2001年11月の日記

*2006年3月修正版

 2001/11/01

狂態の片務性と共務性

恋愛の対象を前にした狂態としての萌えは、愛着関係にある二人の様相に応じて、二分類することができる。片務的狂態と共務的狂態である。片務的狂態においては、オーディエンスにとっての萌え対象は二人の内の一方でしかあり得ないが、共務的な関係においては、その両者に情緒の高揚を見出すことができるだろう。

  • 片務的狂態

      彼や彼女は恋をするのだが、その対象は、自らが恋の対象になっていることを気がつかない。ここで萌えの対象になるのは、恋する者の狂態ぶりである。渥美清や海原雄山に見る萌えである。

  • 共務的狂態

      これは、他虐・被虐型と幼なじみ型から構成される。

      他虐・被虐型は、恋する者の凶相的な熱愛に、その対象者が恐慌する関係である。『CCさくら』における知世×さくらがこれにあたる。すなわち、「さくらちゃんすてきですわ〜♪→ほえ〜」である。ここでオーディエンスは、知世の倒錯ぶりを楽しむことができるし、困るさくらの狂乱に忘我することもできるだろう。

      幼なじみ型は、相愛の関係にある両者が相互を過剰に意識することによって狂態する関係のことを言う。『劇場版CCさくら2』での、さくら・小狼関係にその典型を見出すことができる。空回りする二人の狂態性は、萌えの誘因になりうると考えられる。

  • 他方が一方からの愛を気づき得ない片務的関係は、やがて、執着対象者が自分への執着を発見することを契機にして、共務的な狂態に移行する可能性を秘めている*1。後期『CCさくら』で見られた「小狼→さくら」関係の片務性が、劇場2作目で共務的・幼なじみ型に移行した事例を挙げてよい。


    *1:これのエコロジカルな解釈については2001/09/27を参照。

     2001/11/02

    『最終兵器彼女』最終話に関する覚え書き

    物語内における主要キャラの総アッパー化が、東京23区や北半球を蒸発させうるのなら*1、その逆の総ダウナー化も、均衡点の消失によって、物語の自己破壊をもたらすだろう。ただし、総アッパー化の心地よい自棄糞な滅びとは対照的に、ダウナー化の行き着く果ての崩壊は、陰湿で後味が悪い。

    『ラブひな』最終話に関する覚え書き:悪夢としてのひなた荘

    楽園に見えたひなた荘が、ヘタレがヘタレをやめるよう転向が迫られる思想犯の収容所に見えてきた。かといって、ヘタレたままでも快楽的な語りは難しいのだが*2

    *12001/10/24を参照。
    *22001/10/13を参照。

     2001/11/03

    『Hellsing』第4話

    家宅捜査の描写が今日の水準からほど遠い。カバー無しで室内にはいるのはやめよう。あと、人に銃を向けるときは、ちゃんとサイティングするようにしよう。

    『フルーツバスケット』第18話

    倫理への後ろめたさが、それまでのアイロニーな語り口を解体することがある。「サウスパーク的危機」と命名したい。これは、それまでのプロセスで提示されていた反倫理性を、倫理的な帰結によって中和し、物語に普遍性を与えようとする行為である。しかし、一歩間違えると説教臭くなる。

    その解決として、倫理の提示の後、一転して惨劇イベントを配置することによって、照れ隠しを行う手法がある。さくらももこがよく使う手だ。

     2001/11/05

    メイド・妹・白痴: 『Kanon』初日に関する覚え書き

    ヘタレ男が異性の好意を被る状況はきわめて説得性にかける。しかし、かかる相手がメイドや妹であるならば、好意を買っても不思議ではあるまい*1。ギャルゲーとその周縁の物語において、妹・メイド人格が多用されるのは、ヘタレらぶらぶ状況の説得性ある語られ方が求められるためである。

    では、これらの人格以外に、ヘタレに熱狂的な愛を浴びせても不思議はない人格的特性はないのだろうか。この物語はまたひとつの解答を発見している。白痴である。

    睡眠中の他人にまたがり強制起床を試みる少女は、白痴である。たい焼きを食い逃げし、奇声を発しながら他人をファーストフードの店舗に連れ込む少女は、白痴である。ヘタレたユーザーが彼女たちに愛されても、物語の実存性は失われないだろう。なぜなら、彼女たちは普通ではないからである。

    *12001/10/18を参照。

     2001/11/06

    『コメットさん☆』第32話: ほしぢからはいつも制御不能

    ほしぢからを管制下から逸脱させがちなコメット世界は破壊願望に満ちてるっぽい。

     2001/11/07

    『Kanon』1/8〜1/10に関する覚え書き

    頻繁にたい焼きを強奪し逃走するあゆは、摂食障害による行動異常の典型だろう。ただ、家主の秋子さんがあゆの顔を不思議そうに眺める始めると、この話の落とし所がわかったような気がして床を転がる。

     2001/11/08

    思い出としての物語 : 『プロジェクトX』 通天閣・熱き7人

    物語の結末の一フォーマットとして、「思い出の残留物ネタ」というものを考えてみよう。

    このテンプレは、キャラ@とキャラAの交渉と他方のキャラ(ここではキャラAとしよう)の消失による関係の解消を前提とする。その喪失から一定期間を経た物語の終結点において、キャラ@は、失われたキャラAの残留物を発見する。その残留物は、キャラ@とAの結節点であると同時に、鑑賞者とキャラAとの結節点でもあり得る。

    例えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』のフィルム、『イル・ポスティーノ』の録音機、『ラブレター』の図書カード、『暗戦』の指輪(だったか?)は、キャラ@が失われたキャラAを見出すための媒体である。一方で、『ニンゲン合格』の絵葉書は、キャラ@よりもむしろ鑑賞者のほうが、キャラAの余蘊をそこに見出すことだろう。これは、「思い出残留」に至る伏線が、鑑賞者にしか提示されていないことに起因する*1


    今回の通天閣話では、展望台の天井から掘り出された手記が、思い出の残留物として機能している。「内藤はかせ〜、伊藤局長〜、そして、いつもにこやかな曽和っち〜」と、なかなかの炎上っぷりである。

    *1:別の例を妄想してみよう。マルチは、「スパゲティせんべい事件」の後、『今さら恥ずかしくて人に聞けない料理の基本 』を購入したとする。彼女の喪失後、長瀬主任は遺物を整理する。長瀬はその本を発見し手に取る。付箋に気づきそのページをめくる。次カットで「おいしいパスタの作り方」、次カットでスタッフロール突入…。このケースでは、思い出を発見した長瀬にとって「おいしいパスタの作り方」は、とりあえず意味不明である。ゆえに、それは、鑑賞者とマルチとの関係の中で限定される思い出である。もし長瀬が「スパゲティせんべい事件」を知っているのなら、それは3人の思い出となる。

    思いで残留(キーワード)」に関連する議論のリンク集あり。

     2001/11/09

    キャラとの情報共有と説明台詞

    オーディエンスには二種類の人間がいる。説明を欲する人間と、それをうざいと思う人間である。前者は、会話の端々でしか状況説明のなされない物語に、先の見えない苛立ちを覚えるかも知れない。後者は、説明台詞を垂れ流す和製アニメに絶望を覚えるだろう。

    ギャルゲーでは、物語内におけるユーザーの同一化対象が、他の物語形式よりもずっと明確に形成され、その彼への移入が求められる。そして、かかる人格への同一化は、彼我の情報の共有によって成立する。物語とユーザーの生活圏の特性による違いから、その共有は、物語からユーザーへの一方的な伝達形式をとる。すなわち、膨大な説明台詞である。

    これは憂慮すべき事態だろう。物語進行が停滞し、説明を欲しない人々を困惑させてしまう。かといって、説明を省略すると、情報の共有ができない上に、説明を欲する人々に不満をもたらす。

    物語は、この両者を満足させるために、同一化対象のキャラを常に新世界へ射出する。物語の冒頭における世界は、ユーザーにとって見知らぬ世界であるが、物語内のキャラにとっては既知の世界であるかも知れない。その情報の格差は、説明台詞によって埋められる。しかし、もし物語の世界が住人にとっても未知の世界であったら、情報の格差は生まれず、状況説明の動機は失われる。

    かくして、物語の住人達は、引っ越して、初登校して、記憶障害になる。あるいは、未知の状況を形成するために、東京湾に死体を浮かべたりするのである。

     2001/11/10

    『Kanon』1/11〜1/15に関する覚え書き

    奇跡はそう起こるものでないと、香里は言うのだが、むしろ、奇跡は救いのない形で毎日起こっていると思う。なんで、V編後にあり得ないリテイクが見つかるんじゃ。

    あゆは商店街を彷徨うドワーフだと思った。

     2001/11/12

    『Kanon』1/16〜1/31(最終日)に関する覚え書き

    。・ ゚・。* 。 +゚。・.。* ゚ + 。・゚・(ノД`)真琴…。

     2001/11/13

    先週の地上波アニメの感想

    『FFU』

    リサおねえさん (;´Д`)

    『シュガー』

    木に登れば落下するものである。

    『フルーツバスケット』

    風邪を引いた透が「はう〜」とマルチ声で困惑する。

     2001/11/14

    シナリオ分岐システムにおけるプレイヤーの意思表示問題(前編)

    恋愛AVGなどの分岐ある物語は、任意にユーザーの嗜好に合うキャラと物語を形成しうる点で、強制鑑賞の物語に勝る。しかし、分岐システムが、ユーザーの意思を明確に判別し得ないのなら、その優位性は失われてしまう。彼の意志がシステムへ明確に伝わらない原因は、システム自体の構造に求められる場合もあれば、ユーザー自身の資質に求められるケースもある。

    シナリオ分岐システムにあって、物語の効率的な消化と感傷の発現を追求する立場からすれば、「難易度が高い」という言葉に意味はない。任意にパートナーを選択することが困難であることを示唆するからである。難易度の高さは、往々にして、分岐選択の試行錯誤による類似した事象の飽和現象をもたらす。これは、人格選択の任意性に関する法則が、ユーザーにとってわかりにくいことの結果であると思われる。つまり、どのたぐいの選択傾向パターンをたどれば、特定の人格と物語が形成できるのか、よくわからないのである。そこで語り手は、特定の場所に特定の人格を配置することによって、選択肢の明示化を図ろうとする*1。これが後に、舞台移動システムにつながることは前にも言及した*2

    分岐の明確化が提示できれば、その選択肢の範囲内で、ユーザーは自分の意思を容易にシステムに伝えることができるはずである。しかし時には、特定の人格へと至る道筋が明らかであるのに、システムがユーザーの意思をつかめない場合がある。関係を保持したい人格がいるにも関わらず、鑑賞者の意思がばらついてしまうのだ。(つづく)

    *1:キャラの地縛霊化と呼ぼう。
    *22001/08/25を参照。

     2001/11/15

    シナリオ分岐システムにおけるプレイヤーの意思表示問題(後編)

    嗜好に合うキャラの選択に至る(フラグを立てる)までに、プレイヤーは物語内で提示される複数の娘と接触しなければならない。そうでなければ、どの娘が嗜好に合うかわからない。かかるキャラのお試し期間において、プレイヤーは、半ば強制的に複数のキャラ出現地点を巡回することとなる。娘が現れると、プレイヤーはふたつの選択を迫られる。その娘にとって好意的な態度をとるべきか、あるいはそうでないかである。難易度の高い物語は、いったい何が彼女にとって好ましい選択になるのかよくわからない所に、その特色があると思われる。が、とりあえずここでは、好意的な選択肢はプレイヤーにとって自明であると仮定して話を進めよう。

    その娘の物語を鑑賞したいのなら、好意的な選択をして、それ以外の娘を冷たくあしらえばよい。このようにして、システムに自分の意思を伝えればよいのだが、プレイヤーの感情問題として、合理的な選択が出来ないケースも想定されてくる。よほど嫌悪する娘はともかくとして、特に好ましいわけでもないが、かといって嫌いでもない価値中性な娘に硬直的な態度を選択することは、日常的な生活圏と同様に、ヘタレなプレイヤーには案外困難なのである。

    このような選択行動の動機は、誰にも嫌われたくない願望と、全ての娘をものにしたい浮気根性から構成されていると思われる。いずれにせよ、全ての娘に好意的な選択をしようと試みるプレイヤーの意思をシステムはつかみ損なってしまう。結果的に、物語はプレイヤーの意思にそぐわない方向へ進み得るだろう*1

    問題は、どこまで物語の可塑性に関する決定権をプレイヤーに与えるか、にあると思われる。ここで、プレイヤーの意思認知に関するふたつの類型を考えてみよう。自動型と手動型である。自動型は、人格出現ポイントの強制(あるいは半強制)巡回の後、各ポイントにおけるプレイヤーの選択傾向をシステム自身が判断して、自動的にその後の物語を形成するパターンである。一方で手動型では、お試し期間に強制巡回があったとしても、その後、選択肢の意思によって比較的自由に行きたいポイントへ移動できる。プレイヤーは、お試し期間に意思表示を拡散させたとしても、あとに来るポイント移動という自発的行為によって、システムに意図を伝えることが出来る。そうなると、結局、舞台移動システムの理念系に近づくことになる。

    *1:これはこれで、諸行無常な世界の体験をプレイヤーに感じせしめて、しんみりしてしまうのだが、ただ、浮気という概念をそこに持ち込めば、『GPM』のように、選択肢に関わる楽しげな物語を形成することもできる。

     2001/11/16

    今日の一枚 : 2001年11月14日 練馬区中村橋にて撮影

    いまはなき職場で

    猫である。2,3ヶ月前までは精悍であったが、餌を与えすぎたため、野性味が失われてしまった。

     2001/11/17

    逸脱人格の黄昏 : 『AIR』に関する覚え書き

    バスで降り立った田舎町に、白痴の天使たちが舞い降りる。『AIR』はそんな物語だ。


    ヘタレたオーディエンスが公園に佇んでいる時に、いきなり女学生に「遊ぼう」と声をかけられることはまずあり得ない。しかし、彼女がネジの一本や二本ぶっ飛んだ娘であれば、そう不自然なことはあるまい。かくして、ヘタレなる彼の恋物語は成立の契機を見る。基本的に『Kanon』とこの構造は変わらない。

    しかし、逸脱せる彼女は作品成立のきっかけにはなっても、物語に対するオーディエンスの感情移入には、あまり貢献しない。むしろ逆効果であろう。得てして、逸脱した人格に感情を移入する余地は見つけがたい。ゆえに娘は、オーディエンスの感情を勝ち取るために、やがて逸脱を止めなければならない。

    物語の逸脱せるキャラは、奇声という行為によって、特徴づけることができる*1。そこで、白痴なる人格の逸脱を制止する即物的な処方として、奇声の抑止を挙げることが出来るであろう。よく用いられる手法は、彼女の能動的多弁化であるが、それと全く相反する寡黙化も、その役割を果たしてしまう。

    奇声は、他者の行為に関する受動的な感情の発露である。よって、他者に対する能動的言動には含まれない。そして、かかる能動性は、その人格が白痴をやめたことの証左になるだろう。一方で、そもそもその人格がしゃべらなければ、奇声は発せられる機会をなくしてしまう。このフォーマットは『Kanon』の真琴で活用されている。

    ヘタレであるわれわれは、ヘタレそのものではなく、ヘタレがヘタレるのをやめるその動態に感情移入する*2。本稿の逸脱せる娘どもが、逸脱するのをやめたり、あるいはさらに逸脱したりする営為は、基本的に「ヘタレ動態の感情移入効果」と同じ効用をもたらす。つまり、逸脱せる人格はヘタレの派生形態なのだ。


    ヘタレ人格が完全にヘタレを脱してしまうと、ヘタレたるオーディエンスの手から離れてしまう。同じように、白痴が白痴をやめてしまったら、ヘタレるオーディエンスが、その人格に愛される理由がなくなってしまう。なぜなら、彼女が逸脱していたからこそ、ヘタレであるオーディエンスは愛されていたからである。

    逸脱を止めた娘の愛をヘタレが享受し続けることは、物語の論理性を破壊してしまう。よって、彼女は、自らを文字通り消滅させることによって、物語を秩序的な完結へと導くのである。

    *1:「うぐっ」「あう〜」「うにゅ」「ふにゅ」「がお〜」等々
    *22001/10/12を参照。

     2001/11/19

    萌え狂態としての照れと怒り

    影のある娘が顔を赤らめる。何とも心躍る情景ではないか。これは、感情抑圧型の人格が心を開く際に見受けられる典型的な営為であるが、基本的に、その人格を照れせしめた彼は、彼女の紅潮せる理由を知らないことが多い。『To Heart』の浩之は、来栖川先輩の赤面が自分に向けられていることを気づきもしない。ネルフ本部のエレベーターで顔を赤らめた綾波に、シンジは無頓着であった。よって、これらの事例は、片務的な狂態関係にあると思われる*1

    ここで、別の可能性を妄想してみよう。あのエレベーターの中で、もしシンジが照れながら「あっ、あの…雑巾をしぼってる綾波って、なんか、お母さんって感じがした」と言い、綾波が顔を赤くしたとしたらどうであろう。この場合、綾波だけでなくシンジも狂態に至っていると解釈できるので、共務的な狂態関係の特に幼なじみ型にあたるであろう。『エイケン』の伝助とちはるの関係も、この範疇に入ると考えられる。

    片方、あるいは両方の人格がしめやかに照れるステイタスとは対照的に、もっと過剰に照れを起こしてしまい、それが怒りに転化するケースもまた魅惑的である。例えば、『ラブひな』の成瀬川は、「景太郎が好きなのであろう」と突っ込まれたとき、「誰があんな奴」と照れのあまり怒りを露わにする。この時、景太郎は成瀬川が自分のことを過剰に愛していることを気づいていないので、これは片務的な関係である。

    これに対して、「まるで夫婦」との発言に顔を紅潮させ、激怒しながらそれを否定しようとするアスカとシンジの学園ラブコメ萌えは、両者が狂態状態に陥っているので、共務的な狂態であると判断して良いだろう。

    以上まとめると、次のようになる。

    幼なじみ型萌え

    照れと怒りをもって分類しているものの、結局、その怒り自体も照れより生じているといえる。

    *12001/11/01を参照。

     2001/11/20

    分岐会話と感情移入会話

    とにかく、物語の分岐を明確化することが、シナリオ分岐システムの効率よい展開につながるはずだ。前に挙げた舞台移動の概念では、分岐が場所として表現されているので、わかりやすい。問題は、会話の中の選択肢で分岐の選別が行われるケースである。

    分岐システムが、物語の低コストな運用以外に、映画やアニメなどの強制鑑賞システムと戦える点を考えてみる。人格選択の恣意性を除けば、おそらくそれは、限りがあるとはいえユーザーが選択した行動に、キャラが何らかの反応を起こすことが、物語に効果的な移入を促す事に尽きるのかも知れない*1

    しかし、何気ない選択肢のいずれかに、ルートを決める行動がある場合、鑑賞者はキャラとの擬似的な会話を楽しむ状況の形成には至らない。彼は、選択肢を前にして考え込んでしまうだろう*2。結果、物語の形成に加われるという意識は極めて希薄になりかねない。選択次第によっては、物語からの追放の憂き目もあり得ることは、強制鑑賞システムに慣れ親しんだ鑑賞者にとっては、不条理極まりない。

    かかる事態を避けるためには、分岐につながる会話と、移入のための会話を鑑賞者が明確にわかる形で分離しなければならない。とうことで、この議論は冒頭に戻る。


    ところで、立脚点を物語の効率的消化と感傷の経済的発現におけば、このような結論になるのだが、もっと別の視点で眺めれば、この分岐システムの問題点は娯楽へと変わりうる余地もある。すなわち、選択肢を前にして、鑑賞者はドキドキしてしまう。これは、一種の「ゲーム」の成立になるだろう*3。もっとも、実際のところ、わたしはかかる意思決定にストレスを感じる。物語前半における分岐選択の緊張感(ゲーム)とフラグ固定以降の分岐消失(強制鑑賞システム)の折衷から来る歪みが感ぜられてしまう*4


    *1:分岐する物語のもたらす未来の微妙なズレとその比較選択が生む娯楽は、強制鑑賞システムにおいても再現可能な形式であると思われる。『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』や『ラン・ローラ・ラン』を参照。『3-4X10月』も参考になる。

    *2:選択せる彼の傾向は、語り手の価値観が反映されるところだろう。ゆえに、選択肢を前に考え込む彼を眺めることは、語り手の思考を推察する過程であるとも言える。

    *3:そもそもギャルゲーは、ゲームとしてジャンル分けされているので、その要素はあってしかるべきであるのだが。

    *4:これは「信長・三国志的停滞」と対照的で興味深い。かかるマクロな古典シミュレーションでは、ゲーム冒頭期、弱小勢力時代の緊張感が、勢力の拡大につれて消失してしまう現象が見られた。ゲームとしての娯楽(意思決定の及ぼすスリラー)は、物語の前半にあるわけだ。他方、恋愛AVGは、人格が固定された以降の後半の物語に、娯楽の重点を置いているのではないかと考えられる。ゲームを重視するのか、物語を重視するのか、という問題なのかも知れない。

     2001/11/21

    他虐・被虐型の共務的狂態関係における服飾交換行為

    着せ替えを強要する営みは、物語においてよく目にするテンプレである。たとえば、このようなことだ。

    着せ替え

    基本的にかかる行為は、娘@と彼女に過剰な愛着を持つ娘Aとの間に成立する。嫌がる@へ着せ替えを迫るA、という倒錯的な情景が展開される。他の事例としては、
    • 『フルーツバスケット第20話』

      由希の兄貴の店で、コスプレ狂の従業員に着せ替えを迫られる透。

    • 『カードキャプターさくら』

      知世に着せ替えとその撮影を迫られるさくら。

    などがある。

    人格Aの狂乱的な熱愛とそれに困惑する人格@の行動パターンは、共務的狂態関係における他虐・被虐型の典型である。言い換えれば、他虐・被虐型は、着せ替えという行為をその一表層とするのである。

    また、着せ替えは、娘同士のかかる関係においてのみ、発現するものでもない。娘とヘタレ男の間でも成立するだろう。“女装”という特殊な着せ替え行為を、ヘタレ男が娘に迫られるケースである。最近の具体例を挙げれば、

    • 『エイケン』

      女子学生服やスクール水着(第2巻P9より推察)に着せ替えさせられる伝助

    がある。

    娘同士の関係よりも、娘とヘタレ男の間に成立する倒錯関係の方が、想定しうる鑑賞者(ヘタレ男)により高い被虐的快楽を与えてくれるだろう。そして、この快楽には、二重の意味がある。

    娘同士の他虐・被虐関係において、中心を占める萌えは、着せ替えを迫られるキャラの当惑ぶりにあると考えられる。同じ事は、娘とヘタレ男の間に成立するこの関係にも言える。鑑賞者は、女装した男のかわいい当惑ぶりに、萌えを強制されるのだが、同時に、かろうじて当人に残存する世間体が同性への萌えを許容しない。でもでも萌えてしまう。かくして、鑑賞者に被虐感が提示されるのである。

     2001/11/22

    放棄される分岐システムと消失する同一化対象人格

    パッケージングのことを考えると、『AIR』は『荒野のダッチワイフ』ぽい印象を受ける。

    『荒野…』は、ピンク映画としてパッケージングされた作品であるが、その実態はピンク映画ではない。いわゆる抜けないピンク映画である。映画という興業の仕組みを低コストで制作して商業的に流通させるために、そうなったと思われる。

    ひるがえって『AIR』を眺めると、恋愛AVGとして出発したかかる物語構造は、最後に分岐を破棄してしまう。そこでユーザーは、本来のジャンル分けであるゲームというものから、本作が全く逸脱してしまったことに気づかされる。

    最初から、『AIR』は、分岐システムとしての物語ではなく、強制鑑賞システムとして想定された物語であると考えてみよう。コストの問題により、代表的な強制鑑賞システムである動画媒体で、その物語を形成することは不可能であった。そこで、より低コストな媒体として選択されたのが、恋愛AVGという流通形式だった。

    低コストで強制鑑賞システムを実現させたいのなら、そもそもシナリオ分岐など初めから必要なかったはずである。だが、それでは商業的流通が困難なので、ギャルゲー的な体裁をとらなければならない。だから物語は、シナリオ分岐システムとして、出発しなければならなかった。その結果、物語構造に様々な歪みが生じたのは、その代償であったと考えることがきる。

    本来の形式である強制鑑賞システムに転換したあと、シナリオ分岐システムでは不可欠なプレイヤー・キャラクターは、消滅してしまう。闘病中の観鈴はなぜか記憶を失い、分岐システムとしてのそれまでの物語は完全に精算されたのだ。

     2001/11/23

    破滅兆候の至る快楽

    小松左京の『復活の日』は、前半から中盤にかけて、養鶏場の七面鳥がばたばた死んでいくところがよい。この物語に待ち受けるカタストロフィーをわかりやすく予感させるからである。

    『Kanon』は、真琴が「箸がもてないよ〜」となり始めるのがよい。『AIR』は、観鈴ちんが「足がしびれるよ〜」となるところがよい。やがて娘に訪れるである終末をこれ見よがしに示唆するからである。

    世界が破滅するのか、娘が崩潰するのか。その違いはあるものの、基本的にこれらのエピソードは、その物語が何かを失う過程をこれから提示していくことを、オーディエンスに伝える。つまり、われわれは、その物語のおおまかな進路と終着地を知る。

    先が見えすぎるのも考え物だが、かといって、全く見ないと、物語の動機付けが困難になる。情報開示のさじ加減の問題である。

    物語の方向性が与えられるのは、早いほうがよいだろう。2時間の映画であれば、30分以内に決めてしまうべきであろう。たとえば『さらば冬のかもめ』は、冒頭からわずか5分で、「ヘタレ男をポーツマスの刑務所まで護送」と、物語の目的が判明するのでうれしかったりする。

     2001/11/24

    『エイケン』における一次接触への希求

    欲望は物理法則の下部構造である。『エイケン』の目指す地平はそこにある。以下、『エイケン』世界における諸行為の因果関係について考察してみよう。


    作図中に凄まじい不毛感におそわれた。考察を打ち切ることにする。

     2001/11/26

    今週の『コメットさん☆』について

    負傷したつばめを治癒するために、コメットさんは「縫い人」を呼び寄せる。傷を縫うためではなく、コメットさんの看護婦コスプレのために召還したのだ。看護婦のコスプレを果たしたコメットさんは、ほしぢからでつばめの治癒を試みる。やり方が非常に回りくどい。

    特定のほしぢからと特定のコスチュームとの因果関係を示す事例は、これまであまりなかったような気がする。看護婦になりきって陽気なコメットさんの傍らで、不審な表情を浮かべるメテオさんも、メタフィクション気味だ。

     2001/11/27

    虚構と日常生活

    世界を幻覚と規定する物語は、ただその事実にキャラが気づいただけで成立するものでもない。もし世界がA.I.に栽培されている人類の夢だとしても、現実(とそれまで思われていた)の生活に何の支障もなかったら、キアヌは夢から覚める強い動機付けを持つに至らない。

    ゆえに、生活する上で何か障害となるイベントが必要である。世界の虚構性が、その障害を引き起こしているとしたら、虚構をめぐる物語は可能になるであろう。

    レオパルドがプールに浸かったら面倒である。文化祭前日の喧噪が永遠に続いたら、過労死してしまう。だから『ビューティフル・ドリーマー』は、虚構をめぐる物語を語ることができる。一方で、『パトレイバー2』や『劇場版カウボーイビバップ』などの今日的な「戦場帰還兵もの」が提示する虚構感は、何か押しつけがましい。

    戦場でひどい目にあった人格が、帰還した平穏な日々に戸惑い疲弊する風景は、よく知られている物語のテンプレである。この困惑は世界への虚構感につながることもある。

    しかし、その虚構感による生活的な支障は、あくまで凄惨な戦場を経験した人格に何らかの精神的な病理を与えるにとどまり、他人には影響を及ぼさない。別のこの世界が夢であってもなくても、日常生活に関わりがなければ、問題にならないのである。

    孤独に虚構によって苦しめられる帰還兵は、周囲との格差にいらだち、虚構感による障害を他人に共有させようとする。虚構の社会化である。かくして、街に破壊が訪れ、物語が成立する。だがこの物語は、その虚構感を実感し得ないオーディエンスにとっては、基本的に迷惑な話になってしまう。

     2001/11/28

    コメットさんの看護婦コスプレに怪訝な眼差しを送るメテオさん。

    ちなみにこの話数でメテオさんは、侍従長のムークを愛玩しようと試みるのだが、「この口が勝手に動くのよ〜」と、意志に反してムークを虐待してしまう。

     2001/11/29

    悲愴な笑いについて

    キャラが「悲しいときに笑う」営みは、われわれを興奮させる。たとえば、西原理恵子の『ぼくんち』や『サクラ対戦3』のコクリコ等々。とりあえず本稿では、かかる感情の表出を「西原・コクリコ笑態」と呼ぶことにしよう。

    感情移入の一様式として、前にヘタレたキャラが成長して破滅する類型を考察した。ヘタレが成長するのは快楽であるが、成長しきってしまったらヘタレではなくなるので、ヘタレなオーディエンスにとっては同化が困難になってしまう。だから、成長が達成された段階で消滅させてしまえ、という理屈である。

    西原・コクリコ笑態は、この種の消滅や敗北の際に、彼や彼女が行う特有の行為であると考えられる。消滅を気遣っている相手を心配させないように、笑顔で消滅への恐怖感を隠匿しようとする行為は、明らかにその人格の成長を示唆する。同時に、間近に迫った予想される消滅によって、これ以上の成長は見込めないため、ヘタレ脱却による感情移入の阻害がある程度抑止される。

    ゆえに、観覧車の中で、本当は記憶が抹消されるのが怖いのに「わたし、ロボットだから、怖くありません」と笑顔で強がる汎用メイドロボに、われわれは興奮してしまうのである。学校の屋上で「笑顔でさよなら」する娘に、ついつい転がってしまうのである*1

    ところで、西原・コクリコ笑態は人格の成長(アッパー化)によるものであるが、他方で、『戦争のはらわた』のシュタイナー曹長は、ダウナー化による笑態を、最後の修羅場で見せてくれる*2。西原・コクリコ笑態とは全く性格の異なる錯乱的な行為ながら、これはこれで興奮に値する。この「シュタイナー笑態」は、複数のキャラに穏やかな形で共有されると、『アンダーグラウンド』終盤の饗宴みたいな感じになるのだろう。


    *1:『狂い咲きサンダーロード』の山田辰男は、不具の体で愛車にまたがる。「ブレーキはどうするんだよ」と問われた彼は、ニヤリと返して、わたしたちを大いに興奮させつつ走り去るのだが、これも西原・コクリコ笑態の範疇にはいるのかも知れない。すると、よくある「ニヤリと笑って→自爆」様式もそうなのか?

    *2:『俺たちの勲章』最終回の松田優作も参照せよ。

     2001/11/30

    主観的な時間経過の恐怖について

    歳を経るごとに日の経つ体感速度が上昇していく。この何とも言えない恐怖感は、時間の流れに関する個人の印象が、その個人の経てきた人生の長さに影響を受けているからだと言われる。ひとつの妄想として、一日の主観的な体感時間は、その一日を年齢で割ることによって算出しうると考えてみる。例えば、一歳児が経験する一日の体感時間は、一日である。これは当たり前である。ところが、二歳児が経験する体感時間は、一日/二歳で、0.5になる。つまり、二歳児の主観的な一日は、彼が一歳児の時に経験した一日の半分である。以下、グラフにしてみよう。

    10歳の時に経験した一日の40パーセント分しか、今のわたしの一日が有しないことはショッキングである。小学生の夏休みは長いわけである。ただ、救いなのは、グラフは次第に収束しつつあるので、これまで経験したほどの急激な体感時間の収縮が最早ないことである。


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