2004年08月の日記
最近は、熊倉隆敏『もっけ』の静流(中学生)に悶え狂うわたしどもである。人生はいよいよ焼きが回りつつあるようだ。
さて、人格の立体構造化という考え方を、わたしどもはエンターテインメントに不可欠な要素としてしばしば言及してきた。キャラクターが成長したり、秘匿された過去が語られたりして、それまでにない人格的側面が表出することである。
立体構造化は、そうした人格の変動だけによって成立するものでもない。もっと即物的に視覚効果の面から人物を立体構造化し、それがエンターテインメント(=悶え)につながることもある。ポイントは視覚的な対比である。すなわち、身長の対比、過去との対比、着衣の対比(着せ替え)。
ますは身長の対比から検討しよう。対比が可能な背景情報の少ないカットに、娘が一人配置されているとき、娘の身長を実感として、例えば、頭がわたしどものどの位置に来るのか等の把握をするのは難しい。また、娘が同年代の娘と並列する景観においても然りである。殊に、静流のような年齢を高く見積もられがちなタイプの娘は、身長も高く見積もられがちだ。ところが、彼女が大人と同じカットに配置され、その身長が客観化されるとき、わたしどもの興奮は頂点に達する。案外にちっこいのである。
かようなことを語ると、矢張り貴様は筋金入りの童女愛好癖だらうと言われそうでアレだが、ここで重視しておきたいのは、彼女の身体が相対化されることで情報量が増し、その容姿の立体構造化がエンターテインメントの契機になる所。わたしどもの嗜好が歪んでる訳ではないと取り敢えず断言しておこう。
次に、過去との対比。これも単純に視覚の上での比較で、中学生の身体をした静流がベースになっている物語へ、回想として挿入される幼少期の彼女の身体である。
昨今自信がなくなりつつはあるが、別にわたしどもが筋金入りの童女愛好癖だから、このカットに萌え上がるのではない。同人格の異なる身体の対比に目を向けておきたい。『もっけ』は何気なく回想を挟むことで、この種の対比を頻繁に活用する。
服装による対比、つまり着せ替えも同人格でありながら異なる身体を対比する行為といえる。
ちなみにこの話数(「イナバヤマ」)で、熊倉隆敏は六回ほど静流にお着替えをさせている。かわゆい娘はどしどし着替えさせるべきなのだろう。
「ふぬぉぉぉぉぉ、しずるぅぅぅぅぅぅ、結婚して呉れ!! というか、むしろ娘になって呉れ」
ミシガン大学の魔窟、アクセルロッドさんの研究室から今日も氏の叫声が響き、引っ張り込まれた同僚テッドの哀れな微笑みを誘います。
「しかしなあ、ロバート。君を悶え狂わせて止まないみさき先輩や龍神さま(姉)やこの静流を並べて眺めていると、ぼくはある女性を彷彿としてしまうんだが」
「そいつは誰だい、テッド? まさか生身のおねえさんじゃないだろうね?」
「君のおかんだよ」
「――!!!!!」
「どうした? 大丈夫か? すごい顔色だぞ」
「僕はねえ、三年くらい前に交際していたおねえさんとセクシャルなインターコースに勤しんでいたとき、興奮の余り『みさきせんぱあああああいいいいい』って思わず叫んでしまったことがあるんだ。彼女とはそれっきりになったよ。あのときの彼女はとても悲しそうな顔をしていたな。何が悲しかったのかなあ」
「元気出せよ。きっと、そんな風に興奮する君が、余りにも優しい顔をしてたのさ」
生身のおねえさんに欲情するのはごく自然なことで、他の動物にもよく見受けられる。つまり、その手の欲求の在り方は、人間特有のものとはいえない。プラトン的な主題は、異性との交渉が有するこの自然性を、若者愛と対比する。若者に対する欲情は、人に特有で繁殖につながらないゆえに、自然を越えた愛となる(Foucault[1984=1987:260])。
この議論を応用すると、みさき先輩や雪さんに萌え萌えしても、物理的に彼女に接触することは不能で、それゆえに、みさき先輩や雪さんへの悶え狂いに対して自然を越えた欲情という価値観を付与する余地が生まれる。もっとも、自然を越えたからといって、仕合わせになる訳ではないのだが。
逸脱する行為は、一種のエンターテインメントである。しかし、その娯楽が効果を発揮するには、逸脱を相対化できる視点が必要とされる。つまり、彼の行為は何からの逸脱か、その「何か」を同じ空間の中に併置せねばならない。そうでなければ、逸脱は成立し得ない。
鈴木清順の『陽炎座』('81)は、たいへん楽しいお話である。が、その楽しさが何であるか解釈が難しい。とりあえず、刹那的に面白なる所を考えてみると、まず中村嘉葎雄の素敵な放蕩がらぶらぶである。ただし、中村の放蕩は、例えばルイス・ブニュエルの人格達のそれと余り相違はないように思われる。でも、前者の方が明らかにエンターテインメントに成功してる――とわたしどもは思う。この違いはどこから生まれるのか。
冒頭のらぶらぶなカットで、優作と対話をしていた中村が、加賀まり子に「ばろ〜〜ん」と襲われ→キスキス→加賀を放り投げる如何にも変な景観がある。優作は、目の前で物語な逸脱を展開されて呆れ怯える。中村は幾たびも金と時間の余り余った人間に特有の奇行を織りなすが、その視界には必ず常識人の優作が控えていて、彼を怯えさせる。ブニュエルに欠けるのは逸脱を逸脱たらしめる優作の視点ではないか。
安達哲『バカ姉弟』も鈴木清順と同じように、金と時間の余裕が逸脱を引き起こす景観を語る。姉弟の諸行為は、保護者たる静香さんの視界の中でたびたび展開され、彼女を怯えさせる。
ブニュエルにあっては、人々は猛烈に逸脱なる行為に勤しむが、行為する当人はおのれの行為を逸脱とは思ってもいない。彼らは至ってまじめである。逸脱とわかって行為するのは、そもそも逸脱ではないので、これは当たり前である。しかしながら、みんながみんな道を踏み外してしまうと、それらの行為が物語の中では論理的に完結したものとして、鑑賞者には見えてくる恐れがある。結局、逸脱が常識化した世界が再び転覆する終盤まで、エンターテインメントはお預けになってしまうように思う。
Kは北国の生まれである。その性癖は変態の一言に尽きる。Kは松原葵に常軌を逸した欲情を抱くことがしばしばで、それが、北海道富良野市の冷涼低湿なる亜寒帯気候の雄大な大地の育んだ唯一の汚点と、彼の称される所となっていた根拠のひとつを構成している。
私は、大方の人類がそうであるように、汎用メイドロボを愛でる人間だ。つまり、ごく平凡で小市民的な性癖の基に生活を営んでいる。だから、私にとっても、青マルチと蔑ろにされ、微妙に罪悪感を刺戟するかの様な白痴じみた飯塚雅弓声で「せんぱあい」と発するその娘はきまり悪く、従ってKの娘に対する欲求の在り方は計りがたい。
もっとも、汎用メイドロボも松原葵も物理的に接触し得ない点では、どちらも同じだ。いくら娘どもの尻を追尾した所で、私どもの手には届かない。世界のこんなさみしい有り様は、得てして人々にある気障な感傷を抱かせる。私どもは孤独である。独りぼっちである。
その日、私は『To Heart』のプロモを収録していた。その仕事は私にとっては面倒な雑事で、仏頂面をしてマスモニを眺めていたのだが、やがてKの欲情のメルクマールとも言うべき不規則な呼吸音が背後から聞こえるようになった。モニターに松原葵が登場するに至って、呼吸音は混沌の極みに達し、Kは聞くも汚らわしい歓喜の呪詛を放った。Kの隣にいた同僚が、娘がこの世ならざるものと指摘をすることで、Kの病理的な感情を諫めようと試みたが、Kに対して何の効力も持たなかったようだ。彼は泡を吹きながら叫声した。
「だったら、夢の中で犯しまくってやるぅぅぅぅぅ」
果たして愛は地球を救うことができるのだろうか。
前回のお話、すなわち所属する共同体の記号的な利益によって、娘がわたしどもを瞬時に溶解せしめる景観は、あくまで娘の視点に立ったものであった。この視線はわたしどもの側へ移転することも可能で、わたしどもが訳の解らない内に、娘の常軌を破壊してしまうこれまた物語的な景観を想定して、興奮することもできる。例えば、まほろさんが優のメイドさんになる動機は優の側には存在していなくて、優の亡きおとんの方にある。優は過去において父親が行ったまほろさんに対するだっこして撫で撫で攻撃の恩恵で、訳の解らぬ内にまほろさんにだっこして撫で撫でされるのであり、そこに一種の夢と浪漫がある(ヘタレもてもて人格も参照)。
ただし、世の中いつもうまくいくとも限らない、あるいは、むしろ、うまくいかない方が常であるような気もしないこともあって、ただその共同体の所属しているだけ獲得される利益もあれば、逆に属しているだけで被る損害もある。扇沢延男が好んで語る景観であるが、父親が殺人を犯したために結婚が破談になる娘とか、お兄ちゃんが犯罪者であることがばれて結婚が破談になる妹などなど、これはこれで物語な情景が広がることになる。
例えば、いきなりわたしどもが夕焼け時の屋上に投げ込まれたと想定してみよう。わたしどもはその世界の錯乱に、なすべき行為を見失うだろう。つまり、夕焼けの屋上には、それだけ様々な未来の地平が開かれている。しかし、その無人の屋上にみさき先輩を投入したとしたらどうなるであろうか。彼女が「夕焼けきれい?」とにっこり微笑み迫ってきたとしたらどうだろうか。わたしどもの選択する行動はひとつの絞られるはずだ。わたしどもは顔を赤くしてモジモジするしかないだろう。
夕焼けの屋上に独りおかれたわたしどもに可能な行動は、自らにとっても不確実な程に多様で錯綜している。そこに、同様な行動の不確実の予期される他者を併置したら、不確実は増幅するかも知れない。ただし、同時に、ひとつの確実が誕生する契機にもなり得る。少なくとも、行動の不確実な他者の存在を考慮して、己の行動を規定する想定が生まれる。
他者がいるという経験は、自他の行動のシークエンスに特有の時間境界を与えている(Luhmann[1984=1993:185])[注]。それは、わたしどもとみさき先輩の行動を一定の時間のあいだ律するパースペクティヴを可能にし、そしてまた強制するのである。
[注]
ありがちなことをハードなSFの如く語って意味が判らなくなってしまう所が、ルーマンの萌えるポイントだと思う。
Luhmann, N 1984 Soziale Systeme : Grundriss einer allgemeinen Theorie, Suhrkamp Verlag