2001年08月の日記
*2005年10月修正版
今週の『エンジェリックレイヤー』
みさきおかんのエンジェルを見て、みな恍惚としていた。ワンフェスの客みたいなものか。
『戦火の勇気』を観てると、センチュリオン改造のエイブラムス戦車が空港の騒音のような音を立ててる。もともと飛行機用だったガスタービンを戦車のエンジンとして使っているからそうなるわけで、海自のやや新しめの護衛艦に乗っても、おなじ音が聞こえる。
今週の『フルーツバスケット』
“恋愛対象の消失→焦って探す”でツンデレ発現。永野のり子で言うところの、松沢先生がいなくなって半狂乱になるすげこま。
『13デイズ』の空軍は、アルミぴかぴかで格好良い。こいつらは、ヴェトナム戦でひどい目にあって白く塗りつぶされる。『二十世紀の最後の夜に』のミリタリーな側面。
夜明けの帰り道、野生化した巨大セキセイインコの群が電線にとまっているのを見る。シュールレアリスムの絵画っぽい。
今週の『コメットさん』
二代目コメットさんが、おばさん声で「ようせいさ〜ん」と咆吼。病理的なものが感ぜられた。
エロカット差し替え記念イベントのため、来週、月曜10時から某ロボアニメ8話の該当カットを差し替え予定。
今日、その内の1cutに不都合が生じ、シートをいじってもらわなければならなくなったが、演出は爆水中だった。
渥美清の恋愛シミュレーションについて(前編) : 『男はつらいよ・寅次郎頑張れ』
中村雅俊が大竹しのぶと初デートを敢行するにあたり、寅次郎はデート状況に関する綿密なシミュレートを行い、中村への助言とした。
以下、寅次郎の模擬仮想がいかなるものか、見てみよう。
渥美清の恋愛シミュレーションについて(後編) : 『男はつらいよ・寅次郎頑張れ』
失恋した中村は、姉一人が住む九州の実家へと逃走した。寅次郎は中村を慰めるため、姉のもとを訪れるのだが、例によって彼女に惚れてしまい、“めろめろモード”へ移行する。やがて、“ひとつ屋根の下で男女”イベントが発生しそうな兆候になると、寅次郎は再び緻密なシミュレートを展開した。以下、その内容である。
今週の『フルーツバスケット』
世の中、都合の悪いことが多すぎる。
『NOIR』について[1]
メールで依頼を受けて大丈夫か? プロバイダーに官警当局の魔の手とか。
『NOIR』について[2]
キャラクターによる、他キャラクターに対する感情移入が、オーディエンスの情緒高揚につながることがある。この論点からすると、『ノワール』はキャラに対するキャラの感情移入が希薄であることが見えてくる。『カウボーイ・ビバップ』と比較しながら、その希薄さについて検討してみよう。
一話完結の特性から、桑島の感情移入する対象は、殺人目標やその周辺になりがちである。それは、『ビバップ』についても同じ事がいえる。つまり、本来ならば極めて萌える図式ではあるのだが、現実には『ノワール』にあまり面白みを感じない。そのつまらなさは、コミュニケーションの単線性にあると考えられる。例えば、『ビバップ』であれば、
今週の『ZOE』
気の強い小娘が狂いおったわい。萌へ。
今週の『シスター・プリンセス』
12人の妹が直立不動で口パクする悪魔的な情景。動画枚数2000枚の挑戦であった。
今週の『フルーツバスケット』
己の素敵は己の背中に付いているので自分では認知できないというが、逆に発想を変えて、己の素敵が見えすぎて視界が暗転してしまうとしたらどうであろうか。猫の咽頭音がよかった(効果:奥田維城)。
昨日の『プロジェクトX』
三原山脱出ドキュメントなんぞ萌えるのか? するとOPで、
「すべてを託された男」
「無言の別れ」
などの大テロップをぶつけてきやがった。
しかし、オープニングだけだったら、
劇場版プロジェクトX 「真珠湾、太平洋艦隊を殲滅せよ」
〜空母機動部隊・不可能に挑んだ男たち〜
を自主制作できますな。
またひとつ、生きる望みが増えたようだ。
プロジェクトXの業深い感動法則仮説 : 『男たちの不屈のドラマ 瀬戸大橋』より
リアル人生においては、困難など不快以外の何物でもないが、鑑賞対象としての人生では、あまりにも不謹慎なことに、困難があればあるほど燃える。以下、『瀬戸大橋』に見られる重層的な困難構造を考察してみよう。
明け方、『痕』で遊ぶ。事に及び、
“入らないよう〜”
“そこ違いますよう”
などと会話が飛び交い、気分を悪くする。
昨日に引き続き、明け方『痕』で遊び、千鶴さんに殺されてしまった。やり直すのが大儀である
物語の制約性と感情移入システムの微妙な関係 (その1−基礎的な事項)
物語の自由度の高さは、鑑賞者/プレイヤーが採りうる選択肢の幅に比例する。物語の代表的諸類型は、自由度に従って以下のように分類できるだろう。
物語の制約性と感情移入システムの微妙な関係 (その2−強制鑑賞システム)
強制鑑賞システムでは、作品内における諸人格と物語の構成に関して、ふたつの理念系を想定できる。
1.突出する人格
設置された複数の性格群から、物語の求心点となるキャラクターを設定する。主人公を単独者に限定する手法であり、鑑賞者の嗜好が突出されたその性格と一致すれば、高い感情移入効果を期待できる。ただし、逆の場合、性格付けの面からは、作品の娯楽性を導出できないことになる。
2.分散する人格
諸主要人格に平等な時間・ストーリー配分を行う。前回述べたような、嗜好と性格の不一致リスクを回避しやすいだろう。ただし、この方式にも問題がある。まず、ここで
「物語内人格への感情移入=物語内人格への嗜好×物語人格の作品内における占有時間」
という仮説を考えてみよう。たとえ、嗜好に合う人格が現れても、わずか数カットの占有時間しか持ち得なかったら、感情移入どころではない。キャラ分散型構成は、この占有時間の点で、不利を被るおそれがある。
結局、分散型の場合、高い好感度を誇る性格を形成できても、占有時間が比較的短いが為に、そこそこの好感度でも必然的に長い時間作品内を占有する単一主人公に負けかねない。この難題を克服するために誕生したのが、シナリオ分岐システムであった。(つづく)
物語の制約性と感情移入システムの微妙な関係(最終回−より自由へ)
シナリオ分岐システムの初期構造は、強制鑑賞システムの人格分散構造と一致している。ただ、強制システムと決定的に違うのは、提示された人格に対する鑑賞者のフィードバックを、物語の部分構造に反映する仕組みを有している点である。
鑑賞者の選択パターンから、その嗜好にあう人格が特定され、物語は選ばれた人格のストーリー内における占有時間を延長するよう、自らの改変を試みるだろう。人格分散構造の占有時間問題は、これで解決を見たわけである。
しかし、このシナリオ分岐システムは、まさにフィードバック機構を組み込むことにより、新たな問題を抱えてしまった。強制鑑賞システムに比べて、フィードバックへのレスポンスに要する時間が余計にかかってしまうので、物語消化の効率性が悪化してしまったのだ。
新たな問題により、再び解決への模索が始まった。フィードバック機構をより円滑・即応的に機能強化する流れが生まれたのだが、その方向性のひとつが、舞台移動システムではないだろうか。
先週の『フルーツバスケット』
「雪が溶けたら何になるでしょう?」→「春ですよ」――、しぬ。
ところで、自分の一族しか診ない医者は、それだけ臨床経験の機会が狭められるので、少し危険な香りがする。当主の多病性は、主治医の劣悪な職能水準が原因か。
シナリオ分岐システムは、ごく表層とはいえ物語の形成に参画できることから、作品内における主観視点を有する人格との同一化が容易な点で、強制鑑賞システムに勝る。もし、同一化対象の人格が、鑑賞者の好意を買うようなものであれば、作品の主人格との融合は、幸福なものになるだろう。が、逆の場合であれば、つまり、同一化対象たる主人公が、感情移入できない人格であれば、どうであろうか。それは恐るべき二重背律ではないか。
『痕』の主人公は、とにかく異様にもてる。ことごとく四姉妹の寵愛を享受する耕一に、オーディエンスは自分を見出せそうもない。
“駄目人間がもてる”ティム・バートンの法則が流布すると言うことは、映画鑑賞者及び制作者の主流を、ダメ人間が占めてしまった現実の反映だろう。しかし、あまりにも不自然にもてすぎると、彼はもはやダメ人間ではなくなってしまい、我々は彼を好意の対象と言うよりも敵と(哀しくも)見なすようになってしまう。
梓シナリオの終盤、耕一は朝っぱらから梓とラブコメを始めた。
梓は、強いおねいさま系人格に弱い我々の最優先追求対象であった。本来は喜ぶべき終焉なのに、なぜか物悲しい。われわれは所詮、耕一ではなかったのだ
今週の『プロジェクトX』
プロジェクトが、けっきょく失敗しちゃってる! 新境地というやつか。
『To Heart』初日感想に関する覚え書き
容姿良で食事の心配をしてくれる幼なじみなどこの世に存在するものか。一緒に登校? しね。運動の出来るひろゆきもイヤだ。アレは俺様ぢゃない。
『真・三國無双』をやってみる。弓矢モードで呂布観察ばかりする。時々こちらに迫って来て恐ろ楽しい。
ゲーム強化月間はしばらく続きそうだ。