◆ ミッドウエイ海戦 ◆

 ◆ 作戦の背景 ◆

 ハワイ作戦終了後、聯合艦隊は新作戦の準備を実施した。
 南方攻略作戦の一段落と、昭和17年4月のインド洋方面作戦の終了に伴い、
 艦隊兵力を瀬戸内海西部に集結し基地航空隊の大部分を太平洋東正面に配備し、着々次期作戦の準備を進めた。

 初期作戦の成功を確信するようになった2月上旬から大本営政府連絡会議で、
 爾後の戦争指導構想が聯合艦隊・大本営の「海軍 第2段作戦」構想と併行して検討された。

   陸軍側の主張−−−開戦前の構想のとおり占領地域を固め長期不敗態勢を造りつつ英・蒋の脱落を促進する
   海軍側の主張−−−長期戦は不利であるので攻勢をあくまで続行する

 同じ海軍部内においても

   軍令部内の主張−−前方要域を占領し長期持久のための邀撃態勢の確立
   聯合艦隊の主張−−敵艦隊を誘出し連続的な決戦

 と、両者の相違は大きかった。

     聯合艦隊    大本営海軍部    大本営陸軍部 
 オーストラリア
     攻略作戦
賛成 反攻基地の覆滅 主張 反攻基地の覆滅
    英国脱落促進
反対 国力限界の超過
 米豪 遮断作戦 反対 危険な上効果に疑問 主張 豪の反攻基地化阻止
    米艦隊の誘出撃滅
海軍に協力
 ハワイ攻略作戦 主張 米戦意喪失に効果的 反対 戦力限界の超過 陸軍には提示されず
 セイロン島
     攻略作戦
英艦隊の誘出撃滅
(機動部隊による攻撃のみ実現)
当初難色 攻略後の確保困難
 ミッドウエー作戦 米空母の誘出撃滅 当初反対
米豪遮断作戦の前提として賛成
当初反対
本土空襲後海軍に同意

 山本長官はその真意を充分に吐露し議論するするよりも、実行によってその貫徹を期す傾向が強かったので
 ミッドウエー作戦立案の真意は明らかではない。
 が、米国の国力を知るとともに従来から海軍が計画していた邀撃作戦に疑問を抱いていた同長官は、
 逐次増勢する米艦隊に連続決戦を強要し、各個撃破によって敵を守勢に追いこむ以外にはこの戦争に勝算がない、
 と考えたのではないかと推察される。

 
 ◆ 本土初空襲 ◆

 真珠湾奇襲から我が海軍は太平洋全域で快進撃を続け、米軍は後退を余儀なくされた。
 ルーズベルト大統領は、沈滞しがちであった米国民の士気を高揚させる反撃作戦として日本本土空襲の構想を示した。
 検討の結果、航続距離の長い陸軍の双発爆撃機を空母から発艦させ、帰投せずそのまま支那大陸に片道飛行させ、
 蒋介石軍の航空基地に着陸させるという大胆な計画を立案したのである。
 この計画実行には、B25を通常の滑走距離の1/3で離陸させねばならず、日本本土の防空体制も未確認であり
 非常に危険を伴うものであった。
 指揮官は米航空界での第一人者・ジェームスH ドゥーリットル陸軍中佐が任命され、1ヶ月の猛訓練の後
 サンフランシスコを出港 一路日本に向かった。

 しかし開戦前から米機動部隊による本土空襲を予想していた我が海軍は、
 徴用した漁船を中心に本土東方に哨戒線を張っていた。
 また内地にある基地航空部隊も木更津と南鳥島から哨戒を行っていた。

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 昭和17年4月18日 0630 釧路に帰投中の監視艇第23日東丸(90トン)が敵飛行機発見の第一報をもたらした。
 続いて0650 敵空母3隻見ゆ(実際は2隻)との米機動部隊接近を報告した。

 日本本土から700カイリの海上で発見されたということは、当初の計画より距離にして約200カイリも手前であり、
 米軍の計画を大きく狂わすこととなった。

  @ これ以上日本本土に接近すると陸上機の攻撃を受けるおそれがあり、
  A ここで発進させると夜間爆撃の予定が昼間爆撃となり
  B 燃料の関係上、支那大陸までの飛行距離が微妙

 だがハルゼー中将は敢然と決断。 空母ホーネットとエンタープライズは
 昭和17年4月18日 0725 日本本土から670マイルの地点でB25中型陸上爆撃機 16機を発艦させた。

 「米機動部隊発見」の報に接した我が軍は、空母機による往復攻撃であれば250マイル以内と考えていたので、
 その発見海上から考え本土来襲は翌19日朝と判断していたが、念のため警戒態勢はとった。

 4月18日 1215 B25は来襲した。日本軍の裏をかいて海面スレスレの低空飛行で我が本土に侵入したのである。
 ドゥーリットル中佐の一番機は、1230頃東京上空に達し高度を400Mまで上昇させ東京初空襲の第1弾を投下した。
 全16機のうち13機が東京・川崎・横浜・横須賀 2機が名古屋(うち1機は四日市) 1機が神戸を爆撃、
 荒川区尾久町、川崎の日本鋼管、昭和電工のガスタンクなどが被害を受けた。

 陸海軍の防空戦闘機や高射砲部隊も低空での侵入のため不意をつかれてしまい、確たる反撃はできぬまま
 敵機は本土を横断して西方に飛び去り中支方面に向かったのである。

 監視艇2隻沈没、数隻に被害を受け、戦死33名 戦傷23名
 空襲の犠牲は、死者45名 重症153名 家屋全焼160戸 全壊21戸
 少数機の空襲にしては被害は小さくなかった。
 しかしそれ以上に大きいものは、我が国民に与えた心理的影響で、その後しばらくは敵機来襲の誤報が続き、
 一般国民から軍への非難の声があがった。

 なお16機のB25は、1機がウラジオストックへ、残る15機は大陸まで飛行したが、8名がわが軍の捕虜となった。
 捕虜のうち3名は日本軍によって処刑された。
 これは空襲の死者のなかに新宿区山吹小学校の生徒がおり、無差別空襲に対する報復措置であった。

 この空襲を受けて山本聯合艦隊司令長官は、再度の奇襲を許さないためには
 すみやかにミッドウエー作戦を実施すべきであるとして準備を進めさせた。
 また本土防衛に任ずる陸軍もこれに強く同意したのであった。

 
 ◆ 作 戦 計 画◆

  大海令第18号
  大海指第94号
  昭和17年5月5日  機密聯合艦隊命令
  作第12号 「聯合艦隊第二段作戦計画」
 一般方針
 作戦方針はミッドウエー方面とアリューシャン群島とに二分するが、両者は一体の作戦とし
 要地攻略も重要な作戦目的であるが、この攻略作戦を契機として反撃が予想される敵艦隊を補足撃滅することを目的とする。

 ミッドウエー作戦要領
 機動部隊を以って上陸前ミ島を空襲、兵力と防御施設を壊滅し、攻略部隊を以って一挙に攻略するとともに
 出撃し来る敵艦隊を補足撃滅する。

 ミッドウエー攻略の計画は聯合艦隊から提出された。
 当初難色を示していた軍令部も、アリューシャン作戦と合わせて実施することになり、東京空襲を受けたことによって
 同意した陸軍から攻略部隊として一木支隊(のちガダルカナル島作戦に参加)も参加することとなった。
 ミ島攻略は、上記のように米機動部隊を誘い出し撃滅することとともに、
 東京空襲を防ぐため同島に哨戒線を前進させることを目的としていた。

 だが珊瑚海海戦のため大型空母2隻が不参加となり、潜水艦部隊の哨戒線配置が遅れ
 インド洋作戦から帰投後の機動部隊等の作戦準備や訓練も不十分であった。

 一方我が暗号を解読し計画を知った米軍は、大型空母3隻を日本潜水艦が哨戒線につく前に配置についていた。
 珊瑚海で損傷したヨークタウンも3日の突貫工事で応急修理と飛行隊の補充を終えて配備された。
 またミ島の防備も強化され、同基地の航空部隊は約120機であった。

 
 ◆ 一航艦司令部の用兵思想 ◆

 ハワイ作戦で成功した海軍による空母集中運用は、指揮運用が容易で攻撃力の集中が可能である利点があった。
 一航艦司令部はその後も空母集団使用を続けていたが、最も欠点とする本格的な航空攻撃を受けた経験がなかった。
 空母は攻撃力は強大であるが防御力はきわめて弱く、空襲に対する受身の防御では阻止できないことは
 当時から指摘されていたのである。

 これに対し源田参謀は、空母を集団使用すれば防空戦闘機を多数配備できるので
 かえって敵の攻撃に対処できると考えていた。
 (源田参謀は戦闘機出身であり、零戦の性能・我が搭乗員の技量を熟知していた)

 司令長官・南雲忠一中将(36)は、水雷専攻ということもあって航空作戦の計画や指導には
 ほとんどイニシアチブをとることはなく、幕僚の意見を「よかろう」と決裁していた。
 参謀長・草鹿龍之介少将(41)は、航空作戦の第一人者であったがほとんど口を出すことはなく、
 首席参謀・大石保中佐(48)は航海専攻で航空経験が少なかった。
 勢い航空作戦の計画も指導も、航空甲参謀・源田実中佐(52)の意見がほとんど全部通っていたようである。
 当時機動部隊を‘源田艦隊’と評していた者さえあった。

 しかし源田自身は、自己による計画や指導がなんらの批判もなく長官や参謀長を通ることが寂しい
 と漏らしていたと伝えられている。

 
 ◆ 両 軍 戦 力 ◆

  第1機動部隊 指揮官 南雲忠一中将
    空襲部隊 (南雲中将直率)
      第1航空戦隊  赤城、加賀
      第2航空戦隊  飛龍、蒼龍
    支援部隊 (阿部弘毅中将)
      第 8戦隊  利根、筑摩
      第 3戦隊  榛名、霧島
      警戒部隊 (木村進少将)
      第10戦隊  長良、第4、10、17駆逐隊

  攻略部隊 指揮官 近藤信竹中将 (陸軍 一木支隊 約2000名)
    本隊 (近藤中将直率)
      第 3戦隊  金剛、比叡
      第 4戦隊  愛宕 鳥海
      第 5戦隊  妙高、羽黒
      第4水雷戦隊  由良 第2、9駆逐隊 他

  護衛隊 (田中頼三少将)
    第2水雷戦隊 神通 他 輸送船15隻

  支援隊 (栗田健夫少将)
      第 7戦隊  三隈、最上、熊野、鈴谷 第8駆逐隊

  航空隊 (藤田類太郎少将)
      第11航空戦隊 千歳、神川丸 他

  主力部隊 指揮官 山本五十六大将
      戦艦3、改装空母1、軽巡1、駆逐8

  先遣部隊 指揮官 小松輝久中将
      軽巡1、潜水艦18

  警戒部隊 指揮官 高須四郎中将
      戦艦4、軽巡2、駆10

  航空部隊 指揮官 塚原二四三中将

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  空母部隊 指揮官 フレッシャー少将

    第16任務部隊 (スプルーアンス少将)
      空母2(エンタープライズ・ホーネット)、重巡5、軽巡1 基幹

    第17任務部隊 (フレッシャー少将)
      空母1(ヨークタウン)、重巡2、駆逐艦6 基幹

  ミッドウエー守備隊 (D.シャノン大佐)
      兵員3027名 戦闘機等約120機

 
         ミッドウエー作戦 2 海戦経緯