2003年9月の日記
メタフィクションは別として、物語の渦中にある人物は、今自分が物語の中に放り込まれている事には気がつかない。また、実人生を物語に喩えるのなら、未だその完成途上にある生者が、自己の人生を意味づけられたイベントの連鎖、詰まり物語であるとは意識しない。今を生きる彼にとって進行中の人生は、無意味で即物的で散文的である。だが、ジョエル・コーエン的な云い方をすれば、その人生が完結して遠い場所から俯瞰された時、そこに美しい意味の連なりをわたしどもは見出すことになるだろう。
人生には決して意味がない訳では無い。しかし意味づけるためには、人生を自己完結した単体としてバッケージングして、その全体を見渡せるほどの時間的な距離が必要であり、詰まるところ人生が終わってしまわなければ、意味の付けようがない。よって、不幸なことに、人生を経験した当の本人は結局の所、理解の届かない日常に翻弄されて、その意味も知ることもなく訳の解らないまま人生を終える。ただ、あるのは、生きることが自己の痕跡を世界に刻みつける過程の様な物であることへの意識であり、その痕跡の無秩序に見える集積は、手の届かないどこか遠い場所で意味ある単体になる事への感傷だけである。
わたしどもの人生に意味を見出すことになる遠い未来の見知らぬ他者の眼差しは、わたしどもがその存在を予想するに及んで、わたしどもの行動を倫理的に規定し始める。この感覚は、不慮の事故でいきなり死んでしまったら、厳重に隠匿されたえっちな本が処分できないではないかと恐怖する中学生の素朴なそれと類似している。信仰を喪ってしまったわたしどもは、代わりに予測される未来の眼差しに怯えながら生きている。
未来への怯えは、わたしどもの手の及ぶことの出来ない場所でわたしどもの人生が規定される事への不快を産む契機となることもある。カート・ヴォネガットが『猫のゆりかご』で描いた様な、天にいる誰かさんへの如何ともし難い哀しい視線であり、且つ、ジャック・フィニイが物語る様な、過去に放逐された男の未来において自己の存在を証明することになるカメラへ向かって投げる憤りの視線である。
でも、一瞬でも良い。と云うよりも、むしろ一瞬であった方が良い。わたしどもが、未来に於いてわたしどもの人生を俯瞰することになる誰かさんと思わぬところで出会うファンタジーな瞬間というものがある。逆に、過去に完結した人生を生きる当人と出会う瞬間がある。それは、大人になった自分へのエールが納められたホームビデオ[注1]の中に見つかったり、或いはドジなメイドロボと一緒に送られてきた麦わら帽子[注2]に見つかったりする。
過去と未来をつなぐ媒体は様々であり、ツボにはまるとジャック・フィニイの様に感動の一発芸でわたしどもを横転せしめることも期待大な残暑の厳しい一日であった。
[注1]
よく取り上げる例だが『ビバップ』のアレ。らぶらぶよ。
[注2]
(つД`)
会社で午睡を貪っていたら、ギャルゲーの夢を見た。終わりで、小型の戦術核が落っこちて来て腰を抜かした。
昼にカレーを食べた。夜もカレーを喰った。喰いながら『三四郎』を読んでいると、入院中の妹が暇を持て余して、兄を電報で呼びつける情景と出会った。アレを連想した。
その晩、実家の近所に戦術核が落っこちる夢を見た。きのこ雲が余りにも毒々しかったので起きたら鬱になっていた。
もう駄目だ。杉並区でゴキブリの大移動が目撃されたらしい。地震が来る。
一昨日、昨日と帰宅途中に中杉通りで北上するゴキブリとすれ違い「最近ゴキブリ多いなあ、はっはっは」と意味もなく笑っていた頃が今となっては懐かしい。いやだ。死にたくない。助けて呉れ。
社会参画への十数年に渡る準備期間に於いて、わたしどもに与えられる体系的な知識のひとつに「この世界には意味がある」と云うものがある。ここで言及されている意味とは、既存の物事は全て訳あって其処にあると云った類の事である。例えば、エコロジーであれば、ある特定の行動形態が存在する理由を、種の保存な観点から語るだろうし、また、微視的な経済学ならば、取引関係の有り様を経済的な効率から語ろうとするだろう。
世界に対する斯様な解釈を胸に、わたしどもは泡を吹きながらコミュニティの運営に巻き込まれて逝くのであるが、ある日、身も蓋もない事に気づいてしまう。意味があるにしては、世界が余りにも不様すぎるのである。
取引相手の選択に当たってもっとも明快な基準となりうるものは、効率的の可否である。それは金銭的な事かも知れないし、また時間的、技術的な面から求められる効率性かも知れない。義理と人情で取引相手を選ぶにしても、その行為は長期的な取引関係の維持から来る利益に適った行為かも知れない。しかし、選択が共同体内の得体の知れない力学関係を意識し始めると、明確な効率基準はどこか遠い場所に身罷ってしまう。
事の問題は、一例として選択肢が共同体内の他プレイヤーと競合する場合に発生する。有用な選択肢が常に限られる場合、選択は常に他プレイヤーとの競合に置かれる。この時、プレイヤーのパーソナリティが気弱であれば、そもそもこの競合に参加する事が断念される。競合の相手が、共同体内で強力な影響力を誇る場合、プレイヤーは効率性は劣っても競合はしない選択肢を巡ってしか悶々としなくなる。詰まり、効率基準とは別のものが、選択肢の規定し始める。影響力に依存する斯様なリソースの奪い合いを、わたしどもは狭義な意味での政治と呼んでいる。
笑いの止まらない結果に至る為の効率を巡る算術を語るビジネススクールの美しい経営戦略観は、疲弊した組織参画者の間で喪われ、計画の策定が影響力の均衡と行き当たりばったりとのぶつかり合いで産み落とされる景観に取って代わる。或いは、納期前に普遍的に繰り返される様な、プロジェクトの疲労感と無力感溢れる断末魔にかき消される。やがて、わたしどもは、陰謀と云うものがそもそもこの世界に存在しないことを知ってしまう。
陰謀と云うと、薄暗い怪しい室内でおやぢどもが「うははは」と笑いながら葉巻の煙を鼻腔から放出する情景が浮かぶが、その前提あるものは、策定から施工に至る全過程に渡る計画の合理性の保存である。そしてそれは空想である。どんなに美しい陰謀も、首尾一貫して制御される事はない。それは訳の解らない過程を経て、関係者の疲弊と絶望に染まる死屍累々の中から、予期せぬ形で出力される。陰謀が成立するには、わたしどもの世界は余りにも意味がなさ過ぎる。
女子中学生の群れが、見学と称して会社にやってきた。上司のK氏はにやにやしていた。周りのひとびともにやにやしていた。わたしどももにやにやしていた。そして、これでは駄目だと思った。
「破滅兆候」の関連事。
世界がいきなり破滅してしまうのも景観としては素敵だが、シナリオ工学の上では余り適切な在り方とは云えないと思う。世界が破滅する際にわたしどもの興奮を招くのは、その崩壊に際してとられるにんげんの行動の在り様だったり、思索の内容であったりするので(マクガフィンを巡る絶望の物語)、斯様な活動をする間もなく世界が無くなってしまったら、わたしどもの感情は高揚しがたい。或いは、世界が終わっているのに人々がそれを知覚し得ないとすれば、物語は破滅にまつわる高揚状態を演出できない。
破滅は徐々にやって来なければならない。それは様々な前兆として、わたしどもの前に現れ、わたしどもを喜ばせる。それが楽しいのは、わたしどもの願う物語状況の確実な到来を予言するからであり、且つ不明であった世界が明確化して行く際に生じる、サスペンスのごく古典的な快楽と関係している。或いはまた、ローカルなイベントが世界化して行く際に感ぜられるわくわくな心持ちが伴う事も指摘できるだろう。
兆候は、未来に於ける決定的なイベントを示唆するにとどまる訳でもなく、先に触れた様な、世界が終わっているのに住人がそれを認知し得ないケースでも、世界が過去に於いて既に終わってしまっている事を徐々に発見して行く『マトリックス』の様な物語が可能である。
限定された物語の全容をわたしどもが把握するのは、その終結に於いてであり、潜在的に破局の進む世界に、確定しつつある世界の在り方を目の当たりにして興奮を覚えるわたしどもがたどり着く先は、物語を形成したにんげんの思索そのものを反映する世界の有様である。至った破局には、篠田節子おねいさんの思考のパターンとの出会いがある。そこには、破局を誘引したとされる巨悪の陰謀が否定され、憎悪の求心を人々が失い途方に暮れながら進行する事態を傍観するしかない物語があった。らぶらぶだ。
2003/01/04のつづき
『3-4X10月』ラストカット、妄想を終えて日常へ帰還の道を走る柳ユーレイを俯瞰する絵は萌える。彼の前には、物語の冒頭と代わり映えのない情景が広がるのであるが、わたしどもには、柳に待ち受けるこれからの日常が、それまで彼が継続してきた生活と分岐する予感がある。その可能的なもうひとつの世界の広がりが楽しい。
斯様な世界の分岐を知らしめるものは、何だろうか。冒頭のグランドを歩く柳の足取りは、希望のない生活と人生に疲弊した足取りであった。しかし、終幕のグランド、冒頭のそれを繰り返す様に思われた情景の中を、彼は歩くのではなく走って行く。詰まり、類似する情景のちょっとした差異が、可能的な未来を示唆する訳である。その差異は、再度展開される風景が、前のそれと似ていれば似ているほど、際立ってくるだろう。
話はちょっと変わる。ロジャー・ゼラズニイ『聖なる狂気』には、過去への逆走に走馬燈然とした疾走感があって楽しい。が、過去の取り返しにつかない選択に至った分岐までさかのぼった時、物語は静止をして、そこから別の可能的な世界の始まる予感が、わたしどもをらぶらぶせしめる。
繰り返される情景にあるほんのちょっとした差異と疾走する時流の停止。どこかでよく見る景色ではないだろうか。アレである。ギャルゲーの既読スキップが、分岐に至り時流を止める瞬間である。わたしどもは、経験済みの情景が異常な早さで通過して行くシナリオ工学上の壮大な無駄に苛立ちつつも、物語が停まった時、別の可能的な世界の到来に興奮する。「加奈の別な死に様が見られるぜ〜」とか「今度は雪さんを離さないぞお、らぶらぶだよ〜」等々。
映画や小説の様な線状の物語は、事象を繰り返し得ない世界である。同じ事象が再度展開されたとしても、前後の文脈によって、その情景には異なる解釈を鑑賞者は強いられ、だからこそ、可能的な未来の意味合いが重く切なく感ぜられると思われる。しかし、選択肢のある物語は、繰り返しうる情景を前提としてしまっているため、複数の未来が併走して世界の整合性を失いかねないし、なによりも繰り返しが可能的未来の重さをスポイルしてしまう。この事は、『あの、素晴らしい をもう一度』の感想で述べた。
ギャルゲーにあって問題とされる世界の整合性は、可能的な未来の物語をより巧妙に利用する事によって、あくまで物語の内に、完結できるかも知れぬ。シナリオ工学上の無駄に関してもまた然りかも。だが、ギャルゲーを、そこで経験し得た複数の未来の可能性を鑑賞者の思索の内にひとつの世界として昇華する物語の在り方[注]と見なすのなら、物語の内に整合を果たしてしまう可能な未来の束は、もはやギャルゲーとは呼べないのかも知れない。
[注]
都度雑記(ゲーム枠)の2003/09/11を参照。ただ、ちょっと注意を払っていただきたいのだが、わたしどもの文脈で使っている物語という言葉と、参照先で使われているそれには、意味の違いがある。わたしどもの云うところの物語は、「世界は活動写真である」と云う淀川長治の文脈に於ける「活動写真」に相当する様な広義なものであり、物語自体と云うよりもギャルゲーをしたと云う経験に対する感傷を指している。詰まり、可能な未来の束を終えた後に残る心象は、映画や小説を鑑賞した後のそれと、区別しうるものではないかと云う事を云いたかったのである。
「人格の成長と発見」の関連事。
競馬を中心に生活秩序が規定されている西尾の人生は、消費単位としての役割を除いて、社会的には既に終わっている。しかし、その倫理的側面は、彼の人生の潜在的な規定要因によって、わたしどもを転がらせしめる可能性に満ちている。
さて、わたしどもが「ケーキとパチンコ」に発見するものは、西尾の人生を規定してしまった不幸なイヴェントである。それはわたしどもの彼に対する人格観を覆すものであるととに、表層的には世俗と密接にリンクしつつも、わたしどもの住まう世界とは異なる牧歌的な物語としての『のたり松太郎』の世界像を、心地よく破壊する。
「ケーキ」によって連想の始まる西尾の回想は、トラウマの再現の標準的な手法と云って良い。そこで描写されるのは、終戦間際の炭坑で幸福な家庭生活を営む彼の“意外な人格”であり、そして、「息子が中耳炎で長崎の病院に行く」と云う危険なタームが飛び交った末に、わたしどもは彼と共に世界を発見する。
あざとい。しかし、このあざとさが素晴らしい。世界史なイヴェントは、彼に妻子を失いせしめただけではなく、その後の荒廃した人生をも規定したのである。
西尾の歩くラストカットの街並みには一種の感慨がある。異世界だったはずの景観がわたしどもの共同体を規定する連続した過去の大きな体系[注]の下に置かれていた。その発見が、わたしどもの心象の中で街並みの情景を大きく変えてしまったのだ。
[注]
所謂「大きな物語」。ちなみに、わたしどもは、この世界が未だ近代の真っ直中にあると考えているので、大きな物語が失われる云々の議論には余り実感がなかったりする。
「秋ですわ、おにいさま。思索に沈む季節ですわ。虫の音が死の予感を囁いて苛むのです」
「さうなんだよう。昨晩は殊に死ぬのが怖くて怖くて部屋の隅で震えていたら、絶望の朝がやって来たんだよ。後生だよ。助けて呉れ」
「大好きな人の隣に座っていれば、自我がやがて喪われる事なんてきっと忘れてしまいますわ。生体情報の継承に関わるエコロジーな帰結ですわ。だから、おにいさまは世界にらぶらぶを見出すべきだと思うのです」
「ぼくが君をらぶらぶしても、先天性色素欠乏症や内臓疾患で世界が満たされるだけで、エコロジーな帰結なんて意味がないんだ。みさき先輩の居ない世界に、ぼくの生きる価値はなかったんだよ」
「おにいさま」
「何だよう」
「大好きですわ」