転移の定義
ここでは「転移」をどのように定義するか、ということについてみていこう。
(1)転移の発見
まず、河合隼雄氏(臨床心理士・現文化庁長官)による、精神療法の始祖フロイトによって転移が発見される経緯に関する説明を見ることにしたい(河合、206-207頁を要約)。
今日から100年ほどまえ、精神分析療法の始祖である精神科医S・フロイトは、転移を発見し、これを治療に活用すべきだと述べるに到るが、その経緯は次のようなものである。
まず、当時の精神療法においては、分析家は患者と向い合ったり、話し合ってはいなかった。
患者は寝椅子に横たわり、分析家は背後に座り、催眠療法や自由連想法を用いた治療がなされていた。
したがって、患者は分析家を見ずに様々な感情を出していた。
ところが、急に分析家を殺したいほどの気持がでてきたり、あるいは、分析家を非常に愛する気持がでてくるという現象がみられたのである。
したがってフロイトは、そのような感情は、直接分析家に向けられているのではなく、患者の過去の経験に根差した感情が、それが本来向けられるべき対象ではなく、治療者へと移し替えられたものだと考えた。
だから、「私は、あなたに何もしていないのに、そういう怒りの感情が出てくるというのは、あなたの内面にそういうことがあるのです」という解釈をすることになった。
このことを患者が悟ることによって、自分の欠点、問題をはっきりさせることができる、とフロイトは考えるようになったのである。
その際フロイトは、患者が幼児期に抑圧した事柄などを治療者に向けてくることに気づいた。
極端な場合だと、相当年配の患者でもセラピストを父親や母親、恋人のように思ったりして、強い感情を治療者に向けてくる。
フロイトは、このように過去の体験をもとにしたいろいろな感情を治療者に向けてくる現象を「転移」と名づけた。
さらに、彼は、この現象を積極的に利用すること、すなわち、転移を解釈し、それによって患者に洞察を得させるということを考え、分析をするには、転移という現象が必要であり、これが起こってこそ治療ができると考えるようになった。
つまり転移とは、本来は治療者に向けられるべきものではないが、患者が心の中に抑圧していた感情であり、これが、精神療法やカウンセリングの場で、治療者に対して向けられるという現象なのであり、古くから、そして広く知られている現象である。
(2)転移の定義
次に、転移の今日の日本における、おおまかな定義について見ていきたい。
臨床心理士の国分康孝氏(日本カウンセリング学会理事長・日本教育カウンセラー協会会長・成徳大学教授)によれば、転移は、
「来談者がかつて誰かに抱いていた感情をカウンセラーに向けること」
である。
この場合の、「誰かに抱いていた感情」とは多くの場合、「父母同胞など幼少期に重要な関係を持った家族のメンバー」である。
かならずしも、家族のメンバーと限定する必要はないのだが、たとえば、父の愛を求めて得られなかった女性がカウンセラーに父の愛を求める、母を恐れている来談者が女性のカウンセラーにびくびくする、父を軽蔑している青年がカウンセラーにも類似の感情を向ける、などがその例である(国分、111頁)。
また、転移のこのような性格を、臨床心理士の平木典子氏(日本女子大学教授)は、「的はずれな感情の動き」と特徴づけ、次のように定義している。
カウンセリングの中で、クライエントがカウンセラーに対して、的はずれの特殊な感情や態度を向けることがある。その種の感情を精神分析用語では「転移」とか「感情転移」と呼ぶ。
フロイト派の精神分析では、転移とは、クライエントが生まれてからもの心つくまでに、自分にとって重要な人との間で体験した感情をカウンセラーに主観的に向けることを言う。
フロイト派の精神分析では、クライエントの心の内に潜む父母の問題が分析の重要なテーマなので、転移はその父母に向ける気持をカウンセラーに向けている現象と考え、抵抗と合わせて分析の中心テーマとなっている。
しかし、このような現象は精神分析中に限らず、どの流派のカウンセリングの中でも、良く起こることであり、カウンセラーは、転移をクライエントの成長の鍵にする(平木、97頁)。
つまり、まず転移とは、カウンセラーに向けられたクライエントの、「的外れな心の動き」であると考えるべきであろう。
他方、カウンセリングにおいては、転移は極めて重要な分析の対象なのであり、それはいかなる学派の治療者であれ、同様である、という点を確認すべきである。
(3)日常生活に見られる転移
ただし、精神疾患を抱えた人間でなくとも、普通に日常生活を送っていても、多かれ少なかれ、人間は転移に似た感情を持ち、あるいは他者に対して向けている。
このことは、平木氏によれば、以下のように説明できる。
転移に類似した現象は、広義には日常生活の中でもさまざまに見られる。
日頃の人間関係の中で、ある人に向けるべき感情が別の人に向けられることはよくある現象である。
自分の父親に似ている人を嫌ったり、母親に似ているからその人が好きだといった具合である。
しかし、日常生活の中で起こるような感情は、多様で複雑であり、いちいち意識して問題にするまでもないことが多い(平木、97頁)。
しかし、こういった転移が、しばしば精神疾患の要因となる。というのも平木氏によれば、「日常生活の中で起こる転移的現象は、時に、人間関係のこじれのもとになっていることもある」(平木、97頁)からである。
こういった「こじれ」が原因で、その人の精神に疾患が生まれる可能性もあるだろう。
したがって、治療者は、患者が日常生活において患者がどのような問題を抱えながら生きているのか、という点を、治療の場で生まれる転移の検討を通じて、考えることができるのである。
そういった、必ずしも精神療法が厳格に適用された場ではなくとも、さまざまな現象が、転移として立ち現われる。河合隼雄氏は、次のような事例を挙げている。
1、学校恐怖症で学校に行かない子どもの家に、担任の教員が訪問した。
他の人々からは、絶対にあの子からは面会を拒絶される、と言われていたが、この子供は、訪問した教師に会って話をし、本当は学校に行きたいのだが行けない、という気持ちを伝えた。
喜んだ教師は、その続きを話してもらう約束をして、次の週に子供の家に行くと、子供は先生の顔を見るなり自分の部屋に閉じこもって出てこない。子供から拒絶された先生は、自分に落ち度があったのかと悩む。
しかし、後で、先生が父親にみえて、それで逃げたということがわかる。
2、同様の例
学校恐怖症で学校に来ない子どもの家に訪問しても、戸に鍵をかけて家に入れてくれなかったり、二階から水をかけたりする子ども。
河合氏によれば、彼らもまた、彼らを訪問するカウンセラーや社会福祉士に対して、何らかの感情を転移しているのである。
このような子供たちの行動は、河合氏によれば、次のように説明できる。
彼らは、小さい時から父親や母親との関係が非常に悪かった。
その結果、両親に見捨てられた子どもは、他人の親切を簡単には信じられない。
それゆえ、それまでの体験があらゆる人間関係に転移するため、いかなる親切も受け入れられないのである、と(河合、207-209頁)。
つまり、病院や相談室、学校の保健室という場ではなくとも、日常的に、転移という現象が立ち現われているのであり、治療者やカウンセラーは、この現象を鍵にして、精神疾患に関する洞察を深めることができるのである。
当然そのような人々が、精神療法やカウンセリングを受ける場合には、面接室において、治療者・カウンセラーに対して患者・クライエント側からの転移が生じる。
この点については、すでに述べたように、フロイト以来知られている現象である。
むしろ、日常生活レベルでの転移は、治療室内での転移が発見された後で発見されたといいうる。
それにしても、なぜ、治療者・カウンセラーに患者・クライエントの「的外れな感情の動き」が向けられるのだろうか。転移が治療者に向けられる理由 でその点について見ておきたい。
参考文献
精神科医を訴えるTop