転移が治療者・カウンセラーに向けられる理由

 この問題を考えるにあたっては、まず、精神療法・心理療法の特徴を念頭に置いておかねば、理解できない。そこで、まずはその点からみていこう。

 そもそも、精神療法は、精神疾患の背景に、幼少期以来の様々な体験が
問題となって隠されていることを想定している。

 そこで、治療のプロセスにおいて、患者との対話の中から、そのような経験を、 患者の発言や態度から読み取り、この点を患者に指摘し、患者にこの点を 考えてもらう。

 もちろん、患者が成長の過程で抱きつづけてきた、様々な感情を消すのが 目的ではない。

 そうではなく、患者が、自身の中に、自分が抑圧してきた さまざまな感情があり、これが、自分の精神の動きや身体の動きを拘束して いるかもしれない、という点を納得し理解した上で、社会生活を営んでいくこと、 そういった感情を明確に認識し、しかしそれから目をそむけずに、それと 折り合いながら生活し、独り立ちするための支援をすること、これが 精神療法の治療、カウンセリングにおける支援であり、それらの共通の 目的であろう。

 したがって、精神療法の場では、上述したような転移の感情がいかなるもの かを探り出していく作業が重視されるのである。

 もちろん、疾患の程度によって、この作業を行わない場合もある。

 また、できるなら、そのような転移が起きない方が治療がやりやすい、 と考える治療者・カウンセラーもいる(ユング派がその代表)。

 しかし、多かれ少なかれ、転移は起きてしまう「厄介な出来事」(菅佐和子) なのであり、治療者は常に転移について注意を払わねばならないのである。

 精神療法の場では、そういった転移の感情は、治療者に向けられる。

 治療者は、その感情を把握し、分析し、解釈した上で、そのような感情が なぜ形成され、その源はどこなのか、という点を、その患者の生育史や 幼児期の人間関係から説明していき、患者とともに、本当にそうであるのか を考えていく。

 それにしても、なぜそのような感情が治療者に向かうのであろうか。

 この問いに対する答えは、次のようになる。精神療法という治療の場は、 ある意味では、特殊で非日常的だからである、と。

 だが、さらに次のようにも説明できるだろう。


 そもそも、精神療法・カウンセリングを受けたり、薬物療法を受けるまでになった 精神的疾患を持つ人々は、多くの場合、社会生活の場で傷ついている 人々である。

 彼らは、精神療法・カウンセリングの場で、初めて、その傷 ついた心を癒す機会を得る。

 特殊とは、このような意味において特殊な
のである。つまり、患者にとっては、初めて自分の理解者と出会った、と いう考えを持てる場なのである。

 しかし、それまで彼らは、そういった心の悩みを、深く心の奥底に押え込 んできている。

 なぜなら、そういった問題について語ることは、彼らの家庭・
職場といった環境が許さないからであり、あるいは、彼ら自身が自らに、 そのようなことを語ることを、意識的・無意識的に禁じてるからである。

 そしてある日、これが原因となって、精神や身体に何らかの変調をきたし、 ついには、精神療法やカウンセリングを受けることとなるだろう。

 このような
人々の状態を、臨床心理士の菅佐和子氏(京都大学医療技術短期大学 部助教授)は、次のように描いている。

 「クライエントはたいてい、砂漠を歩いてきた旅人のようなものである」。

喉が渇き、お腹が空き、傷つき、へとへとになっているとき、セラピストと いうオアシスに出会ったわけである」(菅、p.53)。

 つまり、菅氏によれば、患者は、愛情という水のない「砂漠」を旅してきた 人々にたとえることができるのである。

 彼らは、愛情を与えられたり受け
入れてこなかったため、精神的には愛情に飢えている人々なのである。

 こういった人々の要請に応えて行われるのが、精神療法やカウンセリングである。

 先ほど、精神療法やカウンセリングの場は特殊である、と述べた。

 それは、
以上のような、「砂漠の旅人」としての患者が、日常的には出会わない人物 に出会うことができるからである。

 しかしそれと同時に、そういった、精神療法・心理療法に従事する精神科医や 臨床心理士といった人々は、専門的な知識と訓練に基づいた、言葉と コミュニケーションの技法をもってその業務に従事している。

 精神療法・心理療法の場が特殊であるのは、そういった専門性 と特殊性を持った人々によるサービスが提供される場であるからでもある。

 彼ら専門家は、精神的に傷ついている患者をさらに追いつめないように、 注意するだろう。

 そして、彼らの心を解放できる場として精神療法の現場を作り上げ
ていこうとするだろう。

 そのために、日々努力し、研鑚を重ね、知識の蓄積と技術の向上に努めね ばならないのである。

 精神療法において用いられる技法は、主として言葉を通じたコミュニケーション である。

 それは、緻密に計算されているものでなければならず、したがって、
精神療法という治療は、単なる人生相談ではない。

 むしろ、一つ一つの言葉の意味や内容について厳密に吟味していく、神経を すり減らすような作業の場であろう。

 精神療法に携わる者は、いかなる疾患を持った人物を治療する場合でも、 ある程度対応できるための知識と技術を備えていなければならない。

 そして、
そういった知識や技術に裏付けられたコミュニケーションがもし優れているもの であれば、とりわけ精神に問題を持っている人々にとっては、自分が今まで 一度も出会ったことのない理解者と出会っているという実感を持つ場合もあるだろう。

 こういった人々は、精神療法・心理療法を初めて受けたとき、治療者・カウンセラー が、今まで患者・クライエントが接してきた人と違うことに気づくであろう。

 なぜなら治療者・カウンセラーは、患者・クライエントの言うことを全て聞いてくれる からである。

 精神療法・心理療法の現場において治療者・カウンセラーは、患者・クライエントの とりとめもないような愚痴や、とりつく島のないような自分の内面のコンプレックス などについての話を、すべて聞いてくれて、受け入れてくれるのである。

 そういった愚痴は、もし親や兄弟姉妹、友人などに話せば、「おまえはわがままだ」 とか「それは一方的な言い分だ」とか「人のことも考えなさい」などという反論に 出あい、彼らの説教を聞かされるだけかもしれない。

 したがって、そのような愚痴は、自分の内面に押し込めねばならないと考え、 それが患者の辛さを創り出してもいたであろう。

 ところが、精神療法の場では、治療者はこういった愚痴を全て聞いてくれるの である。

 したがって患者が、いまだかつてこのような経験をしたことがないと
考えれば、治療者を強く信頼していくことになるであろう。

 これは心理療法においても同様である。臨床心理士の平木氏は、この経緯を、 次のように説明している。

「カウンセラーはクライエントの気持や考えをありのままに理解し、受け入れ、 心の深いところで対応してくれるので、クライエントにとってこれまで出会った ことのないすばらしい人、失いたくない人にみえるのはある意味では 当然である」(平木、98頁)。

 また、この点について河合隼雄氏は次のように説明している。

 例えば「母親が憎いということは、ふつうの場面ではなかなか誰も聞いて くれない」。

「いいかげんのところで、「まあ、あなたのお母さんもよいところがある」
とか、「憎いといったところで、それほどでもないでしょう」とうち切ってしまわれる。

「ところが、カウンセラーは憎いといっても聞いてくれる。殺したいといっても まだ聞いてくれるわけです」(河合、212頁)。

 こうして、患者・クライエントは治療者・カウンセラーを信頼し、頼り切り、 治療者・カウンセラーに対して自分の内面を全てさらけ出していくことになる。

 だが、それと同時に、治療者・カウンセラーに対する依存が始まり、「退行」という 現象もみられるようになる。

 これは、患者が、あたかも、子供になったような態度や言動を示すことであり、 「幼児返り」などとも呼ばれている。

 しかしこの現象は、それと同時に、治療者
へのさまざまな転移の感情が向けられていることをも意味する。

 以下臨床現場で見られる転移では、実際にどのような転移が見られるかについて見ていきたい。

参考文献

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