◆菊水作戦発動◆

菊水作戦とは、第3、5、10航空艦隊の航空兵力をもって沖縄来攻の米軍に対し、
大挙特攻攻撃を加えた作戦で、4月6日の1号作戦から6月22日の10号作戦にわたった。
この間、台湾の第1航空艦隊はこれに呼応し、陸軍の第6航空軍、第8飛行師団も策応した。

4月1日 沖縄に上陸した米軍はその日のうちに北・中飛行場を占領する。
飛行場が整備されたら機動部隊が作戦に参加する必要性は低下し、我が航空部隊による
機動部隊の補足撃滅の機会もなくなってしまう。戦機はここ数日である。

ここに沖縄を最後の決戦場とする海軍の総反撃と、本土決戦の時間を稼ぐ陸軍の反撃が開始された。
これは参加機数・作戦期間とともに大東亜戦争中、最大規模の航空作戦であった。

 

◆菊水1号作戦◆
  昭和20年4月 6日    (4/6の参加機数)
     海軍機 391機  海軍参加機中
     陸軍機 133機  特攻出撃 215機
     計    524機  未帰還機 178機

◆菊水2号作戦◆
  昭和20年4月12日    (4/12の参加機数)
     海軍機354機   海軍参加機中
     陸軍機139機   特攻出撃 103機
     計   493機   未帰還機 114機

◆菊水3号作戦◆
  昭和20年4月16日    (4/16の参加機数)
     海軍機415機   海軍参加機中
     陸軍機 92機   特攻出撃 176機
     計   507機   未帰還機 127機

菊水3号作戦までは、米軍の不意と対策不十分を衝いて相当なる戦果を収めた。
米軍の困惑と悲鳴から、いま一押しと考えられたが、特攻作戦で消耗が多く、後続の兵力が続かなかった。
この間、海軍は3300機、陸軍はのべ約800機の航空機を投入した。

◆菊水4号作戦◆
  昭和20年4月28日    (4/27〜4/30の参加機数)
     海軍機 587機   海軍参加機中
     陸軍機         特攻出撃 100機
     計            未帰還機  68機

◆菊水5号作戦◆
  昭和20年5月 4日    (5/2〜5/4の参加機数)
     海軍機 300機   海軍参加機中
     陸軍機 136機   特攻出撃 136機
     計    436機   未帰還機  65機

◆菊水6号作戦◆
  昭和20年5月11日    (5/8〜5/11の参加機数)
     海軍機 345機   海軍参加機中
     陸軍機  80機   特攻出撃  86機
     計    425機   未帰還機  67機

菊水4号作戦は兵力不足から夜間攻撃を主用し、水偵機を特攻に繰り出して攻撃を加えるに至った。
菊水5号作戦は、第32軍の反撃に呼応した作戦であったが、地上軍の挫折と時を同じくして
航空作戦の成果もあがらなくなり、沖縄の米軍基地も整備されてきた。
この間、海軍は2200機、陸軍はのべ約700機の航空機を投入した。

◆菊水7号作戦◆
  昭和20年5月24日    (5/23〜5/25の参加機数)
     海軍機 387機   海軍参加機中
     陸軍機 147機   特攻出撃107機
     計    534機   未帰還機 41機

◆菊水8号作戦◆
  昭和20年5月27日    (5/26〜5/28の参加機数)
     海軍機 217機   海軍参加機中
     陸軍機  71機   特攻出撃  51機
     計    288機   未帰還機  46機

◆菊水9号作戦◆
  昭和20年6月 7日    (6/1〜6/8の参加機数)
     海軍機 367機    海軍参加機中
     陸軍機  71機    特攻出撃  23機
     計    438機    未帰還機  20機

◆菊水10号作戦◆
  昭和20年6月21日    (6/16〜6/22 の参加機数)
     海軍機271機     海軍参加機中
     陸軍機          特攻出撃  67機
     計             未帰還機  56機

いよいよ特攻兵力が底をつき、水偵機に練習機白菊を加えて特攻の主体とした。
陸軍の義号作戦に呼応し、菊水7号・8号作戦を行い、6月に入り、第32軍の最後の反撃に呼応し、
菊水9号・10号作戦を行ったが、大きな戦果をあげることはできなかった。
この間、海軍は2200機、陸軍はのべ約700機の航空機を投入した。

 

◆義号作戦◆

沖縄の北・中飛行場に空挺隊を強行着陸させ、一時的に両飛行場を制圧し、その機に乗じて
陸海航空兵力で沖縄周辺艦艇に総攻撃を行うことを企図した、陸軍による作戦。

義烈空挺隊 指揮官 奥山道郎大尉(53期) 以下計120名
指揮班及び20名の5個小隊からなり、装備は機関短銃、拳銃、小銃を主とした。
第3独立飛行隊 長 諏訪部忠一大尉(54期) 機長以下32名 97式重爆12機
着陸後は奥山大尉の指揮下に入って戦闘するものとした。

昭和20年5月24日 1850 熊本飛行場を離陸した重爆12機は沖縄に向かった。
北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告されたが4機が目的地に達せず引き返した。
空挺隊員の決死の奮闘により飛行場は大混乱に陥り、作戦は概ね成功した。
米軍戦史によると、飛行機9機破壊炎上、29損傷、7万ガロンのガソリンが炎上した。
米軍の死傷約20名、義烈空挺隊の死体は69名が確認されている。
なお空挺隊員の1名が敵中を突破し、6月12日頃島尻南部に到着、軍司令部に状況報告をした。

  沖縄決戦(海軍作戦) 3


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