2月16日 0800 旧式戦艦6、重巡4、軽巡1からなる米軍上陸支援艦艇が艦砲射撃を開始。
1000 栗林兵団長は甲配備を命令、過早に射撃を開始せず配備の秘匿・損害の防止を指示。
2月17日 0848 戦艦テネシーに我が軍の砲弾命中。
0930 重巡ペンサゴラに砲弾命中。副長を含む17名戦死、死傷115名
1145 水中破壊班援護のICIは12隻中9隻が使用不能
米軍、好天を利した航空攻撃を連日実施、延べ226機
2月18日 小雨のなか、終日艦砲射撃と航空支援(午後は天候不良で中止)
1821 準備砲爆撃中止
以上のような準備砲爆撃により、3日間で延べ800機、推定5000トンの砲撃を受ける。
築城が効果的だったため、人員の損耗は軽微であった。
死傷60名、海岸付近の砲50%、銃座25%、破壊または損傷。
0640 米軍艦砲射撃開始、直後にロケット弾発射(9500発)
上陸部隊は2、3の地雷を発見しただけで抵抗が軽微であったため、
これを迎え撃つ粟津大尉の指揮する独立歩兵第309大隊を基幹とする
中でも清水大尉の指揮する速射砲第8大隊は
水陸両用車約20両、戦車搭載上陸用舟艇3隻、戦車ドーザー1を撃破、
◆米軍上陸◆
2月19日
0805 空母部隊からの航空支援(120機)。上陸海岸その周辺を猛攻
0902 第1波上陸 海岸左翼を第5海兵師団、右翼を第4海兵師団
0905 第2波上陸 海岸線3000M全面にわたり次々上陸
1030 歩兵8個大隊、戦車1個大隊が上陸完了
準備砲爆撃の効果が大であるという楽天的な考えが一部にあった。
南地区隊は、戦車1個中隊を含む第4海兵師団の主力を要撃した。
米軍の水陸両用車に対して効果的な猛射を浴びせた。
感状を授与された。しかし
1130 水際陣地は撃破され、米軍は突破してきた。
1200 兵団長は噴進砲(ロケット砲)の射撃開始を命令。
実戦での使用はこれが最初である。
命中精度は悪いものの、海岸に密集している米軍の中に恐ろしい音とともに飛んでいった。
爆発音の高大と殺傷力の強烈のため、米軍はパニックに陥り、
最初の犠牲となった部隊の混乱は午前に増して顕著となった。
一方摺鉢山の我が重砲は、準備砲爆撃により決定的な損害をうけていた。
しかし将兵の多くは健在で、残存火器を駆使して米軍を釘付けにした。
次々と負傷者が続出し、米軍の進撃はとまった。こうして第1日の攻撃は夜を迎えた。
初日の米軍損害は、戦死501名、戦傷死47名、負傷1755名、戦闘疲労99、行方不明18
当日上陸した総員約31000名に対して8%の損害であった。
栗林兵団長は、サイパン・グアムの戦訓から夜襲等の総反撃の戦果が少ないことを研究していた。
地形の狭い洞窟の多い陣地では、陣地を利用した火力戦闘が有利という判断もあった。
「一人十殺」を合い言葉に出血戦法こそが栗林兵団長の決意であった。
これは米軍にとって予想外の展開であった。
日本兵の姿は見えず、両翼から砲銃撃が降り注ぎ、
いつのまにか火力包囲を受けて動きがとれなくなっていたのである。
このため当初予定していた第1次目標線にはほど遠く、撃は遅々として進まなかった。
日本軍の射撃は峻烈を極めたが、米軍の砲爆撃はさらに上回っていた。
2月20日
0830 小雨の中、全線にわたり米軍は攻撃を再開した。
摺鉢山に向かう部隊と北方の日本軍主陣地に向かう米軍主力に二分された。
米軍艦載機の攻撃は延べ360機、艦砲射撃は約4000発に及んだ。
1200 千鳥飛行場は占領される。
敵の砲撃に対し水際の飛行場を長期間確保することは到底できないことであった。
これにより兵団主力と摺鉢山との南北の連絡は途絶してしまった。
◆擂鉢山の戦闘◆
陸軍2個大隊1060名と海軍640名の計1700名の守備する摺鉢山は、サイパン島のタポチョウ山よりも象徴的な山であった。
2昼夜にわたる激闘で兵力の7割を失い、兵団最年長の摺鉢山指揮官・厚地大佐も砲弾を受けて斃れた。
20日夕方までに第2線陣地を失い、22日夕方までに現有勢力は陸海合わせて約300名となり、
摺鉢山の山脚部はほとんど米軍に包囲された。
2月23日 1000 米軍は、北側登山道から山頂に近迫し山頂守備の数名と交戦。
1020 摺鉢山山頂に小型の星条旗が上げられた。
これは日本軍にとって南の拠点の壊滅を意味し、米軍にとっては将兵の士気を鼓舞するものであった。
ここに至り地区隊長松下久彦少佐は、包囲網を突破し旅団主力への合流を企図し、
残存兵力約300をもって総出撃を敢行、2300頃敵戦線に潜入した。
だが、そのほとんどは途中で戦死し、わずかに水野軍曹等25名が第2旅団司令部主力に合流できたのであった。
◆海軍第2御盾特攻隊◆
2月19日 第3航空艦隊司令長官 寺平謹平中将は、第601海軍航空隊司令 杉山利一大佐に対して
硫黄島周辺の敵艦船に対する特攻を準備した。
村上弘大尉以下21機の第二御楯特別攻撃隊で、2月21日木更津を出発、途中八丈島で補給後、
1605から1850の間硫黄島近辺の艦船に奇襲体当たり攻撃を敢行した。
空母サラトガ/戦死・行方不明123名、負傷192名 中破
空母ビスマルク・シー/撃沈
護衛空母ルンガポイント/小破
貨物輸送船ケオック/戦死17名、負傷44名 小破