2001年09月の日記
*2005年11月修正版
今月の『エンジェリックレイヤー(原作)』
みさきおかん・萩子の娘に対する愛情表現が、なかなか特異だ。
前に、父親の子どもに対する歪曲された愛情表現として、海原雄山親子の事例を挙げたことがある(「海原雄山研究」)。そこで見られたのは、子どもに対する愛情の抑圧及び反意的愛情表現で、わかりやすく言えば、「かわゆくてたまらないが、照れくさいのでいぢめてしまう」となるだろう。
これに対して、みさき母は、娘への精神許容を越えるような過剰な愛情によって、狂乱状態に陥っているように思われる。みさきに抱擁され意識障害になったり、同居の提案を聞いて「死んでしまう」と発言したりする。CLUMP特有の条理性なき熱愛の典型みたいなものか。しかし、そこにはまた、過剰な愛を持て余す人間の悲劇的な構図みたいなものが浮かび上がるようにも思う。
常軌を逸する狂恋は、それがそのまま解放されると、みさき母の「かわゆくて死んでしまう」症状に至る。これをここでは、解放的愛情表現形式と呼ぼう。リミッターを外れ精神的な死に至らしめる恋着に対抗するには、その想いを抑圧しなければならない。こうして生まれたのが、「かわいさのあまり憎む・・・結果的に、過剰な愛情を憎しみで相殺する」手法で、とりあえず本稿では、抑圧的愛情表現形式と呼ぶことにしよう。
もっとも、この愛情表現形式が、完全な救済となることはなく、いくら憎んでも、かわいいものはかわいい。結果、卑小な例では、最愛の息子を、助けだとは悟られない方法で執拗に救済を試みる海原雄山になったり、やりすぎになると、息子(と奥さん)がかわいいあまりに地球を壊してしまう碇ゲンドウになるのだろう。
今週の『エンジェリックレイヤー』
しばらく見ない間に、珠代が虎太郎に求愛襲撃をかけていた。毎度ながら、強い女がしおらしくなるのを見るのは辛抱たまらない。今週の『シスター・プリンセス』
山田が可哀想だ。今週の『フルーツバスケット』
編集のみっちゃんがかわいそうだ。今週の『ノワール』
共感不能なミサトさんの出番がない方が面白いような気がする。凶悪になった霧香に劣情をそそられて、悲鳴を上げる。今週の『Z.O.E』
立木文彦が本部長に反旗を翻す。かっこよすぎて、悲鳴を上げる。今週の『超GALS! 寿蘭』
中西先生に悲鳴を上げる。今週の『コメットさん』
ヒゲノシタとムークが同じ職階であったことが意外。ムークの方がずいぶん若年に見えるのだが、もしそうだとしたら、ムークは出来る男なのか。それとも、王国間で昇進体系が異なるのかもしれない。あるいは、ムークは実は年寄りあるいはおやじであり、比較的若年的な外見は彼の属する種の特性であろうか。文化系の進化形態
体育会系の反意概念としての文化系は、アカデミックな側面からふたつの構成要素に分割できる。文系と理系である。
文化系人間が体育会系に対抗すべく自らの強大化を妄願する際、理系はある特有の具象形態を抱くだろう。白衣にメガネ、すなわち永野のり子が生涯をかけて執拗に追い続けた狂乱的科学者像である。まだ明るい未来像を人々が持ち得た50年代から60年代にかけて、彼らは明らかに、文系を圧倒していた。『宇宙大戦争』や『妖星ゴラス』の志村喬・平田昭彦・池辺良は、理系が英雄になり得た時代があったことを教えてくれる。
では、文系の場合、いかなる妄像を抱くのだろうか。ひとつの例として、コーエーの三国ワールドにおける軍師の度を超した超人化を挙げることが出来ようか。
面白いことに、『魔法戦士リウイ』の#1だと、体育会系男が文化系の迷い道に入りこみ、その違和感に苦しんでいたりする。
『To Heart』 3/15〜4/7に関する覚え書き
司馬遼太郎はかつて、九州人がいかなる人種なのか、以下のように語った。
「九州人というのは、道が悪いがしかしゆく、というそういうあたりで昂揚し、自己を飛躍させる」
「昂揚すればどこまでもゆく九州男児」
(ともに『歴史を紀行する』文芸文庫・P77)
今週の『シスター・プリンセス』
12人の人格を同期出現させることによって、世界形成に莫大なコストがかかり、語り部への負荷が高まってるかも知れぬな。皺寄せは、物語そのものの低強度な破壊によって贖われたりするのか。
『To Heart』4/8〜4/14に関する覚え書き
今週の『Z.O.E』
玄田哲章と立木文彦の熱い握手にめまいを起こす。
今週の『超GALS! 寿蘭』
占いをめぐる自己成就的な惨劇は、人の世界認知に関するイヤイヤなサイクル構造を思わせる。
基礎的な意味での認知は、未加工状態では理解不能な生の世界に対して、解釈のための概念枠組みを押しあてることによって、それを有意味な構造に変換する過程と同義である。このことは、人の持つ概念枠組みの組成によって、世界の意味が可変することも示唆する。
占いによって悪性と規定された日々に、占いを信用する人々は、悪性な印象を保持する。かくして、本来ならば中立的であったかもしれない世界は、イヤイヤになる。世界は一面において印象の集合体だからだ。
この世の地獄から逃れるためには、占いから逃避しなければならない。寿は、物語の終盤になってやっとこの真実に気がつくが、遅すぎる。私は“今日の運勢”からの逃避行を続けて、もう4、5年になるだろうか。
一方で、星占いを目撃するたびに、チャンネルを変更しページを閉じる行為は、明らかに異常であり滑稽でもある。占いに世界を制約されない代わりに、何かもっと大きなものに束縛されてしまったとも言える。
今週の『コメットさん』
ナイーブなタンバリン星國の住民が、地球社会に拒絶反応を引き起こし、引きこもりになってしまった。メテオさん、メテオさん。
ガイナックスは組織のモデルだ(ノ∀`)
薩摩人は変態なのか
明治5年。警保助の川路利良は、フランスの警察制度を日本に導入せんと、夜な夜なパリの街路をさまよい、かの文明の有り様を知ろうとした。司馬遼太郎は、その一情景を以下のように記している。
川路は、世にも幸福な男であった。薩摩人は、頻繁にガス灯を擬人化するのか。危険だ。
たとえばパリの夜の街路を照らしているガス灯をみても、
「お前さァ。よか人ごわンすなァ。俺が東京へ連れっ帰ってあげもンど」
と、薩摩人がよくやるように、ガス灯を擬人化して話しかけた。
(P.33『翔ぶが如く(一)』文春文庫)
『カウボーイビバップ 天国の扉』より
Are you living in the real world?(ノ∀`)
先週の『ノワール』
凶悪な霧香にマレンヌ様ご一行とくろえが萌え上がっていた。
先週の『Z.O.E』
ラリィが僚機の盾になって――、「柄にもない事するもんじゃないな」と“ニヤリ”→爆死。素晴らしすぎて死ぬ。非正規戦が正規戦に移行し、テロ組織の滅亡美学が始まったようだ。
『To Heart』4/15に関する覚え書き
マルチ萌えというものは、彼女の愛情志向の普遍的特性に由来しているのではないか。
あかりの愛情対象は、幼なじみのひろゆきである。ゆえに、ひろゆきとの同一化に失敗すると、オーディエンスがそこに入る込む余地はなくなり、足を捻ったあかりをひろゆきが保健室へと抱えていく質素ないちゃつき情景を、他人のこととして拒絶的な態度で見守ることになる。悲しむべき事に、「態度がでかい・ちょっと格好良いらしい・いつも女に囲まれている・成績が平凡なのは勉強しないからでありやれば出来る男」のひろゆきは、万人の同一化対象としてはかなり不適合である。
あかりとは対照的に、マルチの愛情対象は、雑役マシンの機種特性によって、人間全般に向けられている。よって、ひろゆきではないオーディエンスでも、もしその場に居合わすことができたなら、彼女は(人間的魅力にはなはだ欠ける)ユーザーでも愛してくれるかもしれない。
この淡い幻想よって、ひろゆきと鑑賞者との亀裂は埋められ、オーディエンスの物語における主体性が回復される。あかりの愛顧を我々が受容する状況は空々しい絵物語だが、マルチならばそれは“あり得る”物語である。
自宅PCのPremiereが臨終を迎えそうだ。
敷金は、高いものなり、この世は地獄。
中学の頃、不吉な俳句作りに熱中したことがある。
今週の『プロジェクトX』
鹿児島県警の一駐在が、波状的な困難を前にして超人化(=ブルース・ウイリス化)するお話。面白いことに、個人の超人化は周囲に波及して、JR職員や海の男たちがどんどん超人化してしまう。つまり、駐在に萌える男たち、その情景を見て悶える視聴者と、萌え・悶え・感情移入の基本的な重層構造が見受けられる。
人は、他者が何かに萌える景観に、萌えてしまうのだろう。
『To Heart』4/16〜。・゚・(ノД`)・゚・。 に関する覚え書き
マルチ 「犬さん、犬さん、こんにちは!」
−死ぬ
マルチ 「るんるんるるるるんるりら〜、」
−死ぬ
マルチ 「・・・えっ!? そ、そんな、わるいです」(掃除を手伝うとの申し出に対して)
−死ぬ
マルチ 「ひ、ひどいです」(メイドロボ虐待の話を聞かされ、怯え泣く)
−死ぬ
マルチ 「一生懸命努力しますから、・・・乱暴に扱わないでくださいぃ・・・」(上記の続き)
−死ぬ
マルチ 「や、やっぱり内緒ですっ」(夢の内容を聞かれて)
−死ぬ
マルチ 「−あ、あれっ!?」(ひろゆきが不意に身を隠して)
−死ぬ
マルチ 「・・・ううっ、ひ、ひろゆきさぁ〜〜〜〜〜〜ん」(ひろゆきが見つからなくて)
−死ぬ
マルチ 「・・・うっ・・・・・ううっ・・・」(ひろゆきが見つかって)
−死ぬ
マルチ 「わぁ・・・」(ゲーセンに入って喜ぶ)
−死ぬ
マルチ 「あうっ」(パシリに使われて困る)
−死ぬ
マルチ 「ええっ!?」(アソコの様態はいかなるものかと問われ恥辱に震える)
−死ぬ
マルチ 「とっても、とっても嬉しいですっ!」(遊びに行こうと誘われて)
−死ぬ
マルチ 「しっかりメモリーに焼き付けましたから」(最後に学校を去るとき、もう良いのかと問われて)
−死ぬ
マルチ 「・・・は、はい、すきです」(頭撫でられることに関して)
−死ぬ
マルチ 「・・・だ、抱っこして欲しいです」
−死ぬ
マルチ 「・・・な、なでなでしてください」
−死ぬ
結論:死ぬ
「頭撫で撫で」の余韻
こんなに狂ったのは二年ぶりくらいか。早速、PS版も買ってきた。堀江由衣声で「はわわ」とか言うらしい。正気を保てるのかどうかは知らん。
先日、祝日出勤する前に、「まるち〜」と目に涙をためながら池袋のアニメイトへと駆け込んだが、なぜか250円のCCさくら下敷きを買うに終わった。
天国はどこにあるのか?
小説 : 萌えと自然淘汰(第一回)
萌えは、求愛対象へ抱く媚態(大好き!)と意気地・諦め(「でもだめだめなのよ〜」)の葛藤が引き起こす。その具体的実態は、恋愛投企対象を前にした狂態行為として現前化するのだが、注目したいのは、萌え上がり狂態を呈する彼・彼女自体が、新たな別の萌え誘因になりうることである。なぜか人は、萌え上がる人間を目にすると、ある種のいとおしさを感じてしまう。
萌えのこの伝播性を、ひとつの仮説として、自然淘汰の見地から説明出来るのではないか。恋愛投企対象者の指向性は、当初は必ずしもその萌え投企者へ向けられているとは限らない(むしろその方が可能性は高いだろう)。しかし、対象者は、やがて投企者の萌えに伝染し、投企者と対象者の相萌えが成立する。このような行動様式を持つ集団は、それを持たない集団よりも高い繁殖成功度を誇り、その行動パターンは、種の普遍的規範となるだろう。
今日、物語の中で多々繰り広げられる萌えは、この人間行動生態学的な発想を利用して形成されている。だが、驚愕すべき事に、その仮想世界における萌えは、種の保存とは相反する逆説性を示唆する(つづく)。
小説 : 萌えと自然淘汰(第二回)
物語から享受しうる萌えは、その疑似概念空間内で狂乱化した人格が萌え因子を発散し、空間外の鑑賞者へ伝染する過程であると言えよう。以下、図式化すると次のようになる。
小説 : 萌えと自然淘汰(最終回)
かつて有機体は、自分の生存に促進的なのか、阻害的なのかということに応じて単純に世界を色分けして、意味無き自然を秩序化していた。しかし人類だけは、より自然への適合を試み、世界に多重の意味づけを行った。やがてこの試みは、意味の過剰な洪水による秩序の崩落を予感させるまでに至るのだが、その破局は、意味の多義性を象徴という抽象性によって吸収し一元化することによって、回避された*1。かくして人は、自然から隔離された象徴体系、すなわち仮想されたひとつの物語の住民となった。
神経ネットワークの節度無き進化がもたらした概念世界の形成能力は、論理操作による「可能的な未来」の模擬体験を可能にした。自然適合に関する人の圧倒的な優位性は、疑似概念空間の構築とそこにおけるまだ見ぬ事象のシミュレーションから、生まれたのである。
しかし、再度、破局はやって来た。時代を経るごとに洗練の一途をたどった模擬実験用の論理空間は、世界を精密に規定する手段たるをいつしかやめ、その空間自体が人々の存在する原初的な仮想空間と併置されうる自律的な世界へ変貌した。どちらも仮想された世界にすぎず、混同はやむを得なかった。自然を象徴体系に置き換えざるを得なくなったときから、すでに世界は破綻していたのである*2
精神因子はともかくとして、物理因子の交流が根元的に出来ない“原”概念空間と“疑似”概念空間の捻れは、概念空間を越える萌えの伝達を果たすも、自然適合の究極的目標である物質的遺伝子の伝達とその波及になんの意味も成す事はなかった。それどころか、“疑似”空間の高い論理操作性は、“原”空間では経験できなほどの魅惑的な萌えを発現させ、“原”空間の萌えを圧倒してしまった。世界への優位的適合を計るために構築された模擬実験空間は、超準的な進化の果てに、人の自然選択における突出性を灰燼に帰した。
我々の存在する原空間が、回帰的な自己言及によって出現したのではなく、より大きな空間体系から分化して誕生したと空想してみよう。世界は、進化の袋小路で消えゆくのではなく、むしろ原初の体系へと永遠に還元するために進化を果たした詩的な物語として完結する。そう考えると、それなりに楽しい。