我が国は明治40年 始めて帝国国防方針がたてられ、海軍は米国を主な想定敵国としていた。
『用兵綱領』による対米作戦は、
「開戦初頭、まず東洋にある敵海上兵力を掃討し、西太平洋を制圧して交通線を確保、守勢勢力によって
敵の渡洋来攻我が近海に迎えて撃破し、不敗持久の戦略態勢を確保し敵国の戦意を挫折させる」 という方針であった。
その後時代とともに変遷が見られたが、『邀撃作戦』という攻撃防御の基本戦略は、
明治40年以来30年以上の長期にわたり我が海軍の伝統的な対米戦略思想となった。
昭和14年8月 山本五十六中将は聯合艦隊司令長官に親補され、作戦部隊の最高責任者となった。
山本長官はかねてより、旧来からの『邀撃作戦』思想では戦争の勝敗を決定づけるような戦果は期待できず、
たとえ戦闘で勝利を得ても長期戦となり結局敗れることになる、と判断していた。
そもそも航空戦力の発達した今日では、邀撃艦隊決戦はまず起こり得ないと考えていた。
米国さらには英国の国力・軍事力に大きな隔たりのある日本としては、開戦初頭から積極的作戦を行って先手を取り続け、
敵を守勢に終始させる以外に勝機を見出し得ないと判断していた。
山本長官は長い外国勤務と広い視野から、情勢を適正に判断していた。
三国同盟に反対し米国との戦争は回避すべきと考えていたが、聯合艦隊司令長官としての立場からは
万一の開戦に備え、対米作戦準備の完遂に努力していたのである。
昭和15年3月 昼間雷撃訓練の見事な攻撃ぶりを見て、聯合艦隊参謀長福留繁少将に
「飛行機でハワイをたたけないものか…」と漏らした。
これが山本長官によるハワイ奇襲の考えを口にした最初であったとされる。
しかしこの作戦は戦略的奇襲を企図するもので、その隠匿・攻撃時の敵艦隊所在の有無などに不安があるばかりでなく、
作戦失敗あるいは空母の喪失がその後の作戦に及ぼす影響を考えると、山本長官としてもなかなか実行の決断はつかず、
検討に検討を重ねた。
◆奇襲作戦の意見具申と軍令部の反対◆
昭和15年11月 山本長官はひそかに検討を重ねてきたハワイ作戦を断行することに踏み切った。
長官の構想は、米主力艦隊に対する痛撃により敵の士気喪失を図るとともに米艦隊の西太平洋進攻を封じ、
これによって我が本土空襲を阻止し同時に南方作戦の側背を守ろうとするものであった。
その決断は長い間検討を重ねていた結果であったから既に長官の信念となっていた。
しかし「安全堂々たる正攻的順次作戦に自信なき窮余の策にすぎない」と長官が自認したハワイ作戦が
いかに大きな危険をはらんでいるかは、「桶狭間と鵯越(ひよどりごえ)と川中島を一緒にしたもの」であり、
「非常に危険困難にして敢行には全滅を覚悟しなければならず」とする嶋田海相あての書簡からも伺い知ることができる。
昭和16年1月末 長官の幕僚として最適任と認めていた大西滝治郎少将ほかに命じハワイ作戦の基礎的研究を行い
その後聯合艦隊司令部は、ハワイ作戦を中央の作戦計画のなかに採用するよう、再三にわたり軍令部に要望し続けた。
しかし従来からの邀撃作戦に成算ありと判断していた軍令部は、この奇襲作戦はあまりに投機的であり成功の確信がもてず、
失敗した時の他方面の作戦に及ぼす影響が大きい との理由からその採用に難色を示した。
中でも特に困難と判断されたのは以下の3点であった。
1 水深が12Mでの雷撃の有効性
2 ハワイまで3500浬(6500KM)もの距離の隠密行動
3 赤城・蒼龍・飛龍は航続力不足であり、気象状況の悪い北方航路での困難な洋上補給
さらに軍令部としてはこの空母艦載機兵力を南方作戦に増強すべきであるとの意見であった。
折衝の結果軍令部としては主力空母4隻をハワイ作戦に、2隻を南方作戦に充当する腹案であった。
一方連合艦隊の中にも反対があった。
第1航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、作戦実施に自信がもてないことから
南方航空作戦担当の第11航空艦隊司令長官塚原二四三中将は、用兵上の見地から、
ともにハワイ作戦の中止を山本長官に意見具申した。
しかし山本長官は断固としてこれを退け、さらに
「勝敗を第1日において決する」覚悟を強調した長官は、使用できる空母全部を充当すべきであるとして
「職を賭しても母艦6隻案を堅持する」決意のもとに軍令部と交渉、永野軍令部総長から希望を容れる旨の意向を示され
昭和16年10月29日 聯合艦隊司令部は軍令部からその内示を受け
昭和16年11月 5日 正式にハワイ作戦の実施について指示を受けるに至った。
じつに大東亜戦争開戦の約1ヶ月前のことである。
◆戦争決意と作戦海面への進出◆
日米関係は我が政府の期待に反して悪化の一路を辿っていた。近衛内閣は総辞職し10月18日に東條内閣が成立していた。
東條内閣は、陛下の御内意により武力発動の決意を一旦白紙に戻して再度情勢検討に入ったものの、
結局 「対米交渉が12月1日午前零時までに成功したら武力発動を中止する」ことを条件にして作戦準備を完整することとなった。
しかし当時の情勢としては日米交渉が妥結する可能性は低かった。
陸海軍統帥部は11月5日の御前会議の決定に基づいて、開戦概定日を12月8日とした。
11月 5日 前述のように大本営海軍部は山本聯合艦隊司令長官に対し、開戦準備の統帥命令を伝達、
これに基づく作戦方針を示し、作戦前の待機拠点に兵力を展開するように指示した。
9月 1日 全面的な戦時編制を発令しており、10月中旬の戦艦長門における図上演習によって麾下部隊に対し
11月 5日 作戦準備の基礎として作戦計画は示された。更に聯合艦隊は「聯合艦隊の準拠すべき作戦方針」に基づき
11月 8日 「機密聯合艦隊命令作第1号」にて計画を発布、同第2号によって開戦概定日を12月8日と発令し、
各部隊は作戦開始前の待機地点に展開することとなった。
11月21日 聯合艦隊は軍令作第5号で「第2開戦準備」を下令
11月26日 択捉島のヒトカップ湾に集結していた機動部隊は密かに出撃したのである。
◆情報の収集と機密保持◆
この作戦の必成を図るため海軍は一体となって機密保持、企図秘匿及び情報収集と通報に万全を期した。
情報収集については、昭和16年9月24日 真珠湾を5水域に分けて各水域ごとに艦船の停泊状況を整理する要領を定め
時局の逼迫とともに所要事項の資料を加えて情報を収集していた (A情報と呼称)。
また軍令部第3部によって邦人引揚船に航空や潜水艦の専門家を乗船させ、常用航路ではない艦隊予定航路/北方航路
を航海させて航路上の気象や海上模様を視察させた。
ホノルル総領事附‘森村書記生’として諜報活動に従事した、吉川猛夫予備役海軍少尉も軍令部第3部嘱託である。
機密保持については、この作戦を知らされていたのは関係者の中でも一部の者に過ぎなかったほど厳重を極めた。
例えば前記「機密聯合艦隊命令作第1号」は、直接関係ない部隊に配布されるものについては、
本ハワイ作戦部分を切り取り白紙とした。
企図秘匿については、秘匿そのもの以外に我が企図を誤判断させるための手段が採られた。
12月1日には艦船・部隊に対する無線呼出符号を変更し、機動部隊は出港後厳重な無線封鎖が実施された。
また九州方面の基地航空部隊や艦隊による偽交信によって、艦隊所在地を偽装し、
さらには開戦直前、横須賀海兵団の水兵達による東京見学(新聞社訪問など)を行い、
艦隊の出港を悟られぬよう誤判断を誘導した。
◆米国のハワイ防衛◆
ハワイ諸島の防衛は、第14海軍区司令官ブロック少将が太平洋艦隊司令長官キンメル大将の指揮下にあって
基地諸施設の運営、艦隊に対する補給、修理などに任じていた。
また陸軍部隊はショート中将の率いる2個師団、沿岸砲兵隊、航空部隊などを有し、
陸海空からの攻撃に対する防衛はすべて陸軍の担任となっていた。
レーダーは移動式のものが計5ヶ所に配置され、固定式のものも据付工事中であった。
在ハワイ航空兵力
米海軍 | |
哨戒機 | 81機 |
雑用小型機 | 32機 |
海兵隊所属 | 61機 |
空母搭載用 | 130機 |
米陸軍 | |
各種計 | 180機 (第1線機は約半数) |
在ハワイ陸上兵力
オアフ島、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島 計43000名
ほかにオアフ島には海兵隊が652名所在していた。
真珠湾の雷撃防止に関する防御網は設置されなかった。これは、奇襲攻撃を受けたとしても
水深(約12〜14M)から考え、飛行機からの魚雷攻撃を受けることはほとんど考えていなかったからである。
これは当時の米英空母機の術力から判断されたものであり、まして日本の空軍は旧式で練度は低いと考えられており
仮に奇襲を受けても被害程度は許容範囲と考えられていた。
ところが我が海軍は早くから停泊艦攻撃のため浅海面で使用できる魚雷の研究をおこなっていた。
加えて昭和15年11月 英軍機による伊タラント軍港への攻撃によってイタリア戦艦を撃沈した戦訓に刺激され、
敵艦隊根拠地を攻撃する場合を考慮して、12Mの水深で使用できる魚雷とその発射法の研究を進めていたのである。
そして我が海軍航空隊の実力は、当時紛れもなく世界で第一級、否、世界最強であった。
米海軍はもちろん我が海軍でもその実力を認めていた人は少なかった。