萌えの循環構造
あるいは自慰行為
前回の議論には、ひとつ問題がある。萌えて興奮している鑑賞者に萌えるために、“誰か”がこの世界を作ったとしたら、今度は、鑑賞者を見て興奮するその“誰か”に萌え上がるより上位な“誰か”の存在を考えることは出来はしまいか。さらに、その上位の“誰か”に興奮するもっと上位の“誰か”がいて、さらにその上に…とこの議論は永遠に続いていってしまう。
ゆえに、われわれは世界の系を閉じ得るような自己言及的、回帰的な説明[注1]を考えなければならない。このことは、鑑賞者のすぐ上位に位置し、鑑賞者に萌え上がる“誰か”を、物語と同様に鑑賞者の心象世界で産み出された抽象人格と位置づけることによって、可能になるだろう。つまり、鑑賞者は自己を見て興奮する抽象的な人格を仮想し、その抽象的な“誰か”の興奮ぶりに萌え上がるのである。
ここで、鑑賞者の上位に位置するとされる空間は、鑑賞者の心象世界であり、鑑賞者の精神の産物である。だからこの図は、俯瞰すればクラインの壷のような構造[注2]をしているはずである。
鑑賞者が“誰か”を求めて仰ぐ空は、鑑賞者自身の心象世界であると言ってよいだろう。外宇宙へと旅立って、内宇宙に到達するサイエンス・フィクションみたいなものであり、自分の唾液を天に向かって投擲するようなものでもある。
[注1]
大澤真幸 1992
『行為の代数学』,青土社
Hofstadter,D.R 1979 Gödel Escher Bach,
Basic Books
(1985 野崎昭弘ほか訳『ゲーデル、エッシャー、バッハ』,白揚社
などを参考…になるのかなあ、この文脈で?
[注2]
あくまで“ような”であってそのものではいけないらしい。ここ参考。 |