◆第2期作戦◆

 第11軍は、次のような計画を立て、5月下旬までに作戦準備を完成するよう兵力を岳州付近に集中した。

  1 第2期 前段−第1期作戦  衡陽攻略
  2 第2期 前段−第2期作戦  桂林、柳州攻略
  3 第2期 前段−第3期作戦  南部粤漢打通
  4 第2期 後段作戦        南寧攻略、仏印打通

 
 ◆第2期 前期−第1期 ト号/湘桂作戦◆

 京漢作戦が順調に進展している間、第11軍は岳州東西の線から攻勢準備を進めていた。
 洛陽攻略当日の5月25日 支那派遣軍総司令官畑大将は予定通りその司令部を漢口に進出、
 第11軍の諸部隊も岳州付近に集中を完了した。
 これより先、第5航空軍は5月18日漢口に戦闘司令所を進め各飛行団をもって本作戦に協力した。

 5月27日払暁 第3、第13師団が左翼から、ほか軍主力は夜半から28日にかけて南にむけて攻勢を開始、
 ここに湘桂作戦が開始された。

 各兵団は勇躍前進したが、敵は我が企図を予期し、進撃に先立ち撤退を開始していた。
 第11軍は関王橋付近及び汨水南岸において敵第20軍の組織的抵抗を受け一両日の戦闘を交えた他には
 大きな抵抗を受けることなく進出することができた。

 6月3日 長沙北方の達摩山山系に2個師団の敵が残存し、
 軍は第34師団を以ってこの敵を攻撃したが敵の抵抗に遭い進展しなかった。

 このころは連日の降雨のため道路は泥海のようになり、兵站物資の輸送は困難であった。
 このため第1線兵団は6月下旬まで殆ど後方補給を受けることができなかった。
 自動車道は使用不可能となり野砲、自動車等の車輛部隊の移動も困難となり、岳州−長沙道に車輛は充満する状態となっていた。

 6月 7日 益陽及び瀏陽方面の敵を撃滅するとともに長沙周辺の敵に対する攻撃準備部署を発令した。
 6月11日 第40師団は益陽を占領
 6月16日 敵の第73、第74軍を撃破し寧郷を占領
        また岳麓山に布陣する敵と長沙に対して攻撃を開始。
 6月18日 長沙を占領した。

 この間第5航空軍の爆撃機は、米中軍に比して極めて劣勢であったが効果的に攻撃し、爆撃威力は著しいものがあった。

 
 ◆第1次衡陽攻撃◆

 長沙攻略後、軍は敵の態勢の崩壊に乗じ一部を以って衡陽に向かい、主力を以って爾後の作戦を準備するに決した。

 6月22日 湘郷を攻略
 6月26日 衝陽飛行場を占領
 6月27日 湘江を渡河、衝陽西南地区に進出

 6月28日 衡陽攻撃を開始した
 6月29日 第58師団の一部と第218聯隊はそれぞれ衡陽の西北と東北より攻撃を開始したがはかばかしくなく、
        第68師団長及び師団参謀長が敵迫撃砲弾にて負傷する といった苦戦を強いられた。
 6月30日 このため第116師団長岩永中将の指揮によって攻撃を再開したが敵の抵抗は頑強で成功しなかった。
 7月 2日 軍は攻勢を一時中止し、砲兵部隊を進め、航空部隊の援護のもとに一挙に敵を攻撃するに決した。

 敵の戦意は旺盛であり航空兵力は優勢であった。
 衡陽は要塞化され、蒋介石総統が方先覚軍4個師団に死守を厳命していたのである。
 対して日本軍は追撃に次ぐ追撃で弾薬等が不充分の上に占領した飛行場の修復が遅れており
 航空支援が得られる状況ではなかった。
 7月になり、敵は逐次大兵力を進め我が衡陽攻略部隊の背後を脅かすまでとなり、
 我が軍は逆包囲される状況となりつつあった。

 敵の航空勢力は優勢で、夜間行軍と夜襲しか方法がなかった。

 
 ◆第2次衡陽攻撃◆

 7月10日 後方からの火砲、弾薬の追送,航空部隊の準備が完了しつつああった。
 7月11日 改めて衝陽西南方に向けて攻撃を再開した、若干の前進陣地を攻略した。
 7月15日 本格的な攻撃を実施し一部の地域を攻略したが戦況は進展しなかった。

 軍は状況に鑑み更に十分なる準備−特に第1線兵団の戦力を充実した後攻撃を再開することに決した。

 
 ◆第3次衡陽攻撃◆

 7月下旬となり、攻撃再開の準備は整えられた。
 7月30日 軍は攻撃命令を下達、軍司令官自ら衡陽に進出し「今度こそは」の決意に燃えていた。

 8月 4日 第68師団は衡陽南部に対し、第116師団は衝陽西南陣地に対して第三次攻撃を開始した。
 8月 5日 第58師団は主として衡陽西北に対し、第13師団は湘江東岸地区から第68師団を支援してこれに続いた。

 しかし支那軍の抵抗は頑強であり、第3次攻撃をもってしても攻撃は進展しなかった。
 第13師団は一部の兵力を強行渡河させ第58師団に協力したが、損害が続出、師団砲兵の弾薬も欠乏してきたので
 軍命令により攻撃を中止し、牽制を任じた。
 その中で南部では第116師団が敵線の一部を奪取、第58師団も西北角の奪取に成功、初めて市街の一部に進入した。

 8月 7日 全線において攻撃を復行したが依然攻撃は進展しなかった。なお数日攻撃を要すると判断していたところ
        第68師団正面の敵小部隊が投降してきた。軍は敵は動揺しているもの判断し、攻撃を続行した。
 8月 8日 敵軍長(軍司令官) 方先覚将軍以下師団長4名が投降、以降投降するものが続出した。
        敵の一部はなおも抵抗を継続をしたが、0800ころまでには掃討を終了
        ここに衡陽の攻略を終えた。

 6月28日の第1次攻撃開始から実に40数日目であった。

 
 ◆戦果・損害◆

戦 果   遺棄死体 4100名以上
     捕 虜  13300名
     捕獲兵器 各種砲110門 戦車装甲車10両
     
損 害   戦 死   3860名
   戦 傷   8327名
   戦 病  19288名

 日本軍戦死・戦傷の約1割は米軍機の爆撃や機銃掃射によるものであった。
 既に保有機で我が軍を圧倒する在支米軍によって制空権は握られていたのである。

 
 ◆第2期 前期−第2期/後段 作戦◆

 衡陽陥落後の支那軍の戦意は乏しく、衝陽戦とは対象的に退避戦に移った。

 第11軍は支那派遣軍から止められていた零陵を独断にて攻撃を開始、
 果敢なる追撃で9月7日零陵を、13日には全県を占領した。

 8月下旬 新たに第6方面軍を新設(軍司令官 岡村寧次大将)、軍容を改め追撃体制を固めた。

 9月10日から第11軍、第23軍を指揮し、また10月19日第20軍が指揮下に入り兵站線の警備についた。
 第6方面軍は、重慶野戦軍の撃滅を作戦目的とし、第11軍に桂林を、第23軍に柳州を策応させつつ
 占領させることを構想し、10月26日 作戦発起を命令した。

 しかし第11軍は支那軍の弱さを見て、独断で桂林と柳州を11月10日 同時攻略した。
 だが、当面の敵はすでに柳西北方に逸脱してしまったおり、第11軍の有力兵団は独山方向に追撃、
 潰乱状態となった残敵を掃討、膨大なる軍需品を獲得して戦力を充定することができた。

 第23軍は南寧を攻略、ついで北上してきた南方軍の部隊と呼応して北部仏印との公路を打通した。
 支那からは第22師団、仏領インドシナからは第21師団が連絡に成功
 『支那とインドシナの大陸打通が完成』したのであった。

 これによって支那派遣軍から南方軍に転用される2個師団が、この行路を通り仏印に進出した。

 
 ◆第2期 前期−第3期 作戦◆

 11月中旬、比島方面の戦況からみて、広東地区の対米戦備の着手、このため湖南・広東省を連絡する
 粤漢線の打通が必要となってきた

 昭和20年1月 第6方面軍は第20軍と第23軍をもって南部粤漢鉄道を奇襲占領し確保するとともに
 遂川、南雄地区の米空軍基地を覆滅することとした。

 1月上旬 第20軍の4組の挺身隊が密かに潜行し、粤漢鉄道の重用施設を無傷で占領した。
 続いて第20、第23軍の作戦部隊が南北から一挙に前進、
 昭和20年1月26日までに南部粤漢線を打通し全鉄道路線を確保した。

 一度破壊されると修復が困難な橋梁、トンネルなどを無傷で占領することを重点とし、
 敵野戦軍撃滅は第二義としたのが成功の主因であった。

 ついで2月7日までに遂州などの米空軍飛行場群を占領爆破し、米軍機の活動を一時的に封殺した。

 
 ◆作戦の総括◆

 参加兵力約41万人、自動車12000両、馬匹67000頭、作戦距離約2000Kmという
 支那事変以来の大作戦で、一号作戦(大陸打通作戦)の目的は達成された。

 しかし具体的な効果は、

  1) 航空警戒線を本土より遠方に推進できたこと
  2 )第22,第37師団を南方軍に陸路をもって転用できたこと

 だけであり、さらには

  1) 仏領インドシナからの回廊で鉄道・自動車の物資輸送に活用されることはなく
  2) 敵飛行場破壊によって本土長距離空襲を阻止することはできず
  3) 重慶政府の戦意が喪失されたとは言えなかった。

 また、ビルマ方面−ほぼ同時に開始されたインパール作戦に寄与するところもなく、
 戦線全局を左右することはなかった。

 なお南方飛行場を喪失した米空軍は、北西に転じ、成都、老河口等に新飛行場を建設、
 これによって中支、南支の鉄道線と揚子江の航行に対する爆撃は日を追って激しくなった。
 支那派遣軍は、これら飛行場の覆滅を主目的として老河口・蕋江作戦を実施することとなったのである。

        老河口/蕋江作戦作戦 他   


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