東アジアのブックロード

――「三経義疏」の流伝をめぐって――

一、シルクロードとブックロード

　シルクロードのことなら知っているが、「ブックロードとは何か」と首をかしげる方は、おそらく少なくないだろう。この耳新しい用語は、東西間を結ぶシルクロードに対して、東アジアにおける文化交流の特質を捉えようとして、筆者が提唱した概念である。

　周知のとおり、シルクロードは英語でいうSilk　Roadのことであり、十九世紀後半、ドイツ人のリヒトホーヘン博士によって唱えられ、最初は西域への交通路を開いた張騫が没した紀元前一一四年から約二五〇年間の中央アジアの交易ルートを指していたが、その後ヒルト氏やヘルマン氏らによって、東西を結ぶ貿易路全般に広げられた。

　今やシルクロードといえば、東西間の貿易にかぎらず、シルクに象徴される中国文物の伝播ルートを広く呼びならわす感がある。そして、中日間の交通路に関しては、それを西域につながる「砂漠のシルクロード」と区別して、とくに「海上のシルクロード」と称することは、ほぼ定着しているようだが、筆者はそれに強い違和感を持つのである。

　そもそも、シルクロードは文字どおり「絹の道」であって、その主役はシルクの売買から利益を得ようとした貿易商人なのである。東アジアの歴史をふり返ってみると、九世紀以降から唐商人と新羅商人の活躍が目立つようになってきたが、日本では前近代を通じてシルクを目当てにする海商集団は、ついに現われなかった。遣唐使時代には、織物類はむしろ日本から持ち出すものであって、メインの輸入品ではなかった。

　したがって、中日間の文化交流を考察するにあたり、中国と西域との交易実態を捉えた「シルクロード」という概念を安易に導入すると、古代の東アジア世界における交通の本質を見失ってしまう恐れがある。

　シルクは中国に起源して世界各地に伝わったが、日本をふくむ東側諸国に伝わって、西側諸国には殆ど伝わらなかったものがある。それは、ほかならぬ漢文の書籍である。書籍を媒介とするブックロードは、西洋でいうシルクロードとは異なる景観を呈し、「交易」以上の深い意味合いを内包しているのが特徴である。

漢の武帝が紀元前一〇八年に衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡を設置してまもなく、中国と朝鮮半島の間に最初のブックロードが拓かれたと考えられる。五世紀末ごろから六世紀初めにかけて、『千字文』と『論語』をもたらした王仁の伝承をはじめ、百済人が書籍を日本にもたらしてきた記事が記紀などに多く拾われ、中日間のブックロードが百済を介して開通されたことがわかる。

ここで注意すべきは、百済は中国の南朝、とくに南朝の梁から文化を受けとっている事実である。六世紀の半ばごろ、百済はしきりに梁へ使節を送り、仏典や儒書および博士などを求めた。[i]それとほぼ同じ時期に、百済から五経博士が定期的に日本へ遣わされ、南朝文化を受け売りしていた。[ii]

ところが、推古天皇十年（六〇二）に「暦本及び天文地理書並びに遁甲方術の書」（『日本書紀』）を将来した百済僧観勒の来日を境目に、百済経由の書籍伝来は殆ど見られなくなり、遣隋使と遣唐使がブックロードの主役となってくる。間接ルートから直接ルートへの切り替えは、書籍の流通を加速させ、奈良文化の開花につながったと思われる。

七世紀から九世紀にかけて、唐王朝に使節団を送りこんだ国家（民族）は五十以上に達する。そのなかで、東アジア諸国のように書籍を熱心に捜し求める遣唐使は、他に殆ど類例はない。唐の詩人白居易は『白氏文集』の写本流布について、長安・洛陽と並んで、日本と新羅を挙げている。[iii]また『遊仙窟』の著者として知られる張文成の場合も、新羅や日本の使節が入唐するたびに、大金をなげうってその文集を買い求めたという。[iv]

そもそも、遣隋使の渡航目的は、『経籍後伝記』に「小治田朝（今案ずるに推古天皇）十二年（中略）この時、国家に未だ書籍多からず。ここに小野臣因高を隋国に遣わし、書籍を買い求めしめ、兼ねて隋天子を聘う」[v]とある通り、書籍の請来にあった。

その後を受けついだ遣唐使も当然のことながら、書籍請来の使命を負わされていた。『旧唐書』（日本国伝）は、開元（七一三〜七四一年）の始めに来朝した遣唐使について「得る所の錫賚、尽く文籍を市い、海に浮かんで還る」と特筆し、朝衡こと阿倍仲麻呂についても「書籍を好む」と賞賛している。[vi]

唐王朝からの「錫賚」こそ西域の使節らが狙う陶磁器、金銀器、織物類だったと思われるが、日本の遣唐使がそれらを書籍に換えたということは、シルクロードの貿易商人とブックロードの文化使節の相違を浮き彫りにした顕著な事例と言えよう。

もしもシルク（織物）を中華の物質文明の精華に譬えれば、ブック（書籍）はまさしく中華の精神文明の結晶である。物質文明はファッションのように流行っては廃れるが、再生能力を潜めた精神文明は時空を超越して、受容者に創造力を与える。したがって、シルクを大量に消費したヨーロッパ諸国はおよそ五百年間、シルクを自製できなかったが、書籍から学びとった知識を生かした日本は、中国そっくりの文明を自ら創りあげたのである。

書籍を媒介とした交流によって、東アジア諸国はそれぞれ同質の文明を築きあげ、漢字文化圏を共有するようになった。ここに至って漢文書籍は、もはや国家や民族に縛られることなく、まるで生き物のように越境しては新天地に種を蒔き、根をおろし、花を咲かせるのである。つまり、ブックロードは一方通行でなくなり、東アジアを舞台に、往復または環流の盛況を呈するようになるのである。

本稿では、聖徳太子撰と伝えられる「三経義疏」を例として、ブックロードによって書籍がいかに生まれ、どんな旅をして生存空間を広げ、新天地に何を生み出したかを追跡したい。 

二、「三経義疏」の著者

　「三経義疏」とは、『勝鬘経』『維摩経』『法華経』という三経典に対する注釈書の総称で、聖徳太子（五七四〜六二二）の作と伝えられ、奈良時代以降、聖徳太子の宮号から「上宮疏」とも呼ばれている。

　『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、『勝鬘経義疏』一巻は六一一年、『維摩経義疏』三巻は六一三年、『法華義疏』四巻は六一五年に、それぞれ撰述されたという。右の三疏は現存する日本人が書いた最初の漢文典籍として知られ、その成立は『古事記』（七一二年）と『日本書紀』（七二〇年）よりも約百年も早く、日本文化史において大きな意義を有する。

　「三経義疏」の作者について、従来より中国僧、朝鮮僧、渡来僧によるものだとの諸説がある。しかし、奈良時代から広く流布している聖徳太子著述説には、多くの証左があり、簡単には否定できない。[vii]

　（一）聖徳太子が『勝鬘経』と『法華経』を講じたことは、『日本書紀』推古十四年（六〇六）七月条などに記され、類似した記録は『上宮聖徳法王帝説』『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』『延暦僧録』（上宮皇太子菩薩伝）にも見える。講経のことが事実だとすれば、そのときのメモ類などを基礎にして義疏を作ったこともあり得るであろう。

　（二）講経の翌年（六〇七）七月、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣する。遣隋使の使命について、『経籍後伝記』のほか、『延暦僧録』（上宮皇太子菩薩伝）と『宋史』（日本伝）は、それぞれ「先世に持誦する『法華経』七巻を取る」、「『法華経』を求む」と記している。花山信勝氏は、「上宮王が講賛したものを『義疏』として書き残すための参考書や、紙、筆、硯、墨等を、朝鮮経由ではなく、直接隋本国に求めんがための遣隋ではなかっただろうか」と推論し、傾聴に値する見解である。[viii]

　（三）国宝と指定された法隆寺旧蔵の『法華義疏』稿本の内題撰号に「此是大委国上宮王私集非海彼本」とあり、本文の書体は六朝（または隋）の遺風をとどめている。[ix]専門家による書写年代の鑑定によれば、推古朝（五九三〜六二三年）を降らない時期のものとされる。文中に添削修正のあとが随所に見られ、太子が最晩年まで推敲を続けていた未完の草本とみる意見もある。[x]

　（四）「正倉院文書」を調べると、『経疏検定帳』（七四七年）、『写経所解』（同上）、『本経疏奉請帳』（七四九年）、『写疏布施勘定帳』（七五一年）、『経疏出納帳』（七五三年）、『奉写章疏集伝目録』（同上）、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』（七四七年）、『法隆寺東院伽藍縁起資財帳』（七六一年）などに『法華義疏』と『勝鬘経義疏』が「上宮撰」と明記されている。また右の二書は奈良時代にあって、智光の『浄名玄論略述』、寿霊の『華厳五経章指事記』、唐僧法進の『沙弥十戒并威儀経疏』に「上宮疏」として引用もされている。

　（五）「三経義疏」は、その著述過程において、大陸と朝鮮半島の仏教学の成果を参考にし、とくに南朝梁の三大法師に基準を求めている。すなわち、『勝鬘経義疏』は荘厳寺の僧旻の学説を、『維摩経義疏』は僧肇の『注維摩詰経』十巻を、『法華義疏』は光宅寺の法雲による『法華義記』八巻をそれぞれ「本義」として依拠している。引用図書から分析すると、「三経義疏」は中国南朝仏教学の伝統を受けつぎ、完成年代は隋唐時代の章疏類が日本に伝来する前と推定される。

　（六）『法華経』は全部で六種の漢訳本があるが、現存するのは西晋の太康七年（二八六）竺法護訳『正法華経』、後秦の弘始八年（四〇六）鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』、隋の仁寿元年（六〇一）達磨笈多訳『添品妙法蓮華経』の三種である。後世にもっとも広く流布した『妙法蓮華経』は、もと七巻二十七品だったが、隋唐時代に『提婆達多品』と『普門品偈頌』を加えて八巻二十八品になった。『法華義疏』が七巻二十七品の原訳に依拠し、八巻二十八品の増益本が日本に流布する以前に成書したことはわかる。

　上述した諸事情を総合的に勘案して、「三経義疏」の成立は、ほぼ隋唐の交代期、文中に数多く見られる「私訳」「私意」「私懐」などの著者の意見、漢文規範にそぐわない箇所（いわゆる「和臭」）が散見するところから、中国人による漢文ではないと推測される。さらに聖徳太子による仏教の普及発揚、仏典講賛や寺院建立、書籍入手のための使節派遣などのさまざまな歴史的事績から、奈良時代から伝承されている聖徳太子執筆説、国宝『法華義疏』稿本の太子自筆説は、一蹴されるべきではない。

　「三経義疏」の撰者をめぐって、学界ではさまざまな議論が交わされているが、諸説の分岐点の一つは、「撰者」を定める基準の相違にあるように思われる。古代の東洋社会においては、個人の独創的精神はあまり尊重されず、集団的成果は支配者やパトロンの名によって世に出されることが多い。したがって、近代歴史学の原則をもって古典籍の帰属を決めることは、必ずしも正しいものとは言えない。

　『聖徳太子伝暦』には講経の記事につづいて、「二件の経、太子、義疏を略製して、未だに流通することあらず。高麗の恵慈法師已下、各々講場にありて、その得る所を諮る。太子、取舎して、その正理に合わす。これより始めて究竟の意あり、後年に製り竟る」と記されている。

　以上によって、聖徳太子が百済を経由して伝わってきた南朝系の書籍をたよりに、講経の草稿をあらかじめ用意し、渡来僧の意見を聞きながら改訂を行ない、さらに遣隋使を出して必要な参考書を取り寄せ、「三経義疏」をまとめたと推察される。 

三、『法華義疏』の海外伝播

　高句麗僧の恵慈（「慧慈」ともいう）は、推古三年（五九五）聖徳太子の「内教」（仏教）の師として招聘され、百済僧の恵聡とともに「三宝の棟梁」と仰がれた。聖徳太子は講経と義疏の著述過程において、つねに疑問点を師の恵慈に尋ね、互いに研究しあって「三経義疏」の完成に心血を注いでいる。

　『法華義疏』は推古二十年（六一五）四月十五日に完成。同年十一月十五日、任期が満了した恵慈は「上宮疏」を携えて高句麗に帰国した。『上宮聖徳法王帝説』に「慧慈法師、上宮御製疏を齎ちて、本国に還帰りて流伝う」とあり、これは「三経義疏」の海外伝播に関する最初の記録である。

『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、慧慈は『法華義疏』を持ち帰っただけでなく、高句麗でそれを講釈して宣揚していたらしい。その記事をかいつまんで紹介すると、以下の通りである。

義疏の作成にあたり、不明の箇所があると、夢のなかに金人が現われ、不明の箇所を教えてくれる。太子は了解し、それを恵慈法師に伝える。法師は「不思議」を連発し、「未曾有」と感嘆して、それを「上宮疏」と呼んだ。また弟子たちに「この義、非凡なれば、本国に持ち還りて、聖趣を伝えんと欲す」と語った。そして庚辰年（六二〇）四月、この本を持ち帰り、故国で講釈したという。

　『上宮聖徳法王帝説』と『上宮聖徳太子伝補闕記』は、恵慈が持ち帰ったものを「上宮疏」と記している。しかし、前後の文脈から推定して、これは『法華義疏』を指すものと思われる。ちなみに成立年代の比較的新しい『聖徳太子伝記』（一三一八年）には『法華義疏』と明記されている。

　　　恵慈法師（中略）維桑の思ありて辞を告ぐ。太子作る所の『法華』の疏を乞いて、御形見と為す。（中略）その後、慧慈法師は高麗に帰り、彼の『法華』の疏を講談して、人民を教化す。

　「三経義疏」は日本人の著わした最初の漢文典籍で、さらに朝鮮の学僧たちが心血を注ぎ、恵慈あるいはその他の半島の僧俗は、その時代の日本仏教学の最高水準を示す『法華義疏』を本国へ持ち帰って流布させたということは、これまた簡単には否定できない事実であるかもしれない。

　恵慈の帰国に先立つこと十三年、小野妹子は留学僧数十人を連れて隋に渡り、書籍を求めるとともに、聖徳太子の講経草本を中国にもたらしたという伝承がある。いわゆる「南岳取経伝説」のなかに、これと関連する内容がふくまれている。

『聖徳太子伝暦』によれば、推古十五年（六〇七）中国南方の衡山にたどりついた小野妹子は、太子の講経と製疏の事績を宣伝し、『法華経』を入手したという。さらに推古二十三年（六一五）の条に「夏四月十五日、『法華経』を製り竟る。この経疏、前より製了りて、漢土に伝えり」とあり、恵慈が高句麗に持ち帰ったのは四巻本の「上宮後疏」で、その前に出来上がっていた五巻本の「上宮前疏」はすでに中国に伝入していたという意味である。

もしも小野妹子が推古十六年（六〇八）二回目の遣隋に五巻本『法華義疏』を中国に持参したことが確実ならば、四巻本『法華義疏』（六一五年）の成立より七年も早く、宮中における講経からわずか二年に過ぎない。おそらく講経時の草稿のたぐいに属するものではなかろうか。

　五巻本『法華義疏』が依拠した本経は「小野妹子将来経」と伝えられ、もとは「斑鳩文殿」（法隆寺東院）に伝蔵され、今は東京国立博物館に所蔵されている国宝『細字法華経』と呼ばれるものである。[xi]

　それは七巻二十八品の巻子本で、巻末の跋に「長寿三年六月一日に抄し訖る。写経人、雍州長安県人の李元恵、揚州に於いてこの経を敬告す」とある。唐の長寿三年（六九四）、衡山の僧侶と俗人ら数人が来日し、法隆寺を訪れて中国に流布する五巻疏の本経を求めようとした。この記事は『聖徳太子伝私記』に見える。

持統天皇八年甲午、唐土衡州の僧俗は来朝す。彼の国の長寿三年なり。彼の僧、鵤僧寺に詣り、尋ねて曰く「此の朝の聖徳太子の五巻の『義疏』、我が国に流布す。その旨甚だ深く、尤も依用する所なり。而してその本経、必ずや当寺にあるべし。望まくは、披見せしめたまわん」と。

　以上のように、われわれは東アジアにおける『法華義疏』の海外伝播をめぐるさまざまな伝説を検討してきたが、残念ながら信憑性の高い史実に至ることはできなかった。しかし伝説には往々にして史実が潜んでいるものである。現存する『法華義疏』稿本の内題撰号にある「此是大委国上宮王私集非海彼本」の書体は本文と明らかに異なり、後人の補記であることに疑いはない。

　長沼賢海氏は、これに対して、奈良時代この本は唐朝に送られたが、中国の典籍と区別するために、わざわざ作者の国籍を明示したのであり、その後こうした撰号はまた稿本に移記されたと分析している。[xii]

　この推測は比較的妥当なものであろう。『法華義疏』の稿本にはこの撰号があり、現存する『勝鬘経義疏』の巻頭にも同様の撰号がある。ちなみに海外輸出の事実がなかった『維摩経義疏』にはその撰号は見えない。[xiii]

　幸いなことに、八世紀の後半になると、入唐僧が「上宮疏」を携えて西渡したことは、すでに信頼できる文献に記載されていたので、この問題に対する検討は、いよいよ実証的考察の段階に入ることが可能となったのである。

四、『勝鬘経義疏』の中国流入

　唐の大暦七年（七七二）、入唐僧の誡明（戒明）と得清（徳清）[xiv]ら八名が揚州に至り、『法華義疏』四巻、『勝鬘経義疏』一巻を龍興寺の大徳霊祐に献呈した。揚州法雲寺の天台僧明空は、何らかの経緯で『勝鬘経義疏』を入手し、それに注釈をつけて『勝鬘経疏義私鈔』一巻を著わした。序文には次の一節が述べられている。

　　　その疏、大暦七年に日本国の僧使、誡明・得清等の八人、『法華疏』四巻を兼ねて揚州に将来し、龍興寺の大徳闍梨霊祐に与う。（中略）疏に注して云わく「海彼の本に非ず」と。

　明空は「海彼の本に非ず」の意味について、中国と新羅にそれぞれ先行の『勝鬘経疏』があり、それらと区別するために、上宮王あるいは他の日本人がわざわざ撰号を加えたと解釈している。つまり、この撰号は『勝鬘経義疏』を海外に流布させる意思表示のようなものである。[xv]

　誡明その人について、『シルクロード往来人物辞典』は「遣唐留学僧。七七二年（宝亀三）得清と共に入唐した。あるいは戒明と同一人か」と記し、「戒明」の項目には次のように述べている。[xvi]

入唐留学僧。華厳宗。大安寺僧。俗姓凡直氏。讃岐の人。若くして大安寺慶俊に師事して華厳教学を修め、留学僧に選ばれて、遣唐大使藤原清河を迎える七五九年（天平宝字三）の迎使高元度か、七七二年（宝亀三）帰国の渤海使に伴われて入唐したらしい。七七八年（宝亀九）十一月に帰国し、内典や宝志公十一面観音像などを請来した。請来した仏典のうちに偽経と判断された経典があったことから、筑紫の国師となり、中央仏教界より遠ざかって行った。生没年は明らかでない。

　戒明の入唐年次について、七五二年から七七八年までとする諸説があるが、もしも誡明と同一人物だとすれば、宝亀三年（七七二）までに入唐していたことになる。ここで参考となるのは、得清の事績である。大中七年（八五三）求法のため入唐した円珍は『大毘廬遮那成道経義釈』を持ち帰った。のちに『大毘廬遮那成道経義釈目録縁起』を著わし、中国伝入の諸本を列記したなかに、得清がもたらした十四巻本の『大毘廬遮那成道経義釈』に言及している。

余の聞く所の如く、件の『義釈』の大唐より我が国に来るは且つ五本あり。今見るに四あり。所謂る西大寺得清大徳或いは徳の字と書くの請来する一十四巻大暦七年に唐に到り、未だ帰年を委らかにせざるなり、次に高雄寺或いは神護と名づく空海和尚の本二十巻貞観二十一年に唐に到り、大同元年に帰朝す、次に当寺慈覚大師の本一十四巻開成三年に唐に到り、承和十四年に帰朝す、次に余の齎来する本一十巻大中七年に唐に到り、天安二年に帰朝す。また聞くに平安城の山階寺或いは興福と名づくに一本ありと、これ玄�遭師入唐して将来するなり。

　右文によって、得清は奈良西大寺の「大徳」で、大暦七年（七七二）入唐して『大毘廬遮那成道経義釈』を携えて帰国したことが明らかになった。その入唐年次は『勝鬘経疏義私鈔』に記された誡明ら一行の揚州到着時期と一致する。したがって、得清を「徳清」とも書くように、誡明と戒明はおそらく同音異字の同一人物と見るべきであろう。

ところが、残った問題は、天平宝字三年（七五九）と宝亀八年（七七七）には遣唐使が派遣されているが、宝亀三年（七七二）には遣使の記録がないということである。

　中日の史書を調べたところ、渤海国の大使壱万福ら一行三二五人が宝亀二年（七七一）来日し、翌年二月に帰国したが、途中ながら不幸にも遭難し、生き残った乗員はその年の九月に日本に漂着していることがわかった。東野治之氏は「日唐間における渤海の中継貿易」という視点から、この事件に対して次のように論述している。[xvii]

得清らの入唐年次は宝亀三年であって、まさしく壱万福一行の帰国した年と合致する。壱万福一行は、二月に帰途について後、一部が九月に漂回しているが、得清らは一行のいずれかの船で無事渤海に渡り、その年の内に唐へ入ったものと考えられる。この場合渤海は僧侶の留学を仲介しただけではなく、『法華義疏』『勝鬘経義疏』の唐への流伝をも媒介したことになる。また得清がどのような経路で帰国したかは不明だが、間接的にもせよ、得清による『大毘廬遮那成道経義釈』の将来に一役かったといってよい。更に得清とならんで現われる誡明が、入唐僧戒明と同一人であるとすれば、戒明による『釈摩訶衍論』等の将来も、渤海とは無縁でなかったといえるであろう。

　東野治之氏の推定によれば、得清らは大暦七年（七七二）二月に帰帆した渤海使の船に同乗して順調に渤海に到着したあと、その年さらに渤海使にしたがって入唐したことになる。

『旧唐書』（代宗本紀）と『冊府元亀』（外臣部・朝貢五）を見ると、大暦七年（七七二）十二月に渤海使の入唐朝貢があったことを確かめることができるが、日本国の遣使来訪の記録はなく、得清らが渤海使にしたがって上京朝献した事実がなかったことを物語る。

　筆者は以下のように推測する。誡明と得清らは渤海をへて入唐留学しようとし、渤海使壱万福らの帰国船に送使として同乗した。しかし、その船団は海難に遭遇し、中国の揚州海岸に漂着し、そこで「上宮疏」を龍興寺の霊祐に贈呈することとなった。

　揚州滞在中、得清らは渤海使の送使を兼ねていたので、「日本国の僧使」と見なされたのであろう。このあと、渤海使は北上して長安に入り、誡明らは『延暦僧録』（智名僧沙門釈戒明伝）によれば、金陵に足を伸ばし、「傅大士の影」「瑯�巳王家の大墓」「志公宅」などを参拝したという。

　『勝鬘経疏義私鈔』を唐にもたらした誡明らにとって、中国から書籍を持ち帰ることこそ入唐の主要目的だったに違いない。得清の請来した『大毘廬遮那成道経義釈』は他本よりも優れているため、最澄が二回にわたって書写し、自らの「披覧」に充てていたが、[xviii]誡明の持ち帰った書籍は図らずも彼に災いをもたらしたのである。

『延暦僧録』（智名僧沙門釈戒明伝）によれば、誡明がもたらした『大仏頂経』が、宝亀十年（七七九）偽経として斥けられ、多くの僧は焼毀を奏請したが、誡明は「唐の大暦十三年に、広平皇帝（代宗）親ら僧を請いて、『大仏頂経』を講ぜしむ」ことを理由に連署を拒否したという。このことから、大暦十三年（七七八）年を誡明の帰国年次の下限とすることができる。遣唐使年表を調べてみると、この年に第十六次遣唐使が帰国しており、誡明らはこのとき乗船して日本に帰ったと思われる。

誡明の悲運はそれだけに終わらず、彼の請来した『釈摩訶衍論』も「文人の首」と崇められる淡海三船から「偽経」と判定された。淡海三船は「宝亀十年閏五月二十四日」の日付で誡明に書状を送り、「一昨に使至り、唐より新来する『釈摩訶衍論』を垂示す。名を聞く初めに、龍樹の妙訳を喜ぶ。卷を開く後に、馬鳴の真宗を穢すを恨む。今検ずるにこの論、実に龍樹の旨にあらず、これ愚人菩薩の高名を假りて作る所なり」と「偽妄作」を決めつけ、世間に恥をかかせぬよう偽経を「早く藏匿」することを忠告した。[xix]

偽書とされるものは流通を阻まれるが、それはあくまでも例外であり、ブックロードによって運ばれた書籍の多くは、単なる物理的な空間移動でなく、化合反応を伴って再生の旅を独り歩きするのである。『勝鬘経義疏』から生まれた『勝鬘経疏義私鈔』は、まさにその顕著な例である。 

五、『勝鬘経疏義私鈔』の流伝

　唐僧明空による『勝鬘経疏義私鈔』は、「邦人の書に対する唐人の末釈として他に其の例を見ざる所なり」（『望月仏経大辞典』）と高く評価されているにもかかわらず、専門の研究書どころか、それをテーマに扱った論文さえ見当たらないのが現状である。[xx]

　書籍はシルクのような消耗品と違って、一粒の種子のごとく、書写や版刻そして印刷によって、無数に増殖することが可能である。それがゆえに、『勝鬘経疏義私鈔』には種本となる数種の活字本・版本・写本が現存している。次に、筆者の調査したものを活字本・版本・写本の順で簡略に紹介しよう。

　（一）『大日本続蔵経』所収、大正元年（一九一二）活字本。『勝鬘経』、『勝鬘経義疏』と合わせて六巻をなす。

　（二）『大日本仏教全書』所収、大正三年（一九一四）活字本。六巻に分かれて、巻末に「貞享三年丙寅年仲春日、井上治右衛門版刻」との刊記がある。

　（三）比叡山求法寺南渓蔵、貞享三年（一六八六）版本。この本が『国書総目録』に挙げられているが、実見のところ、書名は『倭漢合註勝鬘経疏義私鈔』となっている。二冊六巻をなし、刊刻者は井上治右衛門、『大日本仏教全書』所収本の祖本である。

　（四）龍谷大学蔵、元禄九年（一六九六）版本。『国書総目録』には刊年不明の版本として龍谷大学蔵本を挙げている。実見の結果、書名は『勝鬘経疏義合註』となっており、『勝鬘経』、『勝鬘経義疏』と合わせて六冊六巻をなし、『大日本続蔵経』の祖本と判定される。刊刻者は「柳田六左衛門、梅村弥右衛門」とあり、丸屋源兵衛刊の『増益書籍目録大全』（元禄九年）は「勝鬘経并疏。同疏義私鈔明空」について「六、梅村」と調巻および刊者とを明記している。

　（五）大谷大学蔵、明治十七年（一八八四）写本。本多祐鈞による明治年間の新写だが、一冊六巻をなし、巻末に「柳田六左衛門、梅村弥右衛門」の原刊者名が双行で示されているから、書写にあたって元禄九年版本を底本に用いたと推察される。

　（六）西教寺正教蔵、明暦二年（一六五六）写本。これは現存する最古の写本である。一冊一巻、本文は七十ページにおよび、「明暦二年丙甲七月吉日、江州栗太郡書舗、観音寺舜興」の奥書や字体などによって、舜興の自筆本と認められる。

　右の諸本は、調巻から六巻本と一巻本の二種類に分けることができる。六巻本は『大日本仏教全書』所収本をのぞいて経・疏・鈔を合体したもので、『勝鬘経疏義私鈔』の原型をとどめていないことが明らかである。問題の『大日本仏教全書』所収本は、貞享三年の合註本から経と疏を取り除きながら、六巻の体裁だけを保留したから、各巻の分量が釣り合わず、経・疏の挿入と抹消の二重作業によって、脱字や衍文などが多く生じている。したがって、明暦二年の舜興写本こそ原書の体裁にもっとも近く、その証拠として、円仁の『入唐新求聖教目録』をはじめ、『東域伝燈目録』『釈教諸師製作目録』『諸宗章疏録』など何れも「一巻」と著録している。

　『勝鬘経義疏』から生まれた『勝鬘経疏義私鈔』は、これほど多くの「子孫」を生み出しているが、そもそもどんな経緯をたどって日本に伝わったのか、次にこの問題を考察してみよう。

　一九六一年に編纂された『西教寺文庫目録』は「勝鬘経疏義私鈔、和、写、一、惟揚法雲寺僧明空述」につづいて、備考欄に「奥書に曰はく、慈覚大師入唐せし際、揚州に於て秘伝す」と注記している。また安藤更生氏も「後に叡山の円仁が入唐して、揚州でこの鈔のあることを知り、写して叡山へ送った」と揚州での書写を主張している。[xxi]

　『入唐求法巡礼行記』の著者として知られる円仁は、入唐十年間に集めた書籍リストを『入唐新求聖教目録』に著録している。その総数は五八四部（八〇二巻）に達し、うち揚州では一二八部（一九八巻）、五台山では三四部（三七巻）、長安では四二三部（五五九巻）をそれぞれ求めたという。[xxii]

ところが、揚州請来書には『勝鬘経疏義私鈔』の名はなく、「大唐代州の五台山の大花厳寺に於て、夏を経て写し得たり」とある五台山写経にその書名が出ている。これによって、写経の地点は五台山の大花厳寺、書写の期間は開成五年（八四〇）五月から七月までの間にほぼ限定できる。

　現存諸本の巻末には、円珍と叡尊の跋文があり、日本での流布の様相を知ることができる。まず円珍の跋文は貞観十三年（八七一）十二月十八日の日付を持ち、円仁請来の経緯につづいて、「末学これを信じて、須らく篤く敬重すべし」と述べている。次に叡尊の跋文は建長八年（一二五六）三月十八日の日付を持ち、「大唐高僧の製造にして、日域面目の秘書なり」と賞賛し、荒陵寺（四天王寺）にその書を得て、一本を繕写して法隆寺に寄進する旨を述べている。

　右の二跋のほか、舜興写本には他本に見えない跋文がさらに六条ある。年代順に挙げると、次のようになる。

　（一）長久三年（一〇四二）十月十三日の四天王寺斎祇の跋文。三井寺の蔵本を借りて、十禅寺の僧らと書写して寺宝とする旨が記されている。

　（二）建長七年（一二五五）七月二十日の跋文。「天王寺阿弥陀仏院に於て、写し畢る」とあり、書写者は伝わっていない。

　（三）建長七年（一二五五）冬の跋文。「南都の西大寺宝塔院僧坊の三室」で書写したとあるが、書き手は不明である。

　（四）建長八年（一二五六）二月の大烏郡源秀の跋文。「和泉国大烏郡の八幡宮の社頭に於て、一校をすでに畢る」とある。

　（五）延元五年（一三四〇）二月十九日の橘寺憲瑜の跋文。

　（六）延元五年（一三四〇）三月九日の跋文。「一交を点了す。また法隆寺本を以って重ねて一校し了る」とあり、跋主は前跋と同じ憲瑜であるらしい。

　計八条の跋文を分析すると、日本における『勝鬘経疏義私鈔』の流布経路は、おおよそ推し量れる。つまり、円仁の請来本は比叡山に所蔵され、約二十五年後の貞観十三年（八七一）に、延暦寺の座主となった円珍は最初の跋文を書いたが、その前後、円珍ゆかりの三井寺に移蔵された。平安末期の長久三年（一〇四二）四天王寺別当の意を受けて、権小僧都の斎祇は三井寺本を借りて書写し、寺宝にした。『勝鬘経疏義私鈔』は比叡山の寺門を出ると、鎌倉初期から頻繁に書写されるようになり、大阪の天王寺と奈良の西大寺はともかく、和泉国の神社にまで伝わったとは、まことに驚かされる。南北朝時代になると、憲瑜は漢文に訓点をつけ、民間への流布を意識していたようだ。江戸時代では、舜興写本のように書写されつづける一方、かたや版刻による商業出版が盛んになり、大正期の活字本につながったのである。 

六、東アジアの書籍環流

　インドから中国に伝わった『勝鬘経』は漢文に訳されると、まるで生まれ変わったかのように、東アジア世界を自在に往還して、独自な書籍群を形成した。中国で書かれた注釈書は朝鮮半島にもたらされ、さらに日本に伝わり、聖徳太子を通して『勝鬘経義疏』を誕生させた。それがまた渤海使の船に便乗した入唐僧らによって中国に逆輸出し、明空の『勝鬘経疏義私鈔』を生み出した。

　『勝鬘経疏義私鈔』は揚州から五台山へ流布し、円仁によって書写され、ふたたび日本に持ち帰られた。この本は中国で早くも散逸してしまったが、円仁の請来本は平安時代から約千年もの間に読まれつづけ、書写と版刻によって各地に流布し、今日に至っている。

　今から十年ほど前、筆者は西教寺の舜興写本にたどりついた瞬間、書籍という生き物の強靭な生命力に畏怖の念を禁じえず、一冊の本に隠された壮大なドラマのベストシーンを見たような気がした。

『勝鬘経疏義私鈔』のような書籍は、中国では佚書と称され、生き物としては死刑判決を受けたのと同様である。しかし、この本はブックロードの恩恵で、海彼の異国には現存している。此の国に佚して彼の国に存するものは、ブックロードによって結ばれた東アジア世界を視野に見れば、まさしく「佚存書」そのものである。

　『勝鬘経義疏』と『勝鬘経疏義私鈔』の例で明らかなように、東アジア諸国の漢文書籍は、その大部分が相互に影響しあった過程のなかで誕生し、またブックロードによって生存空間を広げ、その意義と価値が広範な東アジア世界と悠久な歴史伝統のなかに潜在していると考えられる。従来のような地域別または時代別の書籍研究に、限界というものを感じてやまない。

東アジア諸国の文化形成の深層には濃密な精神的交流が可能となったのは、書籍に負うところ絶大である。それぞれ異なった言語に人的な交流を阻まれた古代の東アジア諸国に、文明志向・美意識・ 道徳観・思考様式・風俗習慣・行動規範などにおいて共通的な基盤が築きあげられたのは、ひとえに書籍の賜物である。

ブックロードとは何か。未だに明確な回答は出せないが、国家や民族にとらわれず、書籍の伝播・流布・書写・翻刻・引用・翻案・改作などの具体的様相の検討、さらに書籍を刺激源とする文化の発生・継承・変容・創造のメカニズムの考察によって、東アジア諸国における文化交流の歴史真相を解明しようとするのは、提唱者のそもそもの動機であり、今後の目標でもある。