伊号潜水艦 遣独作戦

 作戦の背景

 大東亜戦争開戦後、昭和17年1月18日 「日独伊 軍事協定」がベルリンにて調印された。
 これにより日本は東経70度以東、ドイツ・イタリアは以西を作戦海域と定めた。

 昭和16年6月の独ソ開戦以降、日独間の交通は至難となり、
 昭和18年3月1日 遣独伊連絡使一行 参謀本部2部長・岡本清福少将、同15課長・甲谷悦雄中佐
 軍令部1部甲部員・小野田捨次郎大佐、外務省書記官・与謝野秀 以上の4名が
 シベリア・トルコ経由で入独したのを最期に、陸路での交通は遮断された。

 昭和17年7月2日 独占領下のクリミア半島を離陸した1機の爆撃機が中国北部の包頭飛行場に着陸した。
 世界屈指の航続距離を誇る長距離飛行機を有するイタリア空軍機であった。
 だが、日本と中立条約を結んでいたソ連領空を通過しなければならないという飛行コースの制約上、
 イタリア側からの訪日飛行計画はこの1度だけであった。

 昭和18年7月7日 今度は陸軍の長距離試作機がシンガポール・カラン飛行場からドイツにむけて離陸した。
 参謀本部欧米課長・西義章大佐、同課員・香取幸輔中佐が遣独使として同乗していたが、
 インド洋上で消息を断ち、乗員全員が戦死と認定されて計画は失敗した。
 「柳船」と呼ばれるドイツ特設巡洋艦(商船)による洋上交通も、あるにはあったが、
 大西洋・インド洋の制海権が連合軍の手に陥るに及んでほとんど不可能となっていた。

 これらによって、日本とドイツ・イタリア両国との連絡は無線通信以外は全くの途絶状態となり、
 人員の交流は潜水艦によるものに限定された。
 これは、アフリカ南端を迂回し連合軍の哨戒厳重なる大西洋を北上し、
 ドイツ管制下の沿岸に到達するという非常に遠大かつ困難を伴うものであった。

 しかし極東・欧州共に戦局推移は激しく、日本と独伊両国との連絡の必要性は一層増大していった。
 日独双方ともに技術交換の意欲は強く、互いに潜水艦を派遣し、技術者の交流をはじめ、
 図面・部品・兵器・重要物資の交換に多大の危険を冒して実現に努力したのである。


 日独伊 潜水艦の派遣

 日本からドイツに向けて派遣された潜水艦は5隻。
 そのうちドイツに無事到着したのは3隻、インド洋上で独潜と会合し、物資・人員等を交換したのは1隻。
 一方、ドイツから日本に向かった潜水艦は4隻で、日本に無事到着したのは1隻のみ。
 イタリアから日本へは4隻派遣されたが、1隻だけシンガポールに到着した。
 このほかには、インド洋で作戦中の独伊潜水艦がマレーのペナン島・スラバヤ等に寄港し、
 技術交流の役割を果たしたものがあった。


 伊30潜水艦 遣独第一次

 昭和17年4月20日 大海指第77号により、伊30潜(遠藤忍少佐)はペナン島を出発
 ドイツに向かい、8月5日フランス西岸ロリアン港に到着した。
 8月22日同地発、10月8日ペナン着、同13日シンガポール港外で触雷沈没した。
 人的被害は乗員13名の戦死のみであったが、ドイツから譲渡された多くの資料が海没してしまった。
 なお、その後の潜水作業によって搭載物の大部は入手することができた。


 伊29潜水艦 特別行動

 昭和18年4月5日 大海指第第205号により、伊29潜(伊豆壽市中佐)はペナン島を出発
 同28日インド洋上で独潜(U180号)と会合して人員(江見哲四郎中佐・友永英夫技術少佐)を移乗させ、
 特殊兵器を交換し、来日するインド独立運動指導者チャンドラ・ボースとその秘書ハッサンを収容して
 5月13日ペナンに帰着した。


 伊8潜水艦 遣独第二次

 昭和18年6月1日 大海指232号により、伊8潜(内野信二中佐)は呉を出発、
 ペナン島を経由して8月31日仏西岸ブレスト港に到着した。
 10月5日ブレスト出港、12月5日シンガポール着、12月21日呉に帰航した。
 多大な困難を克服し敵の厳重な警戒を突破して往復全行程を完了した唯一の潜水艦となった。

 往路は、ドイツから寄贈の潜水艦(U1224号)回航要員乗田貞敏少佐以下50名と、
 渡独する西原機関中佐、小林軍医少佐、武官室勤務の通訳、暗号員の4名を便乗させた。
 復路は、帰国する横井忠雄駐独海軍武官、細谷資芳駐仏武官、造兵監督官築田収大佐 等
 軍人や技師など日本人は10名。
 ドイツからは渡日する新任陸軍武官ラインホールド少佐と技術者3名のドイツ人4名を便乗させた。


 伊34潜水艦 遣独第三次

 昭和18年9月13日 大海指273号により、伊34潜(入江達中佐)は呉を出発、ペナン入港直前に
 敵潜の攻撃を受け沈没した。
 生存者は13名で、艦長以下84名の乗組員は戦死した。
 往路便乗者はペナン島に待機中であったので犠牲はなかったが、シンガポールより乗艦した
 有馬正雄技術少佐のみは同艦と運命をともにした。


 伊29潜水艦 遣独第四次

 昭和18年11月5日 第三次と同じ大海指273号により、伊29潜(木梨鷹一中佐)は呉を出発した。
 伊34潜に続いて出発することが当初より予定されていたのである。
 シンガポールにて1ヶ月の準備の後、12月23日インド洋上でドイツ油槽船から燃料補給を受け、
 昭和19年3月11日ロリアンに到着した。
 昭和19年4月16日ロリアン出港、7月14日シンガポール着、同22日同地を出港し日本に向かったが、
 7月26日マニラ沖で敵潜の攻撃により沈没した。
 上等兵曹1名を除いて木梨艦長(二階級特進で少将)以下全員が戦死した。

 往路は、新任のドイツ海軍武官の小島秀雄少将、スペイン・ポルトガル武官の無着仙明中佐、
 ドイツ出張の扇一登中佐 以下、技術士官・通訳等計16名が便乗してドイツへ渡った。
 復路は、先に連絡使として渡独していた小野田捨次郎大佐、陸軍中佐3名、技術士官等 日本人計14名。
 渡日する武官補佐官や技術者などのドイツ人4名を便乗させた。
 復路の便乗者は、シンガポールより飛行機で東京に向かったので被害はなかった。


 伊52潜水艦 遣独第五次

 昭和19年3月末 大海指322号により、伊52潜(宇野亀雄中佐)は呉を出発、シンガポールを経由して
 ロリアンに向かった。8月1日が到着予定であったが、6月6日のノルマンディー上陸作戦により
 入港先の確保が困難になっていた。
 即ち、伊52潜が入港するまでドイツ軍が同港を確保できるかが問題であった。
 途中独潜を会合させ、ドイツ海軍・駐独武官ともに同艦収容に全力を傾けたが、8月1日以降消息を断った。
 戦後の連合国資料によると、6月24日飛行機の攻撃を受け沈没とされている。

 往路でのドイツへ向かう便乗者は主に民間会社の技術者と武官室勤務の暗号員(嘱託)などであったが
 全員戦死と認定された。

         伊号潜 遣独作戦2   


PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル