◆ 南太平洋陸軍作戦 ガダルカナル島作戦2 ◆

 ◆ 川口支隊派遣決定と上陸 ◆

 第17軍司令部では、一木支隊だけでガ島飛行場奪回が成功すると考えていたわけではなかった。
 またそれが成功したとしてもガ島南方のツラギ島を引き続き攻略する必要があったので、
 一木支隊に次いで歩兵第35旅団の派遣を準備していた。

 昭和17年8月20日から米軍航空隊はガ島飛行場に進出し米艦隊と協同していた。
 これを撃破し増援輸送支援のため出動した聯合艦隊との間に第2次ソロモン海戦が行われた。
 輸送船団は引き帰したが8月28日からは駆逐艦によって川口支隊の輸送が行われた。
 ガ島基地の米航空部隊は逐次増強され、ラビ、ポートモレスビーを基地とする航空部隊とともに
 奪回作戦の大きな障害となりつつあった。
 この海戦以降ガ島への輸送は、昼間の輸送船による大規模増援から、
 夜間高速を利用した駆逐艦による逐次連続輸送『ねずみ輸送』に切り換えることとなった。
 ねずみ輸送の場合、駆逐艦1隻の輸送能力は、人員150名、軍需品100トンが限度であり、
 重火器の輸送は不可能であった。

 
 ◆ 川口支隊の攻撃準備 ◆

 9月6日 支隊長(第35旅団長)・川口清健少将(26)は以下の攻撃構想を第17軍司令部へ報告した。
 支隊は9月12日1600攻撃開始、主攻撃方向を南方ジャングルより北方飛行場に指向し
 13日払暁までに全陣地を蹂躙する。
 岡部隊(舟艇機動部隊)は海岸方面より飛行場西側に攻撃させる。

 これは飛行場を東から攻撃するのでは、米軍の堅陣に遭遇し一木支隊と同じ運命に陥るおそれが多いので
 ジャングルを迂回し飛行場南方から米軍の背後を奇襲し、一挙に飛行場を奪取しようとするものであった。
 一木大佐の轍を踏まないために戦術的には苦心を払ってはいたが、敵兵力の軽視は前回と大差はなかった。
 川口支隊長の強い主張で駆逐艦による輸送ではなく舟艇機動させた第124聯隊は、
 第2大隊基幹の約1000名が予定されていたが、数度にわたる敵機の空襲によって
 第2大隊長鷹松少佐は戦死、上陸した兵力は予定の1/3、実力は1個中隊でしかなかった。

 支隊長は全戦力の大部分を第1線に使用した。
 これは第1線兵力を強化し一夜のうちに雌雄を決しないと、天明後は米軍の優勢な火力の前に
 苦戦に陥ると判断したことによった。したがって予備兵力を持たなかった。
 20〜30輛とみられた米軍戦車に対し、我が砲兵は聯隊砲4門、速射砲12門を基幹としていた。

 
 ◆ 川口支隊の戦闘 (第1回総攻撃) ◆

 9月12日 第1次夜間攻撃が行われたが各部隊による統制のとれない各個の行動であったため
 支隊長は、兵力を結集して13日夜攻撃再興を企図した。

 川口支隊戦闘要図
 昭和17年9月13日 2000 援護砲撃を合図に川口支隊の総攻撃が開始された。

 中央隊左
 国生大隊の突進目標は飛行場北西部の高地であった。
 エドソン大佐の2個大隊の布陣する丘(ムカデ高地、血の丘)を中心とした鉄条網のある2条の陣地の
 第一線を突破したが第2線陣地を抜くことができず、猛烈な砲撃のなかで多数の死傷者を出した。
 国生勇吉少佐は屈することなく自ら砲兵陣地に白刃を振るって斬りこんだが戦死を遂げた。
 また中隊長級の幹部も多数が戦死した。

 中央隊中
 続く田村大隊は、「夜襲の仙台師団」の名誉にかけて第5、6、7中隊を併列し敵陣に突進した。
 大隊長田村昌雄少佐の父は、日露戦時「弓張嶺」夜襲戦に参加した旅団副官であった。
 小野寺中尉の第5中隊が優勢なる敵を前に突破を阻止されている間に
 他の2中隊は飛行場内に突入した。
 黒木中尉の第6中隊は真一文字に北進し滑走路を横切り海岸近辺まで進出した。
 敵幕舎数個を破壊し米軍司令所付近を確保した。
 石橋中尉の第7中隊は遮蔽物がないため死傷続出したが屈せず、
 機銃座を蹂躙し高射砲2門を破壊、建設中の倉庫を占領した。

 中央隊右
 大隊の一部が敵陣に突入しただけで主力は米軍と接触するに至らなかった。
 不幸にして大隊長渡辺久寿吉中佐は、在満中の外傷が悪化し歩行不能であり
 部隊と行動することができない状態であった。

 右翼隊
 一木支隊の集成部隊である水野大隊は、鉄条網を有する米軍陣地の前に前進を阻止され
 水野少佐は戦死、部隊は突撃できなかった。

 左翼隊
 岡大佐以下の第124聯隊は、米軍陣地の一角を占領しただけでその後の前進は
 敵の集中砲火に阻止され進展せず、後続の舞鶴大隊も米軍の集中砲火に阻止された。

 支隊長川口少将は、副官以下若干の兵とともに森林内に位置し各部隊の攻撃状況の把握に努めていた。
 14日朝までに攻撃が失敗したことを確認し、1105 後退命令を隷下部隊に発した。
 飛行場の一角を占領しつつあった田村大隊は、攻撃中止の決死伝令によって無念の後退を実施した。

 
 ◆ 戦果と損害 ◆

 日本軍  米 軍
総兵力 6200 10900
戦 死 633  31
戦 傷 505 103
不 明 75  9

 なお日本軍の損害は、8/13〜10/2間のもので
 総攻撃以外の空襲などによる損害を含む。

 この後の戦闘推移を見ても、この川口支隊の攻撃がガ島飛行場奪還の唯一の機会であった。

 「もう一個聯隊あったら、ルンガ飛行場は完全に占領していたよ。」という大隊長 田村昌雄少佐以下の談話は、
 エドソン大佐の「貴様たちになくて敵にあるのはガッツだけだ」と兵士達への叱咤激励と
 米軍の呼んだ「September Crisis/9月の危機」 と併せ考えても、
 陥落一歩手前まで追い詰めたことは疑うべからざる事実であった。

 そして良く戦った米軍は、兵力火力ともに増やして再度の日本軍の攻撃に備えていくと同時に、
 マタニカウ川付近では積極行動に出た。しかし岡聯隊は、ことごとくこれを撃退した。

 
 ◆ 大本営と第17軍の作戦指導 ◆

 開戦以来の帝国陸軍の不敗の思想が米軍の前に始めてつまずいたのがこのガ島作戦であった。
 ここで始めて大本営と第17軍によるガ島奪回と南太平洋の戦局好転への本格的作戦がとられることになり、
 師団規模のガ島投入が企図されることになった。
 支隊の寄り合い世帯であった第17軍は、第2師団を主力とする建制2個師団を根幹とすることに増強され、
 参謀陣も大本営派遣参謀を加えると一挙に3名から11名に増員された。

 9月下旬、百武司令官に招致された川口少将は、ガ島戦況について説明を行った。
 我が戦力の貧困(とくに飢えと疲労)、地形の峻険、敵戦力の強大(航空支援、火力、電波探知機等)などで、
 ガ島の実状に則した説明ではあったがその悲観的な事実認識は、必勝の信念に燃える軍司令部員の反感を買い
 のちの罷免事件へと繋がった。
 また離島決戦の不利を悟り自重論を展開した第17軍二見参謀長は、病気を理由に10月19日更迭された。

         ガダルカナル島3 第17軍の作戦から撤退まで