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見えない約束
帰りはFDのナビに乗る、という涼介の言葉に、サービス隊が引き上げていった。対戦相手は、敗北を知ってとうに姿を消している。
(誰か……来るのかな……)
そわそわと人待ち顔の啓介に、拓海は首をかしげた。
顔を合わせるたび緊張させられる涼介と違い、ずっと親しみやすく話しやすい。子供っぽいというより少年らしい言動。けれど、頼れる兄貴、といった気遣いを見せてくれる優しさもある。それが、このプロジェクトに参加して拓海が知った、『高橋啓介』という男だった。
仕事で打ち合わせに遅れてくる拓海を、いつも最初に見つけてくれる。ただでさえ目立つのに、席を立ち、満面の笑顔で手を振って。
『ずいぶん、疲れた顔してんな……』
初めての会合の日。席に着くなり、一日中被っていた会社のキャップで癖のついた髪を、肉体労働など経験したこともない綺麗な指で掻き回された。喉まで出かかった苦情は、心配そうにのぞき込んでくる茶色の瞳に消えてしまった。
『だ、大丈夫です』
変わりに浮かんだのは、我ながら呆れるくらいのはにかんだ微笑み。あの場にイツキがいたら、散々にからかわれただろう。苦笑する涼介の視線に気づいて、ひどくバツが悪くなったものだ。
プロジェクトの補佐役である史浩は涼介と同い年で、トップドライバーである認識はあっても、車に乗っていなければ、拓海は最年少で守るべき存在でしかない。それは、サポート担当をする松本や他のメンバーにとっても同じことで、その気遣いが擽ったい気もするが、事実なのだから素直に甘えることにした。けれど―――。
『これ、こないだ買ったんだけど、サイズあわなくてさ。お前、着る?』
啓介は、流行に疎い拓海ですら知っているようなブランドの服を、ぽんと投げてよこした。色も形も、明らかに拓海に合わせたような服。
『貰ってやってくれ。あいつ、弟が出来たみたいで嬉しいんだよ』
こっそりと涼介に耳打ちされ、渋々受け取った。普段着るには上等すぎるし、打ち合わせに着ていくのも気恥ずかしい。袖を通したのは、今夜が初めてだった。
『似合うじゃん』
待ち合わせた渋川のインターで、啓介が擽ったそうに微笑った。乱れてもいない襟をなぞって肩を摘む。
『ちょっと、袖が長かったかなぁ』
目の前のタバコをくわえた唇が嬉しげで、兄貴がいたらこんな風かな、と思った。髪を撫でられるのにも慣れて、むしろ期待するようになっていた。
(……ガキじゃねぇんだけどな)
啓介の指は、気持ちいい、と思う。ただ、それだけだ。
「あ、来た来た!」
啓介のはしゃいだ声に顔を上げると、見覚えのある黒いランサーが見えた。
(須藤……さん?)
涼介と因縁浅からぬ相手だとは知っていた。けれど、啓介との関係は知らない。まして、あんなに親しげな微笑みを交わしあう間柄だとは、想像もしていなかった。
「腹減った!」
「ああ。わかったから、戯れつくなって」
紙袋を受け取り、啓介がこちらに走ってくる。その肩越しに手を振る京一に、慌てて頭を下げた。
「なんですか?」
「夜食。きょうい……須藤に頼んでたんだ」
名前をいいかけて、名字に言い換える。
「須藤ンち、ここから近いからさ。夕飯、まだだもんな」
紙袋の中身はアルミホイルの包みと、缶コーヒー。寒いから、と誘われるままFDのナビシートにおさまった。
「食えよ。きょ……須藤のタマゴサンド、おいしいんだぜ?」
また、言い換えた。勧められたタマゴサンドを無視して口にしたツナサンドには、ご丁寧にもみじん切りしたレモンが混じっていた。
涼介はランサーに乗り込んでいた。京一と二人、なにやら談笑している横顔が見える。
「仲、いいんですね」
「え?」
「須藤さんと。これ、手作りでしょう?」
わざわざ夜食を持ってきたのかという疑問よりも、啓介が京一の料理上手を知っているほうが引っ掛かる。
「うん? ああ、まぁ……な」
啓介は、隠し事をするのが下手だ。なのに、知らないことが多過ぎて、少し胸が痛かった。
涼介は、どうやら須藤と帰るらしい。
「ちょっと、挨拶してくる」
「あ、俺も行きます」
「……そうか?」
ほんの少しだけ迷惑そうな顔。
(なんだよ。サンドイッチのお礼言うのは、当然だろ?)
拓海は構わず啓介の後を歩きだした。
「じゃあ、俺ら帰るわ」
「ああ」
「あの、ごちそうさまでした」
窓を開けた運転席に、拓海は頭を下げた。京一の照れたような苦笑いに、以前にはない親しみを覚えた。元々、面倒見のいい人だとは思う。そうさせているのは、どうやら啓介らしいとも。
「今度は、おにぎりな」
「甘ったれるのもいい加減にしろ。今回は、近いから持ってきてやっただけだ」
ハチロクに戻る拓海の背中で、そんな会話が聞こえた。振り返ると、啓介は運転席に頭を突っ込んでいる。なにを話しているのかは分からない。けれど、ナビシートに収まった涼介が、くすりと苦笑いを漏らしているのを見て、自分はまだ蚊帳の外だということを実感した。
帰り道さえ知っていれば、そんな場面を見ることもなかったろうに。
「ちぇ……」
ハチロクのステアリングに額をくっつけて、拓海は唇を尖らせた。
□□□
物心ついた時には、無口な父親との二人暮らしだった。近所に歳の近い子供はいたけれど、兄のように慕うほど親しくはならなかった。自分でも無愛想だったと思うし、とにかく構い甲斐のない子供だったのだ。それは、今でも変わっていないが、啓介だけはそうは思わないらしい。
『なにかあったら、電話しろよ』
そう言って、手渡された携帯電話のメモ。涼介の時ほどではないが、さすがに番号を押すときは緊張した。
『はい、誰?』
ワンコールもしないうちに聞こえた啓介の声に驚いて、用意した言葉が飛んでしまった。
『もしもし? 誰だ?』
語尾が少しだけ怒っている。拓海は、慌てて受話器を持ち直した。
「あ、俺です。藤原ですが……」
『よぉ、どうした?』
一転してくだけた口調に、思わず頬が緩む。
「あの、明後日、仕事が入っちゃったんです。それで……」
『じゃあ、ミーティングは欠席かぁ』
心底がっかりした声に、申し訳なくなる。本来なら、史浩にすべき用件であったことを、今ごろになって思い出していた。
『まだ仕事か?』
「えと、今終わったんです」
『これから、どっかで飯でも食おうか』
今夜、ハチロクは父親が寄り合いに乗って行ってしまっている。迎えに行く、という言葉に甘えて、待ち合わせの場所を決めてから受話器を置いた。
「藤原君、これからデート?」
事務の女性の、からかいを含んだ声に振り返る。
「ち、違いますよ」
「嘘つけ。ニヤニヤして……顔が真っ赤だぜ」
先輩に小突かれて、初めて部屋中の視線に気づく。拓海はそそくさとタイムカードを押し、挨拶もそこそこに逃げ出した。
「なんだ、風呂でも入ったのか?」
ナビシートに座るなり撫でられた頭を、ぐい、と引き寄せられた。くんくんと鼻を鳴らして、シャンプーの匂いを嗅いでいる。
「仕事で、汗かいたから」
啓介の顔を間近に見て、拓海はどぎまぎと言い訳をした。男同士で食事に行くのに、わざわざ風呂に入ったのは、我ながらおかしいと思う。
(でも、この人、いつもイイ匂いするんだもんな……)
打ち合わせの時、啓介の隣が拓海の指定席だった。ふざけて耳打ちされるのは毎度のことで、肩を抱かれたりすることもある。頭を撫でられ、頬を抓られ、いいようにオモチャにされている。その度に、向かいの席の涼介と史浩を苦笑させていた。
「この辺で入れそうな店ってあるか?」
啓介が、ひょいと顔をのぞき込んできたタイミングが、顔を上げるのと合わさって。
「ふあっ」
もう少しで唇を掠めるところだった。
「あ、悪ィ」
顔が熱くなっていく自分に気づいたけれど、ふい、と離れた啓介の笑顔には屈託が無い。自分だけがあたふたして、バカみたいだ、と思った。
「……秋名の麓に、ファミレスがあります」
「……」
「そこぐらいしか、わかんないですけど」
「……」
「啓介さん?」
「お前……なに、怒ってんだ?」
「別に……怒ってません」
ふぅん、と頷いて。啓介はフロントグラスに視線を移し、ステアリングを握る。
「で、どっちだ?」
「え?」
「ファミレス」
拓海の道案内で、FDは滑るように走っていく。無口になった横顔を見て、怒らせたかな、と不安になった。
□□□
駐車場に停っている池谷のシルビアを見つけて、拓海は後悔した。
(イツキも来てるだろうな……)
拓海の視線を追って、FDから降りた啓介が言った。
「ここ、スピードスターズの溜まり場か」
「はい」
「席、離れて座ろうぜ」
「え?」
「だって、俺、藤原とメシ食いに来たんだもん」
いやか、と問われて、ぶるぶると首を振った。
「よし。んじゃ、行こうぜ」
すたすたと歩きだした背中を、慌てて追いかける。
『藤原君、これからデート?』
まだ顔も名前も覚えていない事務の女性の声が、妙にはっきりと思い出された。
(そんなんじゃねぇって)
池谷達に見られたくなくて、熱くなっていく顔を俯けて歩いていたら、ドアを開けていた啓介の背中にぶつかった。
「お前、なにしてんの?」
くすりと笑われて、ますます頭に血が上った。
「俺ら、もう帰るから」
席を通り過ぎていく健二に、声をかけられた。目で啓介と挨拶を交わす池谷の後ろを歩く、イツキの興味津々の視線とぶつかって、拓海はため息を漏らした。早ければ今夜、聞きたがりのイツキから電話があるだろう。
「ほら、藤原」
目の前に突きだされた山盛りのクリームに、きょとんと目を見開いた。
「お前、甘いもの嫌いだったっけ?」
啓介がデザートに頼んだのは、チョコレートパフェ。見かけに似合わず、甘いものが好きらしい。打ち合わせの時も、毎回、なにかしらのデザートを頼むのだ。男のくせに、という概念は啓介にはないらしい。
お裾分け、とばかりに口元までスプーンを運ばれて、断れるわけがない。だいたい、男同士の差し向いで、いつまでもこの構図のままではいられない。拓海は慌てて口を開けた。チョコレートシロップとクリームにまみれたバナナとアイスクリームが、口の中でごちゃまぜになる。
「ご、ごちそうさま、です」
イツキ達が帰った後で、本当によかった。
「ここ、クリームついてるぜ」
啓介が唇を指さして笑った。スプーンをぺろりと舐めたのを見て、どきり、と胸が鳴った。
「あの……」
「うん?」
「これって、間接キス、ですよね」
ぱちくりとしばたいた茶色の瞳を見て、しまった、と後悔した。イツキと缶コーヒーの回し飲みなど、日常茶飯事なのに。
(うわ……俺、何言ってるんだろう)
その後の会話は、よく憶えていない。プロジェクトの話をしたようにも思うが、生返事ばかり返して啓介を呆れさせた。
「……そろそろ、帰ろうぜ」
恥ずかしくて、情けなくて。
(男同士なのに……俺、バカみたいだ……)
薄暗いファミレスの駐車場で、溢れそうになる涙をそっと拭った。
「藤原」
「は?」
「ちょっと、こっち来いよ」
腕をつかまれて、柱の影に押し込まれる。蛍光灯の光がやっと届く程度の、外からは死角になる場所。
「お前、さ」
「はい」
「男とキスしてぇ、とか考えてんの?」
「えっ、な、なんで?」
「間接キスがどうのって言ってから、話してる間中、ずっと俺の口ばっか見てたからさ」
言われてみれば、見ていたような気もする。柔らかそうだな、とか、そんなことを考えていた気もする。けれど、キスをしたい、とまでは考えてもみなかった。
黙りこくったまま、おろおろと視線を泳がせる拓海に、啓介はため息を漏らした。
「お前さ、本当はアニキのこと好きだろ」
「は?」
「しらばっくれるなよ。お前、アニキと目が合うたんびに、顔真っ赤にしてるし……。確かに、アニキは格好イイし、綺麗だけどさ。憧れとか尊敬とか超えちゃって、恋愛感情とかあるんだったら、俺もお前とのつきあい方考えるぜ?」
この人は、なにを怒ってるんだろう。
それよりも、なぜ、涼介の話が出てくるんだろう。
憶えのない言いがかりに、かっと頭に血が上る。怒りが込み上げて、感情のコントロールがきかなくなりそうだ。
「俺と啓介さんのつきあいに、どうして涼介さんが関係するんですか?」
「『高橋涼介』は、俺のアニキだからだ」
「……」
「絶対に、お前にはやれねぇってことさ」
「そんな……ワケ分かんないですよ。俺、涼介さんは凄い人だとは思うし、格好いいとは思うけど、恋愛感情なんてないし、やるとかやらないとか……そんなの考えたこともないです」
「……」
「第一、おかしいじゃないですか。男同士で……」
言いかけて、啓介の言葉のパズルがぱちりとかみ合った。驚いて見上げた啓介の顔は、怖いくらいに真剣だった。
「まさか……あの……」
「ああ」
「……変です、そんなの」
「そうかもな」
「男同士で……だって、二人とも、血も繋がってる兄弟じゃないですか!」
思わず声を荒げた拓海の口を、大きな手が塞いだ。誰かの話し声が聞こえる。
「ここじゃ、まずい。場所を変えようぜ」
大好きになっていた手が、今、自分の唇に触れている。拓海には、その方が大事なことのように思えた。
□□□
秋名湖へ向かう、と啓介は言った。
走り慣れた峠を上る間中、拓海の頭の中には、啓介が実の兄の体に触れているシーンばかりが浮かんだ。ベッドの中で、裸で、身体をぴったりと寄り添わせて。親しげに自分の髪に触れていた指が、涼介の体を這い回る。スプーンを舐めた舌が、涼介の舌と重なる。
啓介は真剣だった。真剣に涼介との関係を続けているのが、先程の様子から十分に伝わった。そういう関係も、世間ではよくあることなのかもしれない。不思議と『汚い』という感情は湧いてこないし、兄弟で同性で、というハンデを飛び越えてしまっていることに感動すら覚える。
それなのに、酷く淫らがましい二人の姿ばかりが思い描かれるのは、どうした訳だろう。振り払っても消えてくれない妄想に、自己嫌悪に陥った。
(俺って、サイテーだ……)
それよりも、苛々と胸につかえた感情がわからない。酷く落ち着かない、このモヤモヤとした感情は、いったいなんなのだろう。
「……今、何を考えてた?」
声をかけられて、我に返る。振り向くと、啓介の横顔には、呆れたような苦笑いが浮かんでいた。
「べ、別に……何も……」
「顔、赤いぜ?」
「え!?」
慌てて手の甲で顔を隠すと、啓介がくすりと笑った。
「ばぁか。わかるわけねぇだろ」
確かに、車内灯もついてないのに、顔色まで分かるわけはない。
「今日の啓介さん……意地悪ですね」
「そうかもな」
「あの……聞いていいですか?」
「うん?」
「男同士って……その……どうやってやるんですか?」
一瞬の間の後、拓海の素直な問いに、啓介が笑いだした。
「……」
「怒るなよ。笑って悪かった!」
「もう、いいです」
「だから、悪かったって。そんな、拗ねるなよ」
啓介の手が、拓海の頬を軽く抓る。振り払う前に、それはすぐに離れた。車は減速し、秋名湖のがらんとした駐車場に入っていった。
「春って言ってもまだ寒いよなぁ……」
車から降りた啓介は、腕組みをするように肩を竦めた。
がらんとした駐車場には、啓介のFD以外、停っていない。拓海は、涼介にプロジェクトの誘いを受けたのもこの場所だったな、と思い出していた。
「俺さ、ガキの頃から、アニキのことすげぇ好きでさ……」
啓介は暗い水面に視線を向けたまま、ぽつぽつと話し始めた。
「アニキとそういう関係になってから、女作ってみたけど、やっぱりアニキが一番でさ。アニキもそうだろうって思ってた」
告白は、まるで独り言みたいだった。
間近にある穏やかな横顔を見上げ、拓海の胸の辺りがちくちくと痛みだす。
「けど、お前の話をするときだけ、目の色が違うんだよな」
「それは、ドライバーとしての俺が……」
「うん、そうなんだ。そうなんだけど、お前、何回会ってもアニキの前でガチガチになってるだろう? てっきりアニキに惚れてるのかと思って……さっきは、ゴメンな」
申し訳なさそうに向けられた笑顔が、叱られた子供みたいに痛々しくて、拓海は思わず目を伏せた。
(そっか……そうだよな……)
無愛想で、口数が少なくて、車の運転を取ったらなにも残らない――呆れるほどつまらない自分を、拓海は知っている。
「……俺、そういうの、よくわかんないです」
それでも、打ち合わせの度に、自分を隣の席に座らせてくれた。
「そうだよな。男同士で……しかも、兄弟でってのは、やっぱ、普通じゃねぇから」
服をくれたり、髪を撫でたり、頬に触れたり。
「俺の早とちりで、お前にバレちゃったわけだけど……たださ、俺、アニキのこと好きだって気持ちに嘘つけないし、真剣だから」
携帯の番号を教えてくれて、食事に誘ってくれて、チョコレートパフェを食べさせてくれて。
「気持ち悪いとか、軽蔑してくれても構わないけど……それだけ、憶えといてくれればいいや」
すべてが、独りよがりの勘違いで。
「たださ、今回のプロジェクトだけは、最後までつきあって欲しいんだ」
胸が破けてしまいそうなほど―――痛い。
「アニキのために……」
「やめて下さい!」
「藤原……?」
「俺、もう……聞きたく……ないです」
「……」
「俺……俺は……」
「お前……泣いてんのか?」
泣いちゃいけないのかよ、と思う。ただ、一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
「俺、帰ります」
「帰りますって……おい、待てよ!」
くるりと背を向けて歩きだした拓海を、啓介の腕が捕まえた。
「離して下さい!」
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ!」
「離せよ!」
「藤原!」
掴まれた腕の力強さに、かっと血が昇る。抱きすくめられて、眩暈がする。間近にあるはずの顔は、涙に滲んで、すぐに見えなかった。
「あ、あんたなんか、大嫌いだ!」
「藤原!?」
「もう、嫌いになったんだ! だから、俺になんか構うなよ!!」
「何言ってるんだ!?」
「あんたに貰った服なんか、もう着ない! 返す!」
「おい!」
「電話もしない! パフェだって、食べない!」
「……」
「涼介さんも……見ないから……だから、もう……」
胸のつかえを吐きだして、足下から力が抜けていく。
「俺のことほっといてくれていい。無理して構ってくれなくて……いいから……」
しがみついていないと、もう立っていられない。
「俺、あんたのこと嫌いになるから……大嫌いになるから……だから……だから……」
ゆっくりと目を開くと、触れそうなくらい間近に啓介の顔があって―――。
「キスしてよっ」
夜の闇に慣れた視界に、啓介の茶色の瞳が近付いてきて。唇の熱までが感じられた、その刹那―――。
「ひぃぃっっく!」
大きくしゃくりあげた自分の唇から、啓介が離れていった。
同情でも、気紛れでも、今だけの勘違いでもよかったのに。
こんな時に。こんな、大事な時に。
「おっ…れっ…けいっ…すっ…っぃいっく!」
歯を食いしばっても涙が止まらなくて、息をするのがやっとで、言葉を出すこともままならない。
「藤原……いいから。無理して喋んなくていいから、な?」
大きな手の平が、頭を肩に引き寄せてくれて、背中を撫でてくれた。涙はシャツにどんどん吸い込まれていくけれど、鼻水が止まらなくて困った。ぐずぐずと鼻を啜って、格好悪い自分が恥ずかしかった。けれど、啓介は髪を撫でてくれる手を離そうとしなかったし、離れたら今度こそ終わりだと思った。
(もう、いいや。後で、あやまろう…)
胸についていた拳をほどいて、啓介の脇に潜らせた。背中をぎゅっと抱き締めると、応えるように啓介の腕に力がこもった。包み込まれる感覚が、抱き締められているのは自分の方だと教えてくれた。
(男……だったっけ……)
自分より背が高くて、自分より逞しい身体で。安心感に、ふっとため息がもれる。髪を洗っておいてよかったな、と改めて思った。
「落ち着いたか?」
優しい声が、耳のすぐ側で聞こえた。ぶるりと身体が震えてしまったのが恥ずかしくて、慌てて身体を離した。
「ちょっと待てよ……えと…」
ごそごそとポケットを探り、舌打ちし、FDのカギを取り出した。頭だけを突っ込んで、振り返った時には、啓介の手にポケットティッシュが握られていた。
「ほら」
「……ありがとうございます」
鼻をかんでいるのを見られたくなくて、背中を向けた。涼介は――啓介の好きな涼介なら、こんな場面で、こんなみっともないことにはならないだろう、と思った。
「……鼻、かめたか?」
背後からまわされた腕に、思いのほか強い力で抱き締められて。すぐ横に、啓介の顔があった。どんな顔をして振り返ろうかと考える間もなかったけれど、頬に触れている温もりに勇気づけられて、言葉を絞り出した。
「啓介さん、俺…」
今度こそ、ちゃんと言わなくちゃいけない。
「俺、なんか…啓介さんのこと好きみたいで」
「うん」
「啓介さんが、涼介さんと恋人なのはわかったけど、それでも、好きみたいで」
「うん」
「それ、さっき気がついたんです」
「そっか」
「はい」
「藤原、あのさ……」
「はい」
「キス、しようぜ」
「……はい」
向い合せに立って、啓介のシャツを汚していなかったことがわかって、ほっとした。頬を両手で包み込まれた後は、何も見なかった。目蓋を閉じても、躊躇うような小さなため息に、啓介の困った顔が見えるような気がした。音をたてて唇を吸われて、身体が竦んだ。
「ほら……力抜けよ」
「はい」
「お前は、なんにもしなくていいからさ」
「はい」
啓介の唇は、想像していたより、ずっと柔らかかった。縮こまっていた舌も、宥めるように何度も舐められて、気がつくと呆れるぐらい蕩けていた。
「ん……んんっ……」
口の中が啓介で一杯になって、何度も飲み込んだ。
上の唇と下の唇を、交互に柔らかく吸われて、腰の辺りがむずむずして困った。
最初から最後まで、心臓は壊れそうなぐらいどきどきしていた。
幸せだな、と思った。
□□□
どんなに身体が熱くても、抱き合っていても、水面を撫でて吹き付けてくる風はやっぱり冷たかった。
暖房の効いたナビシートに納まって、自動販売機の前に立つ、すらりとした長身が戻ってくるのをじっと待った。
さっき。唇を離した後、啓介に言われたことを思い出す。
『お前って、可愛いよな』
子供だと思われたけど、腹は立たなかった。
『細いのは知ってたけどさ、こんなにちっちぇとは思ってなかった』
誰かと比べられたけど、しょうがないと思う。
『初めてじゃ……無理だよ、な』
腰を抱いていた手が、するりと下に滑って。股に指先を入れるみたいに、際どい手つきでお尻をやんわりと掴まれた。そこまでされれば、さすがの拓海にも察しがつく。驚いて突き出してしまった腰に、啓介の膨らみを初めて意識した。見たことはないけれど、たぶん、自分より大きいと思う。
(あんなの……入んねぇよ……)
運転席のドアがいきなり開いて、拓海はぎょっと顔をあげた。
「コーヒー売り切れで、これしか……どうかしたか?」
「い、いえっ!」
「……さっきのこと、考えてたのか?」
「えっ、さ、さっきのことって?」
あたふたと顔を伏せた拓海に、啓介はくすくすと笑った。
「大丈夫だよ。なんにもしないからさ」
手渡されたのは、啓介と同じホットレモネード。甘酸っぱい味が口の中に広がったけれど、啓介も同じだろうと思うと、それだけで好きになれそうだった。
「……あの」
「うん?」
「えと、俺……」
「うん」
「ふられちゃったんですよ、ね?」
「……」
「さっきは、ありがとうございました」
「え?」
「……キス」
「あ、ああ」
「さっき言ったこと、本気ですから。涼介さんに会っても、なるたけ顔見ないようにするし……プロジェクトの方も、ちゃんと最後まで走りますから」
「……」
「俺みたいのがずっと一緒で、うざったいかもしんないけど、啓介さんの邪魔にならないようにします」
「藤原……」
「今夜のことも、絶対に人に喋ったりしないから。それと…えと……」
いつの間にか伸びた手に、髪をくしゃりと撫でられて。堪えていた涙が、ぽろぽろと頬をつたった。
「お前、案外、泣き虫なのな」
「……」
「そんなでっかい目ぇして、睨むなよ」
顔が近付くのと、頭を引き寄せられたのが一緒で、目を閉じる間もなくくちづけられた。
「俺さ、アニキのことがあったから、お前に近付いたんじゃないぜ?」
車内灯の頼りない明りでも、間近に見た啓介の目は、やっぱり優しかった。
「俺、お前のこと気に入ってるし、可愛いと思うしさ。なんていうか……弟ができたみたくて嬉しかったんだ」
照れて笑った顔は、どこか申し訳無さそうで。
「だから……俺らのこと、内緒にできるか?」
「……ええ。誰にも話したりなんかしませんって、さっき……」
「そうじゃなくてさ」
「え?」
啓介の、悪戯を思い付いた子供みたいな笑みに、胸が高鳴る。
「あの…それって、つまり……」
「こういう関係、イヤか?」
冗談だって言われそうで、慌てて首をふる。
「じゃあ、ほら……」
啓介はにっこりと笑って、催促するように唇を指差した。バケットシートの狭い座席で身をよじり、おずおずと顔を近付けた。そっと触れたのに、わざと音をたてて吸われて、かっと頭に血が昇った。
「啓介さん、やっぱり意地悪です」
「お前、可愛いからさ。つい、苛めたくなるんだよ」
「……涼介さんに、言い付けちゃおうかな」
レモネードを吹き出しそうになって。どこか変なところに入ったのか、啓介はいつまでも咽せていた。その背中を摩ってやりながら、身勝手な恋人の弱味を見つけて、拓海はくすりと微笑んだ。
「啓介さんて、本当は可愛いんですね」
「てめっ!」
頭を抱え込まれ、髪をぐしゃぐしゃにかき回された。
「や、やめてくださいよっ」
楽しくて、嬉しくて。
「お前が、生意気なこと言うからだ」
つい、余計なことまで言いたくなる。
「だって、本当のこと……んっ!」
噛み付くみたいな乱暴なくちづけは、すぐに蕩けるように甘く滲んだ。それは、レモネードを飲むたびに、思い出してしまいそうなくらい強烈で。
「……拓海」
夢うつつの耳元で、初めて名前で呼ばれて。
「プロジェクトが、終わったらさ」
「……終わったら?」
「……」
「啓介…さん?」
ふい、と身体を離して、啓介はステアリングに向きなおった。
そのまま、何も言わずに車を走らせた啓介の横顔を見ながら、拓海は考える。
ベッドの中で、裸で、身体をぴったりと寄り添わせて。さっきまで髪に触れていた指が、体を這い回る。スプーンを舐めた舌は―――。
「拓海」
「はい」
「約束はできねぇけど、さ」
「はい」
「一応、キープしといて」
「……え?」
「拓海のヴァージン」
コーナー手前での呟きは、タイヤの悲鳴でかき消される前に、拓海の耳にしっかりと届いていた。
だから―――。
「俺、啓介さんじゃないと、いやです」
短いストレートの間に、答えを返した。
次のコーナーが、目の前に迫っていたから。
END....
果たして、皆様の思惑どおりの結末だったでしょうか?
例によって続きが有りますんで、もう暫くおつき合い下さいませ♪
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