◆アッツ島 攻防戦◆

 アッツ島守備隊(第2地区隊)長は、米川浩中佐(31)が発令されていた。
 また守備兵力は11000名まで増強させる予定であったが、輸送困難のため果たせず、
 守備強化のため山崎保代大佐(26)が新任され、昭和18年4月18日着任した。

    守備軍幹部・兵力
 山崎 保代 大佐 (北海守備隊第2地区隊長)
 米川 浩 中佐 (北千島要塞歩兵隊)
 渡邊 十九二 少佐 (独立歩兵303大隊)
 歩 兵 1大隊半
 山 砲 1中隊
 工 兵 1小隊
 計 2638名 内海軍100名

   攻略軍幹部・兵力
  ウォルターブラウン少将
  歩兵第7師団基幹 12000名

  総指揮官 キンケイド少将
  航空部隊 バトラー少将

 
 山崎大佐は着任当初から不運であった。
 防御陣地を構築する資材も時間もなく、弾薬も一会戦分のみ、兵力も予定の3分の1であった。
 80門の火砲を有していたが重砲はなく、戦車は1台もなかった。
 飛行場設営が中心であったので陣地築城も限界があった。


 ◆戦闘経過◆

 5月12日 内地からの増援部隊を待っていたアッツ島守備隊が見たのは、
 本国からの輸送船ではなく、30隻からなる米軍の上陸船団であった。
 天候不良のため5月7日から延期されていたアッツ攻略「ランドグラフ」作戦の開始である。

 守備隊は定石どおり水際撃滅を企図したが、優秀なる米軍火力の前に為すすべがなく、
 上陸した両湾ともに陣地を放棄して後退し、持久防御に徹した。

 米軍第7師団はネバダ砂漠とカリフォルニアで訓練を受けサンフランシスコを出発した部隊である。
 寒さを知らないこともあり、ぬかるみと雪上に苦戦した上に日本軍の砲弾が降り注いだ。
 死傷者が続出し第17連隊長アール大佐も戦死した。

 5月16日 ブラウン師団長はアラスカの第4連隊の援軍の要請を仰いだ。
 キンケイド少将は「日本軍は少数なのに援軍要請とな何事か!」と激怒し、即刻ブラウン少将を解任し、
 ランドラム少将と交替させるといった事態も迎えた。

 一方キスカ島の峯木司令官と東京の大本営はともに逆上陸作戦を企図した。
 また古賀連合艦隊司令長官も17日 水上部隊主力に東京湾集結を命じ、陸軍の支援に備えた。
 この決定は北方軍からアッツ島に打電され、杉山参謀総長からも激励電報が飛び、守備隊の士気は上がった。
 しかし5月20日 急転直下アッツ島への増援を大本営は断念した。
 この間参謀本部内でも激しい意見交換があったが、大局的にはやむを得ない判断であった。
 そもそも海軍の発案であったアリューシャン作戦とはいえ、制海権なき離島の作戦は
 一大消耗戦・・・「ガダルカナル島の二の舞」となる可能性大であったからである。

アッツ島戦闘経過図

 アッツ島の戦況は悪化の一路をたどっていた。
 南部では我が軍が米軍の進撃を阻止していたが、北部の進撃は予想以上に早かった。

 5月17日 敵上陸6日目、山崎部隊長は戦線縮小を決意し熱湾方面に後退した。
 5月22日 敵上陸11日目、主な守備隊の損耗は

米川部隊
 北千島歩兵隊
人員3分の1 速射砲1、機銃2、山砲4
渡邊部隊
 独歩303大隊
人員3分の2 速射砲2、機銃4、大隊砲1
高射砲部隊
 独高射砲33中隊
人員3分の1 高射砲14、機関砲6

 となり、戦闘力は著しく低下していた。

 5月23日 敵上陸12日目
 米軍は十勝岳に襲いかかりその一角を占領、南東部に熱田湾攻撃の足場を固めた。
 その日、海軍の陸上攻撃機19機が米艦隊に対し攻撃をかけたが、アッツ島の戦闘に影響を
 与えることはなかった。霧の多い天候で飛行機による艦船攻撃はこれが最後であった。
 潜水艦による攻撃は続行されたが、参加した潜水艦7隻のうち4隻を失うこととなった。

 5月29日 敵上陸18日目
 いよいよ守備隊は熱田湾の平坦地に追い込まれた。
 周囲の高地すべてが米軍が確保し、守備隊は包囲される形となっていた。
 かくて山崎部隊長は残存全兵力を以て夜襲を敢行することに決し、北方軍司令官宛最後の打電を行った。
 山崎部隊長は全将兵を前に、指揮官として全滅に至らしめたことを深く詫び、
 「武人としてその名を汚さぬことを望む」と訓示し、また重傷者の処置を命じた。

 2000 全員で西南の故国に向かい「天皇陛下万歳」を三唱し
      最後の打電を行った。そして
 2115 「機密書類焼却、無線機破壊」を通知し連絡を断った。

 総攻撃は5月29日夜半から30日にかけて敢行された。
 軍属を含む残存兵力300余名は、3個中隊に編成されて米軍陣地に突撃した。
 戦闘司令所2カ所を突破し、野戦病院を攻撃し負傷兵や従軍牧師を殺害したが、  米軍第50工兵連隊によって阻止された。
 態勢を立て直した米軍によって日本軍の大部分は戦死し、最後の大混乱を名残に全員玉砕した。
 傷つき生き残った日本兵の大部分は手榴弾で自決した。

 昭和18年5月30日 1700 大本営はアッツ島の玉砕を発表した。
 これは、大東亜戦争中において「玉砕」の文字を使った最初のものである。

 東条首相は、北方に向かって端座し手を合わせて黙祷したと言われ、
 樋口北方軍司令官は、第2地区隊と山崎部隊長に対し感状を授与した。
 5月29日付で山崎保代大佐は二階級特進し陸軍中将に任ぜられた。

 
 杉山参謀総長は宮中に参内し、山崎部隊からの最後の電報について奏上した。

 陛下は、「山崎部隊は最後までよくやった。自分は嬉しく思う と打電せよ」 と仰せになった。
 杉山は、「無線機は破壊しているので、受信されません」
 陛下は、「それでも電波をだすように・・・」

 杉山元帥は沈痛な面持ちで、御下問の内容について随行の瀬島龍三少佐にこう語った。
 それを聞いた瀬島少佐は、涙がとまらなかったという。
  ==瀬島参謀の回想より==

 大本営から北太平洋に向けて電報発信の措置がとられたが、受領の返信が届くことはなかった。


 ◆戦果・損害◆

  日本軍 米軍
 戦 死 2600名 550名
 戦 傷 29名 2240名
  (軍属含む) (半分は凍傷患者)

 29名の捕虜の内1名(見習士官)は、護送される途中船上から投身自殺した。

  「なぜ負けたと分かっても日本軍は降伏しないのか?」

    最後の一兵まで戦う日本軍に対して
    米軍は、この戦争の険しいことを身をもって体験したのであった。
    そしてこの戦いは、太平洋の各地でますます激しくなっていくのである

         北東方面作戦3 キスカ島撤退作戦