2006年4月の日記

 2006/04/03

「センド・ミィ・ザ・ピロウ・ザット・ユー・ドリーム・オン」



「どうして、わたしには才能が降りてこなかったのかしら?」

細君は夫に問う。

「わからないなあ、そんなのどうだって良いじゃないか。おいしいご飯を食べてギャルゲーができれば、僕はそれで満足なんだが」

「嘘よ、みんな嘘だわ。満足なら、どうして脳内妹なんてこしらえるの? 誰も来ないブログをどうして毎日更新するの? 貴男にはわたしが重荷なんだわ。そして、どうせやっては来ない何かをずっと待っているのね」

「そんな話はやめよう、もうたくさんだ」

Kは苦しげに応ずるのだった。


出奔した細君がKの元に戻って半月が経った。以来、このような会話は幾度も繰り返された。美しく明朗な娘だった彼女の、その類い希なる精神は、いま滅びようとしていた。

少なくとも、当初のKにとってみれば、社会的な願望らしきものに魅せられてしまった細君の動機は衝動性のものに思われた。あのとき、帰宅した彼は細君に向かって「ただいまあ、みさき先輩☆」とうっかり口を滑らせてしまった。彼女はKにエプロンを投げつけ、怒気を孕ませた声色で言った。

「わたし、家を出るわ。才能を試すの。専業主婦で一生を終えるなんて、考えただけで気が狂いそうだわ」

柔弱なる気質に生まれたKは、細君の去った後、うち捨てられたエプロンを抱いてむせび泣くこと度々であったが、次第に落ち着きを取り戻してくると、細君を恋愛AVGの美少女と誤認した罪の重さに打ちのめされるようになり、かかる現状をもっともな罰だとして甘受する心持ちも現れてきた。自分のような腐蝕した人間の元から去ることは、むしろ彼女の将来に利することだと、ありがちな心理ではあったが、そう思えるようにもなり、練馬区の片隅で、彼女のことを静かに祈る日々が続いた。

二年後、夢破れた彼女は全てを失って戻ってきた。

こうして、滅びつつある細君と日々を過ごす内に、Kには何となくわかってきたこともある。Kの呪わしき病癖は表層的なトリガーに過ぎなかったのであり、その発現があろうとなかろうと、遅かれ早かれ細君は出奔に駆られたことだろう。細君の情念はより生得的なものとして、彼女の内に定着していたと思われるのだった。結婚をした当初、恋の盲目が全てに優先し、自己実現の欲求を抑制していた。やがてパッションが過ぎ去ると、彼女はKの元を飛び去ってしまった。


「君は何になりたかったのだ?」

縁側に座り込んで微動だにしない細君にKは呟いた。

「そうね、強い人になりたかったわ」

「君は強い人だよ」

庭先を眺めながら、彼女は声を出して笑った。

「滅びるって美しいわ」




Kの親愛なる師、ロバアト・アクセルロッド教授はかつて警告をした。

「手淫をもっと自制せよ。いまに自分しか愛せなくなるぞ」

学生時代のKは、次のような例証を真顔で挙げて師の訓話に反発した。自分は極度に惚れっぽいので、自分にまでも惚れてしまうのだ。これは、自分の愛の広大無縁なる事の証明である。

そのとき、師は何も言わず、ただ微笑みを浮かべるだけであった。

Kが師の真意を知るに至るのは、もう少し後になってからのことだった。彼の言うところの、その無限に広がる雄大な愛によって、いつしか彼は通りすがりの娘にことごとく惚れ込むようになった。しかし、その無差別性が、かえって愛の信憑性を損なわせ始めるのだった。そもそも恋愛は、排他的な現象だったはずだから――。Kは嘆いた。世界は愛に溢れてる。なのに、どうしてこんなに寂しいのか。


Kが細君と出会ったとき、かかる哀しみの色彩を彼はいまだ知らなかった。彼は、高校の屋上で、図書室の片隅で、単調な空想に浸り続けていたのだった。

当時のKに、その将来の細君は、図書室のカウンターに座る美しい先輩として認知されていた。本を借りるとき、カウンター越しの彼女はいつもKに微笑みを見せた。彼はそのたびにのぼせ上がった。

『さては俺様に惚れたかな』

俗に言う、童貞という病である。

こんな調子だったから、先輩に文芸部へ誘われた日、下校をする彼の自転車の体感速度は音速を超えた。

『世界とは怖いものだ。わたしのような内気ではにかみやな美しい青年をたらし込もうと、娘やおねえさんどもが至る所で待ち受けているのだ』

彼は陽気に叫び声を上げた。


実際のところ、そのときの細君がKにいかなる思いを寄せていたのか、これはけっきょくわからないままだった。後に結婚をするのだから、何らかの段階で、Kが彼女の心理に掣肘を加えていたことは確かである。しかし、それが徐々に醸成されたものなのか、それともあの日、既に細君はKと同様にのぼせ上がっていたのか、それがわからない。細君に尋ねてみれば済む話ではあったが、Kはあることを恐れ続けた。もし、あのとき、自分だけがのぼせ上がっていたとしたら、自分の人生をこれまで支え続けていた幻想がことごとく崩れてしまうのではなかろうか?




あの日、部室を訪れたとき、Kは先輩に一冊の同人雑誌を渡された。

「感想を貰えるとうれしいな」

先輩の小説に初めて接しようとしていたKは、こんなに美しい人の頭脳から出でたものだから、どんなにか素敵な話が待ち受けているのかしら、と頁を開く前からドキドキしたものだった。が、二、三行進んだ段階で、早くも彼の顔面は露骨に歪み始めた。これ以上読み進むには能わない凡作であることは明らかだった。

「それで、どうだった?」

いまや脅迫の響きさえも帯びてきた先輩の問いかけにKは甚だ窮し、とりあえず「えへへ」とはにかんでみた。先輩は少し怒ったような素振りで、くるっとKに背を向けた。彼女の長い髪が、Kの横っ面を叩いた。

「君は素直な子だよ」

先輩は呆れたようだった。その声は、自らの技量を重々承知している気配を窺わせた。と同時に、では、どうして、それでも何かを綴ろうと欲するのか、という軽い疑問をKに与えた。

「需要と供給の、長い長い追いかけっこだね」

先輩は得意げに説明を始める。

「これを書いたわたしも君も、何時かみんないなくなってしまうけど、ここにあるテクストは、わたしがいなくなってもちゃんと残ってくれるんだよ。どんな遠い将来になるかわからないけど、これを必要とする人のためにね」

Kは物憂くなった。彼女に追いつくのに歴史がどれだけかかるのか、その膨大な歳月を思い、気が重くなった。けれども、今から振り返ると、それすらも適切な言い様ではなかったように思われる。追いつくか否かの問題ではない。むしろ彼女は、生まれたときから歴史に見放されていたのだ。


「――どうして、わたしには才能が降りてこなかったの?」

細君は繰り返した。

「貧乏人の家に生まれる、癌の家系に生まれる、通り魔に刺される、交通事故で死ぬ。どれも仕方のないことだし、何の意味もない。解決できるとか、そういう次元の事でもない。ただし、何らかの身の振り様はあるはずだ。それが生きるということだろう」

「ただの諦念の合理化だわ、わたしは戦いたかったの」

彼女は少しだけすすり泣いて、やがて眠りに落ちたようだった。




Kは学生の頃、愚かなる学友たちと「みさき先輩に童貞を捧げる会」を結成し、青臭い雄叫びを上げた。ところが、会の結成から三分後、メンバーの一人が感づいたのだった。

「だったら、一生童貞ではないか!?」

会は直ちに解散された。それを想う事すら、許され得なかったのだった。


細君という重しを失ったKは、今やどこへでも歩いて行くことが出来た。しかし、その自由が、やましくも思われた。前から患っていた失調症はたちまちの内に悪化し、脳内妹の解像度は上がった。いまに彼女はものを言うようになるかも知れない。あるいは、触れることができるようにも――。

不安の影に怯えながら、Kは考える。

こんなにも美しく、小動物のように怯え愛らしい自分を、彼女は置いていってしまった。彼女は自分の愛らしさに耐えきれなかったのだろうか。

それは如何にも彼らしい理屈ではあったが、もはや、そこに何らかの誤謬のあることも薄々は当人に理解されていた。ただKにしてみれば、心理的な慰めとしてそれを放置する以外に選択の余地はなかったのだった。


Kは脳内妹と旅に出た。故郷に帰り、母校を訪ねた。Kの自転車が音速を超えたあの日から時が止まったように、校舎はひっそりと田園に囲まれていた。春休みなので校舎に人影はない。

『みんな、いなくなってしまうんだよ……、みんな、滅びてしまうんだよ。なんて酷いことでしょう、なんて美しいことでしょう』

部活動の喧噪に沸き返るグラウンドを見渡し、先輩はうっとりと語ったものだった。


Kは図書室に向かう。部屋に入り、いにしえのカウンターを前にして佇んだ。背後から女の子の声がした。

「いつまで感傷に耽っているの? 貴男を棄てた負け犬の事なんか、早く忘れなさい」

脳内妹が初めて発話を行ったのだった。しかし、Kは驚くよりも、むしろ彼女の中傷の方に憤った。

「何てことを言うんだ。先輩は世界から見放されても戦った、勇敢で、どこまでも気高かったおねえさんだぞ! 君にわかるものか」

Kの声色に驚いて、脳内妹はべそをかいた。

彼ははっとした。彼女の怯えた顔、その懐かしい面影……。

「そうか、君は僕らの娘だったんだな、あのとき産まれてこなかった」

Kは彼女を抱いて窓際に移動した。

「ここは僕らが滅びた場所だ。そして、君の生まれた場所なんだよ」

彼はいつもの席に座り、耳をすませた。昼休み、先輩はいつも遅れてやって来た。板張りの廊下を歩くあの足音、もう忘れる事はないだろう。彼女は図書委員で、小説の下手な文芸部員で、またとない天使のような僕の先輩だ。日溜まりの窓際で、僕らはいつも隣同士だった。本の香り、陽光の暖かさ、彼女の息づかい。そして、ニレの木の、永劫の木漏れ日の下で……。

 2006/04/08

イデオローグの草刈り場 : 榛野なな恵『Papa told me[19]』

#88の「サンクチュアリ ノッカー」

学級の権力闘争はその場限りのもので、組替えなり卒業なりが行われたらリセットされるはずである。ということで、闘争に敗れた少年はさっさと転校してしまうのだが、PTSDに苛まれつづける。学級を荒らした野蛮人は、このまま罰せられず社会に放たれて他人様を泣かせつづけるのであるな、という感慨である。学内の特殊なイベントがジャイアニズムの普遍的な問題に至っている。

榛野なな恵は、社会派の気分を文芸のイデオローグに昇華する/誤魔化すのが基本的にうまい人で、物語の観測者としては、ここまで広がった風呂敷を榛野先生がどう始末してくれるか、ワクワクするものである。

ところが、次いで投入されるのは、少年の事情に対する知世の微妙な解釈だったりする。

「きっとその方が、都合がいい人がたくさんいるからなんだわ」
榛野[1997:41]

物語は二つの分岐に立ったと言える。ここで表白した知世の思考を、工学的に解決可能な問題とみるなら、社会派のイデオローグに準拠した事になる。しかし、かかるジャイアニズムに民間生態学の解釈を行って、効率とか種の存続のために意味のある事態をみるのなら、物語は文芸のイデオローグに準拠せざるを得なくなる。事はもはや解決に能わないので、むしろ、かかる不条理に際したとき、いかにして心理的平安を獲得するか、という事が問題とされ、修辞の探求がなされるだろう。

前述の通り、榛野は文芸側のパースで解決を行ってきた語り手なので、とうぜん、それに類する帰結が訪れるだろうと予測するのだが、結末はけっこうショッキングである。

「はるか遠く僕の知らないところで笑っている」誰か、僕たちはいつか君を追いつめる。そして隠されていたドアを開けるんだ
榛野[1997:45]

篠田節子風の言い方*1をすれば、「隠されたドア」を開けたところで無人だったりするものだが、そういう茶々はともかくとして、知世にそそのかされた結果、原初的な社会正義の観念に目覚めた少年は新聞部への入部を決意し、物語は終わる。風呂敷の向こうで待ち受けていたのは、シンプルな陰謀論であった。


大学に入った少年は講義の前にアジビラを配り始めるに違いない、と空想し恐れおののくだけなら、これは一種の悲喜劇になるだろう。ただ、あの知世の台詞が、物語の分岐点であるとともに、少年の獲得を巡るイデオローグ間の競合でもあったと見ると、またちがう評価があるように思う。一般に、工学的解決の可否がはっきりしている分野では、社会派と文芸の間で競合は起こらない。ところが、ここで語られたジャイアニズム問題のように、工学的に解決できるのかどうか不明なジャンルになると、準拠すべきイデオローグが不明になって、当事者は混乱してしまう。これは、洗脳の技術書などによく見受けられる風景である。


榛野なな恵, 1997, 『Papa told me[19]』, 集英社

 2006/04/21


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