三国志のページはネット上に山ほど有るのですが、この手の書誌情報はネット上にはほとんど無いので 少しむきになって詳しく書きました(^^;)。これは歴代の歴史家諸氏によって書かれた多種の史書を参考に書いたものですが、自分が未熟なためわかりにくい文章や誤った内容になっていることもあるとおもいます。ご容赦下さい。
西暦297年ごろに陳寿によって書かれた中国の三国時代のことを書いた歴史書である。 『三国志』とただ言うときには、通常は陳寿の書いた『三国志』を指す。
著者は陳寿(ちんじゅ。字は承祚<しょうそ>、233−297)。
『三国志』とは、三国時代の記録(志)という意味である。しかし、記録という意味だけではなく、別の意図も含んでいるといわれている。井波律子氏は、
「陳寿がことさら「三国志」と題したのには、むろん理由がある。実は、『正史三国志』には、オーソドックスな歴史書に必ず添えられている、天文・地理・制度などの記述が欠けている。陳寿はこの点を配慮して、ひかえめに「記録」の意味をもつ「志」という表現を採用し、「三国の記録」すなわち「三国志」という題をつけたのである」
(井波律子『三国志演義・水滸伝 男たちの世界 世界の文学107』(朝日新聞社)
と、推測しておられる。志という歴史書の名前は正史としては異例である。他の中国の正史には、『漢書』・『五代史』のように、書・史という字が付けられるのが普通。(「書」とつく歴史書は儒教に於ける古代史の聖典『書經』を継承した歴史書だという意図で、「史」が付く歴史書は中国正史の筆頭にして最高傑作とされる『史記』を継ぐという意図だといわれる)
なお、俗に『三国志』を『三国誌』と表記することが古典落語やゲームなどでまれにあるが、本来は勿論『三国志』である。なぜ『三国誌』と書かれたかというと、「志」と「誌」の二字が「書きとどめておく(記録する)」という同じ意味であり、後世は書きとどめるという意味では「誌」の字が使われるようになった為に『三国誌』と書かれることもあるということのようだ。他の書名でも「志」と「誌」の二字は同じように無頓着に使われており、俗な本ではアバウトな表記が行われていたと言うことであろう。
陳寿の『三国志』は、正史『三国志』とも呼ばれることがある。これはどうしてかといえば、後世歴史小説『三国志演義』と、歴史書である陳寿『三国志』がしばしば混同され、『三国志演義』も『三国志』と呼んでしまった為、わざわざ陳寿『三国志』を正史『三国志』というようになったのだ。
もっとも、たんに「三国志」とだけ言ってもよいわけだし、歴史書などではそう表記していることが多い。
『正史三国志』は六十六巻あるが、今はなぜか一巻欠けている。なくなった理由はよくわかっていないのだが、この部分はおそらく陳寿の自序であったと考えられている。中国正史において、自序は名文として名高い『史記』太史公自序などのように、著者がどのような考え方で歴史を書いたかを述べる部分であり、この一巻の欠落は史料的に非常に惜しまれる。この部分が残存していれば、後世陳壽の評価はもっと高かったのでは無かろうか。後述するが、陳寿の意図が正確に分からなかったために、後世さまざまな憶測がなされ、その為に陳寿が批判されることにもなってしまったのである。
呉平らぎて後、寿は三国の史を鳩合し、魏・呉・蜀三書六十五篇を著し、『三国志』と号す。と書かれている。
(陳寿は呉滅亡後、魏・呉・蜀三国の史書を集めて、魏呉蜀の三書(に分けて)六十五篇を書き、『三国志』といった)
なお、一般的に誤解されていることだが、正史『三國志』は晋王朝からの命令で書かれたものではない。陳寿が自宅で勝手に書いていた原稿を、陳寿没後に梁州大中正の范[君頁](はんくん)が見つけて朝廷に内容が優れている為に公認の記録として欲しいと申請して、はじめておおやけになったものである。
俗に「正史『三國志』は晋の司馬氏が歴史を正当化するために書いた」などといわれているのは、誤りである。この説はある人が邪馬台国関連書で初めて主張したモノらしく、信奉者が盛んに吹聴しているが、史的根拠はない。このように誤解されたのは陳寿が晋の司馬一族の悪事についてはすべてぼかした書き方をしている為だと思うが、これはあくまでも晋の家臣であった陳寿が恣意的にやっていることである。
『正史三国志』は、中国での伝統的な歴史書の書き方である紀伝体(きでんたい)にのっとって書かれている。紀伝体というのは、『史記』の筆者司馬遷の始めた手法であり、「世界の中心」たる皇帝の伝記を大黒柱として、他の人々の伝記をこれに組み合わせて行く、というふうにして歴史を描いて行く方法である。これに関しては武田泰淳氏の『司馬遷・史記の世界』を読んで欲しい。創始者・司馬遷の意図が明確に語られている。皇帝の伝記を本紀(ほんぎ)といい、ほかの人々の伝記を列伝(れつでん)という。では、三国志の本紀の主人公とは、一体だれであろうか?え、「そりゃあ劉備だろ」って?
ところが違うのである。
考えて見ようではないか、確かに劉備は皇帝になったが、劉備の蜀は三国のなかでも最も小さな、弱い国である。政権の基盤も確立せず、南方異民族統治に失敗した、おそらく中国史上でも地方政権として弱い方の部類に属するであろう国である。そういう最も弱い国の皇帝ですあるから、とうてい「世界の中心」とは、言えない。
しかし陳寿は蜀出身で蜀贔屓だったようで、『諸葛亮集』の編者でもあり、諸葛亮も大好きであった。蜀書の節々に、陳寿の郷土愛がほの見えるのである。本当は「世界の中心としての蜀」として書きたかったろう。しかし、客観的に見ると、どう見ても小さい、片隅にある蜀を中心に書くことはできないことであった。
政治上も当時の社会では魏〜晋が正統王朝として長く中原では認識されていたようであって、三国時代を扱った他の歴史書は、例えば王沈「魏書」のように魏を中心とした歴史記述になっている。
中国北方の知識人達も、蜀という国は存在しているかどうかも知らなかった・・という、清の銭大[日斤](せんだいきん)の説があるほど、無名の国家であった。そうなると、世界の中心というに足る、三国志史上最強の国だった魏の国の君主・曹操とその子孫のみを本紀に記載するしかなかったのである。つまり、『正史三国志』の主役(というより、世界の中心)は曹操とその子孫であるといえよう。
しかし、実際の三国時代には、魏・呉・蜀の三つの国が並び立っていたわけであるから、本当は本紀は魏の本紀、呉の本紀、蜀の本紀と三つなければならないはずだ。(世界の中心が三つあるわけであるから。ちなみに中国史上、このように皇帝が複数立つことは、その後もしばしばあり、そのたびごとに歴史家はこういう苦心をしなければならなかった。)
ところが、実際には魏の本紀しかない。
なぜか?なぜなら、中国では、世界の中心である皇帝が二人も三人もいることは、概念上あってはならないことだからである。
概念上の皇帝と言うものは、「天」の委任を受けて世界を統治する、たった一人の、「天の代理人」のことである。『孟子』は言う、
天に二日なく、民に二王なし(天に2つの太陽がないように、民には二人の王があってはならないー諸橋轍次訳)
と。
そして、皇帝には「天命」が付随しているとされた。この「天の代理人」として万人に支持された皇帝が支配する王朝こそが、「正統」として認知されることになる。しかし、三国時代には「おれは皇帝だ」といっている人は何人もいたわけで、概念と実際とが食い違うことになる。こういうときには、もっとも勢力のあった人だけを皇帝として、あとの人達は普通の人と同じ扱いになる。したがって、もっとも勢力の有った魏の本紀だけしか、『三國志』には存在しない。
ただし、列伝の部分でも呉や蜀の皇帝は特別扱いを受けている。丁度『呉志』や『蜀志』の始めに彼らの列伝は置かれ、しかも普通列伝では一巻に複数の人物の伝記が記載されるのに、一巻ずつもらっており、しかも劉備・劉禅に関しては「先主伝」「後主伝」という巻で触れられており、言葉遣いも非正統王朝の君主なみになっている。実質は皇帝扱いといえる。陳寿の苦心が伺える。ただし、呉の孫権は単に「孫権伝」といわれているうえ、言葉遣いも蜀より丁寧ではない。陳寿が出身地蜀の統治者について贔屓していることがわかる。
列伝に記載されているのは、魏の武将、後漢末の群雄、医者や仙人、中国周辺の異民族、呉の皇帝(孫権)、蜀の皇帝(劉備、劉禅)、呉と蜀の武将たちである。
なお、紀伝体の歴史書には「表」(年表)「志」(人口の統計や書籍総目録などの王朝のデータや、文化史など、人物の記録からは伺えない歴史を書く部分)などの章があるものもあるが、前に引用した井波氏も述べて居られるように、三国志にはないのである。これは重大な『三国志』の欠点であり、お陰で三国時代の社会の構造は極めて分かりにくいものになってしまった。「表」「志」に関しては陳寿が書く前に死んでしまったともいうが、陳寿は驚くほど社会情勢について記述をしていない為、そもそも社会構造に関して無関心で、書く気がなかったのではないか?という説がある。後者の説に僕は賛成である。
もっとも、陳寿が経済に対して無理解であったわけは、陳寿の生きた時代に経済活動が沈滞していたことも大きいだろう。宮崎市定氏が『大唐帝国』で説くように、三国時代は金の流通も漢に比べて行われず、豪族が占有する荘園により自由な経済活動は阻害されていた。
陳寿が若い頃に読み、おそらくは参考にしただろう『史記』と比べると、『三国志』は経済史に力こぶを入れ、雄大な人間ドラマにまで仕立て上げ、優れたジャーナリストのように漢政府の経済政策を描いた『史記』に比べると、経済についての記述を欠く『三国志』は劣っているのである。 後世これを補うモノとして『通典』・『三国食貨志』などの、『三国志』のデータを補う書物が作られたが、残念ながらこれらは三国時代を経験した人の書物ではなく、学者が後になって『三国志』を元にして書いた本なので、極めて薄いモノになっている。このため、この時代の統計データは極めて少なくなってしまったのだ。
さて、陳寿は三国の歴史を書くときに、あまり信用できない史料をすべて排除した。
このことは陳寿が用いた史料と比べるとわかる。例えば、呉の孫策という武将には、于吉という仙人を殺した咎によって祟り殺された・・という話があり、良く知られている。しかし、陳寿は「刺客により刺され、その傷が元で死んでしまった」というように、非合理な話を書かなかった。この時代はきわめて質の低いゴシップや流言蜚語が飛び交っていたので、この点は高く評価された。その為、正史三国志は非常に簡潔な書物であり、中国の古い本では文章の手本の一つに正史『三国志』を挙げている程である。
正史『三国志』の簡潔さについては、うがった説もある。清の陳[シ豊](ちんれい)の説で、高島俊男氏が紹介している。
「陳寿は蜀びいきの史家であった。しかし蜀の記録は少なかった。魏・呉の記録とはつりあいがとれない。だから、魏・呉の記録もわざと簡潔にして、蜀とつりあいがとれるようにしたのだ」 これが本当なら、陳寿はわざと史料操作をして、魏・呉をしょぼく見せるように仕組んでいたことになる。しかし、この説は僕は相当怪しいと思っている。陳寿について悪評を載せた『晋書』ですら、史料操作をやっていたことを書いていない。史料操作が事実なら、絶好の攻撃対象となり『晋書』が書き漏らすことはなさそうなのだが・・結局、根拠が確かではない憶測なのだろう。清代の『三国志』に関する説には、陳[シ豊]に限らずかなり独断・憶測も多く、二十四史補編等にまとめられた三国志の注釈書は参考にはなるものの、それが絶対と言うわけでもないのである。
著者の陳寿(233ー297)は、益州巴西郡安漢県に生まれ、三国時代の蜀の官吏であった人物。『華陽国志』に依れば同郷の学者・蜀の散騎常侍ショウ周(蜀の最後の皇帝劉禅に降伏を勧めた人物)について『書経』・『春秋』三伝を学んだという。蜀が滅亡した後、陳寿のふるさと蜀の郷土史『益部耆旧伝』(現存せず)を書いたことで晋王朝に認められ、晋の官吏として再就職した。その後、自分で三国の歴史を集めて『三国志』を書き、途中まで書いたところで見せた晋の高官張華から絶賛され、歴史編纂を任せようとさえいわれた。しかしその後、張華が失脚したことでこの話は立ち消えとなり不遇の内に没した。
しかし、陳寿は「歴史家として有能」だといわれる一方で、「歴史事実を歪めている」と、賛否両論が古来から絶えない人物なのである。
なぜ、確実な資料しか使用しなかった陳寿が「歴史事実を歪めている」といわれているのか?と考えてみると、まがったことが大嫌いで、偏屈な陳寿は存命当時から嫌われていたらしく、陳寿に対しては良い噂が少ないのであるが、田舎の蜀から都洛陽へ出てきたいわば山だしの野暮天で、友達もひどく少なかった陳寿を弁護してくれる人もおらず、結局、悪評が、正史である『晋書』の陳寿列伝に残ってしまったことが非常に大きい。その内容は、
という、という歴史学者にあるまじき行為を行っていたというものである。陳寿が『三國志』を書いた時のことである。魏の武将丁儀について論じるときに、陳寿は丁儀の子に「賄賂をくれたら父君のために良い列伝を書いてあげますよ」といって、丁儀の子からワイロとして米1000石を取ろうとした。しかし、丁儀の子はワイロを断わったので、そのため陳寿は『三國志』に丁儀列伝は書かなかったのだ。
また、陳寿の父は馬謖の軍師だった。馬謖が諸葛亮に処刑されたときに、陳寿の父も連座して頭を剃る刑罰を受けた。諸葛亮の子供・諸葛瞻も陳寿を馬鹿にしていた。その為、「諸葛亮は軍略が下手で、敵と戦う才能も無かった」「諸葛瞻は実力以上に評価されていた」などと書いたのだ。
(意訳、多少略した)
東洋の人々は親を非常に大事にしている。そのために、子孫が親を良く見せようと思い、実情以上にほめあげることがよくあった。しかし、ほめるにはある程度文章能力と歴史知識が必要である。その要求を充足するために、昔から良く親や先祖の伝記を格好良くでっち上げる人々が居た。中国ではたいてい儒者がそれを行っていたのである。(日本では「系図屋」といわれる人々がおり、こういう捏造を商売としていた)こういうことは、儒者のアルバイトとして非常に良く行われ、人物の顕彰碑はたいてい事実以上の誇大な事績が書かれることになっているのである。唐の白居易(白楽天)は、こういう世相を批判し「(碑の文章では、どんな人物でも)てがらはみんな太公望なみ、ひとがらは孔子におなじぐらいに書かれている」とさえいう。(『新楽府』)こういうアルバイトで儲けていた文人で有名なのは唐の韓愈(かんゆ)という人で、弟子が韓愈の顕彰碑の代金を盗み、「嘘を書いて貰った金だから、かまやしないだろう!」と妙な開き直りをしたりしている。韓愈は名文家として有名だが、後世からはこういう嘘を書くアルバイトを嫌われ、文学の選集ではこの手の文章を削られたこともあった。
しかし、正史を書く歴史家は、天の代理人として歴史を正しく記述する義務を持つ。「事実を曲げて記録を残してはならない」ということになっている。歴史家は正しい事実を残すためには時には命も賭けなければならない、とされていたし、実際正しい事実を書こうとして権力者と争い、処刑された人が何人もいる。そういう不文律が支配する職業の人、陳寿が不正行為をやったことは、聖職者にあるまじき行為として非難され、そのために、『三國志』は歴史書としての資料価値も疑われたのである。
しかし、この悪評は事実ではない、ゴシップのようなものだった。
まず、そもそも丁儀の子が陳寿の頃に居たことが怪しい。丁儀とその一族は西暦220年にすべて処刑(このように一族すべてを処刑することを族滅という)されており、したがって陳寿の時には丁儀の子は死亡していたはず。死んだ人物にあえるはずがないのだ。(最も、歴史上しばしば一族すべて処刑されたはずなのに、ひそかに小さな子供がかくまわれていることもあるので、断定は困難)
そのうえ、既に清の朱彝尊が指摘していることだが、この丁儀という人物は歴史上特筆すべき事績を残した人物ではなく、列伝に取り上げるほど記述内容がない。以上のことから、どうみてもこの『晋書』の記述は怪しいとされている。
が、なにぶん正史に記載されたという影響力は恐ろしいものがあり、陳寿を論じるときには、必ずこのゴシップがつきまとい、『三國志』は唐の時代の歴史哲学書『史通』でも「陳寿は賄賂をとった歴史家の風上にも置けない人間」というような扱いを受けている。
これに加えて、さきほど述べた正統を魏としたことも、南宋の時代に蜀が正統王朝とされるにいたってからは、陳寿批判のポイントになった。これは南宋朝の政治事情と関係がある。
南宋は元来、黄河流域を発祥の地とした王朝であった。しかし1127年、南宋の前身北宋は北方騎馬民族の王朝・金に首都開封を落とされ、黄河流域の領土を喪失する。この時には皇帝まで北方に拉致される最悪の事態を招いている。その後、王族の一人が長江流域の杭州を「臨安(臨時首都の意)」として宋を再興したものの、金はその後もしばしば攻め込んで来ており、そのたびごとに戦ったり和睦したりという緊張関係が続いていた。このため、南宋では「中原(黄河流域)回復」が国是とされており、「中原回復」を過去に掲げていた蜀に対する同情心が高くなり、蜀を正統王朝にしてしまったのである。
たとえば、朱熹の孫弟子・黄震などは、
「(陳寿は)なんという逆賊だ!蜀漢皇帝を賊とし、逆賊曹操を皇帝とするとは。」(本田済訳、カッコ内中根補)
と、著書で罵倒しているほどだ。
そして、『三国志』を蜀正統に書きかえることがおこなわれるに至り、遂に陳壽は、真理に背いた逆賊とされたのである。
しかし、現実重視の学問を唱え、「実事求是」(現実に従って行動しよう)を掲げていた人々があらわれた清の時代になると、先に述べたような朱彝尊のように『晉書』における陳寿の記述は疑問であり、おそらく誤っているだろう・・と述べ、陳壽を弁護する学者も出たため、『三國志』も学界ではようやく正当な評価がなされるようになった。しかし、それまでには長い時間がかかった。今でも一部の『三国志』本では、陳寿逆賊論がまかり通っている。