HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録
| 第四章 礼儀の邦--モノからヒトへ |
これまでは、古来の伝聞や舶来の文物などによって発生した日本像をたどってみた。「神仙の郷」と「宝物の島」は、日本認識の基本パターン(先入観ともいえる)として、その後の各時代の日本像にも継承されている。
唐代になってあらたに市民権を得られた「礼儀の邦」という日本像は、「神仙の郷」にふくまれた「君子国」のイメージと無関係ではないが、独自な時代色をもはっきり反映させている。
唐宋時代から、海をわたって大陸に足を踏みいれた日本人は、めっきりと増えつづけた。遣唐使人だけでも、五〇〇〇人をこえると推計される。したがって、伝聞や舶来品のみに頼ることなく、生身の日本人に接して印象をうけるのが、この時代の日本像を作りあげる原動力となり、これまでにみられない特徴でもある。
唐代の日本像を論じるときに、玄宗皇帝から聖武天皇へ贈られた『日本国王に勅するの書』が、よく引き合いに出される。この勅書は、張九齢の『曲江文集』(巻七)に収められており、その冒頭に「日本国王主明楽美御徳に勅する。彼は礼義の国にして神霊の扶ける所である」とある。
「主明楽美御徳」は、いうまでもなくスメラミコト(天皇の古名)の音訳と思われるが、目をひくのは訳語にすべて佳字を選んでいることである。これは次の「礼義の国」の賞賛とも呼応して、唐王朝トップクラスの日本像を如実に表わしている。
石原道博氏は「唐から近隣の諸国へおくられた国書には、このように特別の敬意をあらわした文字はみえない」と指摘し、その原因を「大伴古麻呂のような遣唐使・留学生・学問僧たちに俊秀が多く、いずれも国家的自覚のもとに堂々たる外交・研修・求法などに精神をうちこんだ」ことに帰結している。(1)
しかし「神霊の扶ける所」などの表現によっても明らかなように、このような日本像は中日交渉の現実を反映するものでありながら、従来の神仙郷・君子国の影響をも少なからず受けついでいるのも事実である。
宋の政和六年(一一一六)、徽宗が日本に送った牒状に、日本のことを「東夷の長」と称し、つづいて「人は謙遜の風を崇め、地は珍奇の産に富む」(2)と礼賛しているのを見ると、「謙遜の風」と「珍奇の産」とがセットされ、新しい日本像の基盤となっている。