大東亜戦争開戦経緯3


===== 日米交渉の発足 =====

日米国交調整は、昭和15年11月末以来近衛首相によって密かに裏面工作が行われていたが、 昭和16年3月8日 ハル国務長官と野村吉三郎駐米大使との間で、非公式会談が開始された。これは爾後開戦に至るまで数十回にわたって行われた会談の最初のものであった。

===== ハル4原則と日米了解案 =====

4月16日 『ハル4原則』が野村大使に提示された。

    1 あらゆる国家の領土保全と主権尊重
    2 他国の内政問題に対する不干渉原則
    3 通商上の機会均等を含む平等原則
    4 平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱

また民間主導の非公式折衝として『日米原則協定案』を作製、これはのちに4月16日の『日米了解案』へと発展するもので、日本はこれを基本として交渉を進めようとの考えであった。 しかし多分に融和的は了解案の内容は、ソ連より帰国した松岡外相の手によって大幅修正された。松岡外相はまず日米中立条約を提案、さらに松岡修正(日米了解)案をハル国務長官に提出することにより交渉を進めようとしたが、ハルはほとんど問題とせず、『ハル4原則』が交渉の基礎であることを強調した。

日米交渉は、政府・大本営の連携のもとに進められたが時間の経過とともに米側の態度は硬化し、速やかなる交渉成立には失敗した。三国同盟を外交政策の基本と考える松岡外相と、ドイツに対する敵意を強め原則的立場に固執するハル国務長官との対立は激化していった。 さらに国内でも、対米関係悪化を望まず日米交渉の妥結を望む内閣全体の意向から松岡はうきあがっていったのである。

6月22日 独ソが突如開戦した。
これは日本にとって大きな衝撃であり、我が陸軍は @武力南進 A米英と協調しつつ北方解決 B現状の推移を待つ の三案を検討したが結局北進/南進とも決しない『準備陣』案へと傾いた。わが国は長年にわたり対ソ戦を想定してきたが、陸軍省・海軍ともに北進には消極的であった。

この間南方情勢も悪化していた。前述の如く蘭印との交渉は不調に終わり交渉は打ちきりとなった。 米・英・蘭の諸国は南方の戦備を固め、対日政治的・経済的・軍事的圧迫は日に日に強まった。 このためわが国は、南部仏印を勢力下におさめるため、一部の兵力を進駐させることとし、6月25日 対米英戦を辞せず の決意をもって南方施策を促進することに決定した。

===== 7月2日の御前会議 =====

7月 2日 御前会議で『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』を決定した。
帝国は依然支那事変処理に万進し 且つ自存自衛の基礎を確立する為南進の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す という方針である。即ち南部仏印進駐の確認と対ソ警戒強化であった。 北進の基本構想は、のちに関特演を実施し極東ソ連軍が西方に兵力が転用されてから武力発動が予定されており、独ソ戦の推移如何であった。
だがドイツ軍の進撃は停滞し、8月9日 大本営は年内における北方解決企図を断念、南方に努力を傾注することとした。

一方フランスとの交渉は合意に達し、米国による援蒋ルートの遮断を目的として陸海軍は7月28日から南部仏印に平和進駐を開始した。
これを見た米国は、7月26日 対日資産の凍結を発令、英・蘭もこれに続いた。さらに8月1日 対日石全面輸出禁止を決定した。

===== いわゆる「ジリ貧論」 =====

経済断交は武力行使に勝るものであり、このままの状態が続けば日本海軍は2年後には全機能を喪失し、重要産業は1年以内に生産を停止し、「ジリ貧」となることは明かであった。 さらに翌年以降になれば、米側の軍備は急速に増加され、彼我の戦力比率は著しいものとなってしまう。もし戦うのであれば今である。
「機を失せず」「死中に活を求める」以外の方法は、石炭液化による人造石油の確保であったが国内の技術では甚だ不十分であった。
加えて極東米陸軍司令部が比島に新設され、英増援部隊がシンガポールに到着し、米軍事使節団は重慶に派遣されると米大統領は発表した。米海軍長官は 「米海軍は、米国の極東政策遂行のため必要な措置を敢行できる」と言明、ABCD包囲網はますます強化されていったのである。

===== 日米巨頭会談提唱 =====

近衛首相は対米交渉を促進するため強硬派の松岡外相を更迭、7月18日 一旦総辞職して第3次新内閣を発足させた。
8月 7日 近衛首相は日米両国首脳による直接会談を提議した。生き詰まりを打開するための最後の秘策であった。 陸海軍もこの会談に多大の期待をかけ随行員の人選などの準備を進めたが、米国からの回答は近衛に「甚だ失望的であった」と書かせた程冷淡であった。
8月14日 米英共同宣言いわゆる『大西洋憲章』が発表された。これはチャーチル首相主導のもと企図された対日警告の一種であったがルーズベルト大統領は 「3ヶ月間日本をあやすこと(to baby)ができる」と語ったといわれており、米英首脳はこの共同宣言以降においては日米交渉をもって時間稼ぎとみなしていたと考えられた。

8月26日 近衛首相は米大統領あての親書を送り、日米首脳会談を早急に実現するよう再度提案した。
これに対して米大統領は「重要な原則問題(ハル4原則)について合意に達した上でなければ会談には応じられない」と回答してきた。それは対日不信もさることながら米国の遅延策−対日戦争準備に他ならなかった。

===== 陸海軍の戦争決意 =====

政府が外交による時局収拾に苦慮しているとき、統帥部・大本営も時局打開の検討を進めていた。対米戦の場合の主役は陸軍ではなく海軍であったため、海軍主導による国策決定を陸軍は期待していた。

8月16日 海軍から『帝国国策遂行方針』が提示された。これは10月下旬を目途として戦争準備と外交を併進させ、外交が妥結しない場合は武力を発動する というものであった。  これは海軍としては画期的な重大決意の表明であり、以降この海軍案を基礎として大本営は研究を進めた。
これに対し陸軍は、戦争の決意なくして戦争準備を進めることはできない として反対し意見が対立した。陸海軍の折衝の結果 「戦争を辞せざる決意のもとに〜」 と修正し『帝国国策遂行要領』として9月3日の大本営政府連絡会議で討議された。この会議では和戦決定時期のリミットについて問題とされたがこの時点では不明確のままであった。

===== 9月6日の御前会議 =====

この『帝国国策遂行要領』が御前会議で決定されたとき、昭和天皇は異例の御発言をされ、外交による局面打開を要望された。また明治天皇の御製を読み上げられ、和平への希望を強調された。
     
四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ

御前会議は極度の緊張裡に散会となったのであった。
その後政府は、聖旨に沿って日米交渉に努めたが進展することはなかった。
8月15日 海軍は出師準備第2着を発動、9月1日 年度海軍戦時編制実施を発令した。
大本営は和戦の決定時期を遅くとも10月15日までに行うよう政府に要望した。政府首脳の意見は一致せず、情勢判断を異にしていた。 この決定をめぐる折衝において、東郷外相は交渉継続を主張、及川海相は首相に一任、東條陸相は米国提案に反対 という状況であった。

海軍は日米戦争は不可能であるとの判断を有していたが、之を公開の席上で発言することはできなかった。これは当時の空気として「海軍は戦えない」などと口にすることは

      1 海軍の存在意義を失う
      2 艦隊・全海軍の士気に影響
      3 陸海軍間の物資争奪において「戦えない海軍に物資を与える必要なし」となる

さらに軍令部は毎年作戦計画を陛下に奏上しているが、対米戦はできないということは陛下に対し嘘を申し上げることになってしまうのである。
これにより武藤陸軍軍務局長より、海軍は戦えないと言ってくれれば陸軍強硬派も断念する との働きかけも実を結ぶことはなかった。

===== 第3次近衛内閣総辞職 =====

10月14日 近衛首相は、官邸に東條陸相の来邸を求めて支那からの撤兵問題について再考を求めた。 支那事変に重大責任がある私としては更に前途に見通しのつかない大戦争へ突入することは何としても同意し難い。この際一時屈して撤兵の形式を米国に与え、日米戦争の危機を救うべきである として同意を求めた。

これに対して東條陸相は、今米国に屈すればますます高圧的に出てとどまるところがない。米国の要求は日本を独伊から切り離すことにある。もしその方向に行けば、米英が独伊を撃滅した後に日本打倒に向かってくるだろう。 支那全土よりの撤兵は、陸相としても日本陸軍としても、大陸に尊い生命を捧げた幾多の犠牲に対し、絶対に認めることはできない。 と主張して物別れとなった。
陸軍は戦争を必ずしも望むものではなかったが、支那からの撤兵には反対し、外相は支那からの撤兵を認めなければ日米交渉は成立しないとの見解であった。
とかく優柔不断の感があった近衛首相には決断することができず、第三次近衛内閣は閣内不統一によって総辞職した。

===== 東條内閣の成立 =====

近衛・東條両大臣は、後継首班に東久邇宮内閣を提唱した。 しかし昭和天皇は「皇族が政治の局に立つ事は、平和の時はともかく戦争になる虞の場合には慎重に考えるべきである」との御内意であった。また木戸内大臣も宮様内閣には反対であった。結局名目上の白紙内閣として陸軍部内の統制を得られる人物として東條陸相が推挙され組閣の大命が降下した。 近衛政権をつぶしたのは陸軍だから、陸軍が最後まで責任を負えばいい とする空気もあった。なお、東條本人は陸相に留任する意図はまったくなく、首相就任など考えてもいなかった。

10月16日 東條内閣が成立。東條首相は9月6日決定の『帝国国策遂行要領』を白紙撤回するように との陛下の聖旨を受け、連日再検討をおこなった。 大本営側はこれに焦慮し、時間が切迫しているので検討を急がれたいと申し入れたが、政府は十分検討して責任をとりたい と慎重であった。

===== 11月1日の大本営政府連絡会議 =====

11月1日 東條首相は以下の3案を示し、各閣僚、大本営首脳の意見を求めた。

      1 戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
      2 直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する
      3 戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める

陸軍省首脳を含む閣僚の大部分は3)に賛同、大本営/統帥部側の主張は2)であった。

同日11月1日の連絡会議は、午前9時から深夜に及ぶ激論が続く歴史的会議となった。東郷外相は、外交交渉の条件とする『甲案』のほかさらに穏やかなる『乙案』を提議した。

甲案は、9月29日提出の日本側提案を修正緩和したもので

      1 ハル4原則の通商無差別問題は、全世界に適用されるという条件で承認する
      2 三国同盟の解釈履行問題は、いわゆる独自解釈に基づく
      3 支那撤兵問題は、華北・蒙彊の一定地域と海南島は25年駐屯
          それ以外は2年以内に撤退、仏印からはただちに撤退

乙案は、第2次譲歩案であり、米による資産凍結前=南部仏印進駐前の状態に復帰しようというもので

      1 日米両国は、仏印以外のアジア・太平洋に武力進出を行わず
      2 日米両国は、蘭印の物資獲得について協力する
      3 日米両国は、通商関係を資産凍結前に戻す
      4 米国は、日支和平の努力に支障を与えない
      5 以上が成立すれば、日本は南部仏印から撤兵する

11月5日の御前会議で『帝国国策遂行要領』は原案どおり採決され、日米交渉は甲案ついで乙案によって進められたが、米国の態度は強硬であった。 打開をはかるべく大使辞任を申し出ていた野村大使の補佐として来栖三郎特使の派遣を決定、当時としては異例の空路によって11月15日ワシントンに到着した。
しかし、来栖特使の派遣によって状況が変わることはなかった。米側は三国同盟の死文化を要求するといった状況の変化が見られたが、すでに交渉に見きりをつけており、不信感は決定的であった。

アメリカはマジック情報により日本の外交電報を解読していた。日本が「11月25日までに日本の要求に応じない場合は戦争も辞さない」ことを知っていた。ハル国務長官は「日本は既に戦争の車輪をまわしはじめている」ことを知った上で交渉を行っていたのである。のみならずルーズベルト大統領は、既に対日戦争を決意し日本をして先に手をださせようとしていた。このように実に一国の外交機密暗号電文のほとんどが、長きにわたって想定敵国に解読されていた ということは外交史上空前のことであった。

===== ハル・ノート =====

11月26日 合衆国及び日本国間協定の基礎概略(tentative and without commitment)と
オーラル・ステートメント いわゆる『ハル・ノート』が提示された。

      1 ハル4原則の無条件承認
      2 支那・仏印よりの軍・警察の全面撤退
      3 三国同盟の死文化
      4 重慶政権以外の政権の否認

これは今までの日米交渉のプロセスを全く無視した最後通牒ともみなされるものであり、米大統領の斡旋により成立した日露講和条約(明治38年)をまったく無視し、遼東半島租借権のみならず全満州からの総撤退(異説あり)を要求していた。これは我が国を日清・日露戦争以前に戻ることを要求する峻烈なものであった。 「甲案」には実質的譲歩としては見るべきものは少なかったにせよ、米国案に少しでも歩み寄ろうとする誠意は払われており、「乙案」は心から戦争を回避したいという東郷外相の熱意の表れであった。その東郷外相は、ハル・ノートを受け取ると和平への熱意を一挙に失い「目がくらむばかりの失望」にうたれ、木戸内大臣は万事休すと思った。戦争を回避しようとしていた多くの人々に決定的打撃を与えたのであった。

永野修 軍令部総長
「米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、
戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。
戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば
われらの子孫は再起、三起するであろう。」 

===== 開戦決意 =====

11月29日 宮中にて政府と重臣の懇談会が行われ、重臣たちは政府の開戦決意を真にやむを得ないと諒承。
12月 1日 御前会議でついに開戦−自存自衛の防衛戦争の開始−が決定された。

その後、ルーズベルト大統領の天皇あて親電による局面打開が図られたが、既にハル・ノートに接したる日本では問題にならなかった。それは「マジック」によって我が国の手の内を知った米大統領による、単なる戦争回避のゼスチャーに過ぎなかった。


       大東亜戦争開戦経緯 補足資料


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