中部太平洋陸軍作戦 ギルバート・マーシャル・ブラウン諸島の作戦

 作戦の背景

日本本土の東南東約5000Km、ハワイ諸島の西南方約4000Kmの赤道直下、ここに40数個のサンゴ礁の島々が群がっている。
このうち南方に位置する16個ほどの環礁をギルバート諸島、北方にある約30個の環礁をマーシャル群島と云う。さらにマーシャル諸島の中の北西端に位置する40余の小島がブラウン環礁である。
これらの島々はほとんどが珊瑚環礁といって、円形または三角形状の一連の珊瑚礁の小島から成っており、標高は10M以下で起伏は少なく、岩盤はない。そのため飛行場の建設には容易であるが、土中工事が困難であり、また島嶼の地積が狭いため防御施設の設置には著しく不利であった。 さらに魚類と椰子を除き生鮮食糧の自給は不可能な上に、地下水も塩分が濃く飲料には適さず、定期的に来るスコールが飲料源であった。

この中部太平洋上の狭小な島々において我が陸海軍守備隊は、昭和18年11月から優勢な米軍の上陸攻撃を受けた。 そして短期間であったが勇戦敢闘、敵に多大な損耗を与えたが、遂に膨大なる物量に抗し得ず、大東亜戦争における防勢作戦の初期を飾って玉砕戦を展開した。
以下はその概要である。

ギルバート諸島の作戦 : タラワ島 マキン島
マーシャル諸島の作戦 : クェゼリン島 ルオット・ナムル島
ブラウン環礁の作戦 : エンチャビ島 エニウェトク島 メリレン島
 

 ギルバート諸島の防備

 ギルバート諸島とナウル・オーシャン方面は、昭和17年8月17日 米潜水艦によるマキン島奇襲
 = (カールソン中佐指揮の米海兵隊226名が潜水艦2隻に分乗、ゴムボートで奇襲上陸し、
    第62警備隊マキン派遣隊・金光兵曹長以下約70名が反撃した奇襲作戦。 
    我が軍の損害、戦死43名 行方不明3名 生存27名 米兵捕虜9名
    米軍情報によると 海兵隊戦死18名、戦傷14名、行方不明12名 収容時溺死7名 日本軍死体83体) =
 以来、急ぎ防備強化に着手し、昭和18年2月15日に第3特別根拠地隊が新編されるに及び、
 地上防備や航空基地の画期的な増強が行われた。

 その後7月 柴崎恵次少将が司令官として着任すると軍紀の刷新と訓練の励行を重視し、
 特に払暁訓練と夜間訓練を連日連夜反復することにより、守備隊は面目を一新して精強の度を加えた。
 柴崎司令官の優れた指揮統率力はその後の戦闘に大きな影響を与えた。

 第3特別根拠地隊 本隊
 佐世保第7特別陸戦隊
 第111設営隊
 755航空隊
 902名
 1669名
 2000名
 30名  ほか
 20センチ砲 2門
 14センチ砲 4門
 8センチ砲 6門
 12.7センチ高射砲 4門 ほか
 戦車 14両

 以上がタラワ本島を中心に点在していた。

 
 米軍の進攻準備と迎撃準備

 米軍統合参謀本部は昭和18年9月 ニミッツにギルバート諸島に対する作戦を指示し、
 ターナー少将指揮の第54機動部隊が作戦を担任した。
 攻略作戦は「ガルバニック」作戦と呼称され、主目標はタラワであった。
 上陸兵団は、タラワ島に約18600名、マキン島に約6500名で、その兵力は守備隊戦闘力の4倍(タラワ島)
 乃至23倍(マキン島)に達した。
 米機動部隊は9月中旬早くも準備作戦を開始、タラワ、マキン両島を空襲するとともに10月に入ると写真撮影を行った。
 タラワ作戦経過 そして11月19日から上陸前の本格的空襲を開始するとともに、
連日にわたって艦砲射撃を加えた。

この動きから聯合艦隊は、
陸攻隊約60機をもってタラワ南方海面の米機動部隊に
攻撃を加えたが大きな戦果は得られなかった。

また敵の砲爆撃のため地上施設はほとんど破壊され、
部隊全員雨中に露営するという状況であった。
さらに兵器・弾薬・糧食の損失も大きく、
守備隊戦闘力の低下は否めないものがあった。

しかし守備隊は柴崎司令官指揮の下
いささかも士気は衰えず、
手ぐすねひいて敵上陸を待ち受けた。

 タラワ島(ベティオ島)の作戦経過

11月21日 0200 上陸支援の艦砲射撃開始
0259 第2海兵師団主力 約200隻の水陸両用戦車と上陸用舟艇でタラワ島北岸桟橋に上陸を開始した。
守備隊は水際戦闘により、敵2/3を撃破したが、遂に米軍の上陸を許すに至った。
米軍の損害は多く、攻略戦の死傷者の約半数は水際戦闘で生じたものであった。
0635 全軍決死敢闘士気旺盛ナリ との戦況を柴崎司令官は発信。
1200 守備隊司令部地下壕を野戦病院にするため別の壕に移動中、敵の艦砲弾が命中、
柴崎司令官以下幕僚全員が戦死した。
また島内の通信線もズタズタに切断されてしまい、統一された指揮系統は麻痺した。
1330 タラワ守備隊の無線連絡は一旦途絶、東に隣接するバイリキ島も占領された。
しかし我が軍の士気は衰えず、予め定められた部署によって各隊は迎撃を続行し終日敵を圧迫した。
11月22日 米軍はさらに予備兵力を上陸させ、タラワ島中央部と西端付近を占領した。
米軍は飲料水、食糧、弾薬の補給に苦しんだが、輸送船を環礁内に進入させて揚陸を続け、
午後からの後続部隊の上陸によって、戦況は上陸戦闘開始後約30時間を境に米軍に有利に傾いていった。
タラワの通信連絡は感度零になったが、0750頃かすかな感度があって通信を再開した。
1330 「〜桟橋に通じる南北線付近で彼我対戦中」と最後の報告を発信、
爾後無線連絡は全く途絶した。戦闘は激化の一途を辿ったものと推定された。
11月24日 追い詰められた日本軍に対し、米軍は掃討戦の段階に入る。動ける将兵は総員見事な最後を飾った。
1300 米軍は東端に達し、第2海兵師団長、スミス少将はタラワ島の占領を発表した。
上陸から76時間余の戦闘は終了した。

 戦果・損害

  日本軍 米 軍
兵力 4500 18600
戦死者 4350 1000
戦傷者   2100

 我が軍の捕虜は戦闘員17名、非戦闘員(朝鮮人軍属)129名


 マキン島の防備

 マキン島作戦経過 マキン島はギルバート諸島の最北端に位置する環礁で、
米軍の上陸したプタリタリ島は環礁群の南部に位置し、
東西約15KM、南北約1000Mの細長い島であった。

ここにはギルバート北部行政官駐在所、修道院、南洋興発支店
などがあり、島の人口は2400人であった。

マキン島には昭和18年2月以来、海軍第3根拠地隊の
マキン派遣隊のほか航空基地隊、海軍設営隊などが進出し、
その総人員は約700名であった。

そのうち戦闘員は僅かに250名、
火砲も8センチ砲・同高射砲各3門、13ミリ機銃12門に過ぎず、
タラワ島のように要塞化はされていなかった。

 第3特別根拠地隊 分遣隊
 第111設営隊
 第952、802航空隊
 243名
 340名
 110名
 8センチ砲 3門
 8センチ高角砲 3門

 マキン島(ブタリタリ島)の作戦経過

11月21日 0300 猛烈なる艦砲射撃のもとに米第27師団の165聯隊主力が島の西岸と
一部は北岸付近に上陸開始した。 すでにこの日まで6波にわたる空襲で100名の死傷者を出していた
我が守備隊であったが、敵の上陸を迎え撃ち頑強に抵抗した。
上陸軍は実戦経験がなく、援護砲撃の下でしか行動できなかった。
このため我が守備隊の反撃にあうと前進を停止するのが常で、この弱腰を利用して米軍をかき回した。
0430 外部との無線連絡は途絶した。
11月22日 なおも抵抗は続いたが、戦闘員250名に対し絶対優勢の敵の攻撃には立ち向かうことができず
全島が敵の有に帰したのである。
23日未明 最後まで生き残った約30名の攻撃でマキン島の戦闘は終了した。

 戦果・損害

  日本軍 米 軍
兵力 693 6472
戦死者 約500 65
戦傷者   152

 我が軍の捕虜は戦闘員1名、非戦闘員(朝鮮人軍属)104名


 アパママ島の作戦

 水陸航空基地の好適地であったが、配備する兵力不足のため基地建設は行われず
 海軍の見張所が駐屯しているだけであった。

 11月21日深夜 米潜水艦ノーチラスから偵察中隊78名が無血上陸、
 11月22日午後 海軍見張所員の抵抗を受け、対峙戦が2日間続いた。
 ノーチラスの援護射撃は功を奏さなかったが駆逐艦の援護射撃で守備隊14名が死傷、
 11月26日早朝 残る見張所員10名は総員自決した。
 

 逆上陸作戦の企図

 米軍のギルバート諸島来襲を知った聯合艦隊は、ギルバート諸島方面の敵上陸地点に
 逆上陸を決行して敵上陸部隊を撃滅しようと企図し、まずポナペ島の甲支隊
 (第52師団から編制 約2000名)に対し11月22日命令を下達、
 また第2艦隊主力(巡洋艦6 駆逐艦8)と陸攻24機、戦闘機32機のマーシャル方面進出を下令した。

 甲支隊と海空部隊は11月下旬クエゼリン、ルオット島などに到着したが、時既に遅く
 ギルバート諸島は敵の領有するところとなっていた。
 このため同方面奪回の好機は去り、陸軍部隊の増援、逆上陸も中止しなければならない状況となり、
 結局諸部隊はマーシャル諸島に留まることになった。
 

 ギルバート作戦の終了

 米国政府は11月26日朝 タラワ・マキンを占領したことをラジオ放送を通じて発表した。
 また大本営は1ヵ月後の昭和18年12月20日 両島の玉砕を発表した。

 ギルバート諸島の獲得は、マーシャル諸島への足掛かりを得ることとなり、
 日本海軍の航空・潜水艦戦力の低下と米海軍の戦力充実化によって一気にマリアナをも席巻するに至った。
 この作戦は米軍特に海兵隊における士気に及ぼす影響は甚大であった。
 過去の激戦はアッツ島は酷寒、ガ島はマラリアやデング熱という複合条件があったのに対し、
 初めて日本軍守備隊と純粋な戦闘に勝ち抜いた自信は、個々の戦闘員を通じて米国民全体に自然に浸透していった。

 一方、この米軍のギルバートへの進攻は日本海軍にも重大な影響を与えた。
 ブーゲンビル・ニューギニアの南東方面は苦しい防戦を続け、南西方面は援蒋ルートの奪還の兆しが見え、
 東西寸時も油断のできない情勢下にあって少ない兵力で対抗しなければならなかった。

       マーシャル諸島の作戦/ルオット・ナムル島 クェゼリン島   


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