2000年04月の日記
*2005年10月修正版
『ミュウツーの逆襲』で、黄色い電気ネズミが殴り合っているのを見て、『その男、凶暴につき』のビートたけしが麻薬の売人を連続殴打しているところを思い出した。
特撮映画おける間接射撃の表現
榴弾砲やロケットを直接射撃で使うことは特撮でありがちだが、クレしんの『温泉わくわく大決戦』は、ちゃんと間接射撃させいていた。監督・脚本は原恵一。
体育会系と文化系・概論(その1) -はじめに-
体育会系と文化系の対立は、本サイトで幾たびと触れられてきたテーマである。そこで今回は、この両者の具体的側面とその終わることのない相剋を考察し、体育会系・文化系話の補足を行うことにしてみよう。(つづく)
体育会系と文化系・概論(その2) -その起源-
体育会系と文化系という極端な理念型は、運動の得意性・非得意性に基づいて、人間を分類する思考から生まれた。この分類法のもっとも活用されているところが、小学生の生活世界である。例えば“野球をして遊ぶ”という状況を考えてみよう。このとき、最初にやらなければならない行為は、ふたつのチームを作ることである。そして、その普遍的な手順として知られている方法は、次のような物である。
まず運動ができる者が二人、どこからともなく自然発生的に出現して、それぞれのチームの代表者となる。二人はジャンケンをして、一人ずつ自分のチームに入れたいと望むメンバーを選んでいく。容易に想像できるように、運動ができる人間ほど早く選ばれ、最後に売れ残る人間は、運動神経に欠ける場合が多い。
本稿で体育会系と呼ばれる人間は、ここで言うチームの代表者及び上位選出者と同義である。一方で、文化系人間とは、売れ残り連中のことである。ちなみに、体育会系でも文化系でもない人間(大抵はそうである)は、そうである人々が体験する人生の難儀性からは無縁であるという意味で、幸運な人々と呼んで良いだろう。多くの人々がそれなりに幸運に生きていく。人生とは得てしてそんなものだろう。(つづく)
体育会系と文化系・概論(その3) -文化系人間の暗い青春-
運動ができるか否かで、徹底した待遇の差を被ることになる幼年時代。それは幼き精神にとってあまりにも過酷な経験である。特に、運動神経に問題のある人々は、多種多様の哀感を抱くことになるだろう。それはあまりの鈍足さに対する嘲笑であったかもしれないし、集団競技の中での悪性突出に対するあからさまな批判であったかもしれない。
いずれにせよ、このような陰気な青春時代を送らざるを得なかった人々は、ある種の歪んだ人格を形成することになる。文化系人間の誕生である。(つづく)
体育会系と文化系・概論(その4) -アッパー系とダウナー系-
文化系人間の思惟構造を考察する際に注目されることは、彼らが次のふたつのタイプに分類され得ることである。アッパー系とダウナー系である。
アッパー系:文化系でありながら、体育会系にあこがれを持つ人々のことである。ブルース・リーを師父とあがめる。愛読雑誌は『映画秘宝』。
ダウナー系:体育会系への憎しみは彼の内面で濃縮され、それはやがて世界全体に対するルサンチマン的な感情へと昇華される。他虐と自虐の狭間の中で、彼は思春期的なふらふら内面感をいつまでも抱きつづけるだろう。アニメ、ギャルゲー、ライトノベル…。
アッパー系はジージャンズと同義であり、ダウナー系はおたくと同義であると本稿では考える。『巨人の星』を読んで泣くのがアッパー系であり、笑ってしまうのがダウナー系であると考えてもよい。それではなぜ、こんな分離が文化系の中で起こったのであろうか。
ありきたりな空想ではあるが、彼らが、体育会系というエイリアンと幸福な出会い方を出来たかどうかが、その後の行く末のひとつを決めているような気がする。運動の出来る友だちは、彼を蔑視しなかったか? 体育教師の人格的資質はどうだったのか? 抽象的に言えば、世界の優しさの度合いの問題である。(つづく)
体育会系と文化系・概論(その5) -系移行-
同じ文化系でありながら、アッパー系とダウナー系は互いに仲が悪い。近親憎悪と言うべきものである。しかし、しょせんは同じ根っこでつながっている。ダウナー系がアッパー系へと移行する瞬間があるのだ。たとえば、「起点→転換点→終点」というハリウッド映画の基本的な構成にあって、転換点における主人公の動機変化が、時として「ダウナー系→アッパー系」という移行になっていることがある。
ちなみに、ダウナー系やアッパー系が体育会系に移行することは、いちおう論理的にあり得ない。精神的な壁は乗り越えられても、体がそれに追いつかない。しょせんブルース・リーには誰もなれないのだ。(つづく)
体育会系と文化系・概論(その6) -ダウナー系と和製アニメーション-
ハリウッド映画では、ダウナー系よりもアッパー系の人間の方が重宝され、「ダウナー系→アッパー系」という移行現象が散見される。たとえば、『マトリックス』や『ファイト・クラブ』を挙げてよい。ダウナー人間はその過剰な妄想によって、アッパーな世界へと到達するのだ。逆にいえば、それはあくまで妄想の中だけのことで、したがって、物理的な実体の伴った体育会系への移行ではない。
娯楽性が追求されるハリウッド映画において、アッパー系が志向されるのは、それなりに理解されやすい話で、直感的に言えば、誰もダウナー系人間の暗い愚痴など聞きたいとは思わないだろうし、また、幅広いユーザーの喚起を促すという点でも、人格がダウナーとアッパーを結果的に併せ持つ語り方が、好まれるだろう。しかし、和製アニメの世界では、ダウナー系人間に焦点が当てられる場合が多い。日本製アニメに特有の陰気な雰囲気は、このことがもとになっていると考えられる。そして、ダウナー系への愛着は、やがてかっこいいものとしてのダウナー系という価値観を提示することになる。サブカルの魔の手が忍び寄ってくるのである。(つづく)
体育会系と文化系・概論(その7) -アッパー系からダウナー系へ、そして和解-
これまでの議論では、「ダウナー系→アッパー系」に関する話題を扱ったが、今度はその逆パターンの場合を考えてみよう。
本稿では、ダウナー、アッパーの分類を映像作品に対する嗜好から行ってきた。すなわち、「ダウナー系=アニメ」、「アッパー系=秘宝系」という単純な図式である。この分類はゲームに対する嗜好からも行うことができる。「ダウナー系=ギャルゲー」、「アッパー系=格闘、シューティング」という分け方だ。そして、この論法を用いれば、アッパー系からダウナー系への移行は、格闘ゲーからギャルゲーへの嗜好変化を伴うと考えることができる。たとえば、『こち亀』の左近寺竜之介がそれで、硬派な格闘ゲームの鬼がギャルーゲーにはまってしまい、やがて人格を崩壊させていくエピソードか語られた。
もちろん、これはゲームだけに当てはまる話ではない。軟派アニメを鼻で笑っていたミリタリー・ファンが、ある日、『CCさくら』に狂ったり、『エヴァ』は哲学だと咆哮を始めたり、「観鈴ち〜〜ん、ゴールしちゃだめだめ」と、泣き喚き始めるたりすることも大いにあり得ると思われる。人生は危険で一杯だ。
さて、数日間に渡って検討してきた「体育会系と文化系・概論」であるが、ここでまとめに入ろう。
本稿は、とくに後半において、相対立するにもかかわらず、アッパー・ダウナー間の系移行が起こりうることを指摘してきた。これは、最初に触れたように、そもそもの文化系、体育会系の分類が具体的な身体能力に根ざしていた事と関連していると思う。どういうことかというと、最後の苦行とも言うべき高校生活が終わり、保健体育という科目が生活から払拭されると、運動能力で人を評価する場面が劇的に減少し、世界がまるで違ったもののように見えてくるのだ。そこは、体育会系と文化系の分類がすでに無効となった地平である。ゆえに、体育会系への温度差でカテゴライズされたアッパー・ダウナーの分類も枠が弛み、系移行を促進するものと思われる。それは、世界と和解しつつある過程と言ってもよいだろう。