日本における中国暦法

――唐暦の東伝を中心として――

古代の東アジア世界において、中国の暦法はそれを受け入れる周辺諸国にとって、多様な意義を有することは、おそらく多言を要しまい。だが、従来の研究では、その科学技術としての側面は強調されてはいるものの、暦法の伝播にともなう政治的または文化的影響は必ずしも十分に検討されているとは限らない。 

一、「正朔は夏時に本づく」

　アジア大陸における秦漢帝国の出現は、あたかも中天に昇りつつある朝日のごとく、未開の暗闇にある周辺諸国に文明の日ざしをあたえ、中国を軸心とする文化圏の輪郭を描きだしたのである。

　秦漢から隋唐をへて宋明に至るまで、東アジア文化圏はさまざまな紆余曲折があったものの、しだいに成熟さを増していく。そして、各国に共有される多くの文化的要素は、相互の連帯意識をつよめ、世界に類例の少ない雄大な文明景観を生みだしたのである。北宋の宣和五年（一一二三）、徐競は勅命を奉じて高麗に遣われたとき、現地の文明景観を目のあたりにして、次のような感嘆を発した。

　　正朔は天下の治を統ぶる所以なり。儒学は天下の化を 美 ( かざ ) るなり。楽律は天下の和を導くなり。度量権衡は天下の公を示すなり。（中略）高麗は域が海島にあり、鯨波これを限り、九服の内にあらずと雖も、然れば正朔を禀受し、儒学を遵奉し、楽律は和を同じくし、度量は制を同じくす[1]。

　ここで、徐競は正朔・儒学・楽律・度量権衡の四つを文明度評価の指標にしているが、「正朔」をそれらの首位に位置づけている。さかのぼって、盛唐詩人の王維が朝衡こと阿倍仲麻呂に贈った送別詩にも、こう述べられている。

　　海東の国は日本を大とし、聖人の訓に服し、君子の風あり。正朔は夏時に 本 ( もと ) づき、衣裳は漢制に同じなり。歳を歴てまさに達せんとし、旧好を行人に継ぐ。滔天に涯なく、方物を天子に貢ぐ[2]。

　王維からみれば、正朔・衣冠・朝貢の三つは「聖人の訓に服し、君子の風あり」を具現する証拠であり、ここでも「正朔」をもっとも重要な象徴としている。

　ところで、古代の東アジアにあって、これほど重要視される「正朔」とは、いったい何を指しているのであろうか。たんなる語意から分析すれば、「正」は年の始まり、「朔」は月の初めであるが、二字を継ぎあわせると、日月星辰の変化に基づいて歳時節気を定める「暦」の意味になる。もしも文化学の視点から考察すれば、もっと深い意味の含蓄があり、王朝交替にあたって、重ねて正朔を定め、旧暦を改めて、皇権の象徴とすることがしばしば行なわれるからである。

　歴代の帝王は、疆域の開拓と新暦の頒布をセットして実施することが多く、空間と時間への占有欲をあらわにしているものと見なされる。逆にいえば、周辺民族はもし正朔を奉じるならば、中国帝王の支配する「時代」に組みこまれ、政治上は臣服を意味し、地理的には共通の文化圏に位置づけられ、経済においては朝貢貿易を許されることになる。

　明朝を開いた朱元璋を例にとってみると、一三六八年に玉座を手にするや、年号を「洪武」と定め、『大統暦』を天下に配る。この「新暦」は実のところ元朝の『授時暦』にそっくりだが、しかしそれでも開国皇帝なるプライドは朱元璋をして、名前だけを改めさせたのである。

　準備万端というところ、朱元璋はさっそく「招諭」の使者を周辺諸国に遣わし、新たな天子の誕生を天下にあまねく知らせ、世界秩序の再構築に意欲を示した。それを受けて洪武の初め、高麗・日本・琉球・安南・占城・真臘・暹羅・爪哇・三仏斉・瑣里などは相次いで朝貢使を送ってくる。明朝は諸国に王号を授けるとともに、『大統暦』を賜わって正朔を奉じるよう求めた。

　このように、古代の東アジア世界において、中国帝王による封号の授与と新暦の賜予とは、政治的には類似した意味あいを持つ行為と理解されてよかろう。ことばを換えれば、周辺諸国が中国の暦を用いることは、たんなる科学知識の受容だけでなく、「正朔を遵奉する」形で、中国王朝への臣服を意味し、中国文化への帰趨を表明するものでもある。

　日本の歴史を調べてみると、七世紀から一七世紀までの約一〇〇〇年間、中国の『元嘉暦』『儀鳳暦』『大衍暦』『五紀暦』『宣明暦』などを襲用していたことは明らかである。唐と明の数百年間をのぞいて、中国と朝貢関係がなかった期間も中華文明への傾倒は、暦の使用に示されるとおり持続していた。

この意味で、日本文明の発生と変遷は中国の暦によってその歴史を刻みこまれたとでもいえようか。なかんずく「唐暦」の影響はきわめて深遠なものであり、受容側の「嗜好」なるものをにじませている。 

二、中国における暦の源流

　考古資料と文献記録とによれば、中国はもっとも早く「暦」を発明し、それを実際に使用した国のひとつである。

文献資料では、『史記』（暦書）と『尚書』（尭典）には、�莚苳のころ「観象授時」をつかさどる「火正」の役職を設け、つづいて帝尭が「羲和」の官を任命し、四方に遣わして日月星辰を観察し、歳時節気を定めさせたとある。これこそ中国独自な「陰陽合暦」の雛型であると推察される。

　考古学の発見はこれらの文字資料を裏づけている。殷商の遺跡から出土した甲骨文にはすでに干支の使用が確認され、武乙時期（約紀元前一三世紀）の遺跡には六〇干支を整然と刻まれた牛骨が見つかり、研究者のなかでは世界最古の「実用日暦」と認定する意見もある。

　殷商時代から戦国時代にかけて、六種の古暦は前後して生まれていた。なかでも寅月（正月）を歳首とする夏暦は「建寅」とも呼ばれ、その影響がひろく東アジア諸国に波及していた。王維が日本を「正朔は夏時に本づき」と称え、『隋書』（百済伝）が百済を「建寅月を以って歳首とす」と記したところから、日本と百済はともに夏暦の流れを汲んでいることを知ることができる。

　戦国の乱世を収束した秦、それを受けつぐ漢、いわゆる「秦漢帝国」と称される統一王朝が興ると、暦法はめまぐるしい科学的な進歩を成しとげたと同時に、「五徳終始」や「天人感応」といった儒教思想とも合流し、「天命を受ける」という帝王の正当化と神秘化とに利用されるようになった。

　したがって、中国歴代の王朝にしばしば見られる改暦とは、必ずしも科学進歩のもたらした結果とは限らず、ときたま政治的な思惑がより鮮明に働いていることがある。その端的な例は、技術的には進んでいるはずの前王朝の暦をきらって、わざわざ時代遅れの旧暦をすこし改めて用いることである。また前王朝の暦を襲用する場合でも、現王朝の独自性と正当性を主張すべく、名前を変えて頒布することが多い。こうした事情は、中国の暦法を考察するときに無視できないものがある。

　殷商時代から明清時代まで、中国はずっと陰陽合暦を使っていた。歴代王朝の制定した暦は百種以上にのぼるけれど、それに含まれている名前だけのもの、施行に至らなかったもの、地方または民間の私暦に属するものをのぞけば、漢代より以後、正式に頒布し、しかも実際に施行されたものは、およそ五〇種くらいをかぞえる。

　中国暦法が発達し成熟するプロセスにおいて、つねに周辺民族の知識を積極的に学んでいた。たとえば、インドの天文学者だった瞿曇羅は唐に仕えて太史令（暦本を造る官署の頭）となり、彼を中心に編んだ『経緯暦』と『光宅暦』はインドの暦法に範をとっている。その子息の瞿曇悉達は勅旨を奉じてインドの『九執暦』を翻訳し、それに基づいて『開元占暦』一二〇巻を撰し、中国暦法の発展に大きく貢献した。また、元代の『回回暦』や明代の『崇禎暦』そして清代の『天経或問』など、いずれも外来文明の刺激を受けて作られ、まさしく文化交流の結晶たる名にふさわしい。

　北宋の元豊元年（一〇七八）のこと、ときの神宗皇帝は使用中の『奉天暦』になんらかの誤差が生じているとの報告を受け、司天監に遼国・高麗・日本の暦本を集めて、相互の異同を勘案して参考にしようと勅令をくだした。その結果、遼国と日本のは唐の『宣明暦』に符合し、高麗のは『奉天暦』にもっとも近いことを確かめたという[3]。この一例でわかるように、東アジア諸国の暦はそれぞれ種類や新旧の相違はあるものの、全体としては連動しているのである。

　最後につけくわえておくが、暦法を文字で表現するものは大きく二種類に分けられる。暦の原理を解明し、造暦の根拠を示すのは「暦書」であり、たとえば暦源・暦経・立成などがそれにあたる。暦書の計算法にしたがって毎年に作り直し、実用に供するものは「暦本」といい、具注暦・民用暦・七曜暦などを指す。周辺民族は主として中国の暦書を受容し、それに基づいてそれぞれの暦本を編み出すわけである。 

三、暦法東伝の道のり

　日本の上古には独自な暦はなかった。『魏略』は弥生時代の倭人について「その俗は正歳四節を知らず、ただ春耕と秋収を記して年紀と為す」と述べている。江戸時代に編まれた『大日本史』も「上古は民風淳朴にして、機智未だに開かず。これを以って暦数占測の術、未だそれあるを聞かず」と事実関係を認めている。

　七世紀の初めに、日本はまず遣隋使、つづいて遣唐使を出して通交を求め、隋唐を手本とする律令国家を建設しようとした。そして「大化改新」（六四五年）は、唐風模倣のテンポをさらに速めた。その成果として、六六八年に『近江令』、六八九年に『浄御原令』が制定され、翌年（六九〇）十一月には「勅を奉って始めて『元嘉暦』と『儀鳳暦』とを行う」ことになった[4]。こうして中国の正朔を奉じて、堂々と東アジア文化圏の一員になったのである。

　『元嘉暦』は南朝の何承天によって編まれたもので、劉宋の元嘉二十二年（四四五）に頒布された。『儀鳳暦』の名は中国の文献に見当たらず、もしそれが『麟徳暦』の別称とすれば、唐の李淳風によって作られたもので、麟徳二年（六六五）に施行された。『元嘉暦』と『儀鳳暦』の成立には二〇〇年以上の隔たりがあったにもかかわらず、日本では同時に使用されていたことは、百済を介して南朝文化を摂取する時代の終焉、隋唐から直接に文化を輸入する時代の始動といった過渡期的な出来事であると推量される。この問題については後ほど改めてふれることにする。

　『元嘉暦』と『儀鳳暦』の併用が公布されて間もなく、『大宝律令』（七〇一年）と『養老律令』（七一八年）が続けざまに制定され、律令の整備が着々と進められた。中務省内に置かれた陰陽寮は、唐の太占署と太史局の機能を持ち合わせ、天文・暦法・占卜などを職務としている。暦法に関しては、暦博士一名と暦生一〇名をかかえ、毎年の十一月一日前までに、翌年に使用する暦本を制作して、中務省を通して天皇に奏進し、その後さらに一六六巻を書写して中央諸司および地方官庁に配られる。八世紀から、日本は暦法の専門家を有し、毎年の実用暦本を独自に編纂することができたと推察される。

　ちなみに、天皇に奏進された暦本は「具注暦」と呼ばれるものであった。また仮名暦に対して「真名暦」とも称される。現存する最古の具注暦は正倉院に伝わる天平一八年（七四六）のものである[5]。それによると、暦日の下には干支・節気・吉凶などのが記され、その余白に日記を書きこむこともできる。具注暦につけた日記として有名なのは藤原道長の『関白御堂日記』である。

　天平六年（七三四）、一八年間の留学生活を終えた吉備真備は帰国し、唐の新暦『大衍暦』をもたらした。『大衍暦』は唐僧一行（本名は張遂）の手になったもので、開元一七年（七二九）に頒布された。この新暦は唐も使用中ということで、速やかに陰陽寮へ回され、暦博士の研究に供した。天平宝字元年（七五七）、孝謙天皇は『漢書』（律暦志）、『晋書』（律暦志）、『大衍暦議』、『九章』、『周髀』、『定天論』を暦生の必読書とする勅令をくだした。『大衍暦議』一〇篇は暦学の理論を解くもので、それを暦生の必読書とされる以上、暦博士がすでに教授できるほど内容を理解していることを意味する。果たして六年後（七六三）に『儀鳳暦』を廃して『大衍暦』が採用された。

　吉備真備による『大衍暦』の将来から、それに基づいて作暦が出来るようになるまで、じつに三〇年間の歳月を要したのである。ところが、『儀鳳暦』と『大衍暦』の交替劇が演じられる前年（七六二）に、唐ではすでに『大衍暦』を廃して、郭献之の作った『五紀暦』の施行が始まり、中日間の暦法の「時差」がふたたび開かれたのである。

　宝亀八年（七七七）、日本から約二〇年ぶりに、一六回目の遣唐使が出港して、唐に安着した。使節団に准判官をつとめた羽栗翼は、阿倍仲麻呂の�横人だった羽栗吉麻呂と唐女の間に生まれた混血児であり、四三年前（七三四）父にしたがって来日し、ときに一六歳であった。遣唐使の一員として久闊の生まれ故郷に帰った羽栗翼は、語学の才能を生かして盛唐文化のかずかずをむさぼるように吸収したのであろう。翌年（七七八）帰国後、勅命を受けて「朴硝」（漢方薬）を精錬し、程なく内薬正兼侍医に任ぜられた。

羽栗翼にとって、もうひとつ大きな入唐成果は唐で施行中の『五紀暦』を持ち帰ったことである。二年後の宝亀一一年（七八〇）、彼はこの新暦を朝廷に献上し「大唐は今『大衍暦』を停めて、ただこの経を用うるのみ」と報告した。翌年（七八一）光仁天皇はさっそく陰陽寮に『大衍暦』による造暦を命じたが、惜しくも当時「習い学ぶ人なく、業を伝うるを得ず」という状態で、旧暦の続投を容認せざるを得ない[6]。

それより七〇年あまり経った斉衡三年（八五六）とその翌年（八五七）正月、暦博士の大春日朝臣真野麻呂は、唐の開成四年（八三九）と大中三年（八四九）の暦本をもって『大衍暦』を勘案すると、「注する月の大小、頗る相謬るあり」を発見し、あらためて『五紀暦』の使用を奏請した。朝廷は『大衍暦』との併用を前提に、天安二年（八五八）ようやく『五紀暦』の使用を公認した。

『五紀暦』は日本に伝えられてから、解読されることなく八〇年間も放置されていた。それは平安貴族らの惰性にも原因があったろうが、文物の流通と知識の習得とに大きな時差があることを物語ってくれた。

日本で『五紀暦』を採用したころ、唐ではすでに七〇余年も前にそれを破棄していた。あくる貞観元年（八五九）渤海大使の烏孝慎ら一行は日本に到着し、唐の新暦『宣明暦』を献上した。陰陽頭に暦博士を兼ねていた真野麻呂が調べてみたところ、『五紀暦』より優れていることが判明し、新暦の採用を進言して許可され、貞観四年（八六二）に『五紀暦』を廃して『宣明暦』を用いることになった。

徐昂の撰んだ『宣明暦』は唐では八二二年に施行され、真野麻呂の進取的な建議によって、唐日における暦の「時差」を大幅に縮めたけれど、その後は日本から遣唐使の派遣はなく、日本人の手になった『貞享暦』（一六八四）が生まれるまで、『宣明暦』はなんと八〇〇年以上も襲用されていた。 

四、百済から日本へ

　日本に伝わった中国暦は、上述の『元嘉暦』『儀鳳暦』『大衍暦』『五紀暦』『宣明暦』のほか、唐の『符天暦』、元の『授時暦』、明の『大統暦』などを挙げることもできる。それらの暦についてほとんど文献資料によってその伝来経路をたどれるが、『元嘉暦』と『儀鳳暦』だけは「由来不明」とされる。

　前にもふれたとおり、持統天皇四年（六九〇）に「始めて『元嘉暦』と『儀鳳暦』とを行う」ことになったが、しかしそれは二暦がこの年に伝来したことを意味するものではない。また中国から直接にもたらされたとも限らない。

　暦法をめぐって、百済と日本の交流は少なくとも六世紀の中葉にまでさかのぼれる。『日本書紀』欽明天皇一四年（五五三）六月の条に、日本は新羅との紛争で苦しんでいた百済に対し、軍事援助を承諾する見返りとして、「医博士、易博士、暦博士ら（中略）また卜書、暦本、種種の薬物」を送るよう要請した。そして翌年（五五四）二月に、五経博士の王柳貴、易博士の王道良、暦博士の王保孫らをはじめとする一九名の来日が実現したとの記事がある。

　「博士」の肩書きをもつ高級インテリは百済でも重宝され、中国の史書によれば、六世紀の半ば、百済はしばしば中国の南朝に博士を求めていたことがわかる。たとえば、『梁書』（百済伝）は、中大通六年（五三四）と大同七年（五四一）の百済遣使について、次のごとく述べている。

しきりに遣使して方物を献る。並びに『涅槃』などの経義、『毛詩』博士並び工匠、画師などを請い、勅してあわせてこれを 給 ( たま ) う。

　これらの歴史背景に着目した一部の研究者は、百済から送られた博士や技術者には南朝系の人物がかなり含まれていると推測する。「王保孫」などの名前からみれば、彼らは韓人ではなく、南朝人かどうか定かでないが、少なくとも漢人の後裔であるといえよう。医学、易学、暦学といった高度な知識は、百済でも漢人系の渡来人に独占されていたらしい。

　王保孫その人の経歴は史書には記載がなく、詳らかではない。「暦博士」の肩書きを持っている以上、天文学や数学などに精通していると想像される。これらの深奥な専門知識を吸収できる受け皿は、六世紀の日本にすでにあったとは思われない。したがって、彼のもたらした知識と暦本は、皇室の飾りとなれても、日本文化に影響を及ぼした痕跡を見出すことができない。

　ところが、それより半世紀、百済僧の観勒が来日し、日本における暦の受容史に新たな一ページを開くこととなった。七世紀の初頭つまり推古十年（六〇二）十月の出来事である。『日本書紀』から当該記事を引用しよう。

百済の僧観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、并て遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生三四人を選びて、観勒に学び習わしむ。陽胡史祖玉陳、暦法を習う。大友村主高聰、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ。

観勒は天文や地理そして道教や玄学などに精通する博学の士のようで、陽胡史祖玉陳には「暦法」、大友村主高聰には「天文遁甲」、山背臣日立には「方術」をそれぞれ教授したとある。暦法を専攻した玉陳は名前によって渡来人系であると推察されるが、「皆学びて業を成しつ」とあるから、暦学に通じる日本人第一号となったのであろう。

　推古元年（五九二）四月、皇太子に立てられた聖徳太子は摂政として、天皇から「万機を以て悉に委」ねられた。太子は隋を手本とする国家作りにとりかかり、内政と外交を刷新する改革を断行した。その一環として、文明国の標識ともされる暦使用の必要性を痛感していたらしく、観勒来日の二年後（六〇四）に「始めて日暦を用う」ことに踏み切ったと、平安時代になった『政事要略』が伝えている。

　日本の学界では、持統四年（六九〇）とする『日本書紀』の記録を重視し、『政事要略』の記事に懐疑的な意見も少なくはない。しかし、聖徳太子による暦の施行は、観勒の暦本将来と玉陳の暦法習得といった背景によったものだけでなく、その前後に行なった『冠位十二階』（六〇三年）と『憲法十七条』（六〇四年）および遣隋使の派遣（六〇七年、ただし『隋書』には六〇〇年）など、国家の体裁をととのえる一連の事件と関連して考えれば、それなりの根拠があるわけである。

　ここで、ふたたび王保孫と観勒が百済から携えてきた「暦本」に注目しよう。六世紀のころ、百済では『元嘉暦』が施行されていたことは、『周書』（百済伝）によって窺われる。

　　俗は騎射を重んじ、兼ねて墳史を愛む。その秀異なる者は、頗る文を属るを解し、また陰陽五行を解る。宋の『元嘉暦』を用い、建寅月を以って歳首と為す。

　百済が南朝の梁から博士などの知識人を招聘していたことは『梁書』と『陳書』によって確かめられるが、『元嘉暦』はさらなる前の劉宋（四二〇〜四七七年）から輸入したもので、百済の滅びた六六一年まで用い続けられた。王保孫と観勒によってもたらされた「暦本」は『元嘉暦』と考えるのが妥当であろう。したがって、推古一二年（六〇四）に施行されたのも『元嘉暦』にちがいない。

　また「暦本」とは一年ごとに作り直される日暦のことで、今のカレンダーに相当するが、吉備真備や羽栗翼らの持ち帰った「暦経」とは次元の異なるものである。「暦経」によって毎年に「暦本」が造れるけれど、「暦本」だけなら一年の寿命で使い捨てになる。日本の歴史上、暦の「始行」が二回あるのは、おそらく「暦本」と「暦経」の相違に由来するものであろう。つまり、聖徳太子が始めたのは「日暦」であり、持統天皇のときに始めたのは「暦経」による自国製の「暦本」ではなかろうか。 

五、『儀鳳暦』のなぞ

　持統四年（六九〇）、日本は律令制度を整備する一環として、『元嘉暦』と『儀鳳暦』とを施行し、東アジア共通の時間と空間とに自らを組みいれようとした。これは推古朝の「日暦」使用とは本質的に異なり、たんなる知識欲や流行追随によるものではなく、暦法のもつ政治的な意義と文化的な含蓄とを理解したうえでの措置だと考えるべきであろう。それより以後、日本の歴史は確実に暦によって世界史のなかに刻みこまれることになったのである。

　両暦併用については、これまで疑問視されることが多く、江戸後期の藤田一正は『元嘉暦草』（一八〇〇年）の序文で、『日本書紀』の干支紀年を分析した結果、『元嘉暦』は推古一二年（六〇四）から持統五年（六九一）まで用いられ、持統六年（六九二）からは『儀鳳暦』に取って代わられたと指摘している。

たしかに『日本三代実録』にも「始めは『元嘉暦』を用い、次いで『儀鳳暦』を用う」という勅命があったことを告げているが、そうすると「併用」とは言えなくなる。『元嘉暦』と『儀鳳暦』はそもそも時間計算のシステムが異なり、つまり前者は平朔、後者は定朔を採用しているから、同時使用は不可能に近いといわれている。

ところが、近年の研究によっていくつかユニークな見解が提示されている。内田正男氏は『日本暦日原典』（雄山閣、一九七五年版）において、持統六年（六九二）から文武元年（六九七）までは暦日について『元嘉暦』を主として用いるが、両暦併用の意味は、月朔は『元嘉暦』により、日食予報は『儀鳳暦』に依拠したことなのだと主張している[7]。

　新暦の採用にあたり、伝統を受けつぐ意味で、しばらく旧暦をつづけることは、『大衍暦』と『五紀暦』との交替にもみられ、日本文化の特徴のひとつと認められるかもしれないが、しかし『元嘉暦』と『儀鳳暦』の併用と交替とは、七世紀における日本文明の方向転換を示唆する事件とも見受けられる。つまり、百済を経由しての南朝文化から遣唐使による北方文化の受容に針路を切り替えるということである。したがって、南朝の旧暦を捨てて新しい唐暦を用いることは、歴史の自然な成り行きでもあった。

　ただし問題となるのは、日本で初めて採用された唐暦こと『儀鳳暦』は、その名を中国の文献に見出せないことである。これに対して従来、『儀鳳暦』は『麟徳暦』の日本における呼び名とする説、『麟徳暦』は儀鳳年間（六七六〜六七九）新羅に伝わったため『儀鳳暦』と呼ばれたとする説、『麟徳暦』は中国で儀鳳年間に『儀鳳暦』と改称されたとする説など、さまざまな解釈は行なわれてきた。

　『三国史記』（新羅本紀）文武王一四年（六七四）正月の条に、「入唐して宿衛する大奈麻徳福、暦術を伝学して還り、改めて新しき暦法を用う」とある。この「新しき暦法」とは『麟徳暦』（中国での施行期間は六六五〜七二八年）にまちがいなく、ことは儀鳳年間より以前であり、「新羅命名説」は成り立たない。

　「日本命名説」は中国暦を採用する歴史をふりかえってみれば、こうした類例はなく、また『儀鳳暦』を最初に採用したとある持統四年（六九〇）はすでに儀鳳年間より以後であり、わざわざ「儀鳳」の旧年号をもって『麟徳暦』を改名する必然性はない。

　それでは、「中国改名説」はどうか。唐代ではさまざまな暦が頒布されている。『新唐書』は『戊寅元暦』『麟徳暦』『大衍暦』『五紀暦』『正元暦』『観象暦』『宣明暦』『崇玄暦』の八部をあげているが[8]、さらに『旧唐書』の記録した『景龍暦』『光宅暦』『至徳暦』を入れると、十一部となる。これらの暦は、旧暦に新味を加えたものがあれば、名前だけを変えたものもあり、また頒布したものがあれば、施行に至らなかったものもある。

　そのうち、『光宅暦』と『景龍暦』は、どちらも『麟徳暦』の施行中に、改元にともなって命名したもので、実際に施行された痕跡はない。こう考えると、『儀鳳暦』も類似のケースに属する可能性を否定できなくなる。つまり、『光宅暦』や『景龍暦』と同じように、儀鳳年間に『麟徳暦』を『儀鳳暦』に改称したのかもしれない。

唐では技術的な進歩がみられ、実質的に施行されていたのは『麟徳暦』『大衍暦』『五紀暦』『宣明暦』の四暦であり、その他の七暦はいずれも有名無実で、施行中の暦に対して形式だけをいくらか変装したものばかりである。しかし無視できないのは、「改称」といい「変装」といい、これらの七暦が施行に至らなくても実在していたことである。況してや『旧唐書』によれば、『光宅暦』『至徳暦』は一時的に施行されたことさえある。

　ここで、九世紀末になった『日本国見在書目録』を調べると、驚くべき事実に遭遇する。そこに「『麟徳暦』八、『儀鳳暦』三」と著録されているからである。『儀鳳暦』三巻は『麟徳暦』八巻と併記されており、両者の調巻も異なるから、『儀鳳暦』を日本や新羅での命名とする諸説は当たらず、中国での「改称」（正しくは「変装」）とする愚案を支持してくれる。

　日本の学界では、『麟徳暦』は儀鳳年間に新羅に伝わったため『儀鳳暦』と称し、日本は新羅からそれをもたらしたため『儀鳳暦』の名を襲用したとするのは、ほぼ定説となっている。しかし、前にふれたとおり、『儀鳳暦』は儀鳳より以前の咸亨五年（六七四）に新羅へ伝わって施行され、『儀鳳暦』と命名することは不可能である。また『三国史記』や『三国遺事』などの新羅資料にも『儀鳳暦』の名は見当たらない。さらに日本が新羅から『儀鳳暦』を入手した記録もない。

　新羅伝来説を支持する背景には、儀鳳年間（六七六年一一月から六七九年六月まで）遣唐使の派遣はなく、新羅との使節往来が頻繁だったという事実がある。しかし遣唐使の派遣がないからといって、中日間に人間の往来もなかったとは限らない。

『日本書紀』と『三国仏法伝通縁起』によれば、留学僧の道光は白雉四年（六五三）五月に吉士長丹を大使とする二回目の遣唐使船で渡唐し、二五年間にわたって律学の勉強に励み、天武七年（六七八）に帰国したという。天武七年はまさしく唐の儀鳳三年にあたり、道光の持ち帰った数多の書物のなかに『儀鳳暦』三巻がふくまれているのだろうか。　

新しい史料の発見を期待しつつ、今の段階ではこう推測するほかない。

中国暦法東伝略年表（案）