グアム島の作戦

  在グアム島の陸海軍首脳

 第31軍 司令官
 同 参謀長
 第29師団長
 同 参謀長
 独立混成第48旅団

 第 54警備隊司令
 第521航空隊司令
 第321航空隊司令
 第755航空隊司令

 小畑 英良 中将
 田村 義冨 少将
 高品 彪 中将
 岡部 英一 大佐
 重松 潔 少将

 杉本 豊 大佐
 亀井 凱夫 大佐
 久保徳太郎 中佐
 楠本 幾登 中佐

 基幹戦力は、歩兵11個大隊
 砲兵11個中隊
 山砲24、野砲22、10CM榴10、計56門
 戦車39両

 
 田村少将は中部太平洋艦隊参謀副長であったが
 サイパン陥落の井桁軍参謀長戦死後は、
 7/14付第31軍参謀長に補職された。

  グアム島における日本軍の作戦準備

 昭和19年3月までは海軍部隊約2000名が配置されていただけであったが、3月以降陸軍部隊が続々到着し、
 6月末まではその兵員数は約26000名に達した。
 サイパン島と同様に各種部隊が逐次到着したため、配備は数次にわたり変更され、
 最終配備が決定したのは、敵上陸の1ヶ月前であった。
 陣地構築は、数次の配備変更にもかかわらず、将兵の努力により大体順調に進捗していた。
 すなわち、機関銃座300個以上、砲兵陣地は1門について2個以上の予備陣地を造り70個以上が完成し、
 水中障害物は明石湾と昭和湾で計400個が設置されていた。
 しかし、築城資材、特にセメントが不足しており、永久築城の構築はなかなか進捗しなかった。
 このため歩兵陣地の多くはタコツボ式で、指揮所、弾薬及び糧食置場のみ洞窟利用に努めた。

 
  グアム島の作戦経過
7月 9日 米軍サイパン島攻略
7月20日 米軍在空機は常時数百機に達し、7月8日からの上陸支援艦砲射撃に任じた米艦隊兵力は
戦艦6、巡洋艦9、駆逐艦57 発射弾数は16000以上にのぼった。
7月21日 0700 米軍上陸開始 支援砲爆撃は益々激化し、そのため晴天は忽ち暗黒と化した。
第3海兵師団は見晴岬方面に、第1海兵旅団は昭和湾にそれぞれ上陸。

見晴岬方面の守備部隊は、第48旅団の第1大隊のみで約1個師団の敵を迎え撃った。
同大隊は速射砲、機関銃、山砲をもって敵の第1波を見事水際で撃破し、
上陸用舟艇10数隻と水陸両用戦車数台を破壊した。
しかし敵は10数波に分かれて航続部隊が上陸を強行し、艦砲射撃によって重火器等を破壊したため、
生存者が辛うじて陣地を守備し、21日後方に後退した。
なおも21日夜から23日払暁にかけて大隊ごとの反撃につぐ反撃を敢行したが、
戦力の大半を喪失し、砲兵部隊も火砲の2/3を破壊されてしまった。

一方昭和湾方面を守備するのは第38聯隊の約3000名であった。
海岸線の野戦陣地は粉砕され海岸一帯を占領されたが、連隊長末長大佐は
総力を挙げて夜間総攻撃を決行、連隊長自ら陣頭にたって攻撃を敢行した。
一部は海岸付近まで突進したが、22日天明ともに連隊長以下次々に斃れ、
損害は80%に達し、師団主力方面へと転進した。

7月23日 小畑軍司令官と高品師団長は、余りにも我が方の損害が多く、特に指揮官が次々と戦死し
戦闘力が急速に低下し、このままでは益々窮地に陥るばかりであると考えた。
一方敵は徐々に進出して来ているが、海岸の狭小な地帯で相当動揺しており、
昭和湾方面の敵が一向に進出してこない。そこで正面の敵各個に撃破する好機であると判断し、
高品師団長は25日の総攻撃を師団命令として下達した。
7月25日 乾坤一擲の総攻撃を敢行した。
だが総攻撃とはいうものの実戦力は歩兵2個大隊、砲兵20門、戦車2個中隊に過ぎず、
さらに敵は新たに上陸した部隊が増援されており、指揮官の損耗は更に増大していた
(大隊長14名中8名戦死)。

2400 混成第10聯隊は攻撃開始、敵陣に突入したが猛烈な火砲の反撃のため26日後退、
生存者は100名内外、第48旅団は、大隊長3名のうち2名が戦死、
左翼から突入した第18聯隊は軍旗を奉焼、26日払暁までに大隊長以下ほとんど戦死し、
連隊長大橋大佐も自ら聯隊本部の兵を率いて夜襲を行い、壮絶な最後を遂げた。
聯隊の生存者は大隊副官以下60名となって青葉山に後退した。
海軍第54警備隊は、杉本大佐の指揮によって攻撃を開始、明石市(アガナ市)方面の敵中に突入したが、
戦闘は混戦となり、26日払暁まで杉本大佐以下大半が戦死した。

総攻撃の結果、各部隊ともに兵器弾薬の大半を失い組織的な戦力を失った。

7月26日 0800 米軍は戦車数10両を先頭にマンガン山に攻撃を開始した。
第48旅団は重松旅団長以下司令部全員銃を執って米軍に応戦したが、
戦闘指揮所は米軍戦車に包囲され師団長に最後の報告を伝令に託し、重松少将は壮烈な戦死をとげた。
7月27日 1900 高品師団長は、各部隊に対して持久戦移行の命令を下達。
日没とともに陣地変更のため北部密林地帯へと各部隊は移動を開始した。
7月28日 早朝から敵戦車数10両が、師団司令部のある本田台を包囲した。
司令部は全員戦車肉薄攻撃隊を作って攻撃したが、爆薬が尽き
手榴弾による悲壮な攻撃の連続で玉砕寸前の状況であった。
師団長は全島で3000名以上の生存者があることを考え、戦車の重囲から脱出し北方での再起を決意した。
師団長は暫く脱出に成功したが、1400頃 敵の期間銃弾を受け壮烈な戦死を遂げた。
また岡部師団参謀長、清水副官、独混第10連隊長片岡中佐なども相次いで戦死した。
7月29日 軍司令官は師団長戦死の報により自ら師団長代理として全守備隊を指揮することになった。
米軍は態勢整理のため急迫しなかったことが幸いし、比較的容易に陣地変更は行われた。
掌握した兵力は、陸軍約1000、陸戦隊約800、戦車部隊、砲6門 その他約2500名であった。
もはや陸海軍の区別も、第1線と後方の区別もなかった。
衛生部隊も海軍設営隊も戦いうるものはみな又木山に集結した。

だが、武器弾薬は既になく、すべてを銃剣突撃にかけるより他なかった。

8月 8日 我が残存戦車10両は米戦車部隊と交戦、ことごとく米戦車によって破壊され我が戦車隊は全滅した。
8月 9日 小畑軍司令官以下は最後の陣地である又木山、高原山の占領に成功、最後の戦闘が開始された。
早朝から約50両の戦車は一斉に又木山を攻撃し、有効な対戦車攻撃の手段がない我が軍は
肉薄攻撃でこれに対戦したが多くは不成功に終わり、兵力は急速に減少していった。
8月10日 軍司令官は翌11日を期して最後の攻撃を敢行することを決心し、2000最後の電報を大本営に打電した。
8月11日 又木山に集結した兵力は約300名で大部分が負傷兵あった。
ほとんど戦う術をもたず、敵戦車の蹂躙に任せる状況で正午までに司令部の陣地は破壊され、
兵員のすべてが戦死した。
1435 軍司令官は最早これまでと覚悟し拳銃で自決。
軍参謀長田村少将、橋田参謀らも会い前後して戦死した。

13日 米国はグアム全島の占領をラジオ放送で発表した。


 遊撃戦と終戦

 第29師団作戦・情報参謀 武田英之中佐以下多数の将兵は、
 8月11日の組織的戦闘終了後も、数名から10数名の小部隊となって密林内に入り、遊撃戦を展開した。
 残存兵力は北部密林や南部の山岳地帯に散在し、その数は約2500名と推定していたが、
 大部分は負傷者や病人だった。残存兵力は、相互に連絡をとりながら日本軍の反撃を信じつつ、
 飛行場や油送管の破壊、電信線の切断、自動車の襲撃など終戦まで約1ヵ年にわたってゲリラ戦を続けた。
 しかし食糧不足と米軍掃討の激化によって、昭和20年に入ってからの半年は生き延びるための戦いであった。
 武田中佐以下が降伏調印を行ったのは昭和20年9月4日のことであった。

 生存者の中には、昭和20年8月の終戦を信じず、長期にわたって潜入していた者もあった。
 皆川文蔵、伊藤正両氏が発見されたのは戦後15年目の昭和35年5月
 横井庄一元軍曹が発見されたのは、実に戦後27年目の昭和47年1月であった。

 
  両軍戦力及び戦果・損害

  日本軍  米 軍
 総陸上兵力 20810  54891
     
 10CM以上砲    10     74
 野・山砲    40     90
 速射砲    33    161
 迫撃砲    18    305
 高射砲    10     90
 沿岸砲・艦砲    49 400以上
 戦 車    40 200以上
     
 戦死者 18560   1435
 戦傷者     5648

         テニアン島他の作戦   


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