世を通じて長く日陰もののような扱いを受けていた。もっとも中世にも 『前漢紀』『後漢紀』など、編年体の史書はあり、帝王が家臣に「ためになるから読みなさい」と薦めるなど、一部では読まれていたのだが、 一般に流布していたとはいい難いものであった。

近世になって資治通鑑が登場し、編年体は復活する。編年体の史書は大抵資治通鑑の影響下にあり、「通鑑」ないし「鑑」の 字を付した編年体の史書が多く作られた。なお、『三国志演義』も資治通鑑の影響下にある通俗的な史書として捉えられており、「案鑑」 (資治通鑑準拠の意味)の二字を付した『三国志演義』の版本も存在したという(小川環樹『中国小説史の研究』)。


資治通鑑(しじつがん)

その巻数、和綴じ(線装本)で二九四巻。実に長い本である。こういう場合の和綴じ本(線装本)の一巻はとても薄いので、今の普通の洋綴じ本では294 冊もあるわけではないが、それにしても辞典くらいの厚さの本が13冊位もある。294冊の和綴じ本を縦に積むと、人間の背丈ぐらいにはなるという。

北宋の司馬光(しばこう)が、戦国時代初めから五代末にいたる間の中国の歴史の中の重要部分を、倉2つにおよぶ膨大な史料を元にして記述した編年体(年表形式)の歴史書で、中国の歴史書としては『史記』と並ぶ名著です。1084年成立。

「春秋」の記録に継ぐ書物として編纂された。編集には范祖禹らが携わっている。完成までに一九年の歳月が費やされ、著者の全精力を注ぎこんだ書である。

書名の「資治通鑑」とは「史実を明らかにして皇帝が政治(治)を行う参考(鑑)にする」という意味で、本書の編集にとりかかったころ、当時の皇帝・ 神宗から与えられた名である。記述は東周の威烈王の紀元前403年に始まり、五代末後周の世宗の959年に終わり、1362年間の歴史を一貫して記してい る。司馬光は当時入手できたあらゆる史料を使い、史料を厳密に調査して、同時に編纂された引用史料ノート「資治通鑑考異」(しじつがんこうい)三十巻に、 史料の取捨選択を記しており、軍事・国事の重要事と、それにまつわる君臣の言行録を中心として、その間に「臣光曰ク」ということばに始まる司馬光の意見、 及び、司馬光が賛成する先人の意見をさしはさんで、史実に対する見解・批判を明らかにしてある。記述の範囲のひろさ・正確さと公正な視点、さらに文章の格 調の高さなど、あらゆる点で中国の歴史書のうち、最高の者の一つであり、「史記」とならんで中国二大歴史名著とされている。また、史料としても、特に唐代 の史料は今日見られないものからの引用も多く、正史の不備を補う貴重なものである。

と、いうのが伝統的な見解であったが、現在ではモンゴル史学などの立場から、「騎馬民族に対する記述に疑問視すべき箇所がある」 「中華思想に基づいて周辺の民族を貶めている」などの批判もあり、この史書の価値は揺れ動いている。
特に資治通鑑を問題視する研究者は岡田英弘・杉山正明の両氏である。

(影響)
そのあまりのおもしろさから講釈の種本としてもつかわれ、また、羅本の「三国志演義」執筆の資料としてつかわれたといわれている。また、初心者向 けの歴史書がこの本をもとしてたくさんつくられた。朱熹の「資治通鑑綱目」や、「十八史略」はこの本をもとにしたものである。注釈としては元の胡三省のも のが政治・経済・軍事・文化の多方面に及んでおり、独自の歴史評論も内在する極めて優れたものであり、これが広く行われた。日本では1849年、津藩で翻 刻して以来、多くの版本が出された。 また、水戸藩の『大日本史』の編集にも大きな影響を与えている。「通鑑」と略す。

通鑑続編(つがんぞくへん)


元末明初の陳ケイ選。「資治通鑑」及び続編の 金履祥『通鑑前編』に書かれていない、中国を作った神・盤古から高辛氏までの太古の歴史(というより神話)を一巻とし、二巻からは 歴史記述でなおざりにされている遼を取り上げ、資治通鑑のような中華思想に基づかず、騎馬民族側からの歴史を記述するという、独創的な史書である。
これまで殆ど注目されなかった史書であるが、杉山正明氏がこの史書を高く評価している為特に記す。この史書は杉山氏によれば元王朝が成立に関与しているとのことである。

『四庫全書総目』では中華思想の立場に立つ明の周旋の批判を載せており、余り高い評価を与えていないが、同時に陳ケイが硬骨漢であったことも記している。

この史書の執筆中、「趙匡胤が自ら立った」と書くと、机に雷が落ちたという。しかし陳ケイは恐れず、「雷が私の手を直撃しても、この記述をやめるわけにはいかない」と いって執筆を続けたという。

趙匡胤は宋の太祖で、宋という偉大な王朝の開祖として中国の帝王の中でも神のごとき存在であり、つかえていた王朝から政権を引き継ぐ際にも臣下から強制されてやむなく引き継いだということに なっている人物である。趙匡胤が自分から政権奪取に動いたことを記すことは中華思想からすれば許しがたいことであった。陳ケイは中華思想を敢然と無視した人物であった事を、 このエピソードは記している。

陳ケイは趙匡胤が弟に暗殺された「燭影斧声」事件も記しており、『四庫全書総目』から批判されている。


通鑑紀事本末(つがんきじほんまつ)


南宋の袁枢選。「資治通鑑」を愛読した筆者が、年表形式で事項が飛び飛びにあらわれるので
読みにくいことに気づき、「資治通鑑」を事項ごとに再編成したもの。
読みやすいため、以後紀事本末形式の史書が続出した。



十八史略(じゅうはちしりゃく,じゅうはっしりゃく)
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元の曾先之(新字:曽先之、そうせんし)が編んだ初心者向けの通史。中国の神話時代から南宋滅亡までを編年体で記述している。日本人が中国史を知ろうとするとき、よく使われてきた本である。もっとも本国の中国では軽視されていた。その理由は以下の「蔑まれた「俗書」のレッテル」で述べる。

『十八史略』を読んでみると、著者の気持ちとして「とにかく面白く中国史を分からせよう!」という考えをもっていたんだなあ、ということが良く分かる。曾先之は面白くするために歴史の記述をいじることさえも敢えてしているのだ。

一例を挙げれば、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という有名なエピソードがある。これは春秋時代の呉越の争いの時に、敗れた越の王・句践(こ うせん)が薪のうえに寝(臥薪)、胆を嘗(な)めて(嘗胆)越の再興と呉を滅ぼすことを常に忘れないようにして大変な苦労をした、という話なのだが、曾先 之は話を面白くするために、薪のうえに寝たのを呉の王・夫差の話に変えてしまって、以下のような話しに作り替えてしまっているのだ。

夫差の父、呉の先代の王・闔廬(こうりょ)は越の句践と戦い、敗れて負傷し、傷が元で死んでしまった。闔廬はいまわの際に夫差に 「お前は父の仇を忘れるな」と言い残して死んだ。夫差はその遺言を守り、薪のうえに寝て復讐心を燃やし続け、家臣が自分の部屋に入るときには「お前は父の 仇を忘れるな」と、常に叫ばせた。その努力の甲斐あって、夫差は句践をやがて破った。句践は降伏した。

降伏した句践は胆を嘗(な)めて(嘗胆)越の再興と呉を滅ぼすことを常に忘れないようにし、農夫とともに働いて越を再興しようとがんばっ た。やがて夫差は別の国へ出兵し、城はがらあきになった。句践はその時を逃さず反旗を翻し、呉の城を乗っ取った。夫差は急ぎ帰国して句践と戦ったが、敗れ て自殺した。

この話は元の話より文句なく面白い。曾先之のちょっとしたことから話を膨らます才能は見事だといえる。

蔑まれた「俗書」のレッテル
十八史略の成立は、有名な本ではあるが意外とよくわかっていない。一応、通説化している概略を書くと次の通りである。

元の曾先之の書いた本で、初め2巻だったのを注釈者・明の陳殷が7巻とした。『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋 書』『宋書』『南斉書』「梁書」「陳書」『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』『南史』『北史』『唐書』(新・旧を一種に数える)『五代史』(新・旧を一種に数える)、宋の時代の歴史書(どの本か不明)と、しめて18種の歴史書から有名な話を抜き書きして、初心者向けの編年体通史としたものである。
しかし、この通説は実は細かくつっこんでいくと、案外にあやふやであって、意外と謎な本なのである。成立事情もかなり不明な点が多い。調査不十分のまま通説が出来てしまったからである。

その理由は何故か。実はこの本は中国では朝廷に馬鹿にされた本だからである。漢籍の内容を知ろうとするとき、最も頼りになるのは清の乾隆帝の命で書 かれた『四庫全書総目提要』である。ふつう解説を書くときはこの本を孫引くことが多いのだが、この『四庫全書総目提要』が『十八史略』を馬鹿にしていい加 減な記述をしたために謎が残ってしまったのである。では『四庫全書総目提要』はどんなふうに書いているか、見てみよう。以下に『四庫全書総目提要』の十八 史略部分を引用して翻訳してみる。(意訳)

二巻。(浙江巡撫の採進した本)

元の曾先之撰である。先之、字(あざな)は従野。本籍は廬陵。自分で前進士と称しているが、地方史『西江通志』の中には本人の名前はない。(中略)先之は科挙の予備試験に合格したが、本番の試験で落第したので名前が地方史に掲載されていないのだろう。予備試験合格者にもかかわらず、前進士というのはおかしい。前進士というのは科挙の予備試験に合格した人を指す呼び名であるが、李肇の『國史補』では「唐代に進士に及第した者は,古い『題名』(科挙の合格者一覧)に遭遇すると、(進士という称号の前に)「前」の字を追加した」といっている。予備受験合格者に過ぎない曾先之が「前進士」と称するのは,おかしい。この書物の内容は史書のダイジェストで、非常に荒っぽい略し方をしている。本文の前に「歌括」(歌で覚える国名早覚え)がついているにいたっては、本当にくだらない。塾で子供に教える本であって、胡一桂の『古今通略』に劣ること甚だしいものだ。

・・と、悪く書かれているが、この記述には誤りがあって、『西江通志』(曾先之の出身地の地方史)には実は曾先之は『西江通志』49巻の南宋咸熙元年(西暦1265年)の科挙合格者一覧の中に「曾先之、吉水の人」ときちんと登場しているのである。『四庫全書総目提要』の筆者は『西江通志』だけを見て「この人に関する記事は他にないな、くだらない本の著者だしこんなものでいいか」と勘違いしてしまったらしく、科挙の落第者だと勘違いしたまま延々と書いているが、ドジな話である。実は『吉水県志』という地方史の本に「曾先之は字を孟参といい、吉水の人である。若いときに王介に師事し、咸熙年間に進士になり、恵州石橋塩場を監督していたが、免職にされた。潭州醴陵の尉になり、湖南提刑セン庁検法官に転じ た。公平で思いやりがあり、曲がったことは少しもしない人柄であった。茶塩司幹弁公事をやった。南宋滅亡後は隠居して官職に就かなかった。著書に十八史略 がある。九十二歳で没した。死後はほこらに祀られた」という記述があるのである。『四庫全書総目提要』の筆者は調査不十分だったといえるであろうし、どう も十八史略という史書を編纂・執筆している江西の人々に恨みを抱いていたのではないかと思われるのである。

そもそも十八史略は、曾先之の郷土・江西の人々が曾先之没後もはぐくみ続けた本である。明になると、陳殷が詳しい注を付けた。続編も梁孟寅益 (『四庫全書総目提要』の表記に従った。なぜこの表記なのか不明)の『十九史略』、明の余進の『十九史略通考』、李紀『史略詳註補遺大成』など、複数出ているようである。『元史節要』 などのように十八史略の模倣といわれている書物まで書かれている。決して中国で流布しなかったわけではない。地元では東北楽天ゴールデンイーグルスのような、ご当地人気はあったのだろ う。ところが、『四庫全書総目提要』の筆者は、これらの十八史略本をことごとく貶しているのである。例えばこうである。

著者の引用している歴史書はわずかに十数種、こんな奴に歴史が分かるかよ(原文:是惡足以談史乎﹖)(『十九史略』)
この本は記載が不十分である(元史節要)

そして、『古今紀要』などを「事実も事細かに書かれ道理も通っている、十八史略とは大違いだ」と褒めているのである。この本は黄震という朱子学者が書いたもので「劉備は正義であり、曹操は無条件に悪である」「曹操を皇帝と認める歴史家は逆賊だ」などと、今になってみると 噴飯ものの意見に基づく珍妙な歴史書である。(『四庫全書総目提要』の筆者もこれには辟易したようで、劉備は皇帝の子孫かどうか本当は分からないので そこまでいうのはどうか、と妙な但し書きを付けている)

そんな本を褒めるというのもいささかどうかと思われるが、江西憎しの一念で十八史略に対抗する歴史書を持ち上げ、ムチャクチャ書いているような気もする。というより、清王朝には政治的な意味合いから、江西の史書は潰さなければならないというところがあったらしい。それは江西省というのが非常に警戒を要する地方だったからである。

当時の江西について、陳舜臣氏は以下のように述べている。 「あのころの江西省は、文学でも江西派(注:江西詩派ともいい、黄庭堅の一派である)といわれて全国レベルで見てもかなり高かったんです。(中略)秀才が良く出たんですよ。つまり、産業が盛んで財力があったから教育投資ができた。清代ではまともに試験をしたら、科挙の合格者はこの二省ばっかりになってしまう。そこでわざと散らばせたんですよ」
(『十八史略の名将と名参謀』、尾崎秀樹氏との対談、1993,「歴史と旅」平成5年11月号、秋田書店刊行)

曾先之の地盤・江西省吉水は、特に清にとってイヤな地域であった。派閥政治をただしいものだと論じた北宋の思想家・欧陽修の本籍地が江西省吉水であり、また、この地方に多い客家で、騎馬民族の支配に一族挙げて抵抗を続け、フビライに降伏を勧められても拒絶し、処刑された文天祥の出身地が江西省吉水であった。この時、江西省吉水の民衆は文に呼応して立ち上がり、一万人(一説に九千人)が行動をともにし、わずか一人を残して全滅するまで戦い抜いたという。清は漢人官僚が派閥を組むことを恐れ、欧陽修に反駁する文章を皇帝自ら書き下ろす(雍正帝御撰『御製朋党論』、宮崎市定氏に翻訳がある)ほど、この地域出身者を警戒した。実際、清王朝打倒を叫んだ洪秀全や孫文の出身である客家族は、江西地方一帯を出身地としているのである。

清王朝は江西出身者をわざと抑える政策を採っていたのである。実を言えば、同じ地域を地盤とする陽明学系統の漢籍もわざと抑えられていることが指摘されており、『四庫全書総目提要』は江西出身者の書いた漢籍を抑圧し、けなすという言論統制を行っていたのであろう。十八史略はいわば抹殺された史書であった。


十八の史書のダイジェストなのか?それとも・・

さて、十八史略は一般に正史十八種のダイジェストと言われているが、ここにも問題はある。

まず、曾先之は南宋滅亡までの記述があるが、曾先之の頃には宋の歴史書『宋史』はまだ書かれて居らず、どの本を元にしたのかはよくわかって いないのである。十八史略の注釈者・陳殷は『続資治通鑑長編』520巻・『続宋編年資治通鑑』15巻が元ネタだとしているが、この本二種の記述は南宋の寧宗嘉定17年(西暦1224年、金の哀宗正大元年、蒙古太祖十八年、日本は後堀河帝の元仁元年)で途切れており、十八史略の最後1279年(宋滅亡の年、元[蒙古]の至元十六年、日本は後宇多帝の弘安二年)までにはまだ50年ほど間が空いている。そこで市川任三氏(『十八史略』明徳出版社)はこれらの本と同時に民間で出版された著者不明の『宋季三朝政要』6巻という野史が最後50年分の元ネタだろうとしておられるが、何分どれにせよ決定的な証拠はなく、推定である。不思議なのは、この元ネタがよく分からない部分が昔から名文として名高いことで、個人的には曾先之の同時代史であることから著者自身の経験・取材もあるのかも知れないなあ、と思っている。後述するが曾先之は文天祥の友人でもあり、友人を描いた部分も真情に溢れているような気がする。

それから、正史をダイジェストしたものかというのも、難しい所である。中島敏氏のように『資治通鑑』を孫引きして書いたものだという意 見もあるのである。中島氏の指摘を深く掘り下げた市川任三氏は、部分部分をいろいろな史料と比較しているが、『司馬貞補訂三皇本紀』・『通鑑外紀』・『資 治通鑑綱目』などの本に類似した箇所もあるようで、『資治通鑑』からの孫引きも多いようだ。読み物としての興味をねらって順番を変えたりもしているようで ある。
外国で大流行

しかし、以上のような問題を抱え込みながらも、この本は長く生き続けた。

それは、「外国人が中国史を知るときにいつも読んだ」からなのである。

実際に編成はよくできていて、十八史略を読めば一通りの旧中国の伝統については知ることができる。そのため、むしろ外国でこの本はたくさん出版された。

まず、朝鮮半島や日本にこの本は入った。桂五十郎『漢籍解題』によれば、既に大永年間に藤原憲房(藤原憲房は同名の人物が二人居るが、足利学校所蔵本であることも考えて室町時代の山内上杉憲房[1336年没]のことか)が所蔵していたようである(桂氏によればこの上杉本は元の時代のもので、足利学校に現在は蔵書されていると言う)。その後、漢籍が乏しかった戦国時代、角倉了以が所蔵していた本があったことも古記録に残っている。明の余進の『十九史略通考』は、十八史略に元史のダイジェストを加えたものだが、桂五十郎『漢籍解題』によれば、元和年間に既に出版されているといい、江戸期にもそれなりに読まれたようだが、市川任三氏によれば藩校などでもあまり使われて居なかったとのことである。事実、信濃の諸藩の藩校では十八史略よりも資治通鑑のダイジェストを使うことのほうが多かったようだ。

本格的なブームは明治時代のようである。ちょうど学校の東洋史の授業で使うのにこの本は手ごろなテキストだったのだ(明治時代から歴史の教育には西洋史が加わり、中国と日本だけの歴史を教えておればよかった江戸時代に比べ東洋史の比重が落ちたために簡略な十八史略がもてはやされたのかもしれない)。

もっとも、十八史略には社会経済史的要素が全く欠落しており、また漢民族以外の民族の歴史について全く無視しているので、やがて那珂通世により西洋史の方法論を取り入れた近代的な歴史書『支那通史』ができるとこの本は東洋史の本から漢文の教科書に変わっていったが・・

明治時代の熊本では十八史略の素読も行われていた。女性解放運動の旗手であった高群逸枝は、塾でそれを教えていたという(『娘巡礼記』)

その後も十八史略は色々な形を変えて流布するに至った。まず、企業経営の参考として講義された。その結果『十八史略』は「人間研究の宝庫」ということになった。 ただ、「塾で子供に教える本であって、胡一桂の『古今通略』に劣ること甚だしい」という四庫提要の説はまだ漢文の素養がある人が多かった明治大正期には生き長らえており、例えば陽明学者の安岡正篤氏に『十八史略』を講義してもらうことを頼んだ元住友生命会長・新井正明氏(1912〜2003)は、「碩学の安岡先生に『十八史略』(のような子供向けの漢籍)を講義してもらうというのは気が引ける話だ」といっており、また漢学の専門家でもあった文豪・幸田露伴が娘から『十八史略』を大学で教わっているということを聞いて呆れ、「あんなものァ、俺の五歳のころ焼き芋を食いながら読んだもんだよ」といったという挿話もある。ただそういう意識も段々に薄れていったようだ。その理由はなぜか。日本人に漢文の教養がなくなり、ズバリ「ゆとり」化した為、十八史略が凄い古典だと勘違いした為である。

例えば、同じ安岡門下でも昭和元年生まれの経済記者・伊藤肇氏(1926-1980)になると、鮎川義介氏から「『十八史略』を読め」といわれ、慌てて買って読んだが歯が立たず(!)安岡氏に講義をしてもらったという。 この頃から安岡先生が講義されたということで『十八史略』神格化が始まり、 伊藤氏の本もよく読まれた。伊藤氏の「十八史略の人間学」は、海音寺潮五郎の創作を史実と勘違いしていたり、私は何度か本を読んでいて愕然とすることが多かった。もっともこれは余談である。

戦後になると1958年に河出書房から出た『新・十八史略物語』(後『新十八史略』と改題)など、通俗的中国歴史物語で名前のみを十八史略からとったものがあり、なかでも陳舜臣氏の『小説十八史略』が広く流布している。しかし、この陳氏のものは原本とは大きく異なっている。

陳氏の『小説十八史略』は、まず冒頭からして異なっている。原本は三皇五帝からはじまるのに対し、陳氏のものは殷周革命から始まる。その上 原本にはない創作が多数含まれていて、途中からは全く違う話になっている。 原本には三国志のことがほとんど書かれていないが、陳氏は相当三国志に力を入れて書いている。また、晋書・南北史の部分は創作が多い。 しかし、『小説十八史略』は今では原本と混同されているのである。私は中学・高 校の頃これに熱中したが、後に明治書院版を読んで内容が違うのにびっくりした。

それでは原本は今は読めないのであろうか。訳はあるが極めて高価である(林秀一訳、明治書院上・下)。普及版ともいえる徳間書店の五巻本も一冊2000円以上する。普通に手にとって買えるような代物ではなくなっているのだ。(陳氏のものは文庫になっている)

本来この本は学術書ではなく、通俗書の筈である。これが一般的に簡単に読めないと言うのはどんなものであろうか。本来なら岩波文庫辺りに入っていておかしくないのだが・・

(追記)たちばな文庫という所から、竹内広行訳の文庫本上下二冊が出ている。また徳間書店の五巻本も先日文庫化された。

なお、陳氏の『小説十八史略』そのものは、曾先之と比べてもそれなりにおもしろい。もっとも同氏の『中国の歴史』『中国五千年』の方が概説書としてはより優れている。



読通鑑論(どくつがんろん)


明 末清初の王夫之(船山)の歴史評論集。作者が司馬光の「資治通鑑」を読んで、それを元にして史学の上で問題となる事柄や、中国史を分析したもの。問題点を 洗い出し、秦の始皇帝・劉秀・曹操を社会システムの基盤を作り後世に大きな影響を与えたと評価し、逆に朱子学では漢の末裔として正義の皇帝とされていた、 蜀の劉備を歴史事実に従い単なる小国の君主とし、歴史を論ずる上で正統論が無益であることを主張し、歴史研究の上で注目すべき指摘を数多く行っている。

ただ、著者は異民族に対して抵抗運動を行った人物である為、異民族に対しては書中何度も敵意を燃やしており、「異民族は人ではない」「異民族は中 国にいてはならない」など、極めて国粋主義的な発言も行っていることは注意しなければならないであろう。有る意味で後世の中国史学の基礎となったと言える 書物。



文史通義(ぶんしつうぎ)


清 の章学誠(しょうがくせい)の書。八巻。思想としては陽明学の一派・新陽明学(黄宗羲の開いたもの)の流れを汲むが、それだけではなく独特の見解を示して いる。著者は志を得ず、放浪の歴史学者であった。流れ着いたところで地方長官に雇われる形で地方史編纂を長く勤め、その経験を生かした歴史理論書を書いた のである。

読むと分かるが、これは一般的な歴史書ではなく、文学・史学・哲学を総合した上に成り立つ、すべてのモノをつらぬく「道」を求めた書とも言える。中国には歴史哲学が無いという人もあるが、この『文史通義』などは僕は立派な歴史哲学であると思う。

章学誠はこの書でいろいろな見解を述べているが、その中でも有名なのが六経皆史説である。これは、儒教の経典はみな古代の事 実を述べたものであるという考えからきたもので、聖人は空理空論ではなく、事実として道を説き、その道は六経に残されたのだと章学誠は考えていたのであ る。「六経(五経に「楽経」を加えたもの)皆、史(歴史)なり」という説は、こうして出た。
この考えは王陽明の「五経皆史なり」という考え方の発展形であり、陽明学の変化した新陽明学の黄宗羲の流れを汲む筆者は、陽明学から発展した独自の思想を展開しているのである。
そして、その他にも「歴史家は公正で人におもねらない徳(史徳)を備えなければならない」とか、「これまでの正史は中央のことばかり書きすぎた。 中央の貴族的な官僚が馬鹿にしている、地方末端の官吏(胥吏)の残した帳簿類は大変立派な史料で、これを元に地方誌を書いて、地方誌を基礎に歴史を書け ば、漏れが無くなるだろう」などと、非常に進歩的な歴史のあり方を説いている。



 

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