昭和20年4月1日 早朝より米軍は嘉手納海岸に対して徹底的な砲爆撃を実施、0900頃一斉に上陸を開始した。
アイスバーグ作戦の開始である。
第32軍の防備配置は中部以南を主陣地としていたので、嘉手納海岸の兵力はきわめて僅少であった。
主に現地召集者と後方勤務者で編成された特設第1聯隊と独立歩兵第12大隊基幹の賀谷支隊のみであった。
臨時編成で砲兵も有しない特設第1聯隊は、4個師団の米軍に抗すべきもなくなすところなく壊滅した。
一方賀谷支隊は、米軍の攻撃前進を遅滞することが主任務であった。
支那大陸での歴戦を誇る賀谷部隊は、期待に応え多くの損害を米軍に与え、逐次後退して
我が軍の主陣地まで敵を誘導させるのである。
ともあれ、所詮は局地的な戦闘に過ぎず、ほとんど無血上陸に等しかった米軍は、
上陸初日に、約6万人の将兵と砲兵の揚陸を成功させた上にその日の夕方までに北・中飛行場を整備してしまった。
米軍の損害は、戦死28名、戦傷104名、行方不明27 にすぎなかった。
◆第62師団の敢闘◆
敵第24軍団(第7・第96師団)は南進を続けたが、4月7日頃一大障壁に遭遇した。
我が第62師団の主陣地と遭遇したのである。
4月12日 我が軍の反撃を受け多大な損害を生じ、米軍の攻撃は完全に失敗した。
敵は一旦攻撃を中止、部隊の再編と第27師団を増加し、4月19日 総攻撃を開始した。
第62師団(藤岡中将)は、150米以下の起伏台地を活用し、縦深に陣地を構築して迎え撃った。
第1線の3個大隊で敵3個師団を相手に頑強なる抵抗を示し、正面(嘉数)地区においては敵の前進を許さなかった。
4月25日 日時の経過とともに我が軍の損耗は逐次増加し、第62師団の戦力は1/3に減少した。
左翼・正面・右翼それぞれ敵の侵食を許し、後退しなければいけない状況となった。
しかし10数倍の敵に対して1ヶ月で5KMの前進しか許さず、4月の敵の攻撃は停滞し見事な防御戦闘を展開したのである。
軍司令官は第62師団に対して感状を授与した。
4月29日 天長の佳節に第32軍は今後の作戦指導について幕僚会議を開いた。
1ヶ月にわたって組織的戦闘を継続し、軍主力が無傷な状態であったことは、多くの戦線でなかったことであった。
既に米軍上陸以来、大本営/第10方面軍/第8飛行師団(山本健児中将)/海軍 等々から
飛行場奪還のための「攻勢要望電報」が殺到していた。
上陸初日の飛行場失陥に大きな衝撃を受けていたからである。
第32軍は、規定の作戦方針どおりに持久戦闘を展開する予定であったが、
各方面からの攻勢要望が来るに及んで次第に変化していった。
即ち、国軍全般の作戦上の要求を無視して第32軍独自の持久戦に固執することは困難となってきたのであった。
幕僚会議の席上、攻勢案(多数)と持久案(八原大佐)が検討され論議されたが、結局攻勢決行の断が下された。
八原大佐は攻勢不同意を強く主張、軍司令部の空気を重苦しいものにした。しかし
長参謀長は成否を超越し軍の名誉にかけて攻撃を強行する考えであり、ついには八原大佐に
「君にも幾多の考えがあろうが一緒に死のう。どうか攻勢に心良く同意してくれ」 と落涙しながら説得し、承知させたのであった。
◆5月4日の攻勢◆
・左右両翼より、船舶工兵第26・23聯隊が逆上陸を敢行、敵の砲兵陣地・高等司令部を急襲する。
・第24師団は、攻勢主力として攻撃前進を開始、南上原高地を攻略し普天間東西の線に進出する。
・第62師団は、現在の線を保持し、軍主力攻勢の支となる。
・第44旅団は、第24師団の攻撃進展に伴い、首里東方に機動しのち第62師団左翼方面にある敵の退路を遮断・撃滅する。
・海軍部隊は、精鋭4個大隊を編成し、随時戦闘に加入可能なように現在地にて待機する。
0450 まず軍砲兵隊の主力は一斉に砲撃を開始した。
砲撃の閃光を隠すために煙幕をはり、75ミリ高射砲で周囲を防備するという苦心を払って
午前中に約1万発の砲弾を米軍陣地にたたきこんだ。
0800 続いて歩兵部隊が、第89聯隊は右翼、第22聯隊は中央、第32聯隊は左翼からそれぞれ進撃を開始した。
攻勢は当初成功を収めるかと思ったが、その後不利な状況が逐次判明すると、戦場は敵砲兵の独り舞台となり
喜色は憂色へと変わっていった。
翌5日 依然攻撃を続行したが、損害は刻々増大するばかりであった。
ただ、第32聯隊の第1大隊(伊東孝一大尉 54)のみは敵戦線を突破して棚原高地を占領していた。
左翼兵団である第62師団は右翼第24師団と連携し旧陣地の奪還に努めたが、敵の強力なる火力に阻まれ果たせず、
師団の予備兵力も、もはや皆無の状態であった。
◆伊東大隊の奮戦◆
第32聯隊の第1大隊は敵戦線を突破(約4KM)して棚原高地を占領していた。
満州ウスリーで鍛えられた強兵たちは、わずか1個大隊で敵1個師団の反撃を撃退し、棚原高地を守備していた。
この攻勢中唯一の成功ともいえる奮戦に対しても、他方面の攻撃が不成功に終わった現在、
第32軍は撤退命令を下すしかなかった。
だが、米軍重囲の中で2日間敵高地を占領し、みごとな退却をみせた伊東大隊の戦功は見事であった。
◆攻勢中止◆
5月5日 1800 牛島軍司令官は攻勢中止を命令、
この攻勢失敗により、
第24師団は3/5 (歩兵は2/5)
約5000名の将兵が死傷
という状況となり、5月末まで首里周辺で再び持久戦闘を行うこととなった。
米軍の死傷者は約1000名であった。
「戦略持久」という作戦方針を捨てて「積極攻勢」に転じたのは、
我が損害が増加するのに対して攻撃はほとんど進展せず、
その上、予備の第44旅団を投入しても勝算がないことが判明していったので、
各兵団は6日から7日にかけ旧陣地に復帰した。
第62師団は1/3 (歩兵は1/6)
軍砲兵隊は弾薬の大部を射耗
船舶工兵2個聯隊・海上挺進部隊がほとんど壊滅
しかしどちらかといえば、防御戦闘の時ほどの損害はうけなかったのである。
八原大佐の危惧どおり失敗であった。
ドイツ降伏の報が両軍に届いたのはこの頃である。
◆首里陣地の撤退◆
米軍は上陸以来50日の戦闘で多くの死傷者をだしていたが、日本軍の疲労も極にあった。
米軍の攻撃は、「鉄の爆風」 「耕す戦法」と我が軍が呼んだすさまじい物量作戦であった。
物量に乏しい日本軍は、昼間は地下壕に潜み、夜襲にて陣地を奪還することとなったが、
夜間の攻撃は鈍りがちとなり、「昼間二歩後退 夜間一歩前進」であった。
日々平均100Mずつ陣地を後退していった。
必死の敢闘にも拘わらず、5月22日から23日ころには、米軍は首里戦線に迫る勢いを見せた。
第32軍司令部は、今後の軍の方針について、各兵団の意見を聞いた上で慎重に検討を進めた。
1 現在の首里の複廓陣地によって最後まで戦闘続行
2 喜屋武方面への撤退
3 知念半島方面への撤退
各案について、各兵団の意見はそれぞれ異なっていたが、
結局喜屋武半島方面に後退して断固として持久戦闘を継続することに決した。
軍司令部はまず津嘉山(首里南方4KM)に一旦移動、5月30日 摩文仁89高地へと移動した。
第24師団は29日夜、混成44旅団は31日夜、第1線を撤退した。
そして各兵団及び軍砲兵隊は6月4日までに後退を完了し予定の配備についた。
新陣地に到着した推定兵力は
第24師団
12000名
第62師団
7000名
混成第44旅団
3000名
軍砲兵隊
3000名
他 計
30000名以上
正規戦闘員の85%が損耗、歩兵火器は1/5、重火器は1/10、火砲は1/2に減少。
中隊長以下の下級幹部の損害はきわめて大きく、聯隊の実力はいまや中隊程度であった。
後退作戦は、巧みに企図を秘匿したことと、天候(雨季)に幸いし、大きな混乱もなく整然と実施された。
しかし軍全体の士気も、南部撤退以降低下する傾向にあったという。(荒井県警察部長)
さらに海軍部隊の撤退については、陸軍側との意思の疎通が不十分であった。