◆タイ進駐作戦◆

 シンゴラ、パタニ、コタバル 以上の3カ所がマレー作戦の上陸予定地点である。
 前2点はタイ国南端にある泊地、後者はマレー領の敵前である。

 中立を表明していたタイ国に対して、わが国に武力行使のつもりは全くなく、ただ平和進駐を申し入れるのみであった。
 が、単なる「軍隊の一時的通過」であっても領土侵犯にかわりはなく、ピブン首相の返答によっては
 タイ国との間に武力紛争が起こる可能性もあった。

 12月8日1200頃、単純な軍隊通過協定をタイ国は締結。一部で小競り合いがあったものの、
 おおむね平和裡に進駐が進みインドシナ方面より近衛師団はタイ領を通過した。

 このような無抵抗上陸と対照的だったのが、コタバル上陸部隊であった。

 

◆コタバル上陸◆

 真珠湾空襲に先立つこと約2時間前、12月8日午前1時30分
 第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行した。

 大東亜戦争がこのときに始まったのである。

 守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6000の兵力で海岸一帯に防御陣地を築いていた。
 鉄条網をめぐらした陣地は水際から50〜70M付近に構築され、その後方には散兵壕があり、
 地雷も多数敷設されていた。

 死傷者700、上陸用舟艇の沈没(大発等)15、損傷10
 多大な犠牲を出して激闘4時間の末、海岸線を制圧した上陸部隊は直ちにコタバル市内を占領した。
 この間、上陸船団の「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」が被弾し、護衛艦隊指揮官・橋本少将(第3水雷戦隊)
 は、一時避難し、再度の揚陸作業のやむなきに至った。

 佗美支隊はその後、
 11日は補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラ と電撃的に部隊を進めていった。

 

◆ジットラライン◆

 一方シンゴラに上陸した第5師団主力は、佐伯捜索連隊を先遣部隊として前進を開始した。
 第5師団長松井久太郎中将は、時間の経過とともに敵陣の強化と交通路の破壊は進むと判断し、
 第9旅団長 河村参郎少将の指揮下に入れ、速やかに国境を突破させることにした。

 12月10日、支隊は戦車第3中隊、山砲1中隊、工兵1小隊他を編入して「佐伯挺身隊」 を組織、
 一挙に突撃路を開くべく進撃した。
 11日、アースンの国境陣地に入った佐伯支隊は、戦車中隊を先頭に交戦約20分ののちにこれを 突破。
 ジットララインに迫った。

 12日0350 敵の砲撃を受けた佐伯支隊長は、ジットラ東側陣地に夜襲を命じた。
 敵の砲撃は正確で第1中隊長以下多数の死傷者を出した。0900頃、我が砲兵も射撃を開始したが
 敵の砲火は峻烈をきわめた。
 1230 ついに敵の第2線陣地の一角を占領。歩31連隊主力をもって夜襲を決意しその準備中
 1730 敵は突如全面的退却を開始した。

 このジットララインは、インド第11師団の第6、第15旅団の守備する有力なる防御線であり、
 よもや1日で、しかも約600名の佐伯支隊が突破できるとは両軍とも驚かざるを得なかった。

     英軍兵力     インド第11師団の第6、第15旅団からなる人員約5400名、戦車約90両
     英軍被害     500〜1000名(捕虜証言)
     英軍捕虜     1000名以上
     我軍の損害   戦死27  戦傷83

 

◆全般の戦闘経過◆

 敵英軍の戦術は、250にものぼる多数の河川にかかる橋を逐次爆破し、戦術的に後退し時間を稼ぐことにあった。
 そのため第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の補修速度であった。

 道路橋・鉄道橋の修復には、独立工兵15連隊(横山与助中佐)と各師団の工兵部隊があたった。
 また鉄道の修復には、鉄道第9連隊(今井周大佐)と鉄道第5連隊(佐々木萬之助大佐)があたった。
 これら橋梁修理にあたる工兵隊の努力は、マレー攻略戦中特筆に値するものがあった。

 またその間、敵スリム陣地における戦車第6連隊第1中隊(島田豊作少佐)による戦史に例のない
 「戦車夜襲」による敵陣突破や、近衛歩兵第5連隊の第2大隊(大柿正一少佐)の大隊戦力の6割を損耗した
 バクリ、バリットスロンの激戦もあった。

 

◆マレー沖開戦◆

 英国東洋(東方)艦隊の戦艦「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」が駆逐艦4隻を伴い
 日本軍船団の泊地攻撃に出撃したのは、12月8日1805である。
 指揮官は軍令部次長を経験したチャーチル首相の信任のあつい、サー・トーマス・フィリップ中将
 (参謀長パリザー少将)である。

 本来戦艦有しないマレー方面の我が海軍部隊と比較して、その勢力は驚異であったが、
 南遣艦隊の小沢長官は夜戦を挑むべく艦隊を出港させるも東洋艦隊を見失ってしまう。

 一方、第1航空部隊・海軍22航空戦隊主力(松永貞市少将)は航空機による攻撃を実施すべく
 元山・美幌・鹿屋の航空隊を出動させた。  

         元山航空隊(甲空襲隊) 26機
         美幌航空隊(乙空襲隊) 33機
         鹿屋航空隊(丁空襲隊) 26機
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 8日 1805  英国東洋艦隊 シンガポール出港
 9日 0530  艦隊進路を北方に転進
10日 1150  プリンスオブウェールズ日本機発見、第1級戦闘準備発令
     1243  全艦射撃開始
            プリンスオブウェールズ 魚雷7本・爆弾2発命中
                (英側資料 魚雷6本、爆弾2発)
            レパルス 魚雷13本、爆弾1発命中
                (英側資料 魚雷5本、爆弾1発)
    1403   レパルス 沈没
    1450   プリンスオブウェールズ 沈没

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 両戦艦の乗員2921名のうち2081名が救助されたが、司令長官フィリップ大将、
 ウェールズ艦長リーチ大佐は艦と運命を共にした。
 また、我が軍の被害は対空砲火による2機(不時着大破1機)−21名であった。

 この戦闘はマレー進行作戦そのものよりも、飛行機対戦艦の決戦による航空機の優位性という
 戦術の大変革をもたらした功績が大きい。

 我が海軍の攻撃機は、戦艦2隻の沈没を見届けると、翼を振って英軍将兵の健闘を讃えながら
 雲間に去ったと英軍は報じている。そして翌日2機が再び飛来し、日・英両軍の勇士のために
 2つの花束を投じたという。

 

◆マレー半島制圧◆

 昭和17年1月に新たに英米蘭豪連合地域最高指揮官となったウェーベル大将は、
 シンガポール島への撤退を英国参謀本部に打電、1月30日夜撤退を開始した。
 12月8日上陸後わずか55日目に第5、近衛の追撃部隊は相次いでジョホールバールに突入した。

 ここにマレー半島での戦闘は終結し、英軍はシンガポール島に追い落とされたのである。

     作戦日数     55日
     機動距離     1100Km(1日平均約20Km)
     交戦日数     95回(1日平均約2回)
     橋梁修理     250(1日平均 5)

     遺棄死体     約5000
     捕虜        約7800
     押収        戦車・装甲車235、火砲340、自動車2723 他

     損害        戦死1535(将校102)
                戦傷2257(将校135)

   マレー作戦 3


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