橘丸/偽装病院船事件

  事件の背景
拿捕海域  昭和20年8月3日 豪州北部のバンダ海上にて
 一隻の病院船が米駆逐艦に拿捕された。
 臨検の結果、兵器・弾薬を積んだ『偽装病院船』と判明、
 第5師団第11聯隊を中心に1562名の将兵全員が米軍の捕虜となった。

 光輝ある帝国陸軍の歴史において、
 大隊単位の全員が捕虜となる事件は前代未聞であった。
 これが世に言う 『橘丸事件』 である。

 ニューギニア/セラム島に所在した第5師団は、
 本来が伝統ある最精鋭の師団である。

 支那事変では徐州会戦、南寧作戦に参加、
 大東亜戦争ではマレー作戦に参加し感状を授与された、
 数少ない自動車化師団の一つであった。

 しかし、すでに戦線は本土近海に縮小され、
 豪北方面に配備されていた第5師団は、ラバウルの第8方面軍同様
 すでに戦略的価値を失った「遊兵」でしかなかった。

  輸送計画

 昭和20年5月 兵力転用について2度にわたるジャワ(バタビア)会議が行われ、勢地区兵力抽出輸送要領が決定。
 昭和20年6月 南方軍隷下第2軍は第5師団に命令を発令、豪州方面の兵力を一時集結させ他方面へと転用を計った。
 これは昭和19年に一度『光輸送作戦』として実行されたものであったが、
 輸送施設が不十分のために再度実行されたものであった。

 昭和20年7月27日 命令を受けた第5師団では師団長命令を発令 光輸送乙号 と呼称された。

 命令では橘丸は海上トラック広瀬丸という秘匿名称で偽称され、乗船する場合の指定として

   病床日記(カルテ)の準備
   兵器・弾薬・軍用電話機・被服などは梱包して赤十字標識を附ける
   部隊は病衣の白衣で乗船すること

 等の詳細な指示が出された。

 病院船による兵力輸送は実は2度目であった。
 昭和20年7月19日 同じ橘丸を使用して第48師団をジャワまで輸送していた。
 当時制海権・制空権ともになく、第3船舶司令部管内で、1000トン以上の船は若干しかなく
 今や大発を除くと、鈍足の老朽船ばかりであった。
 もはや病院船による兵力輸送しか方法がなかったのである。

 橘丸は 1772トン 速力17.7ノットの 東京−大島間の旅客船であった。
 昭和13年に一度海軍の特設病院船となり、昭和19年、陸軍の病院船となって南方で運航していた。
 純白に塗られた船体には大きな赤十字の標識がくっきり表れていた。
 本来の定員は600人であったが、船内は改装されており、1500人程度を乗船させることができた。

 昭和20年8月1日 乗船と荷物の積載を開始 カイ島を出港しジャワ経由でシンガポールへと向かった。
 第5師団 第11聯隊の第1、第2大隊全員と、第42聯隊の1個中隊 計1562名
 (うち将校約50名 他に船員が数名)であった。

   輸送指揮官 橘丸医長 外村治駿軍医大尉
   第1大隊長 安川正清少佐(51)
   第2大隊長 横小路喜代美少佐(53)

 病院船である以上、輸送上の指揮官は軍医があたった。また船長は軍属であった。
 (うち将校約50名 他に船員が数名)であった。


  事件発覚

 昭和20年8月3日 海上を航行中に2隻の米国駆逐艦/コナーとシャーレットが接近してきた。
 制海権が米軍の手にある以上発見される危険は多分にあったのだが、前に1度(7月19日)成功しているという自信があり
 全員の病床日記もあるのでバレないですむかも知れないという希望があった。
 自沈しようという意見もあったが、重要書類を焼却し、米兵の臨検に対処した。

  0635 停止命令信号を発信
  0658 数隻のカッターから軍医・通訳・水兵等50人以上が臨検のため乗船してきた。

 米軍は概ね紳士的であった。病院船は国際法上保護されるべきものなので取扱いは慎重であった。
 「なぜ看護婦が乗っていないのか?」 「包帯をした患者がいないが?」という鋭い質問があったが
 病床日記もあるし、一応違法なところはなかった。
 米軍は一時引き返しそうな気配を示し、2、3のカッターが駆逐艦へ戻っていった。

 事なきを得たか… と安心しかけた瞬間状況は一変した。
 米水兵が梱包された赤十字の箱をあけたところ、中から小銃が発見されたのである。
 続いて船倉からは弾薬が発見され、国際法上‘病院船’とは認めがたい状況となった。

 安川・横小路両少佐は、武器掲載は関知しないことである、として抗議を行ったが
 米軍側(駆逐艦長ピーター・ジョイス両少佐)は、
 「国際法違反である。モロタイ島までご同行願いたい。そこで上司の決済で弾薬兵器は没収し船と兵員は返す」
 として米海軍は港まで護送して調査を行うこととし、機械室は米兵に押さえられ、船内要所々々は占拠された形となった。
 行動はすべて制限され、船ごと全員が捕虜となったのである。

 一部で蜂起しようという意見もあった。人数では監視兵よりも圧倒的である。
 戦闘蜂起の準備がなされ、ひそかに手榴弾や軍刀が用意され時期をまったところ
 米軍の軍医少佐と外村軍医大尉とが医大での同期生とかで、行動は待てという指示がでた。
 それを察知したか米軍は、将校約50名を駆逐艦に分離して監視するようになった。

 捕虜となった日本軍将兵への待遇は、その当初は緊張した状態も手伝ってひどいものであった。
 しかし2日目以降からは待遇は良くなり、甲板の散歩が許可され米駆逐艦の軍医による診察も受けた。
 米水兵のなかには「サインしてくれ」と日本軍将校に紙を差し出す者もいたという。

 先任指揮官たる安川少佐は、瞑想にふける時間が多くなり米軍の食事にも手を附けなかった。
 次席者たる横小路少佐のとりなしで口にするようになったといわれるほど沈痛の極みであった。

 結局、暴動や自決といった事態はおこらず(むしろ捕虜になって軍紀が緩んだ節もあったらしい)
 拿捕された1562人は、モロタイ島からマニラへ送られ、モンテンルパの捕虜収容所に入り、終戦を迎えたのである。

         橘丸事件 2   


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